黒海洪水説(黒海へ行く イスタンブールから最も近い場所)

黒海を見に行った。

イスタンブールからだと、地下鉄M2の終点Hacıosmanまで行って、そこのバス停から出ているルメリフェネル(Rumelifeneri)行きのバスに乗る。終点で降りるとその先が黒海だ。片道2時間程度。ルメリフェネルは小さな漁港の村で、灯台や城壁などの観光スポットもある。そのためにわざわざ行くほどでもないが、高台から青い黒海を見ることができるのは貴重。その先のウクライナ…は見えないけれどそこまで思いをはせることができる。ちょうど、ボスポラス海峡が黒海に開けていく雄大な景観が見られる。

黒海は大洪水で海とつながった

この黒海は、湖ではなく海だ。ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を通じて地中海とつながっている。しかし、過去の一時期ここは湖で、氷河期終了にともなう海面上昇で、地中海の海水が大量に流れ込む「洪水」が起こったという説がある。アメリカの地質学者ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンが1998年に発表した学術論文は1997年。一般向けには論文が発表される前、1996年のニューヨークタイムズ記事で紹介された。単行本の邦訳は『ノアの洪水』川上紳一 監修、集英社、2003年)。似た「洪水」が20万年前の北関東でも起こったという説を私も前に紹介した

今から約8800年前のこと(当初は7600年前としていたが、2003年論文で修正された)。氷河が後退してユーラシア大陸内陸平原が乾燥してきた。黒海に流れていた河川の一部も北海などに向きを変え、黒海の水位は徐々に低下していった。一方、(氷河が溶けるため)海洋面は徐々に上昇し(氷期ピークから現在まで120メートルの上昇)、地中海からんの水がボスポラスの黒海にあふれはじめる。やがて最大でナイアガラの滝の200倍の一日50立方キロの水が300日間流れ込み、淡水湖だった旧黒海の沿岸平野を10万平方キロに渡って水没させたとする。「ノアの洪水」神話はこの記憶を原型にしている可能性も提示された。この大洪水から古黒海沿岸部に住んでいたインド・ヨーロッパ語族の拡散がはじまったと主張する人々も居る。

現在の黒海。陸に近い浅い色の部分が、8800年前の洪水で充たされたとする部分にほぼ相当。

今でも、学界で賛否両論が出て議論が続いている。洪水の規模と激しさを控えめに見積もる説、そんなものはなかったとする説、別の視点を提供する研究など、理論は多様化している。

カスピ海からの洪水があったという説

その中で注目すべきはロシアの地質学者チェパリーガ(Andrey L. Chepalyga)の反対側からの洪水理論だ。彼は黒海ばかりでなく、カスピ海などを含めたユーラシア内陸平原全体を視野に入れたスケールの大きい考察をしている。約1万6000年前(つまりそれまで論じられてきた「黒海洪水」より7000年以上前)にカスピ海などから巨大な洪水が黒海を襲ったとの理論を2003年に提示した

チェパリーガはロシア国籍だが、出身は現モルドバ共和国のドゥボッサルイで、学んだ大学も教授職をつとめた大学もオデッサ大学だから、モルドバ(ルーマニア)系、ウクライナ系かも知れない。

最終氷期のピークを過ぎた1万6000年前から1万3000年前にかけて、スカンジナビアを中心とした巨大な氷河塊が溶け始め、その浸食・堆積作用で、ユーラシア内陸大規模水系(Great Eurasian Basin System。面積最大で150万平方キロ、水量最大で65万~70万立方キロ)が形成された。その初期1万6000年前から1万5000年前にかけては、ボルガ、ドン、ドニエプルなどの大河は今の2~4倍に流量を増やし、多数の小河川の流量は20~35倍に増えた。

この結果、カスピ海は湖面を100~150メートル上昇させ、海抜50メートルに達した。あふれた淡水は地溝を伝って黒海に流れ込み、その水位を60~70 メートル上昇させた。それでも黒海の水位は更新世末(約1万年前)までに海抜マイナス20メートルにとどまったが、この間に起こった内陸平原全体での河川・湖沼面の急速な上昇(洪水)は、沿岸地域の後期旧石器時代人類に多大な影響をもたらし、移住はもちろんのこと、農耕、牧畜を開始する誘因となった、とする。

2007年にも彼はそれを補強する論文を発表している。氷河融水でつくられたユーラシア内陸の大規模水系を、アラル海からマルマラ海に至る「ユーラシア水塊のつながり」(the Cascade of Eurasian Basins)」と言い、これを「ボウルカシャ海(the Vorukashah Sea)」と呼んでいる。ボウルカシャとは、古代ペルシャ発祥のゾロアスター教で天にある聖なる海のこと。この大規模な水系全体を見すえながら、古カスピ海地点では最大で190~200メートルの水面上昇があったとする。

地中海も洪水でできた

黒海だけでなく、地中海も過去に同じような、いやむしろそれをはるかに上回る洪水で形成されたという研究もある。597万年~533万年前頃、つまり原始的な「猿人」が二足歩行を始めていた頃まで、地中海は乾燥した盆地だったが、その窪地に現ジブラルタル海峡から大量の海水が流入して現在の地中海が形成されたという(「ザンクリアン洪水」Zanclean flood説)。最大時で1キロの落差の地形をアマゾン川の1000倍の流量の海水が流れ、1日10メートルの海面上昇があったとする。「洪水」発生から数カ月~2年で「地中海盆地」は充たされ、内海と外洋がつながった。この理論は、細部はともかく、基本的には定説として認められているようだ。

