サマルカンド 旧市街の暮らし

8月23日、タシケントからサマルカンドに向かった。「青の都」「東方の真珠」「シルクロードの宝石」「中央アジア史の証人」。シルクロード都市を代表するサマルカンドに行かないわけにはいかない。古くからの東西交易都市で、14、15世紀にはチムール帝国の首都として栄えた。

予約が遅れ、夜中に出て朝4時に着く寝台列車になった。タシケント・サマルカンド間は多くの列車が走っているのだが、残っていたのは、ロシア・ボルゴグラード行きの列車を途中下車する切符。タシケントからは結構ロシア諸都市向けの長距離列車が出ているので驚く。

夜のタシケント駅のホーム。高速鉄道の車両が停まっている。私たちが乗る列車はこの向こうにある標準的な寝台列車3等だ。
朝4時、まだ暗いサマルカンド駅に着いた。寝台列車の中でちゃんと未明に起きられたのはほめたい。

ソ連型都市

明るくなってから街に出て、予約した安宿を探す。かのサマルカンドがだだっ広いソ連型都市なのに愕然とした。鉄道駅は新市街の方にあるのだ。中心の旧市街まで直線距離でも5キロはある。おまけにこの日は、世界トライアスロン競技大会だそうで、道路各所で交通規制が行われていた。

歩くのに疲れ、バスに乗ると、中心部方向に行くと思ったバスがあらぬ郊外方向に行ってしまう。降りて帰りのバスを待つが、来ない。歩く。遠い。地元住民も大勢待つのにバスが来ないのはおかしい、とかなり試行錯誤した末に、トライアスロン大会の交通規制だということがわかった次第。それでなくてもだだっ広いソ連型都市におまけ付きで苦しめられ、4時間かかってやっと宿のありかを突き止めた。駅に帰る。連絡もなく待っていたカミさんから大目玉を食らう。以後、私はスマホSIMカード、カミさんは駅やバスターミナルのWIFIなどを確保して連絡を取り合うようにした。

しまった、「だだっ広いソ連型都市」の写真を撮るのを忘れた。シャッターへ触手が動かなかったのだろう。この写真は、新市街側にある博物館。新市街はどこもだいたいこんなもんだと思ってくださればいい。

旧市街の宿

幸いにして私たちの安宿は旧市街だった。街の中心から東側が旧市街になる。サマルカンドの猛烈な観光開発により、古い街並みはどんどん取り壊されているが、まだあちこちに残っている(フェルガナ盆地の街々に比べてもよく残っている)。著名な観光スポット、レギスタン広場の近くの宿。ちょっとだけソ連型団地が並ぶ先に旧市街が残っていた。

サマルカンドの白眉レギスタン広場。3つの神学校(左から)ウルグ・ベク・マドラサ、ティリャー・コリーモスクマドラサ、シェル・ドル・マドラサが並ぶ。
そのすぐ近く(道路をはさんだ南側地域)に私たちの宿があった。このような旧市街が広がっている。
付近の街路はいずれもこんな感じだ。
旧市街内の比較的交通の多い近隣商店街。日本の昭和時代の近隣商店街の雰囲気がある。
宿近くにあった昭和的「駄菓子屋」。実際は雑貨屋。野菜から乾物まで近隣住民に必要な生活物資を売っている。
旧市街が面白くて、メジャーな観光スポットよりも、旧市街をたくさん歩いた。(ひねくれ者ですねえ。)

壁で覆われた家々

中央アジアからヨーロッパにかけての古い街並みには重要な特色がある。家のまわりが壁に覆われ外は殺風景で、中に中庭を含む潤いのある居住空間がつくられている。これは街全体が城壁に囲われるなど城壁都市が多いこととも関係する。防御と安全が常に人々の脳裏にあったということだ。外側を囲ってウチに安全な居住空間をつくる。日本の家にも塀や生け垣はあるが、ここまで頑丈な囲いにはしていない。囲いなしの家も多く、私的な生活の場が街の中には連続している。安全が保たれているからだ。

所々に小さい広場があって、貯水槽があった。現在は上水道が完備しているので使われていないが、かつてはここの水を使い洗い物などをしていたと思われる。

乾燥した中央アジアで、街は例外なく水のあるところにできる。砂漠の中に奇跡的に湧く水のオアシス……というのはロマンがあるが例外的だ。川が流れるところに街ができる。サマルカンドなどソグディアナ主要部諸都市は、ザラフシャン川の流域に生まれている。サマルカンド北辺、空港の北側にザフラシャン側が流れる(写真)。
私たちの宿はこうした旧市街の中にあった(写真)。旧市街の古いい建物を改造したが、構造は昔のものを引き継いでいる。殺風景な壁に囲まれた中にこうした中庭があり、人々の居住空間がある。
建物や設備は新しくしてあり、住み心地は悪くない。

