日本の考古学発祥の地
時代は下るが江戸初期の17世紀後半、水戸藩主・水戸光圀(水戸黄門、1628~1701年)が旧那須国地域で貴重な考古学発掘を行った。「天下の副将軍、水戸黄門様」は、決してドラマのように諸国を行脚しなかったが、水戸藩領内はある程度まわっていたようだ。当時、水戸藩領は栃木県那須郡の旧馬頭町(現那珂川町)付近まで延びており、1683年、そこの武茂(むも)郷小口村で、巡回中の光圀は庄屋・大金重貞(1629~1713年)から、草むらに埋もれていた不思議な石碑「那須国造碑」のことを知らされる。当時の地方人としてかなりのインテリだった大金重貞は、大著『那須記』(全16巻)を記しており、そこにこの石碑のことも書いていた。
現在までの知見では、この日本三古碑の一つ、那須国造碑は西暦700年に亡くなった那須直韋提(なすのあたいいで)を顕彰するため息子たちが立てた碑で、その中には、那須国の国造(くにのみやつこ、こくぞう)だった那須直韋提が689年に評督(こおりのかみ)に任命されたことも記されている。「評」は後の「郡」のことで、要するに独立的な那須国の国造が、689年に大和朝廷下の郡長官になった史実を示している。
水戸光圀は、この碑の重要性を認識し、1692年に、那須直韋提の墓が推定される近在の上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査を行わせた。実際には上下侍塚古墳の築造は4世紀にさかのぼり、那須国造碑より数百年古い。光圀の命じた発掘でも、那須直韋提との関連を示すものは発見されなかった。しかし、その周到な発掘調査は後年高く評価され、現在では「日本最初の発掘調査」「日本考古学発祥の地」とされている。
このとき発見された鏡や管玉(くだたま)、壺などの遺物は画工に正確に描かせた後、再び墓中に埋め戻された。墳丘には盛土崩落を防ぐため松が植えられ、下侍塚古墳は現在でも「日本で一番美しい古墳」(森浩一『古墳の発掘』中公新書、1965年)と言われる美観を保っている。黄門様の勧善懲悪物語は大方創作だが、この考古学学術調査と文化財保存は史実で、この面でこそご隠居の功績は大きなものであったと言わねばならない。調査を指揮したのは光圀の家臣で儒学者、佐々宗淳(別名:佐々介三郎、1640~1698年)で、これは「水戸黄門」の架空の助っ人「助さん」のモデルと言われる。那須国造碑の存在を『那須記』に記した大金重貞も発掘現場で実際の指揮にあたった。
古代那須国の人々
那須国にはどんな人たちが住んでいたのか。現代の我々この地出身者と同じような人たちだったか。あるいはもっと高尚な人たちだったか。野武士・野人的な人たちだったか。何語をしゃべっていたか。古代栃木弁か、渡来系の言葉か。意外とコスモポリタンな多言語空間だったか。そして何を食べていたか。稲作は始まっただろうが、まだ畑作が主流で雑穀も多く食べていたろう。そして那珂川の魚。アユばかりでなくサケも遡上していた。縄文以来の野山に入っての狩猟・採集労働にも日々いそしんでいたはずだ。
古い時代については記録が残っていないため、後世の史料から過去をあぶりだす方法をとることが多い。後述のように、水運についても江戸時代の記録が大いに参考になるが、古墳時代の那須国についても後代からの証拠で考える。700年建立の那須国造碑から、逆に689年まで那須国が存在していたことが確証された。
どんな国だったか
21世紀の私たちには卑弥呼の時代も飛鳥時代もともに同じような太古の昔に感じるが、那須国造碑が立てられた700年は、駒形大塚古墳が築造された270年頃から400年以上たっている。現在からみれば徳川家康が江戸に幕府を開く頃に相当する。決して同時代ではない。