597万年~533万年前、現ジブラルタル海峡付近からの巨大な洪水によって地中海が形成されるときの想像図。Image:Paubahi, Wikimedia Commons, (CC BY-SA 3.0)

まとめ

多岐に渡る議論、詳細で多様な調査結果をまとめる力はもちろん私にはない。素人まとめであることはお断りした上で、だいたいの流れを素描すれば次のようになるだろう。

いきなりぶっ飛んだ話になるが、地中海からアラル海までのユーラシア窪地は、2億年前(恐竜の時代)に存在したパンゲア大陸の折れ曲がり部分にあった内海「テチス海」が起源だ。テチス海は古地中海とも呼ばれている。1億8000万年前になると、パンゲア大陸は南北に分裂し、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸となった。大雑把に言ってローラシア大陸は、インド亜大陸抜きのユーラシア大陸+北アメリカ大陸だ。一方、ゴンドワナ大陸はアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸などの元になった大陸塊で、以後分裂していく。この中でほぼ現在のアフリカ大陸に相当する部分が、北アメリカを切り離しつつあるローラシア大陸にぶつかっていく。テチス海が狭められていき、現在見られるような、地中海からアラル海に至る内海や窪地になっていった。この窪地には気候変動と海面変動により、水が溜まったり枯れたり、海につながったり孤立したりを繰り返していただろう。

2億年前の地球の大陸配置図。これ以降、大陸が分裂し移動していく中でテチス海が地中海からアラル海に至るユーラシア内陸の窪地として残る。Image in Public Domain, Wikimedia Commons

 

そして最終的には、上記の通り、597万年~533万年前に現地中海の窪地に海水が入り込み地中海となった。そのさらに内側の黒海、カスピ海、アラル海などは、それ以降も依然として海につながったり、孤立したり、干上がったリを繰り返していたろう。

そして最終氷期ピークが約1万5000年前に終わると、氷河からの融水でユーラシア内陸窪地がかなり水浸しになった。全体的には急速ではなかったかも知れないが、地形によっては地峡決壊で急速な洪水が起こったかも知れない。黒海、カスピ海、アラル海がつながった時期もあったかも知れないし、淡水がさらに地中海にまで押し寄せたこともあったかも知れない。

しかし、氷河がほぼ溶けると、今度は乾燥がはじまる。南に流れていた川も、北海や北極海方向に流れる場合も出てくる。窪地の湖群は水面を低下させる。やがて氷河融水による海面上昇で、海水が地峡を越え、低くなった黒海その他内陸水系に押し寄せる。そして、8800年前、ついに大規模な「黒海洪水」が起こった。

黒海に行くにはまず、イスタンブールからM2の地下鉄(写真)に乗って終点のHacıosmanまで行き、そこからルメリフェネル行きのバスで終点まで行く。
写真の浜辺沿いにあるのが、ルメリフェネル行きバス(150番)の終点。すぐ前が黒海海岸になっている。
黒海を望む岬の先にルメリ灯台がある。海抜58メートルの地に立ち高さ30メートル。ボスポラス海峡をはさんで対岸のアジア側も見えるが、そちらの灯台と対になっている。1853年~1956年のクリミア戦争(ロシアの南下に対抗して英・仏・オスマン帝国などが戦う)の際に、ボスポバス海峡への出口がわかるように両灯台がつくられた。こちら側がルメリ灯台(Rumeli Feneri)、あちら側がアナドーロ灯台(Anadolu Feneri)。村の名前ルメリフェネル(Rumelifeneri)はこの灯台名から来ている。灯台は今でも使われている。
岬の突端に、オスマン時代につくられた城壁跡がある。
高台から黒海が見渡せる。見晴らし台のようなところもあるが、ほとんどが私有地・宅地になっていてあまり海岸に近づけない。
最果ての地の住居地を守るためか、飼い犬や半飼いの野犬が付近をうろついている。凶暴ではない。子犬は訪問者と遊びたがっているようだった。手前の大型犬は野犬だが、ただ黙って私の歩く後についてくる。やはり遊びたかったのかも知れないが、不気味ではある。私が私有地に入ったりしたら牙をむくのかも知れない。私有地の塀の中に居る犬たちは、激しく吠えて威嚇してくる。
ルメリフェネル村の漁港とボスポラス海峡。灯台のあたりから見下ろしている。遠方に見える橋は、2016年に完成したヤウズ・スルタン・セリム橋。海峡にかかる3橋のうち最も北(黒海寄り)にかかる橋で、全長2164メートル、8車線の道路が走る。複線の鉄道も敷かれる予定だったが、2022年1月現在まだで、橋の真ん中のレール用地が遊んでいた。
ルメリフェネル行きのバスは、途中で浜辺沿いのGaripçeの村に下りていく。そこで下車してヤウズ・スルタン・セリム橋を撮影。
岩場まで下りていくと、ボスポラス海峡が黒海に開けていく雄大な光景が見られる。