旅とはサバイバルである

旅は多様な側面をもつ。以前、その全体を広く、しかし簡潔にまとめたことがある。そこで語りつくしてはいるのだが、蛇足を言えば、旅はサバイバルだ。これは特に今のような旅の初期段階に当てはまり、意識の中ではほぼ十割を占めるようになる。旅が異なる環境への船出である以上、そこで生存していけなければ旅はできない。漂泊の詩情もわびさびへったくれもない。生存ということは食って出して寝て行動することだ。衣食住も移動も安くすませ、安全に細心の気を使い、健康を維持しなければならない。その上贅沢を言えば、そこで見るべきものを見て訪ねるべきところを訪ね(基本たる「観光」を忘れてはならない)、その社会と歴史について思索し、人生観を深めることだ。

古来、数多くの遊行詩人たちが旅をすみかとし、永遠の境地を求めて、漂白、放浪、隠遁、わびさび、もののあわれ、幽玄、枯淡の世界に浸り、無常観の美学を描いてきた。

しかし、旅とは、何よりもまず第一にサバイバルなのだ。おお、つわもののどもの夢の跡よのう、などと感傷に浸っているだけでは、たちまち詐欺師に取り囲まれ身ぐるみ剥がれてしまう。現代の旅人は海外にも足を伸ばし、それ相応にサバイバル条件は厳しくなるが、国内でも、昔であれば山賊や追剥が出没し、困難は大きかったはずだ。目をらんらんと光らせ、日常の会社仕事に取り組むよりも神経をとがらせ、そして安くサバイバルできるよう勤勉性を全開させなければならなない。

何を食うか、その土地で比較的安く栄養になる食事は何か、安眠できる宿はあるか、その辺のサバイバル術をなおざりにしては、旅人はすぐに病に倒れ、旅を中止せざるを得なくなる。コストをできる限り最低限にする闘いを中途で妥協すれば、旅銭がたちまちに費え、やはり旅を止めざるを得ない。

芭蕉だってサバイバルに懸命になっていたはずだ。その本質的課題の相当部分を彼は同行の曽良さんにまかせたらしいが、それでも自分自身、ある程度の苦労はあったはずだ。どこに行ったらどこに泊まるか、安くて良い宿はあるか、だれか有力な俳諧仲間のところに居候できないか。食いたいものも食いたいし飲みたいものも飲みたい。たまには祝宴もあげたい。ビザ、パスポートならぬ関所関係はどうするか、幕府から隠密の資格でも得ておけば通りやすくなるか。

それらあまりに生々しいサバイバル技術などおくびにも出さず、彼はわびさびの枯淡の世界を詠み続ける。これはこれで偉い。人生9の生臭いドタバタ生活の中で、1の宿り来る何らかの精神的なもの、これに拠って風雅の世界を描き続ける。

遊行詩人の風雅の世界も結構だが、この生臭いサバイバル生活の中にむしろ旅の本質を見ないか。旅人は永遠の虚空を生きているのではなくて、現実の生々しい渡世に生きている。そこでのサバイバルに奮闘する中でこそ、彼は現実との確たる交渉を行い、その社会的現実を認識する。認識せざるを得ない。そこに旅の本質を見るのだ。

ただ表面を撫で去るだけの旅人には、その社会を決して深くは認識できない、というのは、まあそれはそうであろう。生活者とは同じ認識はできない。しかし彼は旅人として、敢えて言えば観光者として、その社会に必死にサバイバルしようとしている。そこから何か見えてくる。生活者からは見えないものが見えることもある。もろもろの「雑事」を全て他にまかせ、「先生」「先生」と呼ばれながら行幸する旅では、そこの歴史文化をいつくしむ立派な記事をいくら書いても、実は何も見えていない。空調の効いた大型バスでエージェントに組まれた通りの行程を回り、ガイドブックにある景色と説明を確認するだけの旅でも、やはりその社会の現実は見えていない。

旅人、観光者は、限定された特異な社会的存在ではあるが、そこでのサバイバルに傾注するとき、そこに現れ対峙してくるのはやはり本物の、現実の社会だ。そういうものとして自分の位置を確認し、かつそこから見えるものを積極的に見ようとする。それが私の「方法としての旅」なのだと思っている。