ティミショアラ発のルーマニア革命

「ティミショアラ革命」の概要

1989年12月にティミショアラで何が起こったか振り返っておこう。(România Libera, Diary of the December 1989 Romanian Revolution他参照)

(「ティミショアラ革命」の映像)

https://www.youtube.com/watch?v=KAcjTq7_gfY

ティミショアラのあるルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー系が多い。その街で、人権派として知られるハンガリー系牧師テケーシュ・ラースローが地方への追放処分を受けたことに信者らが反発し、12月15日(金曜日だった)から同牧師の家の前で集会を始めた。規模は小さく、ロウソクをともして抗議する静かな行動だった。市長が訪れて、行動を止めるようテケーシュ牧師らに訴えている。

12月16日(土)になるとルーマニア人やキリスト教徒を含めた一般市民もこれに参加。同牧師宅に近いサンタ・マリア広場周辺に約700人が集まった。抗議行動は徐々に市内全域に拡大し、夜までには暴動の様相を帯びていく。市電が止められ、市役所や地区共産党本部が襲われ、ガラスが割られるなどした。秘密警察(国家保安局)と警察は催涙ガスと放水で対応、参加者を逮捕していった。しかし、夜9時以降、さらに多くの市民が市中心部、三成聖者大聖堂(ルーマニア正教会の大聖堂)周辺に集まり、行動を激化させた。参加者たちは「チャウシェスク打倒」「共産主義反対」「民主化」を明確に口にするようになっていた。

翌17日朝にはティミショアラ中心部は、壊れた車、割れた窓ガラスなどが散乱し、戦場のようになっていた。労働者のストライキも拡大していた。暴徒化した市民は地区共産党地本部に突入し、共産党の書類やチャウシェスクの肖像などを外に投げ出し燃やした。秘密警察と警察以外に、国軍も出動してきて鎮圧に当たる。戦車、装甲車が姿を現す。すでにこの日の会議でチャウシェスクは市民への発砲を国軍と秘密警察に命じていた。午後5時頃から催涙ガスと放水による鎮圧が始まり、6時頃にはオペラハウス広場(現勝利広場)、自由広場付近で無差別の銃撃が始まった。戦車にひき殺される人もいた。正確な犠牲者数は議論のあるところだが、控えめな集計で、12月22日(チャウシェスク逃亡)までに死者70人、負傷者368人との数字がある。(ルーマニア全体では同日までの死者172人、負傷者 1,187人。23日以降の全国の死者は、ブカレストを中心に1,032人と、大勢が決まってからの死者数の方がはるかに多い。)。

18日には全市に戒厳令がひかれたが、市民の抵抗は収まらず、治安部隊側の発砲も続く。19日も攻防が繰り返されるが、20日になって軍が市民側につく動きが広がり、大勢は決まった。20日午後、15万人の市民がオペラハウス前の広場(現勝利広場)を埋め尽くし、ティミショアラを「ルーマニア最初の自由都市」と宣言した。 この日、Constantin Dăscălescu首相とEmil Bobu共産党中央委員会書記が市民代表らと協議するためティミショアラを訪れているが、チャウシェスク退陣など飲めない要求を突き付けられるだけに終わった。

20日夜、外国訪問から帰ったチャウシェスク大統領はティミショアラの「暴徒」と「外国勢力の陰謀」を非難するテレビ演説を行う。翌21日には支持者を動員して10万人集会をブカレストの共産党本部前で行うが、これが逆にチャウシェスク糾弾集会に変わる。翌22日正午には夫人とともにヘリコプターで共産党本部を脱出した。その直前の22日午前9時30分頃、ワシーリ・ミリャ国防大臣が執務室で自殺。秘密警察に殺害されたといううわさが軍内部に広がり、国軍のチャウシェスク離れが決定的になったとされる。

チャウシェスク逃亡後も、大統領派によるとみられる銃撃が続き、上記の通り、チャウシェスク失脚前よりも多くの死者が出ている(軍が実権を握るため、大統領派の抵抗があるとのデマを流して混乱させた、という説もある)。23日午後3時半、チャウシェスク夫妻はブカレスト北西80キロのTârgovișteで逮捕された。25日の軍事法廷で死刑判決を受け、即日処刑された。

