「那須国の都」物語⑤ 外的要因:ヤマトの前線基地、渡来人

那須国繁栄の外的要因

こんなところになぜ古代の先進文明が、と当の郷土人でさえ思ってしまったくらいだ。東国の辺境に、早い時期から独自の前方後方墳文化を、しかも他から超然とするかのように長く維持しつづけたこの地域に、考古学者たちも首をかしげ、いろいろな解釈を当てはめた。私は本稿で、古代の居住適地はむしろ河川中流、内陸の盆地や河岸段丘のようなところだったこと、河川・内水面ルートこそ主要な交通路だったことを示し、縄文時代からの長い居住歴があるこの地の自生的発展を示してきたつもりだ。しかし、一般には、こんなところに先進文化が起こるのは何か外的要因があったに違いない、と思ってしまうのが普通のようだ。現代社会における辺境の立場としては歯がゆい。

蝦夷侵略の前線基地

いくつか外的要因があげられているが、まず、ヤマト王権にとって那珂川の水運ルートが、東北・蝦夷への侵攻に重要だった点がある。これは特にヤマトの前線が「白河の関」付近にあった時代には特に重要だった。

東北に至る幹線路・東山道は8世紀の奈良時代に整備された。古墳時代中期(5世紀頃)に朝鮮半島から馬が導入され運搬に利用されるようになってからのことだ。その幹線路も那須国中枢部を通っていたが、それ以前はなお河川が重要な交通ルートだった。地図を見ればわかるが、那珂川は、久慈川と並んで東北南部に最も深く入り込める河川ルートだ。当時東京湾側に流れ込んでいた利根川(荒川を含む)や、独立していた渡良瀬川を伝っていくと群馬県方面に行ってしまう(だから上野が発展した)。同じく独立河川だった鬼怒川は栃木県北部に向かうが、さらに北に食い込む那珂川には及ばない。

したがって茨城県太平洋側(那珂湊付近)から那須国の奥、東北に迫れる那珂川は久慈川とならんで蝦夷侵略の主要ルートになっただろう。(前述の通り、一部陸送も含めて東京湾側からも霞が浦(香取海)、那珂湊などを経て安全な内水ルートでつながれていた。)

我が愛する故郷が、かつて蝦夷侵略の前線になり、そこに居たヤマト軍の人々が先進古墳文化を築いた、とはあまり思いたくない。次々に川を通じてやってくる軍勢に那須国の権勢を示すため、河岸段丘に巨大な古墳群をつくったとは見れないか。那須国がヤマトと戦った形跡はない。それに協力し、必要な物資を提供したとは思う。あるいは、すでにこの地域自体が蝦夷の住む地で、ヤマトと対立しながらも、比較的早期にヤマトに恭順した地域だったとの見方もできる。

蝦夷(えみし)とは何者か不明な点は残るが、縄文系の強い土着系の勢力であったことは確かだろう。ヤマト王権にとって「まつろわぬ者」たちをすべて蝦夷と呼んでいた形跡もある。最初に「愛瀰詩」として現れるのは8世紀初頭に成立した『記』『紀』の神武東征の話の中だが、そこでエミシは神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力ととらえられている。王権の拡大にともなって、蝦夷の領域は徐々に東進していくが、関東付近が蝦夷と呼ばれていた時代もあるようだ。

戊辰戦争でも

古代以降も、東北方面への軍事侵攻時には那珂川の水運が使われてきた。おそらくそうした事例の最後になると思われるが、児島襄『大山巌 第1巻(戊辰戦争)』(文春文庫)には、戊辰戦争時の白河城をめぐる戦い(1868年6~8月)で負傷した政府軍兵士らが、那珂川を船で送下されたとの叙述がみえる。それに合わせて、戦利品の生糸の移送が行われ、旧暦5月4日に奥州街道宿場の越堀(現黒磯市内)から乗船し、那珂湊経由で5月16日に横浜に着いたという(p.243)。この舟による負傷兵移送は地元の言い伝えでも聞いていた。軍需物資を白河や会津に搬入するためにも水運が用いられた可能性がある。

前線の北上で重要性薄れたか

前述のように、那須国の大型古墳は4世紀後半にはつくられなくなるが、対蝦夷戦の前線が、白河の関付近よりずっと北上してしまったから、と考えればつじつまは合う。仙台平野付近に将兵、軍需物資を送るには、那珂川を上るより、海路で仙台付近に出た方がいいだろう。