特に3世紀後半から5世紀初頭の約150年間は「空白の4世紀」とも言われ、日本の国(倭国)自体の様子もほとんどわからない。三国時代から五胡十六国の混乱期にあった中国の歴史書にも倭国に関する記述はなくなった。那須国で活発な古墳築造が行われていた時期がすっぽり抜けている。それ以前だと、既述の通り、かの『魏志倭人伝』(3世紀末)に、238年に卑弥呼の使者が魏の都・洛陽を訪れ、明帝(曹叡)に謁見したとの記述がある。そこにある程度倭国(邪馬台国)についても記されているが、信頼性が疑問で、現代日本の歴史学界でも、邪馬台国の場所さえ北九州か畿内かで激しい議論が続いている。
この魏志倭人伝には、卑弥呼が王として共立される前、倭国大乱(倭国乱)があったとある。それ以前の漢代(1世紀頃)には「百余国」に別れていたが、この3世紀末の状況は「使訳通ずるところ三十国」とされている。那須国がそうした国の一つだったのか、それともそれ以東の圏外だったのかはわからないが、いずれにしても、多数あった独立的な地域の一つだったことは間違いないだろう。
那須国の村々
大化の改新(645年)以前の全国の国造を記した「国造本紀」(6世紀~8世紀の記録を元に9世紀頃まとめられたと推定)によると(以下『栃木県史 通史1』1981年、pp.294-301)、下毛野国(後の下野国、栃木県)はかつては隣国の上毛野国(後の上野国、群馬県)とともに毛野国を形成していたが、仁徳天皇の代(4世紀末から5世紀前半か)に分離されたという。そしてその下毛野国の東には、景行期(4世紀前期から中期か)に成立した那須国が存在していたことも記されている。そして、大化の改新後の689年に、那須国が下毛野国に併合され、その郡になったと那須国造碑の文面からわかる。
『国造本紀』那須国造の条によると、初代那須国造は「建沼河命(たけぬかわのみこと)の孫、大臣命(おおおみのみこと)」だった。那須郡は大郡であったようで、平安期の別の記録になるが、『和名類聚抄』という9世紀成立の辞書では、那須郡内には12の郷(村)があったとされる。次の通りである。
那須郷(旧黒羽町川西、大田原市金田付近)
大笥(おおけ)郷(旧烏山町七合付近)
熊田郷(旧南那須町熊田付近)
方田(かただ)郷(旧黒羽町片田付近)
山田郷(旧馬頭町大山田付近)
大野郷(那須町伊王野、旧黒羽町両郷付近)
茂武(たけぶ)郷(旧馬頭町健武、武茂付近)
三和(みわ)郷(旧小川町三輪付近)
全倉(たのくら)郷(旧南那須町田野倉付近。全倉は谷倉の誤記と推定)
大井郷(旧烏山町・南那須町の下江川、向田付近)
石上郷(旧湯津上村付近)
黒川郷(那須町芦野、伊王野付近)
このうち那須国中枢部に当たるのは三和郷と石上郷だ。三和郷は那珂川右岸、旧小川町の市街に近く、三輪仲町遺跡や、駒形大塚古墳など那須小川古墳群のある地域だ。その北辺に後述那須官衙もあった。石上郷は箒川の北、那珂川右岸の湯津上の地域で、「いしがみ」が「ゆずかみ」に変わったとみられる。上下侍塚古墳があり、那須国造碑が発見されている地域だ。
那珂川・箒川の水運と東山道との結節点
大和朝廷下に入っても、那須国の繁栄は続いた。ヤマト政権は、東国の支配を強めるため、陸路の幹線となる東山道を8世紀前半までには整備したが、幅10メートルにもなる直線的なこの道路(政権の威光を十二分に示すものであったろう)は那須国付近で、その都と那珂川沿岸を通った。この地は、那珂川の水運と東山道を結ぶ結節点となり、東北への玄関口となった(前回記事の地図参照)。
那須国の国衙から那須郡衙へ
旧小川町梅曾地区(那珂川との合流地点に近い箒川右岸)には郡衙跡がある(那須郡衙遺跡)。郡庁にあたる施設で、那須直韋提が生きていた7世紀末に設置され、平安時代の10世紀前半まで存在していた。那須郡が那須国であった頃は、ここが国衙、つまり那須国の都であたことになる。