サマルカンドのテーマパーク化

サマルカンドに18年前来たことがある(2007年12月)。その時に比べ、街がすっきりし、観光客が快適に楽しめるようになったように思う。それは特にカリモフ通り(旧タシケント通り)を走るカートに乗った時感じた。レギスタン広場からビビハニム・モスク周辺まで主要スポットを結ぶ一直線のカリモフ通りはすっかり整備され、そこを観光客向け電動カートが往来している。観光客にとって非常に便利だ。18年前は、サマルカンドの観光スポットがあちこちに分散し、見て回るのが大変だった記憶がある。しかし、だれが考えたのかこのカリモフ通りを整備して、そこにカートを走らせれば、非常に便利になる。サマルカンドは、後述の通りレギスタン広場周辺とビビハニム・モスク周辺をつなげば、主要観光地をほぼ押さえられるのだ。だれが考えたのか優れた着想で、優れた観光開発だと思った。

が、アマノジャクな考えかも知れないが、サマルカンドが一層テーマパークしたようにも思った。レジスタン広場や各種モスク、霊廟が皆色鮮やかに修復され、観光客向けに整備されている。そこをすいすいと楽ちんな電動カートが行く。生活臭あふれる市民の生活空間からは周到に遮断されている。

現在、観光動脈になった旧タシケント通りは、かつて市民が行きかい、店や宿(キャラバンサライ)が密集する活気あふれる庶民の街だった。今は小ぎれいでスキのない観光道になっている。観光客向けの素敵な土産物屋はあっても、そこに住民の泥臭い生活を感じることはない。

サマルカンドに限らず、ブハラ、ヒバなど他の観光地でも同じだ。便利で小ぎれいになって喜んでいる旅行者の分際でたいしたことは言えないが、これでいいのか、という思いもある。

オーバーツーリズム、テーマパーク化

例えば京都がオーバーツーリズムで住民から苦情が出ている。皮肉な言い方になるが、これは旅行者から見れば京都が第1級の観光地たる証左で、狙いどころであることを示している。現実の生きた街がそこに残っているということだ。そこに観光客が来ている。当然軋轢が強まる。少なくとも物事を理解する旅行者にとって、それは素晴らしい観光資源だ。本物の街がそこにある。京都は少なくとも本物を求める旅行者にとって貴重な穴場だ。

しかし、私らのようなその他大勢の気楽な観光客にとっては、観光地をテーマパーク化してしまった方が何の不具合も感じない。住民の生活とは切れたところに観光客が大挙して向かう。そこに観光客が喜ぶ壮麗な建築、エキゾチズムを感じさせる風景や物品を取り揃え、ついでに彼らの落とす観光マネーをしっかりと地元経済に確保できるようにする。それがスマートなやり方であって、京都はまだそこに至っていない。

サマルカンドはそれが実現している。気楽にやってきた私らが存分に楽しめる環境を用意している。住民生活は別のところに確保して、最小限の打撃で済ませ、それどころか大変な観光マネーをしっかりと落とさせている。観光客だって、観光地で不便な生活はしたくないし、混雑に悩まされたくないし、観光名所ははでである方がいい。広大なテーマパークになっていた方がいい。せっかくシルクロードの文物を見に来たのに、何だかよくわからない遺物や住民生活を見せられるより、きらびやかに修復(ときには新たに創作)された建築、文物がそこにあって、「ああ、悠久のシルクロードよ」などと感動できた方がいい。地元民、観光客ともにウィンウィンの観光開発、テーマパーク化なのだ。

いろいろ考えさせられた。そもそも観光というのはテーマパークではないか。安楽、快適に楽しむために来る。通常のテーマパークはそこにジェットコースターや観覧車や各種乗り物があり、それで楽しむ。観光地は、その役割を歴史的建造物や異なる文化の文物が担う。「世界遺産」がそれを補強する。長大な歴史や貴重な文化に想像力を働かせ感動する。それが観光であり、そういうことをするテーマパークが観光地の役割だ。おいしい食べ物屋さんや快適な宿、便利な交通インフラなどがそろえるのは本来のテーマパークと同じだ。