しかし、地元民としては、ヤマトの侵略前線基地説はとりたくない。文化は自生的に生まれるものだ。何よりも、この地は、ヤマト王権の象徴である前方後円墳を受け入れず、かたくなに前方後方墳をつくり続けた。その他、異質とも言える独自性を維持し続けたことが同説の反証になっているのではないか。単なるヤマトの前線基地だったら、初めから前方後円墳路線をとるだろう。

この異質性に、むしろ、ヤマト王権との距離を見る。常陸(現茨城県)の那珂川河口域や久慈川河口域には巨大な前方後円墳がある。この時期では関東最大の梵天山古墳(160m)や、久下塚古墳(103m)などだ。これらを分析した上で、東国古墳文化の専門家・若狭徹は、次のように言う。

「このエリアから那珂川をさかのぼるとその上流には、大型前方後方墳が累代にわたって築かれた那須地域があるが、その下流の常陸北部には右のような前方後円墳の世界が広がっていたのである。後者は、東国で最も強固な那須の前方後円墳世界に対峙する役割を有していたのではなかろうか。」(若狭徹『前方後円墳と東国社会』吉川弘文館、2017年、pp.48-49)

渡来人の国だったか

そして、外的要因の第2点。すでに各所でほのめかしてきたが、渡来人を多数導入し(あるいは自主的に移民してきて)、その進んだ技術で那須の先進文化が生まれた、という解釈もよく行われる。

確かにこれも無視できな側面だった。例えば、湯津上村誌(1979年)によると、『日本書紀』持統天皇元年(687年)3月の条に、新羅人を下毛野国に居住させ、田と食糧を給し生業につかせたとする記事がある。『日本書紀』成立時(720年)には下野国が成立していたので「下毛野国」という表記なったが、実際には那須国への居住が進められたのだという。689年4月、690年8月の条にも同様の記述がある。そして次のように指摘する。

「渡来人は古墳の分布状況から判断して、那珂川中流域の湯津上村から小川町を中心とした地域に居住したのであろう。かれらは新しい文化と知識・技術をもって那須国の開拓に尽力した。これは、傍証として那須国造碑をはじめとし、唐木田(からきた)(那須町)、唐御所(からのごしょ)(馬頭町)という地名の存在によって明らかである。」

筆者(岡部)がこれに加えると、旧小川町南部に白久(しらく)という地名もある。湯津上村誌は、さらに、斎藤忠「古代東国における帰化人安置に関する二、三の考察」『日本古代遺跡の研究』論考編(1972年、 大正大学史学会)などに依拠しながら次のように言う。

「長い期間にわたって渡来人は東国に安置されたが、渡来人が東国に安置された事情については多くの史家によって考察されている。たとえば、丸山二郎は、渡来人を西国や北陸におかなかった一つの理由は、本国から遠ざけて、かれらに落着きを与えるためと、遅れた東国諸国の開発に利用するためであったとのべている。令(りょう)の規定にも、渡来人が寛国(かんごく)に安置すべきことを触れている。寛国とは、土地寛く人口の少ない国のことである。渡来人は未開拓の地におかれ、その地の開発に従事した。その際、かれらは、本国の農業技術をもって事にあたったに相違なく、それがまたわが農業に影響したにちがいなく、かれらの、わが国の農業発展の上になした貢献は甚大であった。また関晃(せきあきら)は、渡来人が大てい東国に移されたのは、養老律令(ようろうりつりょう)に、凡そ蕃使の往復する大路の近傍には、その国の人や奴婢を置いてはならないという規定があるように、種々の問題が起こることを防ぐ意味もあったろうが、当時、東国には未墾の原野が多く、かれらの手でこれを関発しようとしたためであろうとのべている。」(同上書、p.108)

立派な漢文だった那須国造碑

前述・那須国造碑(700年建立)の8行19字詰152時の碑文は、文法的にもしっかりした格調高い漢文(中国語)で書かれている。文中「翼なくして長く飛び、根なくして更に固まる」は古典『管子』からとっているなど出典も厳正で、隠語文を含み、起草者は相当の教養人だったと想定される。その文体には、当時の新羅の例えば「聖徳王神鐘」碑文(770年)などと呼応する新羅風がある。書体は六朝(りくちょう)風でこれを刻んだ工人も渡来系の可能性が高いという。そして何より、出だしの年号「永昌元年」(689年)が中国・唐の年号だ。日本では持統天皇3年にあたる。この年に評督(後の郡司)を賜った韋提は、、、と碑文が始まるわけだ。朝鮮半島の諸王朝は中国の元号を使う慣例があった