1989年12月16日、ティミショアラのサンタマリア広場近くの街路に集まる市民。歴史的な写真だ。この日、ここで始まった集会、デモはやがて全市に拡大し、二日後(18日)には治安部隊の発砲で多数の死者が出ることになる。Photo: Adományozó/Donor: Urbán Tamás, Wikimedia Commons, (CC BY-SA 3.0)
サンタマリア広場は、改革派教会の前にある小さなスペースだ。この周辺で抗議行動は静かに始まった。ラースロー牧師の家はこの裏手にあった。
革命の主舞台となった勝利広場(英語風に言えばビクトリー広場)。撮影者の裏手(北側)がオペラハウス。遠方(南)に、道路をはさんでルーマニア正教会の大聖堂(三成聖者大聖堂)が見える。
ルーマニア正教会の大聖堂「ティミショアラ正教大聖堂」(「三成聖者大聖堂」)。1940年築、高さ96メートル。ルーマニア正教会は、正教会(ギリシャ正教、東方正教会)のルーマニアにおける組織。名前は3人の聖人(大ワシリイ、神学者グリゴリイ、金口イオアン)に捧げられたところから来る。
勝利広場の北側に立つオペラハウス。この周辺で1989年12月17日夜、多くの市民が治安部隊の銃撃に倒れた。20日にはこの広場を15万の市民が埋め尽くし、「ルーマニア最初の自由都市」が宣言された。(ちなみに、この建物の右側面に観光案内所があるのでお忘れなく。)
夜の勝利広場。激しい攻防は主に夜起こった。
市中心部南から北に、3つの広場が近接して立地する。いずれも「ティミショアラ革命」の主舞台となった。上記写真は、勝利広場の北100メートルにある自由広場(英語風に言えばリバティー広場)。
自由広場のさらに北200メートルにある統一広場(英語風に言えばユニオン広場)。

本格的な革命博物館

ブカレストにははっきりしと革命を主題にした博物館はなかったが、ティミショアラでやっと本格的なものを見ることができた。ティミショアラ革命記念博物館(正式名称Memorial Revolutiei 16-22 Decembrie 1989)だ。ティミショアラで起こった革命の過程を写真、各種物品も含めて総合的に展示している。英語の解説もあり、ルーマニア革命に関心のある人は、ブカレストで充たされなかった知的欲求をここで充たされるだろう。

場所がわかりにくい。道路からは大学のサインが出ているだけでそこに博物館があるとはわからない。小さな緑地に進んで行ってやっと博物館入口(写真)が見つかる。
私はその前を通ったのだが、気づかず、周囲をぐるぐる回ることになってしまった。近くに線路沿いの鉄条網があり、もしかして共産主義時代の刑務所でもかたどった博物館なのかと思ったが、本物のティミショアラ刑務所だった。博物館はこの裏手にあり、表通りのOituz通りの方から入る。
革命記念博物館。着くのが遅くなった。通常は午後4時で閉まるが、土曜だけ6時まで開いていて助かった。日曜は休み。私のティミショアラ滞在は実質土日だけで、あぶないところだった。
庭に、ドイツから送られたベルリンの壁の一部が展示されていた。館内の写真撮影は別途料金がかかるので、写真はここまで。ごめんなさい。

ティミショアラでは本当に革命が起こった

ティミショアラ革命記念博物館の展示を見て、ここでは89年12月、本当に革命が起こったと理解した。人々が明確には意図せずに大衆的行動の中で次第に新しい次元の行動に走り、意識も変えていく。最初はテケーシュ牧師を守ろうとする静かな抗議だった。それが次第に大規模化・過激化し、やがて「チャウシェスク打倒」「共産主義打倒」にまで行きつく。最初は恐ろしくてとてもそんなことは言えない。しかし行動の中で、人々は最初は小声で、そして次第に力強く「チャウシェスク打倒」を叫んでいく。その生々しい現場の状況が、展示の中でよく示されていた。確かにここでは「革命」が起こったのだ、と感じられた。