現実界を対象とするエンターテインメント

観光とは要するにリアルワールドのエンターテインメントだ。素晴らしい映像やデジタル技術を駆使した仮想空間を楽しむのでなく、現実に展開する土地、街、人、生活がエンターテインメントになる。人々が実際にそこに行き、現実空間での経験すべてがエンターテイメントになる。観光とはそういう娯楽だ。ならば、そう割り切って観光開発を行う。ただし、テーマパーク化が進み過ぎると、実際の歴史や現実の生活から遊離して観光の本旨からずれるので、一定の注意は払いながら、、、

などなどいろいろ難いことを考えながら、しかし、なおシルクロードのきらびやかな象徴サマルカンドを大いに満喫させて頂いた。

サマルカンド観光幹線の電動カート

電動カートは、サマルカンドの2つの核となる地点を結んでいる。一つは言わずとしれたレジスタン広場。やや離れるが、近くに皇帝チムール一族の霊廟(お墓)もある。もう一つの核はビビハニム・モスクを中心とした観光集積地でビビハニム廟、シヨブ・バザール、バスラティ・ヒズル・モスク、やや離れたところにシャーヒズィンダ廟群などがある。この2つの観光集積地が電動カートで結ばれれば、観光客はほぼすべての名所を効率的に回れることになる。

すっきりと整備されたカリモフ通りを走る観光客向け電動カート。
カートの乗り心地。
レジスタン広場横の電動カート発着所。カリモフ通りにつながる広い道路。
約1キロ先のビビハニム・モスク(中景)、シヨブ・バザール(右手)付近に電動カートの終点がある。
かつてのビビハニム・モスク周辺の土着的賑わい。1890年頃。Photo: Paul Nadar,  public domain
かつてのレギスタン広場。1890年頃。Photo: Paul Nadar,  public domain

レギスタン広場周辺

まずはレギスタン広場。サマルカンド、というより中央アジアを代表する観光名所。広場の周りを3つのメドレセ(神学校)がコの字型に囲む。1420年に、向かって左のウルグベク・メドレセ、1636年に、右手のシェルドル・メドレセ、1660年に中央正面のティラカリ・メドレセが建てられた。世界にイスラム建築多しといえど、三つの建物がバランス良く建てられた構造は、他に比類なき美しさを生み出している。

これら神学校建設時代の前、チムール(1336~1405年)の時代に帝国が築かれサマルカンドはその首都となったが、その中でも、主要街道が集まるレギスタン広場は中心的な役割を担った。王(ハーン)の命令を市民に伝える場、祝賀行事や軍隊の集結、さらには公開処刑が行われる場所として使われた。広場周囲には商店や職人の店が建ち、農産物や手工芸品が売られた。15世紀に屋内中央市場として建設されたチョルス―が、レギスタン広場の東側に残されている。

夕暮れ迫るレギスタン広場。左からウルグベク・メドレセ、ティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセ。大通り横のこの「見晴台」に無料で入ることができ、広場の全体像を見ることができる。
夜のレギスタン広場。歴史的建造物の美ではないが、ライトアップされて美しい。基本的に毎晩この「ショー」が行われ、多くの観光客が押し寄せる。
向かって左(西)のウルグベク・メドレセ。1420年に、チムール朝第4代君主にして学者としても名高いウルグベクの建てた神学校。約100名の学生がここに寄宿し、神学、数学、哲学などを学んでいた。天を支えるとされる前面2本のミナレットの内右側のはやや傾いている。
そのメドレセの内部。
正面に立つティラカリ・メドレセ。1660年築。右手の青いドームの下に礼拝所があり、ビビハニム・モスクが崩壊していく中で、サマルカンドの主要礼拝所となっていた。
右から見たティラカリ・メドレセ。
向かって右手(東側)のシェルドル・メドレセ。1636年築。構造は、広場をはさんで対面するウルグベク・メドレセに似ている。正面の壁に、イスラム建築としては異例の偶像(人面とライオン)が描かれている。
シェルドル・メドレセの中庭。こうした観光名所では、結婚式のカップルが記念写真をとっている姿がよく見られる。
精巧を極める壁模様。
レギスタン広場の裏手の方にかつてのバザールの建物「チョルス―」が立つ。この周辺は活気あふれる市場が広がっていたはずだが、現在その賑わいはない。すっきりとまとめられすぎている。