渡来人の足跡、他の東国地域にも

那須国の東隣、那珂川の下流域は常陸国(現茨城県)だ。江戸がなかった古代には近畿からの東海道は、この常陸を終着地とした。そこから海路、久慈川、そして那珂川を伝って東北へ行ける(あるいは「蝦夷征伐」に向かえる)のでヤマト王権にとって重要だった。そしてこの常陸の国司が渡来系となることがあった。名前で一目瞭然の者だけでも、700年に百済王遠寶(くだらのこにきし えんぽう)が、752年に百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)が常陸国司についている。百済王(くだらのこにきし)は、660年に唐・高句麗連合軍に滅ぼされた百済の最後の王の子、善光を始祖とする日本の氏族で、持統朝からそのものずばりの氏姓を賜った。その成員らは飛鳥から平安期にかけて有力ポストに就いているが、こんな名前の人がヤマト政権内で幅を利かせるという点からも「渡来人」という存在の立ち位置を垣間見ることができる。読み方の「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王の意味だという。

また、685年から698年には川原宿禰黒麻呂(かわらのすくねくろまろ)が常陸国守に任命されているが、この川原氏は漢人系の坂上氏だったという。坂上氏といえば、坂上田村麻呂(758年~811年)が有名だ。征夷大将軍としてアルテイら蝦夷の抵抗を最終的に鎮圧(802年)した人だ。

815年に編まれた『新撰姓氏録』によると、官僚に登用された人の記載 1182の氏のうち 326が諸蕃(しょばん)つまり渡来系氏族で,全体の 3割を占めた。内訳は漢 163,百済 104,高麗(高句麗) 41,新羅9,任那 9だった(「渡来人」『ブリタニカ国際大百科事典』)。

関東の渡来人地域として武蔵国(埼玉県)の旧高麗(こま)郡がよく知られる。716年、駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来人1,799人を移住させて高麗郡を設置したとされる。初代郡司の高麗若光は、666年に高麗副使として天智天皇に貢ぎ物を捧げている(『日本書紀』27巻)。同郡域内にある鶴ケ島市の1987年刊行『町誌』は、関東地方の渡来人移住に関する年表を掲げているが、その中に次のようなものがある(前述の下野国関連は割愛)。

「555年、百済人を東国に移す。」「684年、百済僧尼及び俗人、男女23人を武蔵国に安置す。」「687年、常陸国に高麗人56人を居らしむ、武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女22人を居らしむ。」「690年、武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら12人を居らしむ。」「733年、武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら53人、金の姓を与えられる。」「758年、武蔵国に新羅郡(注:後の新座郡)を新設」「760年、武蔵国に新羅人131人を置く」「766年、上野国の新羅人子牛足ら193人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。」

渡来人の技術

渡来人が伝えたのは漢字と漢文だけではない。儒教、仏教、統治の技術にも及んだろうし、何よりも具体的な技術、稲作・雑穀栽培や治水の技術を始め、青銅器、鉄、金その他金属器の鋳造技術、それを使った武器・武具・農具など金属加工、高温で焼いた堅い土器(須恵器)をつくる技術、馬の飼育と馬具、各種建築、養蚕と絹織物、易,医学,暦など生産と生活の多様面に渡った。

那須国でも、古墳に埋蔵された中国鏡や多くの鉄器、武茂川の金産出、烏山の和紙など、渡来人の関与が強く示唆される物品が多い。

渡来人とはほぼ日本人だった

今の段階で渡来人を考えるには、最先端ゲノム研究が明らかにしつつある知見から始めなければならない。女性に受け継がれるミトコンドリアDNA、男性に受け継がれるY染色体DNA、さらには核ゲノム全体の解析も可能になり、人類の系統が遺伝子レベルからわかるようになった。出土遺物の様式や文化から間接的にしかその系統を明らかにできなかったところに、遺伝子という「ハードデータ」の証拠がもたらされ、人類学、考古学の世界に革命が起こっている。

(これを研究者の側から見ると「ボナンザ」となるようだ<篠田謙一『人類の起源』 中公新書、2022年、pp.i-ii>。新しい研究が可能になり、大発見が次々もたらされる。この分野を先導する独スバンテ・ベーポ博士は、2022年にノーベル生理学・医学賞を受賞してした。医学の応用分野でなく、こうした基礎的研究への生理学・医学賞は異例という。)

新手法による日本人の起源研究も、その落ち着く先がどこになるのか、まだまだわからないが、少なくともこの時点でたどり着いた最新知見に確固として依拠し、幻想だったかも知れないそれまでの論理枠組みをぶち破っていく必要がある。

