前近代の交通は川が中心だった。古い時代になるほど、道路網も整備されておらず、河川交通の果たす役割は大きかった。現在、川を交通路としてみる感覚はなくなったが、古代を考えるとき、意識を切り替える必要がある。古代那須国はこの河川交通の要衝にあった。
古代東関東環状高速内水路

水運の利便性
日本の河川は、アジア大陸やヨーロッパの河川に比して流れが急で往来しにくいが、それでも、中流までは陸路より使いやすかった。川を見て、何と便利な自然の交通路だ、と思ったことはないか。何も工事せずとも(ほぼ)摩擦なく進める水の通路が全国に行きわたっている。支流が毛細血管のように隅々まで届く。陸上の人馬による運搬より大量に運べる。人は最大30~50キロの背負えるが、舟曳きをすれば数トンの荷を運べた。馬に曳かせれば百トンは可能という。河川交通というとライン川のような大河川を考えてしまうのも誤解だ。幅数メートルの堀のような川でもいいい。幅1m以下の艀船のような川船なら、十分航行できる。街の中や、”店の後ろの倉をめぐる運河沿いの倉”も漕げる。
当然、運賃も水運の方が安くなる。江戸後期・常陸国(茨城県)の記録だが、現福島県境に近い徳田から棚倉街道(現茨城街道)を11里半南下した那珂川の枝川河岸まで米を馬で運ぶと、駄賃(馬荷料金)は1駄当たり1里22文2分だった(金沢春友「久慈川の舟運と江戸回漕路」『水利科学』1961年6月、p.132)。 江戸期の貨幣制度は難解だが、1駄2俵として、1俵あたり1里11文1分という計算になる。ところがそこから江戸に向かう水運で那珂川、涸沼川、涸沼と行き(後述ルート参照)、その西端、海老沢まで8里を運ぶと、1俵当たり14文8分だった。1俵1里1文8分5厘の計算。つまり、水運は陸送の6分の1の料金だった。明治37年(1904年)の記録でも、板材の黒磯・黒羽間の陸送が1駄15銭だったが、3倍の距離の那珂川水運、黒羽・水戸間は1駄6銭だった。
古代から船はあった。弥生・古墳時代に大陸から渡来人が海を渡ってたくさんやってきた。縄文人・弥生人もこの列島に海を越えてきた。2015年1月に千葉県市川市で縄文時代の国内最古約7500年前の丸木舟が出土した。他に全国で約160艘の縄文舟が出土している。忘れられているが、1946年6月に、終戦を知らなかった西田定一軍曹ら9人の兵隊がフィリピン・ポリリョ島から脱出し、カヌーを2500キロこいで日本に帰国したことがあった。
那珂川から江戸への水運ルート
古代の那珂川の水運についてはほとんど資料がない。しかし、江戸期の資料は多いので、それを参考にできる(古代の歴史はこうやって後世の資料から類推することが多い)。「黒羽町誌」によると、「河川の内陸水路的利用は自然発生的に開始された場合が多」く、黒羽(旧湯津上村の北、旧小川町の北10キロ、現大田原市)も例外ではないが、正式の河岸(かし)は1655年に設立されたという。旧黒羽町は黒羽藩の城下町であったことから水運に力を入れ、那珂川最上流となる正式な河岸場をつくった。江戸に幕府が開かれこの大消費地との交易が重要となり、同時に、新設の奥州街道や鬼怒川水運が活発化するのにも影響されたようだ。その他下流では、久那瀬・烏山・野上・生井・大瀬・河井などが1651年に河岸を設立し、那珂川の河岸数は、1777年まで14、1880年までに19となった。
黒羽から水戸まで早ければ2日
黒羽町誌によると、黒羽河岸は上下2河岸場があり、1831年時点で上河岸の持船が26艘、下河岸が28艘あった。底の浅い小鵜飼船(平均12石積、長さ約8間、横約6尺程、深さ約2尺)だったが、米30俵を詰めた。下流の水戸(20里)、那珂湊(22里)まで運航。その後、後述のルートで江戸にも上った。明治4年(1871年)の記録でも、黒羽町に河岸問屋が3軒あり、常時50艘の艀船を用意して毎日出船し、年間の便は1500艘を数えた。
