人間にとっての社会科学

プラットフォーム経済

例えば、現在の社会が「プラットフォーム」の時代だ、という認識または理論が「鋭い」と思うのは、どういう回路によるのだろう。アマゾンのような、ネット上での売買を保証する「プラットフォーム」を築いた企業が現代では成功を収める。それまで遊んでいた自分の車をタクシーに使えるようにしたUber、空いていた自宅個室を宿泊施設に使えるようにしたAirbnb。いずれも社会に新たなプラットフォームを提供することで成功した。そのような事例がインターネット時代には多くなってきた。そうした現状認識からプラットフォーム経済理論は非常に有効と感じ、それを突き詰めていこうとする理論家が輩出される。事例研究やモデル構築が細密に行われ「社会科学的」分析が深められる。

しかし、社会科学での「真理」は、自然科学のそれとは違って実験で確認したり、数式で法則化されるものではない。むろん、事例研究、統計、数式化を援用して「科学的に」に探求しようとはするが、決してそれだけでは決められない。プラットフォームを目指す企業と、そうでない企業を同じ条件で同時に立ち上げ、どっちが成功するか実験で検証…などということはしない。できない。プラットフォーム型とそうでない企業の成功・失敗事例を統計分析して数量的に白黒をつけるなども、考えただけで徒労感が走る。そもそも何が「プラットフォーム」なのか定義の段階で果てしない議論が生じそうだ。

その他、「シェアリング経済」「ギグ経済」「群衆の知恵」「ロングテール」「ウィキノミクス」「ビッグデータ」「フラットな世界」「クラウドソーシング」など、インターネット時代にはいろんな言葉・理論が生まれ社会を解明しようとしている。いずれもそれなりの側面を言い当てる鋭い分析視覚だと思う。なぜそう思うのか。必ずしも、実験、数式、統計解析に納得したからではない。まわりのいろいろな現実を見て、体験的に感じていることから、なるほどと「腑に落ちる」。

「自己組織化」理論

あるいは、世界を「自己組織化」で統一的にとらえようとする複雑系科学の理論。物理的世界でも、結晶が生成されるときのように、混沌から一定の秩序が法則的に生成する「自己組織化」現象がある。生物に至る過程でも、アミノ酸など一定の化学状況の中から自己組織化が起こり、物理的な過程として生命が生まれる、という理論が最近注目されている。そしてその生命が進化し、その先に動物の集団が現れ、さらに人間の社会が生じる。この中でも自己組織化現象が強力に動き、市場はその典型的な形だとされる。このように物理的世界から人間の社会まで一貫した理論でとらえる「自己組織化」概念は非常に魅力的な切り口だ。それは強く感じるが、しかし私はそこで何を根拠にそう思っているのか。

自己組織化理論は、地球全体が一つの自己組織化する系とみなす「ガイア理論」とも関係している。しかし、「ガイア」(ギリシャ神話上の地母神)などとんでもない、地球系は生命や人間を滅ぼす「メデイア」(同神話上で離縁夫や家族を滅ぼす王女)だ、と主張する著書を最近見て面白かった。優美な自己組織化どころか、生命系はこれまでも時に有害な進化を達成して地球規模の大量絶滅を招いてきた。今またホモ・サピエンスという種が、大量の二酸化炭素を生成してこの星を火星のような死の世界に変えようとしている。自己組織化に任すのでなく、そこでのロールプレーヤーは何らかの主体的な決断をしないといけない、と主張する。これも面白い理論だったが、やはり何を根拠に面白いと思ったのか。「ガイア」「メデイア」はあくまで象徴的なメタファーだが、人間の世界への関係を考える上での基本的視座を提供する。地球はガイアかメデイアか、どうやって検証するのか。

人間を越えるAI科学

前稿で述べたように、AIが科学・学問の担い手ともなる可能性が議論されるようになった。30秒に一本の割合で発表される生物学分野の論文。米国立衛生研究所(NIH) のデータベース PubMedだけでも1日に1万件のアップデートが出版される。こうした莫大な「データ洪水」は人間の処理能力を上回り、「研究回路の中に人間を入れることは、科学の進歩にとって隘路か障壁のよう」になった、とも言われる。

つまり、人間は科学研究の邪魔になってきたということだ。AIには人間には困難な科学的発見を、まねのできない迅速さでやり遂げ、その時代の学界の常識・慣行、論文作法などすぐに学習して気の利いた科学論文に仕上げる。将棋や囲碁の世界最強者がAIとなったとき、人間の棋士の立ち位置はどこにあるのか。そうした苦しい自己省察に、遅かれ早かれ科学者も直面せざるを得なくなる。