渡来人については、古墳時代列島人口の25%は渡来人だったとの研究が出ている。武光誠『渡来人とは何者か: その実像と虚像を解く』(河出書房、2024年)によると、下記の通だ。

「最新のDNAの研究から、現代の日本人の約25パーセントが古墳時代の日本に来た東アジア系の人間の子孫であった可能性が高くなった。/その想定に従えば、古墳時代末の日本列島の住民の約25パーセント前後が、高句麗や百済、新羅から古墳時代に移住した新参者であったことになる。奈良時代の日本の人口を約600万人とする推計があり、古墳時代末の日本には550万~560万人の人間がいたといわれている(小山修三氏による)。/そうだとすれば、130万〜140万人ほども見られた古墳時代の移住者を、「渡来人」という特殊な集団とすべきではあるまい。日本人の祖先にあたる130万〜140万人の東アジア祖先の人びとを、「新たな移住者」や「外来の人びと」を意味する「渡来人」と呼ぶべきではあるまい。」

古墳人の6割が渡来系?

古墳時代の渡来人の影響はさらに大規模で、25%どころか60%以上もの遺伝子を古墳人に残したとする研究もある。2021年9月に発表された金沢大学・覚張隆史助教らの研究で、縄文人、弥生人、古墳人、現代日本人、古代大陸人らのゲノムデータを解析して得た結論だ。弥生人ゲノムでは約60%の縄文系と約40%の北東アジア系(バイカル湖、西遼河、アムール川地域)が確認された。古墳人になると東アジア系(黄河地域の漢人など)約65%、北東アジア系約20%、縄文系約10%となり、現代日本人に近くなった(下記グラフ参照)。

図:縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷。出典:金沢大学「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」2021年9月21日、原論文:Niall P. Cooke et al.,”Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations“, Science Advances, Vol. 7, No. 38,  Sepember 17, 2021, p.9。

二重構造モデルと三重構造モデル

これまで日本人の起源に関しては、弥生・古墳時代に縄文人と北東アジア起源の渡来人が混血したとの二重構造モデルが定説だった。しかし、弥生時代に北東アジア人、古墳時代に東アジア人が別々に来たとする「三重構造モデル」がここで提起されたわけで、話題となった。

カルフォルニア日系移民

要するに「渡来人」は、カリフォルニア日系社会に移住する新渡米者(戦後移住者)のような存在だった。日系1世、2世がつくりあげた社会、田畑に新参日本人が迎えられ働き始める。日系人はどんどん増えていって、街の統治層ともなり、やがて美しいカリフォルニアの大地を「まほろばの国」などと名付けて自分たちの国にしてしまう。長い間には自分たちの出自も忘れ、太平洋対岸のニッポンなどという国を「何だあいつらは!」と嫌悪する強大なネット勢力を形成するかもしれない。

実際カリフォルニアでは、1848年のゴールドラッシュ以来大量の中国系移民が流入した(1850年の同州人口9万人に対し1850年~1882年の米国全体への中国人移民総計32万人)。1870年にはカリフォルニアの労働力人口の2割を中国人が占めるようになった。そのまま行けば、このアジアに近い「無主の地」カリフォルニアは、現在のシンガポールのように、中国系の国になっていた可能性もある。が、不幸にもここには力のある別系統の移民、ヨーロッパ系も居て、連邦政府に「中国人排斥法」(1882年)を制定させ、中国移民をシャットアウトした。

日本列島もカリフォルニアと同じく自然資源豊かで過疎の土地だった。この「極東の新大陸」に多くのアジア大陸の人々が移ってきた。それでいいじゃないか、何系でもいい、そこに幸せなまほろばの国をつくろう ―そこに居た先住民、縄文の人々は決して新参者を排除しなかった。過疎だったせいもあるが、それぞれ十分な海の幸、山の幸に囲まれて暮らした。大陸から来た人たちは多くの場合、稲作など穀物栽培(農業)技術をもっていた。だから互いに平和に暮らしていても長い間には圧倒的な人口に拡大し、先住の人々を吸収していった。

弥生・古墳時代の人々の「民族」意識はどんなものだったのか、想像の域を出ない。通常、渡来移民は3世くらいになると、ほとんどその社会に同化し、区別がつかなくなる。米国のアジア系移民の場合は、顔つきが違うので何世代たっても区別される。しかし、列島への渡来人はそれほど顔つきが違うわけでなく、そのうち自分が渡来系という自覚はなくなるだろう。混血が進めばなおさらそうだ。