飯塚真史「那珂川の水運」(那須烏山市『なすからガイドブック』2023年、pp.44-45)によると、江戸時代の記録では、輸送に使われた舟は艀船(長さ7.6m・横90cm)と小鵜飼船(長12.8m 横2.4m)で、後者は棚板の深さが70cm弱と比較的深かったため「胴高船」とも呼ばれた。黒羽から水戸へは水量が多い夏で約2日間、上りは夏の南風が吹く際に帆を立てて約3日間だった。八溝山地域には森林資源が豊富で、木材を筏(いかだ)に組んで川を流す「筏流し」が盛んだった。杉や檜などの丸太を藤蔓で縛り、 長さ約25m、幅3mの筏を組む。これを3枚つなぎにして筏師が竹棹や櫂などで那珂川を下った。旧烏山町と茂木町の境に加波簗(かばやな)という急流があり、那珂川の最大の難所だった。これを越えれば1日で水戸に着いたという。
黒羽河岸について、次のように記述もある。
「船頭は普通2人、1ヵ月8貫文の給料で那珂川を上下した。下りは水戸迄2日間を要し、春先は1日余で着いた事もある。帰りは(上りは)、東や南風に恵まれた時で3日風がなければ風待ちをした。/河岸には、荷置小屋、会津、及び、高田倉等があり、船師、筏(いかだ)師の住む宿、駄馬を引いて来る人のための飲食店、旅宿も軒をつらねていた。そして、水戸に黒羽町が出来ていた程で、物資輸送を挟んで如何に黒羽と水戸との物資交通が盛んであったかが偲ばれる。」(『馬頭町郷土誌』1963年、p.133)


のどかな那珂川水運情景
大正期に那珂川水運の情景を近隣の馬頭町(現那珂川町)で目撃していたと思われる『馬頭町郷土誌』(1963年)の執筆者は、次のように記している。
「春先荷船が白帆一ぱいに東風を孕(はら)ませ、時には素晴らしい勢いでまたは、ゆったりと那珂川をさかのぼって来る風景、馬頭の高い山からこれを眺める時など、さながら一幅の絵を見る如き佳景で、その美しさが子供時の脳裏に深く刻まれた事だ、この風景は大正年間迄続いたことである。また、逆に北風のさ中を船は容易に進まない時、寒空を船頭は、足なか股引(ももひき)姿にて、へさきに立って竿(さお)をあやつりながら船を進め、船頭の女房は綱の先を胸にかけて河べりの足場のいい所を拾って、船を引いてのぼる風景にも幾度か出合った事である。」(p.110)
実際のシーンがよくわかり貴重な記録だ。北風で帆が使えない冬季の那珂川遡上は困難であったろう。そこを「船頭の女房」が陸から綱を引いて遡上したとある。夫婦による家族ビジネスとして舟運業が行われていたらしい。筆者(岡部)は2000年代の中国農村で夫が運転手、妻が車掌の民営バス業を目撃したが、それと同じ業態で興味深い。一方、筏(いかだ)流しについては次のような説明がある。
「河岸場には幾つもの筏が組まれ、やがて、筏は川の流れに乗って水戸に下る。そして、水量の豊かな川筋では、筏の上にて、ほおかぶりをし、くわえキセルの船頭たちが、川辺りに出て一日の洗濯に余念がない里の乙女に出会うと声も通れと得意の筏節を歌う。乙女も手や手拭を振ってこれに答える風景などそこかしこに見なれたこの当時は、汽車も自動車もなかったので、当地方では、十三詣り(13歳になった子どもが寺社に参拝する伝統行事 ー引用者注)とか海水浴にはこれらの荷船か筏を利用して行ったものである。」
筏流し船頭の若者たちと村の娘たちとの交流がほほえましい。船頭歌があったようだが、現在残っているだろうか。また、那珂川河口には大洗海岸という海水浴場があり、私も子どもの頃、学校行事で何度か行ったのを思い出す。残念ながら川舟ではなく、バスだった。
黒羽から那珂湊へ
