スプリト:地中海世界

宿は「ローマ皇帝の部屋」

何だ、この遺跡は。ローマ時代の皇帝別荘か。宿の主人は、世界遺産なんでサインを出せないのだと言う。Emperor’s Chambers(皇帝の部屋)。すごいホテル名だが、個人でやってる民泊のようだ。看板どころか表札もなく、その上、住所表記が日本同様複雑で、本当に困った。迷った。夜の9時半だったので益々困った。案内所も店も閉まり、人通りも少なくなっていた。

クロアチアの地中海沿岸の街スプリトに着いた時のこと。地図とにらめっこしているうちに、通りすがりの人から助けが出た。電話をかけてくれて、宿のオーナーと宿の前での待ち合わせをアレンジしてくれた。

外見はローマの廃墟。その壁にドアがあるだけだ。手助けがなかったら絶対見つけられなかったろう。電話しなければたどり着けない宿だ。

外見にもかかわらず、中は改装してモダンだ。普通のアパートで、もちろんトイレ、シャワー付きで、キッチンも、冷蔵庫も、洗濯機も、テレビもあり、団らん用のソファーまである。WiFiも快調。これで1泊2500円とは。ニューヨークの安アパートよりずっと良い。

地中海世界

翌朝起きて、カーテンを開けると、城壁の間から見える空が真っ青に輝いていた。私の気持ちも晴れ渡る。

ヨーロッパに着いてからまだサングラスを使ったことがなかった。使う必要もなかった。が、きょうは荷物の中から取り出してかけた。暗い方のサングラスだ。

外に出ると、サングラスでもまぶしい。空は、これでもか、と言わんばかりの紺碧。まったく雲がない。かけらもない。昨夜着いたときは風があって少し寒かったが、きょうは風もない。乾燥した空気。地中海の青い海を見ながら海岸の道を歩き出す。

北ヨーロッパとはまったく違う風土。これほど違って同じヨーロッパと言えるのか。慣れればこれが普通になるのだろうが、北から来ると、印象があまりに強烈だ。

宮殿が街になった

スプリットの旧市街はローマ帝国ディオクレティアヌス帝(在位:284年 – 305年)の隠居後の宮殿だったらしい。健康を害した帝は、自分の出身地であるこの地に隠棲し余生を過ごした。すごいのは、この宮殿が遺棄・破壊されず、あるいは遺跡としてそのまま保全されもせず、一般人が住みつき普通の街に変わっていったことだ。要塞的な宮殿だったので、城壁都市への転用に適していたらしい。宮殿遺跡と人の街が融合した。住居が無秩序に付け加えられ、店舗が掘り込まれ、不思議な都市空間に変身した。人々は、千年以上もの間、ここがローマ遺跡だとも知らず、住み続けてきたのか。

ローマ帝国は、属州(植民地)民も皇帝にしたことに改めて感心する。クロアチア(当時はダルマチア)出身のディオクレティアヌス帝以外に何人もいる。偉大な帝国理念の下に多民族を統合するローマの支配秩序に感服。

シルバーコロンビアの適地か

クロアチア、モンテネグロ、アルバニアと続くアドリア海東岸諸国も、老後長期滞在候補地として挙げる必要がある。環境抜群で物価が安い。英語が公用語でない点はマルタに劣るが、シェンゲン条約に加盟していないので、別のメリットがある。

シェンゲン圏(主にEU国だが)は全体で滞在最長3カ月(6か月間の中での3カ月)だが、これらアドリア海東岸諸国に移動すればまた3カ月滞在できる。その後にまたシェンゲン条約国に行けば振り出しに戻って再度3カ月滞在できる、などの技が使える。

 スプリトの街はローマ宮殿跡につくられた。 中景の緑の公園の手前が宮殿城壁都市になる。
海(地中海)と山が迫る。前方に見えるのはマルヤンの丘。そこに登ると…
こんな絶景が。スプリトの全景が見える。
アドリア海の港町として発達したスプリト。港のそばに城壁(宮殿)都市が広がる。
城壁の外側が改装されておしゃれなカフェが並んでいる。
改装されていない城壁。そこに穴倉のように住居などが入っている。私の入った宿はこの中央の黒いドアから入る。中はモダンに改装されていた。
宮殿跡都市への入口は東西南北に4つあり、この東側の入り口「銀の門」が一番立派だった。
宮殿遺跡の中に住居が折り込まれている。
城壁の内側に密集する住宅。
庶民が暮らす宮殿都市。
石畳の路地が宮殿跡市街に走る。
もともとのディオクレティアヌス宮殿。スプリト市博物館の展示。

 

宮殿跡都市内の広場の活用。
品のよいお店の並ぶ一角も。
八角形のスプリット大聖堂と高くそびえる鐘楼。この鐘楼に登って市内を一望できる。大聖堂はもともとディオクレティアヌス帝の霊廟だが、キリスト教の教会に変えられてしまった。帝はキリスト教を厳しく迫害したことで知られている。  
地下にはまだ遺跡が眠っており、発掘が進められている。一部が博物館として公開されている。