アミール・チムール廟

レギスタン広場から約1キロ歩いたところに、アミール・チムール廟(グリ・アミール廟)がある。チムール帝国を築いたチムールやその家族などが眠る霊廟(お墓)だ。アミールとは指導者、総督の意。

アミール・チムール廟(グリ・アミール廟)の建物。正直なところ、サマルカンドの建築物はどれもよく似て見分けがつきにくい。日本のお寺や神社も外部の人が見れば皆同じように見えるのだろう。
建物の内部に、チムール一族の墓石がある。真ん中の黒い管がチムールの墓石。柩のように見えるが、あくまで墓石で、亡骸はこの地下の同位置に収められている。
天井の装飾。

ビビハニム・モスク周辺

レギスタン広場横から出た電動カートの終点は、ビビハニム・モスク近くだ。この付近に同モスクの他、ビビハニム廟、シヨブ・バザール、バスラティ・ヒズル・モスク、やや離れたところにシャーヒズィンダ廟群など多くの観光名所が集中している。

電動カートの終点域。バスラティ・ヒズル・モスクから南西方向を見ている。レジスタン広場方面から来たカリモフ通り(写真中央)が掘り込み式高速道路?のシャーヒズィンダ通りにぶつかり、陸橋となっている(カリモフ通りはさらに東進してアフラシヨブ丘方面に延びている)。中景右手にビビハニム・モスク、左手にビビハニム廟。近景右手一帯は(屋根になっているのでわかりにくいが)シヨブ・バザールだ。それに沿う道路の日陰に電動カートが停まっている。近景左の方に約500m歩いて行くとシャーヒズィンダ廟群がある。
逆方向から見る。電動カートの停まるバザー近くのカリモフ通りから、高台のバスラティ・ヒズル・モスクを望む。
ビビハニム・モスク。首都の主要モスクとしてチムールが建てさせた当時中央アジア最大のモスク。、高さ40m。1404年にほぼ完成。ビビハニムはチムールの妻で、チムールの遠征中にこのモスク建築の監督にあたった。(モスクは大きければよいというものでもないだろうが、現在ではさらに巨大なモスクが競ってつくられている。中央アジアでも例えばカザフスタン・アスタナのAstana Grand Mosque、同シムケントのSeyitzhan Kari Yeszhanulyモスクなど。世界の大規模モスクのリストもある。)
ビビハニム・モスクの中庭。
ビビハニム・モスクから道路をはさんだ向かいのビビハニム廟。チムールの第一夫人であったビビハニム(サライ・ムルク・ハニム)の母など一族関係者のためにつくられた霊廟。(一般にはビビハニムの墓とされることもあるが、確たる証拠はないようだ。)ビビハニムはチンギスカン直系の東チャガタイ家系の出身であり、チムールにとって、支配的地位のお墨付きを得るため重要だったと思われる。
2000年の歴史があるとされるシヨブ・バザール。7ヘクタールの敷地に多くの市場建物がある。
同上。
同上。ツーリスト向けに特化した一角もある。
電動カート終点から約500m離れたところにあるシャーヒズィンダ廟群。11世紀から19世紀につくられた霊廟の集合体(ネクロポリス)。20以上の流麗な霊廟建築に各時代の有力者が眠っている。多くはチムールの時代を中心に14~15世紀のもの。
同上。
カリモフ通りはさらに東に、アフラシヨブの丘方面に続いている。イスラム以前、ソグド商人たちのサマルカンドがあったところだ。当時はマラカンダと呼ばれ、シルクロードの交易都市として紀元前10世紀頃からの発展があった。紀元前329年にアレクサンドロスに征服され、712年にイスラム系のウマイヤ朝に征服され、1220年にはモンゴルにより徹底的に破壊された。チムールの時代に再建されたサマルカンドは、そこから5キロ離れたまったく別の場所につくられた。モンゴル侵攻当時アフラシヨブと呼ばれた古いサマルカンドは荒野として放置された。
そこにアフラシヤブ博物館があり、古代サマルカンドの研究成果が展示されている。
古代都市の遺跡はあまり残っていないが、出土したこのフレスコ画は例外。7世紀のソグド王ワルフマンが各国使者に謁見する様子が部屋の壁一面に描かれていた。
アフラシヨブの丘は殺伐とした荒野だ。電動カート終点から離れていることもあり、観光客もここまではあまり来ない(車、バスで来るほかない)。現在のサマルカンドは絢爛たるイスラム文化の街だが、そうでない、それ以前のサマルカンドにももう少し光を当ててほしい。