約7キロ下流の佐良土(那珂川・箒川合流地点の旧湯津上村主要集落)にも河岸があり、ライバル関係にあったようだ。どこで積荷の上げ降ろしをするかで紛争が起こったなどの記録もある。上記河岸地図では、その下流の小川に河岸があったことになっているが、それについての記録が見当たらない。旧小川町地域は比較的広い沖積平野があり、洪水に頻繁に見舞われていたことから本格的な河岸場はつくられなかったかも知れない。しかし、「舟戸」という地名はあり、私の母方の家系はその地の人だ。江戸期・天保年間に北陸からの移住者たちがこの地に小川疎水をつくり新田を開いたという記録がある(後述)。
年貢米から木材まで
下流に向かう積荷は、米穀類・酒・醤油・水油・煙草・柏皮・板・貫板(ぬきいた)等。中湊から上流へは、魚の干物など海産物、塩などを運んだ。那珂川水運を通じた魚肥の流通を詳しく調べた研究などもある。
輸送料金は、1777年の記録で、黒羽から烏山まで(馬荷1駄当たりということだと思われるが)夏料金で68文、冬料金73文、野田まで夏128文、冬132文、水戸まで夏178文、冬201文だった。貨幣価値換算は難しいが、職人日当との比較で1文=47.6円,米の値段との比較で1文=8.8円とのことだ。(江戸時代は人件費が安く,現在の米価は相対的に安いのでこうなる。概算ではその真ん中をとって11文=25円程度かともいう。)
特に年貢米の下流への送付は重要で、那須地域からだけでなく東北諸藩からも廻米が江戸に送られた。上記飯塚論文によると、延宝5年(1677年) の資料に白
河、会津、二本松、三春、福島、長沼、守山藩が那珂川を経て江戸に米を輸送 した記録が見られる。木材に関しては、安政3年(1856年)に紀州藩が那須郡百村(現黒磯市)から2万5000本の木材をまず佐良土まで流し、筏に組んで江戸へ廻送したとの記録がある。
米や木材など農林資源を下流に送るには河川交通は極めて効率的だったろう。木材の場合は筏などで流せば帰りの遡上も必要ない。そして、そういう下流向けの農林資源を運搬するニーズが圧倒的に大かったはずだ。上りは、帆を使う場合もあったし、陸から人馬でひかせる方法もとられた。昭和2年生まれ母は、子どもの頃、那珂川を行く帆掛け舟を見たというから、少なくとも昭和初期までは、そのような那珂川水運が行われていたことになる。私も子ども頃、那珂川で小舟を漕いだりしたものだが、流れの弱い岸近くを行けば竿(さお)をさしてもある程度進めるなどのノウハウを学んだ。
舟が通れるよう浅瀬の改修も必要だった。また季節による水量の変化も考慮する必要がある。ダムや灌漑利用があまりなかった昔は、水量が現在よりは多かったが、それでも冬季は水位が下がり航行が困難になった。逆に雪解け時の春や、水量の多い夏は渡河が困難になる一方、舟はより上流まで上れるようになる。実際、那珂川でも、かなり上流の黒川沿いの戦村にまで通船させていた(黒川は那珂川支流の余笹川のさらに支流で、上流部は福島県境を流れる)。ただし、夏季は、梅雨、集中豪雨、台風などの増水で航行困難になる。自然相手の臨機応変の対応が必要だった。
近世以前の水運は
以上は、江戸期の那珂川水運の状況だが、古代はどうだったか。船の技術はさほど変わりがないとしても、河岸はなく、定期的な運航も無理だったろう。何しろ列島人口70万人(西暦200年頃)の世界だ。砂漠を行くキャラバン隊のような旅だったか。一儲けをたくらむ荒くれ男たちの冒険の企図だったか。何艘か一緒に進み、互いに助け合い、急流では人が綱で船を引き、夜は河原で野営か。周囲は深い森で野獣の危険もあったか。数少ない小集落に寄りながら少しずつ進んだか。あるいは意外と慣れた専門家集団が居て、求めに応じて民生品や軍需物資を運んだか。川沿いの少ない小集落に、婚姻などでつながった親戚関係もいくらかはあり、共同体的な付き合いの機会となっていたか。
近世以前については、ある程度推定の作業が必要になるが、久慈川や那珂川の昔の水運について考察した論考などが参考になる。