郡衙跡は、当初廃寺の跡と思われていたが、1955年以降多数回にわたる調査で郡役所であることが明らかになった。南北200m、東西600mほど。溝で4ブロックに区画され、中央ブロックは実務的な官衙、西ブロックに倉庫、東ブロックが郡庁だったとされる。東ブロックの南からも掘立柱建物や全国的にも非常に珍しい六角建物が総数35棟のほか竪穴住居跡も出土し、「館」 もしくは 「館」 に関連する 「厨屋」の可能性がある。1976年に国指定史跡に指定された。役人が使ったと思われる銅製の私印「萪□私印」(国重文)も出ている。(また、箒川の左岸、佐良土地区でも、2023年11月に官衙らしき遺構が発見され、こちらが政庁で、那須官衙跡は正倉跡だった可能性もあるとして検討が続いている。)

この郡衙地域は、那珂川・箒川合流地点にある。ここから各支流を通じて、那珂川流域全体にアクセス可能な地政学的に重要な場所だ。広大な那須野が原、塩那丘陵地域をカバーし、下流の烏山地区や支流の荒川流域ともむろん那珂川でつながる。この水域を、米など租庸調で収める物品を運ぶ舟が行きかっていただろう。
浄法寺廃寺
那須郡衙の近くには浄法寺があった。7世紀建立で、栃木県内最古の仏教寺とされる。飛鳥時代に仏教が伝来し、古墳よりも仏教寺院を建立することが重要になった。那須国の支配層も、その役所近くに寺を建造した。浄法寺という地名が残り、浄法寺廃寺跡もあるのだが、残念ながら、中世の城郭建設(浄法寺館)で破壊されていたことがわかった。詳細不明だが那須氏の一派、浄法寺氏の城だったという。
梅曽大塚古墳
同じく那須郡衙近くに梅曽大塚古墳跡がある。郡衙に隣接していることから、郡司になった前述・那須直韋提の墓だった可能性が高い。水戸光圀は上下侍塚古墳が彼の墓かと思って発掘をしたわけだが、こちらが本命だったかも知れない。墳丘長50mまたは37mの前方後円墳。古墳の時代も終末期なので、この地の強固な前方後方墳文化も前方後円墳路線に転換したようだ。後期に特徴的な横穴式石室もあった。1964年に発掘調査が行われたが、1969年に水田化で残念ながら墳丘は失われた。
日本最古の金産出
那須国では、日本で最初に金が産出されている。那珂川左岸支流の武茂(むも)川(現那珂川町南部)で砂金が取れ、そこに健武(たけぶ)神社があって、産金の神である武茂神(むものかみ)が祀られている。
天平15年(743年)に聖武天皇が東大寺盧舎那仏(奈良の大仏)の造営を発願し、747年に鋳造開始。表面に塗金する必要があったが、金はそれまで国内で産出されていなかった。そこに747年、下野国での金産出が報告されたと『東大寺要録』が記す。2年後の749年には、陸奥国小田郡からも金がもたらされたと『続日本紀』(しょくにほんぎ、797年成立)が記す。この2カ所からの金で大仏は完成した(752年開眼)(眞保昌弘「古代那須国」『なすからガイドブック』那須烏山市、2023年、p.31)。『今昔物語』(12世紀)に、大仏建立に際し良弁僧正が祈願したところ、下野と陸奥から砂金が献上されたとの説話が収められている。
9世紀成立の『延喜式』によると、967年の朝廷への金の貢進は陸奥の砂金350両、下野の砂金150両と錬金84両だった。『続日本後紀』承和2年(835年)2月23日の条に、「砂金を採る山に座す」ということで下野国武茂神(現健武山神社)に従五位下(神階の一つ)を授けたことが記されている(木本雅康「下野国那須郡を中心とする古代交通路について」『歴史地理学』148、1990年. pp.15-16)。
奈良時代以前、金は中国や朝鮮半島に頼っていた。新しく金を産出するようになった那須国は、中央政権にとって重要な地域となったみられる。
(武茂川では今でもわずかながら砂金が採れるらしく、レジャーで砂金採りに来る人もいるようだ。)