再録:イスラムとは何か -砂漠ブルジョアジーの思想と運動

イスラムが世界史に果たした役割

岡部一明 (『カイロ通信』1981年3月より)

(1981年2月、世界放浪の途上でアフリカを旅しようと、ヨーロッパ、中東と南下しエジプトのカイロまで来たとき。次のスーダンのビザを取るのに1ヶ月以上かかるという思わぬ障害にぶちあたった。放浪の旅ではよくあることだが、1ヶ月を無駄にするのは惜しいと、直近で旅した中東、イスラム教の歴史を勉強してみることに。持参した日本語の本の他、現地の図書館、アメリカセンター図書館などで基礎的な英文書籍を読みながら、下記をまとめた。)

<目次>
1、イスラムとは何か
2、遊牧民の歴史
3、砂漠商業資本主義としてのイスラム
4、「社会主義革命」としてのイスラム

以下、詳しくは本論文ページへ

後評

38年ぶりにイスラム世界を訪れ、38年前に書いた自分の論文を読み直してみた。自画自賛だが、斬新な視点を打ち出していたのではないかと思う。カイロで1カ月余裕ができたので書いたのだが、イスラム圏の中に身を置いて勉強し考えたことが貴重だった。外から見ているだけでは、このような内在的な考察はできなかったと思う。

この勉強の過程で感じたのは、イスラムには「栄光の過去」があった、ということだ。当時(7世紀以降)の先進世界ほとんどを糾合する世界宗教となり、世界市場の屋台骨となった。その栄光の過去があるから、現在もイスラムは、西欧世界中心の現代文明に頑強に抵抗するのだ、と思った。それがテロリズムになってしまうのは非常に残念だが、過去の「古代宗教」として歴史のくず籠に捨てられるのを頑強に拒むに、それなりの背景があった、と納得した。

どこが自分の視点だったのか

イスラム圏を離れたら、やはりと言うべきか、この分野の研究・思索からほとんど離れてしまった。したがって今、当時あたった文献から見て、どの点が私の独自視点だったかを判断する力がない。しかし、イスラムを当時の世界市場やメッカを初めとした砂漠商業資本主義、つまり「経済的基礎」の側面から徹底して考察したことはある程度、独自性があったと思う。そのヒントのようなものは各種文献に散見されたとは思うが、それを一貫した論理の中にまとめた。イスラムを当時の世界市場と「砂漠ブルジョアジー」、とりわけオアシス商業資本の要請を背景にしたイデオロギー・社会体制としてとらえる視点も、充分追求の価値があると思う。その前提として、イスラムを「古代の」歴史ではなく、今日につながる世界市場の端緒、近代の遠い始まりとの視点からとらえるのも、極端ではあるが(何しろマホメットの活躍は7世紀)、魅力的ではある。

イスラムを社会主義の原初的形態ととらえる見方は、意外と、当時のファンダメンタリズムの台頭の中で、イスラム圏の中から出てきていた思潮であり、私のオリジナル性は弱い。この後、20世紀社会主義は行き詰まり、ついには崩壊した。その世界史的展開を踏まえて、この部面の論考もさらにもう一歩深められるべきものだろう。政教一致のシステムが社会主義と共通するとしており、「革命」のとらえ方も含めて、むしろ社会主義について(イスラムと同じまな板に載せて)独自の切り口を示せたのではないかと思う。民衆は永遠のため蜂起するが、歴史がその時までに準備したものしか実現されない、というのも、その通りだろう。

変われる力をもった伝統こそ伝統たり得る

変われない伝統は伝統たり得ない。変われない宗教は生命力を持った宗教たりえない。イスラムが、過去に輝かしい栄光の時代があったことを思えば思うほど、この宗教・社会体制が現代世界に有効性を発揮できるよう大きく変わって欲しいと思う。ジハードの在り方、女性への見方、経済への対処、あらゆる面で現代世界に通用しないものになっているのではないか。表面の形に囚われず、抜本的な自己変革を行うことが必要だ。その活力がなくなったとき伝統も宗教も終わりに近づく。歴史のくず籠に捨てられる。キリスト教が、近代科学と産業社会の挑戦を受けながら、多くの変容を遂げ適応してきたことに、やはり見習うべき点がある。イスラムが根本的に自己変革する、その先にどのような可能性が開けるのか、それを見たい。