常陸国に入ると
さて、江戸期を中心として那珂川水運、「東関東環状高速内水路」をさらに下流にたどっていってみよう。
八溝山地越えの谷沿いは急流だが、茨城県境を越えた野田付近からは水深が深くゆったりとした流れになる。そこで、野田・長倉・野口付近で大船に積み替えたという。水戸付近では大型の高瀬舟が行き来するのがよく見られた。一般的に、江戸時代の船の輸送力は、小鵜飼船で米俵15~110俵、高瀬船で200~1200俵だった。
久慈川から那珂川に入るルート
茨城県側には、やはり独立河川の久慈川が常陸太田付近から東北地方に向かって延び、重要な水運ルートになっていた。現在のJR水郡線に沿って北上し、福島県の白河近く、棚倉地域まで小舟が入っていた。本格的な水運は、江戸時代の1841年に許可が下りてはじまった。棚倉から山方、高和田まで久慈川を下り、そこから陸路で那珂川の小野河岸に出て、那珂川水運で水戸に向かった。直接海に出ず、陸路を使ってまで那珂川に出たのは、後述のように海路が危険だったからと思われる。
荷物の手数料の2割を 15 カ村に納め、河岸の専門業者は河岸株に対する運上金、冥加金などを藩に納めた。下り荷は、上納米の他、商人米、和紙、こうぞ、こんにゃく粉、木材、タバコ、茶、醤油、酒など。上り荷は塩、海産物、衣類、日用雑貨など。使われた舟は高瀬舟(長さ10.8m、幅3.6m)で、遡上には帆も使った。船頭4人で人なら30人は乗れたという。
那珂川水運の重要拠点・水戸
水戸の城下町が、その名前からして那珂川水運の重要拠点として築かれたのは多言を要しない。すでに『常陸風土記』(8世紀前半成立)で、現水戸にあたる「那珂郡」の項目に「東北の粟川(那珂川)の両岸に、駅家(公共の馬屋や人の休息地)が置かれた」と記されている。鎌倉時代に最初に築城された水戸城は、那珂川河岸の台地上に立地する。
江戸時代になっても、水戸(常陸)は、伊達など東北雄藩に目を光らせる戦略的に重要な土地だった。徳川幕府は、畿内に目を光らせる名古屋(尾張)とともに、この地に親藩を置いた。広大な関東平野は有力武家勢力が台頭する危険があり、そのほとんどを細分化された小藩や幕領とした。が、常陸だけは例外で広大な徳川家直属の水戸藩が存在した。海路、久慈川、那珂川の水上ルートを経て東北をにらむこの地は、戦略的に重要な地域だった。
県境を越える水戸文化圏
水戸は、那珂川水系の最大都市、交易の拠点として、この流域に共通の文化圏を形成した。水戸藩は現栃木県の那珂川町まで延びていた(那珂川左岸の旧馬頭町地域まで)。栃木県側の那須地方に育った筆者としても、水戸を中心とした茨城県は言葉も似ており同一文化圏に居るのを感じる。「ごじゃっぺ」「いじやげる」「えろいんぴつ」…完全に共有します。U字工事君がしきりに茨城県をおちょくるのは、同類としての親近感があるからだ。(ちなみにU字工事君たちは私の高校の後輩にあたる。益子君は那珂川沿岸にして旧小川町にも近い旧黒羽町出身のはず。)
文化は、上からあてがわれた県境などより、人々が河川でつながる流域文化圏として成立していた。同じ栃木県(下野国)でも県南西部と県北東部は異なる文化圏だ。言葉も違う。かつて古代において南西部は毛野国で、北東部は那須国。毛野国(上毛野、下毛野)は武蔵国(現埼玉県、東京都など)とともに、当時東京湾に注いでいた利根川、渡良瀬川、荒川の流域文化圏を形成していた。那須国は単独で水戸方面に流れる那珂川文化圏だ。
ちなみに鬼怒川はその中間を流れている。江戸初期の利根川東遷以前、鬼怒川(常陸川)は銚子方面に流れる独立河川だった。那珂川流域とも利根・渡良瀬・荒川流域とも異なり、その中間で何かと那須と毛野を橋渡しして下さる立場に居る。宇都宮はこの鬼怒川文化圏だが、栃木県の県都になるにふさわしかった。