偶然のリーダーになった男

展示の内容を細かく再現はできないので、ティミショアラで「偶然のヒーロー」として代表者的立場にたってしまった洗剤工場労働者イオン・サブの述懐を例に出す。

16日に街頭に出てくる市民が増えていくにつれ、少なくともその夜までは、自分はどうするか難しい選択に迫られていたと彼は述懐する。そして行動に参加してからも次のようだったと言う。

「我々は完全に秩序を保って街の中に進んで行きました。我々は花壇に足を踏み込まない注意までしていました。オペラハウスの広場には大きな花壇がいくつもあります。あの12月の日、ティミショアラは暖かく雪は降ってなかった。だから上から見たら、人々が花壇を取り囲むように集まり、そこに入らないようにしていたのがわかったでしょう。」

それがやがて自動車を倒し、建物のガラスを割り、共産党本部になだれ込むよう事態にまで発展していく。まだ治安部隊の銃撃が続いていた19日のことを彼はこう述懐する。

「その日私は、同僚と話して、私に何かあったら妻と子どもよろしく頼む、とお願いしました。そう頼んでから、なぜ私はこんなにのめり込んでいるのだろう、と不思議になったのです。いや、他の人に比べて特にのめり込んでいるというわけでもない。しかし、家族をお願いする必要を感じたし、自分の考えを自由に言えると感じていました。あのとき、私はなぜあれを言い、これを行なったか明確には自分でもわからなかったのです。」

そして彼はいつの間にか、街頭の市民のリーダー的立場にもたつようになっていた。20日には、郡役所に来たコンスタンティン・ダスカレスク首相と話し合いをしに行く何人かの代表の中に入っていた。

役所には銃を構えた治安部隊がおり、強行突破するやつが居れば撃つぞ、と言っていた。すでに多くの人が銃撃で死んでおり、緊張した。しかし、やるべきことを何とかやり遂げなければという強い気持ちもあった。外の群衆から「取り込まれた」と誤解されないように、中に入った代表と外とがコミュニケーションを継続することが大切と思った。ちょっと外に戻ったとき、一人の弁護士が彼のところに近づいてきて「私も入っていいか」と聞いてきた。

「そのとき私はグループの中のリーダーになっていたのか、と気づいたのです。望んだわけでなく、偶然にいつの間にそうなってしまったのです。」

代表の中に弁護士が居てもいいと考え、弁護士を中に入れた。「集まっていた集団は均質なグループではなかった。お互い知りもしなかった。いっしょに役所内に入った代表団も、私の知らない人ばかりだった。だから私は(バルコニーに出て、そこにあった)マイクロフォンをつかんで外の人々に叫んだんです。私の名前はイオン・サブで、どこどこに住み、子どもが3人居て、洗剤工場の会計課で働いている、と。自分をさらけ出した。皆にも、秘密警察にも私がだれだかわかってしまった。しかし、外の人々は中に入った代表団を信頼する必要があったし、私たちも彼らを信頼できるようにしなければならなかったのです。」

(郡役所に入った市民代表の一人イオン・サブが外の群衆に向かって報告する様子)

そして彼はすぐ中に入り、首相に突きつけるべき要求を書き留めると、首相との話し合いに戻った。「チャウシェスクは退陣すること」「共産主義を止めること」「ラジオやテレビが起こっていることを正確に報じること」「拘束された市民を解放すること」など重要項目を読み上げた。すると、皆が注目し、首相までが彼のところに来て、話し込みはじめた。

「実に難しい時間でした。緊張にあふれていました。首相にとって私は無名人です。街頭で育った用なしの昆虫のような存在でしょう。首相は我々を蔑みながら対応していたと思います。しかし、やるしかなかった。我々は外の群衆を代表している。生きてここを出られないと思いながらやっていた。」

革命という社会現象の中で人々はどう変わっていくか、突然の行動の中で、人はどのように新しい課題を成就するのか、よくわかる。イオン・サブ氏は、革命の中、その場の勢いで重要な役割を果たしなが、革命後政治家になるのでもなく、著名人になるのでもなく、今でも一介の市民として暮らしている。