うちのベランダから富士山が見え……なかった(名古屋)

うちのベランダから富士山が見える、と思っていた(下写真参照)。しかし、これは間違いで、南アルプスの聖岳(ひじりだけ、標高3013m、距離約110キロ)だった。富士山(標高3776m、距離約160キロ)はこのやや右(ほぼ東か東北東)の方向だが、南アルプスや愛知県東部の茶臼山に隠れて見えない(後述)。

名古屋市天白区、天白川平野の河岸段丘から見た「富士山」、ではなくて南アルプスの聖岳。中央にうっすらと流麗な山体が見える。プライバシーの観点から近景はぼかしてある。(プロの方はそれでも場所を特定できるかも知れませんが、しないでね。)

洗濯物出し入れなどでベランダに出るたび、お、きょうは富士山よく見えるな、きょうは空気がくすんでいるな、などと天候を確認していた。崖っぷちの安い中古マンションだが、富士山が見える点だけは絶品、と思っていた。名古屋市天白区の天白川平野の河岸段丘あたりだ。地図を見ると、名古屋市中心部からは近くの猿投山(標高629m)に隠されるが、ちょうどこの天白区あたりは、天白渓谷・平野が東に開け、さらにその先には矢作川、阿摺川などの渓谷が続き、ちょうど富士山方向が地形的に開ける。

定説は「名古屋からは絶対見えない」

ふむふむ、満足、と思っていたが、ある日ウェブを見ると、名古屋からは富士山は見えない、という情報がたくさん出てきた。早くも1976年に地元・名古屋気象台がレーダーを使って後述の北斎「桶屋富士」にあるような富士は見えないことを証明している(「不二見原から富士山見えぬ レーダーが無情の確認」『朝日新聞』1976年3月16日夕刊)。2018年1月17日には地元テレビ局メーテレの情報番組が徹底調査し、やはり名古屋から富士山は見えないと結論づけた。この分野の権威と言うべき田代博『「富士見」の謎 一番遠くから富士山が見えるのはどこか?』(祥伝社新書、2011年)には、次のように書いてあった。

「愛知県の可視域は、知多半島中南部、渥美半島と三河湾周辺部、三河高原の一部に点在するだけです。名古屋市内には富士見地名もあり、テレビ塔から見えたという報告もありますが、絶対に見えません。」(p.98)

「絶対に見えません」と言われると、そんなはずは…の心情は高まる。だってウチからあの流麗な「富士山」が見えるのだ。近所で特に眺望が開けると思われる八事霊園の高台(名城大学キャンパスの裏側)に通ってスマホ写真撮りを始めた。

カシミール3Dでも検証

結論的には、残念ながら田代博さんのおっしゃる通りだった。私が富士山と思ったのは南アルプスの聖岳で、田代氏も駆使しているデジタル地図解析ソフト「カシミール3D」(杉本智彦氏作成。スマホ・アプリ版はスーパー地形)で調べてもそれは明白であった。田代氏の上記本には富士山が見える地域を地図化した「可視マップ全国版」が16~17ページに掲載されている。「カシミール3D」サイトにも多様な地図を使った富士山可視マップが掲載。早稲田大学の永井裕人氏は、衛星データを使って富士山標高3000 m以上の領域が見える地域の地図をウェブ上に出している。それらを見ると、名古屋市域は天白区も含めて完全に不可視領域で、愛知県では知多半島や渥美半島などまで南下しないと見えないようだ。

私が富士山と誤認していた聖岳の近景。名古屋市からとほぼ同じ角度から見ている。 大川入山(中央アルプスの1908 m峰)から撮影したという写真。名古屋市天白区からだともう少し右からの角度になるので、左の出っ張りが目立たず、より富士山的な流麗な形になる。遠いので山体上部の視野だけとなり、あたかも裾野が広い単独峰のように見える(冒頭写真参照)。Photo: Alpsdake, Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 DEED

なお、参考までに言うと、伊勢湾をはさんだ三重県では、熊野灘沿岸も含め富士山がかなりよく見え、何と和歌山県の東部地域でもある程度見えるという(以下、田代氏の上記著書参照)。同県那智勝浦町の色川富士見峠(旧小麦峠)が公式の「富士山最遠望の地」となっている(富士山から直線距離で322.9キロ)。富士山の東方では銚子ポートタワーが最遠(富士山から198キロ。地上では同じく銚子の長崎鼻の海岸が197キロで最遠)。関東では東京を始め関東平野の広い範囲で見えるが、福島県二本松市の日山が北の最遠望地になるという(299キロ)。同市の麓山(はやま)は少し短い298キロだが、こちらの方が「最北」の遠望地になるとのこと。南方では東京都八丈島の三原山(東山)の271キロが最遠望だ。