磯浜古墳群
那珂川河口近く、大洗町には古墳時代初期の大規模な「磯浜古墳群」がある。駒形大塚古墳(那須国の最古古墳)と同時期の3世紀半ばに築造された姫塚古墳(前方後方墳、29m)がある。4世紀半ばには前方後円墳路線に転換して坊主山(ぼちゃのやま)古墳(63m)、日下ヶ塚(ひさげづか)古墳(101m)、4世紀後期には巨大な円墳・車塚古墳’(88m)がつくられている。
大洗は那珂川河口右岸に展開する町だ(左岸は那珂湊、現ひたちなか市)。その河口近くに南から流れ込む涸沼(ひぬま)川をたどっていくと、涸沼、さらに霞が浦、東京湾方面への内水ル―トにつながる。古代には、太平洋岸よりも、大洗の台地の裏側、涸沼川領域がより安全な港になったようで、昔からの集落や古墳群がそこに集積している。
つまり、磯浜古墳群は、水運の結節点に位置していた。内陸から那珂川の水運、そこから(陸送を含む)霞が浦・東京湾方面へのルート、そして東北からの海路ルートにつながる。東北からの海路も、下記の理由で、多くの場合、那珂川河口から敢えて内水面ルートに入っていった。

海の難所:鹿島灘から房総沖
水上交通が便利なら、なぜ那珂川河口から海路、房総半島をまわって東京湾域に行かないのか。ここが海の難所だからだ。南から世界トップクラスの海流「黒潮」が流れてくる。北からの親潮にぶつかる。流れが複雑になり、動力のない昔の船、操船技術では、東京湾に北から入るのは危険だった。
黒潮は幅約100キロ、流速は最大毎秒2m以上になる。北陸の「急流河川」の調査(p.9)では河川の洪水時流速は秒速2~4mというから、要するに流れの速い幅100キロの大河を進むようなものだ。流れは、房総沖から太平洋の真ん中方面にも向かうので、流されると帰れなくなる。海流のぶつかり合いで複雑な流れとなり、この辺は現代でも海難事故が起こる。1969年1月に建造後3年3カ月、3万3,768トンの貨物船「ぼりばあ丸」が沈没し30名が死亡。1970年2月には、建造後4年半、3万4,002トンの貨物船「かりふぉるにあ丸」が沈没し、船長含む4人が死亡している。房総半島には昔の沈没船から小判その他宝物が打ち上げられるので、レジャー型「トレジャーハンター」の聖地になっているという。
かつては北から来た船がわざわざ那珂川河口や利根川(江戸期以前は鬼怒川下流の常陸川)河口で内水路に入っていたが、1671年、江戸の豪商・河村瑞賢が、周到な調査で東回り海路を開いた。一旦沖に出て伊豆半島の下田などまで行き、風待ちして江戸湾に向かうルートだった。うまく行けば効率的だが、危険性は残るので、内水面ルートの必要は変わらないかった。
「内川廻り」「東通し」
那珂川河口付近から涸沼川に入る水運ルートは「内川廻り」または「内廻り」と言われ(3)、「那珂川~那珂湊~涸沼川~涸沼~海老沢~(陸送)~吉影~霞ヶ浦~利根川~関宿~江戸川~船堀川・小名木川~江戸」という順路をとった。他に、銚子まで海路で利根川に入る「銚子入内川江戸廻り」(1)、房総沖を回る「外海江戸廻り」(2)もあった。しかし、
「海を通るルート(1)(2)は、当時の操船技術からするとかなりの危険を伴ったので、那珂川水運のルートとしては(3)のルートが選択されることが多かった。 ただし、一部陸上での輸送が必要で、その上かなりの大廻りになるため、下野国内の他の河川に比べ日数を要した。」(p.44)
確かに内川廻りは海路より安全とはいえ、陸送も含むので効率が悪い。それに対し、「下野国内の他の河川」つまりは鬼怒川の水運は効率的だ。特に江戸初期の利根川東遷により鬼怒川が利根川とつながってからは、利根川を関宿まで遡上して江戸川に入れば、水上交通だけで江戸にたどり着ける(このサイトの図10の地図がわかりやすい)。那須・黒羽河岸の運輸業者たちも那珂川水運だけでなく、氏家付近の阿久津河岸まで陸送して鬼怒川水運も使うようになった。彼らは那珂川利用を「東通し」、鬼怒川利用を「西側廻し」と呼んだ。
