変われる伝統が真の伝統 トルコで考える

変われず形だけになった伝統は死んでいる。
形式を維持するだけになったら伝統は伝統ではなくなっている。

伝統とは、その時代とその土地、そして新しい時代と土地に生きる文化である。人々に生きる知恵と活力を提供する形式である。それを次の時代、別の土地に活かすため、人々はそれを時に大きく変え適合させてつないできた。伝統を変え適合・継承させるエネルギーを失った民族はそこで滅ぶ。

例えば、土俵に女性をあげなかった江戸時代の女人禁制を現代に守り続ける必要はあるか。あるいは例えば盆踊り。どう手を上げ足を進め、どう体をひねるか、が問題なのではなく、夏の暑い盛り、人々が集まって共に情熱を爆発させる、その共同的なエネルギーの発露が伝統の核心だ。新しい時代にその伝統を生かじ、継承していかなければならない。

今日の若者たちがつくりあげた「よさこい」がそれかも知れない。踊りの形は昔と同じでない。しかし、そこに現れる人々の情熱と活力は昔と同じだ。形を破った。新しい形をつくった。そしてそこに伝統が生きている。形だけを守り、限られた人たちがすまし顔で踊る盆踊りはすでに盆踊りではない。少なくとも伝統ではない。

いや、形にこだわる一時期があってもよい。追い詰められ消滅と忘却に渕に追いやられた人々が、大元のエネルギーを取り戻すきっかけとして「形」を再興する瞬間があってよい。問題は、そこからどう出発するかだ。ずっと形の維持に留まる文化は、ずっと消滅と忘却の渕にある文化だ。あるいは消滅し忘却された文化だ。博物館に保存される文化だ。それが必要な時期もあるが、やはり生きた伝統をもつ必要がある。再生して伝統を保持しずっとつないでいく。

トルコの近代化革命

トルコはイスラム世界の中で、自己を大きく変革したと国だと思う。例えばローマ字の採用。我々の漢字やかなと同じく難しそうなアラビア文字(トルコでは600年以上使われてきた)を廃止して、1928年にローマ字を採用した。やるべきかどうかは別として、我々はそこまで徹底的にはやらなかった。トルコはそれをやった。人々の生活に大きな影響が出たはずで、相当な決断だったと思う。

1908年青年トルコ人革命から1923年共和制樹立のトルコ革命に至る一連の変革は日本の明治維新に似ている。1917年ロシア革命と異なり、西欧的な近代化を進める革命だった。1868年の明治維新より半世紀遅れた分、改革もより徹底的になったのだろう。ケマル・アタチュルクが率いた近代化革命は、スルタン制ばかりでなくカリフ制も廃止している。例えればスルタンは征夷大将軍で、カリフは精神的な権威の天皇だ。幕府を廃止しただけでなく、天皇制も廃止してしまった。トルコが、イスラム教の元祖アラブ系でなくトュルク系だったことで、宗教性に温度差があったが、イスラム世界ではかなり徹底した世俗主義への転換だったと思う。

その他イスラム法(シャーリア)の廃止、イスラム教国教化憲法条項の廃止、イスラム暦(ビジュラ暦)の廃止と太陽暦の採用、一夫多妻制の廃止、女性の顔を隠すベール(チャドル)の廃止、トルコ帽の廃止など、変革は多岐に渡っている。

トルコの「明治維新」を促したのはやはり黒船だ。しかも、トルコは西欧に近い分、単に軍艦の姿で脅かされただけでなく、実際に侵略された。600年以上続いた栄えあるオスマン帝国は風前のともしびになっていた。すでに1900年代に帝国領のボスニアとヘルツェゴヴィナがオーストリア・ハンガリー帝国に併合され、ブルガリア自治公国が独立を宣言し、自治領だったクレタ島がギリシャへの編入を宣言していた(その後ギリシャ領)。1911~12年の伊土戦争でリビアを失い、1912年の第一次バルカン戦争でイスタンブールを除くヨーロッパ領土を失い、500年続いたバルカン支配が終った。1914年からの第一次世界大戦では同盟国側に付いて敗戦。1920年のセーブル条約で帝国を事実上解体する過酷な講和条件を飲まされた。アナトリア(トルコ半島)はイスタンブールとアンカラ周辺のみを残し、東南部をフランス、南部をイタリアの勢力圏とし、西部はギリシアに割譲。イラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリア・レバノンはフランスの委任統治。キプロス島はイギリスに割譲。ダーダネルス=ボスフォラス海峡は国際管理下に、などなどずたずたにされた。特に、古代からのアナトリア西海岸や黒海海岸に植民都市をつくった歴史があるギリシャは、1919年5月からトルコ領深くに侵攻し(希土戦争)、その軍事的成果をもとにセーブル条約での西部地域割譲を得ている。

無残な姿になったこのオスマン帝国領から出てきたのがムスタファ・ケマル(後のケマル・アタチュルク)に率いられた祖国解放運動だ。1920年、アンカラに大国民議会と国民軍を組織し、一方で、これを抑えようとしたスルタン政府と戦い、他方でギリシャを始め列強勢力を駆逐する戦いを進める。1922年9月、国民軍は最終的にイズミールでギリシャ軍を壊滅させ大勢を決めた。1922年にスルタン制廃止、1923年にトルコ共和国建国、1924年カリフ制廃止に至る。

トルコ革命の指導者が軍人の中から出てくるのは示唆的だ。戦争の中でこそ、近代化の遅れは最も劇的な形で現れ、軍人たちこそ国の近代化と変革を誰よりも求めざるを得ない。現在、トルコのどこに行っても、ケマル・アタチュルクの銅像、肖像、展示などを見る。神格化されているようにも見える。強い宗教的伝統の中でそれを振り払うためには、ある程度別の神格化が必要だったのか。