300メートル上空からでないと見えない

カシミール3Dでいろいろ試すと、名古屋地域からは、視点を地上でなく、標高300メートル程度の上空にまで上げないと富士山は見え始めないようだ。名古屋市東部丘陵地帯にある東山スカイタワー展望台の標高180メートル(地面標高80m+展望台の高さ100m)、名古屋駅前の高層ビル、ミッドランドスクエアの展望台(スカイプロムナード)の標高222メートル(地面標高2m+展望台の高さ220m)をもってしても追いつかない。

最初は手計算でやってみたのだが…

最初は手計算で概算してみたのだ。地図上で地元から富士山まで直線を引き、その間の視界をふさぎそうな山を特定する。そして、中学の時に苦しめられたサイン、コサイン、タンジェントの三角関数の考え方で、富士山までの仰角が途中の邪魔者までの仰角より大きい(高い)かどうか計算する。すると、少なくとも富士の上部は見えるという結果になった。名古屋市中心部からだと、低いが近くにある猿投山(さなげやま、629m)に隠されて南アルプスや富士山方向がよく見えないが、天白区などやや南に下がると、猿投山が外れて見通しが効く。直線上付近にある南アルプスの大無間山(2329m)は余裕でクリアするし、意外と難敵の愛知県東部の茶臼山(1415m)も何とかクリアする。行けるぞ。

と思ったのだが、事はそう簡単ではなかった。地球は丸いから、遠くに行くにつれて見かけの標高は低くなる。標高3776mの富士山は236キロ以上離れると地平線、水平線のむこうに隠れてしまう。つまり236キロ離れたところからだと富士山の見かけ上の標高は0mになってしまうということだ(注:高い所に登ってながめれば別ですよ)。大気の密度の差で光が屈折することも見えるか見えないかの計算には考慮しなければならないらしい。球面を平面に描いた地図では、直線を引いたと思ってもまっすぐでないだろう。そういうことを(おそらく)すべて計算に入れてつくりだされたカシミール3Dの可視マップや展望図の前には引き下がる他ない。確かにコンピュータがつくった展望図(眺望をシミュレーションした景観図)を見ると、実際に見える山並みとそっくりであり、そこに富士山の姿はない。(Google Earthでもある程度わかる。)

名古屋市天白区から東方の山々の景観

名古屋市の東部、天白区の八事霊園(名城大学キャンパスの後ろ側付近、標高62m)から東方向を望む。
その拡大写真。直下に天白川とその支流・植田川がつくる平地が横たわり、かなたに南アルプス方向の眺望が広がる。富士山は茶臼山と、その裏の南アルプスの山々に隠れて見えない。

北斎も見間違えていた

名古屋からの「富士山」を描いた図として、葛飾北斎(1760–1849) 「富嶽三十六景」の中の通称「桶屋富士」が有名だ(下図)。職人が巨大な桶の制作中で、その桶の円内に小さな「富士山」が隠れている。北斎も聖岳を富士山と誤解していたようだ(安井純子「江戸時代以降の文献・資料からまぼろしの富士山を検証する」『岳人』1994年5月)。

葛飾北斎の「桶屋富士」。木版画版。「富嶽三十六景 尾州不二見原」と記されている。Photo: Wikimedia Commons, public domain

この絵(通称「桶屋富士」)には「富嶽三十六景 尾州不二見原」との題名がついている。尾州は尾張国(現在の愛知県西部などの地域)の通称で、不二見原は現名古屋市中区富士見町付近と推定されている(正確な位置は不明)。前述の通り、半世紀近くも前の1976年に、名古屋気象台がレーダーを使ってこの近辺から富士山は見えないことを証明してしまった。カシミール3Dでやってもやはり、ここから富士は見えない。

富士見町から熱田神宮にかけての台地

ただ、ここからは聖岳もあまりよく見えない。高密度都市域になったためだけでなく、カシミール3Dの計算上でもほとんど見えない。近傍の猿投山に隠れ、少なくともここに描かれたような流麗な「富士山」の形には見えない。