(利根川東遷以前は鬼怒川水運も必ずしも効率的ではなかった。鬼怒・常陸川は霞が浦・銚子に流れ、江戸湾域に出るには、常陸川利用で関宿付近まで遡上した後やはり陸送で利根川(後の江戸川)に出なければならなかった。また那須地方周辺で、北から鬼怒川河岸に出るには、那珂川流域上流部の陸路が整備されていなかった古代には、那珂川本流はじめ余笹川、箒川、荒川などの流量の多い箇所を渡河しなければならず、効率が悪かった。)
上流と河口の古墳文化圏
3世紀後半の那須の駒形大塚古墳(墳長64m)と3世紀半ばの磯浜の姫塚古墳(29m)。共に前方後方墳で、一方では那須国、他方では那珂川河口域で古墳群築造の先駆けとなった。那珂川でつながるこの2カ所は何等かに呼応して発展したと推測できる。河口域の拠点と上流部の拠点。一般に那須の初期古墳形態は茨城県側と類似しており、那珂川経由の伝播が推測されている。例えば、
「この時期に茨城県地方では丸山古墳、勅使塚古墳、狐塚古墳などが築造されている。しかも、那須地方のこれらの古墳は茨城県地方のものと類似し、同じ北関東でも、群馬県地方の前期古墳の副葬品(三角縁神獣鏡が主体)とは相違しているので、古墳の那須地方への伝播は、那珂川沿いに北上したものといえそうである。」(「那須地方の古墳の編年」『湯津上村誌』)
しかも不思議なことに、4世紀後半に那須で大型古墳がつくられなくなる同じ頃、磯浜での大型古墳築造も停止する。
なお、那珂川から河口部で約20キロ北の久慈川流域にも、当時同じように大規模古墳群がつくられていた。常陸太田市の梵天山古墳は4世紀前半の墳長151m(または160m)に及ぶ大規模前方後円墳だ。また、磯浜の古墳群築造が終わった後も那珂川沿岸では古墳築造は続き、例えば5世紀から6世紀のものとされる水戸愛宕山古墳(前方後円墳)は墳長137mで、那珂川流域最大規模の古墳だ。
磯浜古墳地域に弥生期の大規模集落
磯浜古墳群地域では、古墳時代に入る前、弥生後期からの大規模集落跡が存在する。磯浜古墳群の西に髭釜遺跡、北に一本松遺跡群があり、前者で225棟、後者で98棟の弥生期竪穴建物跡が確認されている(大洗町『史跡 磯浜古墳群保存活用計画』2023年、p.57)。両者は掘割をはさんで連続しており、一体的な大規模集落だったと推定される。
出土品を見ると、那珂川・涸沼水系の在地的な壺形土器が多いが、巴形銅器や板状鉄斧など特別な金属製品の流入も見られ、「比較的狭い範囲での流通網と共に、広域で特別な道の存在を想起させる」という。
呼応して那須にも弥生期文化があったのでは
当然この地域は弥生時代からも那珂川を通じて上流との緊密な交流があったと推測される。だが、那須国中枢部には今のところ目立った弥生遺跡が確認されていない。弥生後期の居住さえないところで突然古墳がつくられ始める、ということで、那須国の繁栄は、移入者など外的要因によってもたらされたとの論拠になったりする。
しかし、下流の磯浜古墳地域にこのような大規模な弥生集落が発見された以上、それに呼応して上流にも何らかの居住域があったと考えるのが自然だ。石器・縄文時代から居住があった那須地域に、弥生期遺跡だけがないというのは不自然だ。北九州ではじまった水田稲作が南関東に到達するのに500年かかったなど、弥生期が多分に地域的多様性を含む時代であたったことなど考慮すべき点は多くあるが(藤尾慎一郎『日本の先史時代』中公新書、2021年、pp.121-129、pp.142-143)、前述の通り、単純に、遺跡がまだ発見されてないだけとも考えられる。今後の発掘に期待する。
涸沼の先で陸送になる