これは、おそらく自然科学の分野が先に襲われる波であろう。社会科学の方は、科学としてあいまいな分だけ、AIの進出が難しいと思われる。

「思想」の必要性

「差し迫るAIの危機」に直面して、今後の社会科学に必要なものとして、まず「思想」をあげておこう。

「思想」は日本語独特の表現だ。英語にするとthoughtだが、thoughtは「考え」「思考」程度の意味で重みがない。広がりがない。その他、theoryは理論、philosophyは哲学、ideaは発想・観念、ideologyはイデオロギー、scienceは科学とそれぞれ対応訳語があり、英語で「思想」に相当する概念域はないように思われる。人生観(view of life)、世界観(world view)なども英語にすると違和感があり、どうも日本語には、社会、世界を見る思想的な洞察について言葉が豊かなようだ。「思想性」などはどう訳せばいいのか。「思想」は、「考え」、「哲学」、「科学」、「イデオロギー」などの意味にまたがりながら、なおそれらと異なる独自の位置を占める。かつて西欧世界でphilosophyからscienceが分離する以前の「哲学」、あるいはideaをギリシャ時代までさかのぼらせた「イデア」などの概念に近いのかも知れない。

社会と世界に対して、自分の人生から生まれた思考としての「思想」をはぐくみ、これを科学の方向に進めていく。思考であり哲学でありながら社会理論に向かい、科学に向かう。「社会科学」とはそのようなものに思われるし、そうした意味で社会科学に本質的なものはなお「思想」ではないか。

(しかし、逆に言うと、日本の社会科学者はこのような方向にすぐ行ってしまうので、ノーベル経済学賞が取れないのだろう。自然科学系ではあれほど受賞が続いているのに。)

剣豪に学ぶ

宮本武蔵と佐々木小次郎が、宿場町ですれ違いざまに、「むむ、おぬしできるな」と互いに感じる。そういう形での評価が、現在も研究者の世界でも決定的なものとして機能していると思う。結局それが論文や研究者の最もシリアスなところでの評価をもたしてくれる。

数ある論文を片っ端から読んでいく。読んですぐ放り投げるものもある。学者は業績づくりのためとにかく論文を書く。内容のない論文を瞬時に見分けて放り投げる能力も現代の研究者には必要だ。論文は無限、時間は有限だ。そして、読んでいるうちに、「むむ、これは鋭い」「おぬしできるな」と思う論文に、いつかは巡り合う。自分が理論展開に詰まっている所に明解な答を出し、先を切り開いてくれるような論文には感動を覚える。それをじっくり読み、深く学ばせて頂く。学ばせて頂いたからには、当然自分の論文の中に引用したり、出典を示したりする。

そうやって優れた論文は徐々に引用数を増やし、さらに多くの人に読まれ、評価を高めていく。査読や書評など、意識的に行う評価活動も必要だが、このような研究活動の無数の局面(アイデアの市場)で行われる評価が、最後の決定打だ。自分が真剣に歩む道だからこそ、そこで出会う論文に厳正な評価が付く。付けられる。

人間の身体性

論文が学術論文として信頼性を得るにはそれなりの形式、論理、作法もあるが、それはAIがある程度できる。支援してくれる。そして、こうした形式、論理、作法を満たしているからその論文が価値ある、「おぬしできるな」と判断するのかというと必ずしもそうではない。あいまいな言い方になるが、その論理展開からこちら側に何等かに誘発されるひらめき、直感といったものが介在する。これはいったい何か、と日頃から思うのだが、迫りくるAIの驚異を前に考えれば、これは人間の「身体性」というべきものだろう。人が生きてきて社会の中で感じ、考える様々な洞察、価値観。それに共振しあう論理展開・思考がある。その共振を経験する瞬間がある。自然科学の場合は、これを、実験という条件を整えた人工的な場で検証できるし、しなければならないが、社会科学では困難だ。科学的検証にできるだけ迫るが、多様で複雑な経験が集合された上に出てくる何らかの発想、問題意識の果たす役割が依然として大きい。社会という研究対象の中に、実は研究者の諸関係とその思考自体も含まれていて、それを改めて客観的に認識しようとする作業が社会科学であるという事情が関係しているかも知れない。

AIは身体を持たない。ロボットという体をもったとしても、こわれたら修理して復活させられるようなものは身体ではない。少なくとも社会を構成しその中でいろいろ経験し感じる身体ではない。生きるために何かを欲し、死を恐れ、愛し、喜怒哀楽にさいなまれる身体をもった存在から生まれる知性、ということころに人が立脚する基盤があるのではないか。そこから、AIにない人間の知性が生まれる、と。そこに我々の知を研ぎ澄ませていく。そこが人間の行う社会科学の砦になる。