しかし、不二見原とはどこなのか。必ずしも現在の富士見町というわけではなく、当時そこから熱田神宮の方にかけて開けていた野原全体を漠然と不二見原と呼んでいたのではないか。そう考えるとその一角から聖岳が見えることは確かだ。高密度都市になった現在は見えないが、カシミール3Dでの計算上は見える。やや高台の単なる野原で、空気も澄んでいた江戸時代だ。かなたに聖岳が小さく顔を出していただろう。

聖岳から我が天白川河岸段丘域への直線をさらに西に伸ばしていくと、熱田神宮付近に至る。熱田神宮から聖岳は、本稿冒頭写真と同じように富士山によく似た形に見えただろう。流れるように裾野が広がる流麗な形。そして十分遠いと感じさせる地平線際の小さくかすんだ山体。カシミール3Dどころか正確な地図も標高も得られなかった時代だ。これを富士山と間違うのはやむを得ず、責めたりすることなどまったくできない。

なお、北斎は、ここから見える聖岳をかなり写実的に描いた可能性もある。浮世絵というのは絵師がかいた絵をもとに職人が版画にしたものだ。版画にわずかな誤差が出る可能性はある。同じ「桶屋富士」でも、「富士山」の描き方が違っているバージョンがある。上記のウィキペディア所収のパブリックドメイン版はかなり均整のとれた富士山だ。しかし、伝統に忠実に従ったと思われるアダチ版画研究所(監修:公益財団法人アダチ伝統木版画技術保存財団)の「桶屋富士」は、頂上部がやや右に傾いた「富士」になっている。この地域から実際に見える聖岳の形に近い。

富士の見える限界域に重要な神社

昔の人たちが聖岳を富士山と誤認していたと仮定すると面白いことに気づく。熱田神宮や伊勢神宮が、富士山の見えるほぼ西の限界域に立地しているということだ。他方で、富士見の東の限界域には鹿島神宮がある。古代に富士はすさまじい噴火を続けていた。特に延暦大噴火(800年)や貞観大噴火(864~866年)など9世紀に激烈な火山活動があった。これを遠方から監視する意味からも、神々の怒りをおさめるといった宗教的意図からも、富士の見える最遠の地に重要な神社を建てた可能性はないか。

今日では、富士山が見える西端の地は上述の通り、和歌山県東部(那智勝浦町の旧小麦峠)であることがわかっている。しかし、昔の人々にとって富士が見えるポピュラーな西端、特に都から近い場所は、伊勢湾の西岸部(現三重県地域)だったろう。そこに立地する伊勢神宮の外宮からは富士山が見える(カシミール3Dの計算)。一方、東方の鹿島神宮も、その先近くに太平洋が広がるほぼ最遠望地だ。

富士、富士見は「不死」「不死身」に通じ、戦国武将は富士を霊山と仰いだとされる。徳川家康が江戸に幕府を開いたのも、富士山がよく見えるためだったという説がある。富士への景観的つながりは、富士信仰と相まって、歴史の中で意外に大きな役割を果たしていたのかも知れない。

熱田神宮は、今では名古屋の都市域内部に収まっているが、古代には、伊勢湾に突き出た半島の南端に位置していた。歴史時代を通じ周囲が干拓などで埋めつくされたが、今でも周囲より若干高い台地状の土地が南北に延び、その痕跡が確認できる。前述・北斎「桶屋富士」の場所とされる現富士見町域は、その「熱田半島」の付け根付近だ。

熱田まで南下すれば聖岳が見える

この現富士見町、そして少し南下して現「イオンモール熱田」屋上などからもくだんの疑似富士「聖岳」は見えない。近傍の猿投山にほぼ隠されてしまう。

(都市化されている地域ではなかなか眺望が開けず、勝手に企業ビルやマンションの屋上に上がって眺めるわけにもいかない。どこにでもあると思われるショッピングモールは屋上が駐車場になっている場合があり、ある程度の眺望が得られる。)

しかし、熱田神宮まで南下してくると、三角形の聖岳がよく見える(現富士見町から約4キロ真南になる)。背後には伊勢湾が入り込んでいたから、熱田神宮は、やはり「富士」が見える貴重な限界の地だったことになる(むろん現在では都市化で視認するのは難しく、カシミール3Dで確認するのみ)。熱田神宮の創建は、諸説あるものの636年。その付近には、他にも「白鳥古墳」(6世紀初頭)、「断夫山古墳」(6世紀前半)などの前方後円墳がある。後者は愛知県最大のものだ。