鹿島灘から房総沖を回るのは危険だ。だから那珂川河口から内水面ルートに入る。涸沼まではいい。しかし、そこから霞が浦水系に出るには陸路をとらねばならず、これが難点だった。涸沼西端の海老沢から約10キロを人馬で陸送し、行方郡の小川に出て霞が浦水運に連絡した。1651年に、半分以下の陸送ですむ途中の巴川という小河川を伝って北浦に出るルートが開発された(水戸市立博物館特別展「那珂川ヒストリー」『はなゆみhanayumi』)。
その後は、江戸初期以降(利根川東遷以降)なら、いずれの場合でも利根川を関宿までさかのぼって江戸川に入り江戸へ、というルートになる。最初の陸送以外すべて水運で完了する。水戸藩は要地となる海老沢、霞ヶ浦沿岸の小川、北浦沿岸の串挽、利根川沿いの潮来を藩領として航路への影響力を行使した。
紅葉運河の開削と宝永の一揆
江戸期の水戸藩としては、涸沼から運河で霞が浦水系に出られるようにすれば江戸への年貢米他物資輸送は格段によくなる。巴川までの運河開削を試みたがうまくいかず、結局、藩政改革のために登用した松波勘十郎の主導で、1708年7月から、紅葉付近の巴川まで8キロの開削が行われ、4か月後の11月には完成したと報告された。
しかし、実際は砂地で運河がすぐに埋まり、継続工事が必要だった。ほぼ無償で働かされる農民の負担も増え、ついに翌1709年「宝永の一揆」が起こってしまう。農民たちは江戸藩邸への請願行動も行った。水戸藩は江戸での体面もあり、1710年には農民の要求を受け入れる。すべて松波勘十郎に責を負わせ、彼は罷免された。二人の息子とともに投獄され、運河工事もストップした。松波親子は翌年に相次いで獄死したという(詳しくは林基『松波勘十郎捜索』平凡社、2007年)。紅葉運河自体のアイデアはよかったが、技術的に難しかったのと、強引な手法で失敗し、返って百姓一揆の成功事例として残ることになった。
古代の霞が浦、東京湾域へ
江戸期の霞が浦水運には多くの記録が残されている。が、本稿は古代がテーマだ。それ以前の水運ルートに触れなければならない。1000年以上前の8世紀当時、霞ヶ浦一帯は、今の利根川下流に広がっていた香取海の入り江のひとつとして香澄流海と呼ばれていた。面積は今の2~3倍で、海水がさかのぼる大きな湖だった。一方、養老年間(717~724年)に成立した『常陸国風土記』では、霞ヶ浦は「流海(ながれうみ)」と呼ばれ、水域によって「佐我の流海」「行方の海」「榎の浦の流海」「信太の流海」など郡名を付けて呼ばれていた。当時からの霞が浦(香取海)をはじめ、鬼怒川、小貝川、利根川、渡良瀬川、荒川などの流路はめまぐるしく変わり、正確を期そうとするとかなり複雑なようだ。不明の部分も多い。
しかし、とにかく、利根川東遷以前に霞が浦・常陸川・鬼怒川水系から東京湾域に向かうには、やはり陸送を経なければならなず、人馬で運んで渡良瀬川(太白川)や古利根川に出なければならなかった。陸送を含めるならいろいろルートがあったはずで、現千葉県・印旛沼を経るルートも有力だ。弥生時代には印旛沼から平戸川、花見川と進み東京湾に出るルートがメインだったなどの分析もある(Araki Minoru「花見川地峡の利用・開発史 第1部 縄文弥生時代の交通 その12」)。
あまり知られていないが、中世以前の古東海道ルートは、三浦半島から海路、上総(房総半島中部)に向かう道筋だった(平川南「中世都市鎌倉以前 東の海上ルートの実相」『国立歴史民俗博物館研究報告』第118集、2004年2月)。源頼朝が真鶴崎から安房(房総半島南部)に渡り、対平家戦の態勢立て直しを図ったのを想起。江戸期の東海道が、名古屋付近で伊勢湾を渡る海上ルートになっていたのと同じだ。そうであれば、利根川を関宿の方まで行かずとも、近場の印旛沼・花見川あたりで東京湾に出て、西進した方がいい。大都市・江戸はなかったのだから、別にそちらを回らなくてよいのだ。