トビリシ再訪

ヨーロッパを感じる

2年半前、トビリシに来ている。ヨーロッパからトルコ、ジョージアと東進してくると、いよいよアジアを感じると思った。しかし、今、中央アジアからトビリシに入ってくるとヨーロッパを感じる。アイラン(中央アジアのしょっぱいヨーグルト・ドリンク)がなくなってケファーやヨーグルトが主流になる。街並みもソ連的建築に圧倒されない古い時代のヨーロッパの風情を残している。人さえ、より白人と言えるような風貌が増え、宗教もアゼルバイジャンまでのイスラム教からジョージアのキリスト教に代わった。。

特に、宿近くの下記のような街路を見ていると、本当にヨーロッパだなあ、と感じる。

ダビット・アグマシェネベリ通り(Davit Agmashenebeli Avenue)。1880年代につくられた歴史的建造物の街路で、名称は、ジョージア王ダビット4世(1073年~1125年)にちなんでいる。ジョージア全体を初めて統治した王で、ジョージア王国の最盛期を築いたとされる。

既視感

そう思って見ているうちに、ん? 何だかこの通りと建物は既視感があるな、と思えてきた。もしかして、2年半前にこの辺をよく通ったのではないか。

そう思って宿に帰り、昔泊まったホステルの記録を調べると、確かにこの近くにそのホステルがあった。それも何と、今回泊まっているホステルから1ブロック、100mくらいしか離れていない。なぜ気がつかなかったのだろう。

翌日そのModely hostelに行ってみた。間違いない。確かにここに2年半前に泊まった。そして、すぐそばのヨーロッパ風の街路を歩き、近くのクラ川沿岸を散歩し、さほど遠くない駅の周りを歩いた。そしてよく使った地下鉄駅も思い出した。確かにマージャン何とかという駅だった(Marjanishvili駅)。駅を出ると花屋や新聞キオスクや各種屋台が並んでいる。次々に当時の記憶がよみがえってきた。

なぜわからなかったのだろう。いや、2年半たてばわからなくなるのが当たり前だ。数日居ただけだし、あの時私は方向感覚をくるわせていた(南北逆転させていた)ので、なおさら土地感が異なるものになっていた。

無常感

精神の中の何かがよみがえる感覚は新鮮だが、かのModely hostelはドアが締め切られ、中に電気もついていない。人の気配がしない。まだ看板は出ているが、つぶれたのかも知れない。安くてありがたいホステルだった。2年半前は結構客も入っていたのに。おお、行く川の流れは絶えずして…などとつぶく。

かつて泊まったModely hostelは今回の宿から目と鼻の先にあった。しかし、人の気配がせず、つぶれているかのようだった。小さくサインは出ている。

数年前、40年以上前に半年住んだウィーンに行って、どこで暮らしていたかまったく特定できなかったことがショックだった。こちらは2年半前数日住んだ宿が何とかわかっただけでも上出来なのだろう(宿予約の記録などが残っていたからだが)。街も変わる。私の中身も変わる。それを結びつけている記憶というあいまいな糸は時とともに薄れ、やがてその人とともに消滅していく。

トビリシの街を歩きまわりながら、何やら世のはかなさ、無常感に打たれる。「方丈記」は私が書いたように感じてしまった。私がこれから去っていく広大な時空間の中で、兼好法師と私はかなり近いところに居て、同じような存在だったのではないか。

そう、最寄の地下鉄Marjanishvili駅の前にはこのような小さい広場があった。今回もこの駅が最寄り駅だ。
反対側だが、やはり近くに鉄道のトビリシ駅があった。ついでだが、この前に停まっているバス(市バス337番)は空港まで数十円で行ってくれるありがたいバスだ。空港から来るときもこのバスは、南北に細長いトビリシの街を南から北に通ってこの駅まで来るので、大抵の宿はアクセス可能だろう。(電光掲示というのはシャッターの加減できちんと文字が映らないが、この中央の緑のバスが337番バス。)
クラ川は2年半前と同じく、ゆったりと流れていた。
古い教会、要塞などが残る旧市街周辺。何やら丸い新しいものも(地上に降りている気球)。