ビザンチン共和国(テッサロニキ発)がなぜないのか

 

テッサロニキ・ビザンツ博物館
ビザンツ博物館の展示。
同上。人物の描き方が型にはまっていると思うのだが。

なぜ「ビザンチン共和国」にならなかったのか

テッサロニキのビザンツ博物館に行き、なぜテッサロニキは「ビザンチン共和国」として独立しなかったのかと思った。アレクサンドロス大王のマケドニアは、その辺境の地がマケドニア共和国(2019年から「北マケドニア共和国」)として独立している。テッサロニキはビザンツ帝国の中心ではなかったが、第二首都だった。コンスタンチノープルが他文化に取り込まれてしまったのなら、この副首都ががんばればよい。

テッサロニキは「マケドニア」の中心としての民族国家形成に失敗したが、それならビザンチン共和国で行くという選択肢があったはず。

栄光の古代ギリシャは、現在のギリシャ共和国に受け継がれた。400年続いたオスマン帝国も、ケマル・アタチュルクの改革を通じて現在のトルコ共和国に引き継がれている。しかし、395年から1453年まで1000年以上続いた栄光の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にアイデンティティを寄せる国が今日の世界に存在しないのはさびしい。ビザンツ帝国は、1453年に首都コンスタンチノープルがオスマン・トルコに征服され、滅んだ。以後400年にわたってコンスタンチノープル(イスタンブールに改称)はじめ旧帝国領の多くはイスラム帝国としての歴史を歩んだ。かつてその地にあったビザンチン・キリスト教文化はイスラム文化に置き換えられ、大聖堂は破壊されるかモスクに増改築され、表層下に埋もれている。

栄えある帝国の「第二の都市」の名声をほしいままにしたテッサロニキが、ここで台頭してきてもよい。栄光のビザンチン帝国を引き継ぐ責務…。テッサロニキは、イスタンブールと異なり、今も当時と同じ東方正教系キリスト教文化圏内で、条件はある。

郷愁に留める

日本で最初の統一国家をつくった朝廷の権威が、以後長らく(明治維新を含めて)支配の正統性へのお墨付きとして利用されてきたように、ヨーロッパでこの役を果たしたのが古代ローマ帝国だった。今日に至るヨーロッパ史上で最大規模の帝国をつくったローマは、以後、支配のお墨付きを得ようとする凡百・弱小の支配者により、繰り返し歴史の舞台に引きづり出されている。そもそも、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国のメフメト2世は、「カイセリ・ルーム(ローマ皇帝)」を名乗り、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教にこの地位を認めさせている。オスマン帝国がローマの継承者ということにしたかったわけだ。

8世紀後半から9世紀にかけて現在の独仏、北イタリアなどヨーロッパの大部を支配下においたフランク王カール大帝は、800年に教皇レオ3世から「ローマ人の皇帝」の称号を授けさせた。この系列から神聖ローマ帝国(9世紀頃~1806年)が生まれ、それを継承しているとしてハプスブルク家のオーストリア帝国、プロイセンのドイツ帝国はカイザー(カエサルのドイツ語)を名乗った。かのヒトラーも彼の野望を、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ「第三帝国」と表現した。

テッサロニキ地域がビザンチンを名乗れば、トルコが「イスタンブール(コンスタンチノープル)を奪い返すつもりか」と怒るだろう。やはりローマの威光は郷愁に留めておいた方がよいのかもしれない。

ビザンチン帝国第二の都市

ローマ帝国東西分裂(395年)以前から例えば皇帝ガレリウス(在位305~311年)がテッサロニキに首都機能を置き、その遺構が現在も市内各地に残る。395年にローマ帝国が東西に分裂してからも、多くの皇族が、首都コンスタンチノープルとは別にこの第二の都市に居をかまえていた。特にビザンツ帝国の最長にして最後の王朝となる「パレオロゴス朝」の時代(1259~1453年)はそうだった。また、1204年に第4回十字軍が(エルサレムに向かうはずが何と)コンスタンティノープルを攻撃しそこにラテン帝国(1204~1261年)を立ててしまったが、その際、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスがテッサロニキを中心にテッサロニキ帝国(1224~1246年)を起こし、ビザンツ帝国の再興を目指している。

テッサロニキに残るビザンチンの遺構

ガレリウスの凱旋門(手前)とロトンダ(後方)。ローマ皇帝ガレリウス(当時は副帝)は、298年にササン朝ペルシャの首都クテシフォンを陥落させた後、テッサロニキに一連の宮殿複合施設を建設した。東方に向かう幹線路エグナティア街道に、ペルシャに対する勝利を記念して凱旋門が建てられた。それに沿って現在もエグナティア通りが走り、市のメイン通りになっている。
ロトンダは、ガレリウスの霊廟として建設されたが、その目的には使われず、キリスト教会となった。その後、オスマン朝時代にモスクになり20世紀に再びキリスト教会になった。
古代エグナティア街道のルート(赤線)。ローマからビザンチウム(後のコンスタンティノープル、イスタンブール)をつなぐ幹線道路。シルクロードをローマまでつなぐ道でもあった。これが現在でもテッサロニキの中心を貫いている。Image: Eric Gaba (Sting – fr:Sting), Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5
古代のエグナティア街道は、今でもテッサロニキの中心を貫く。テッサロニキ駅(左)前の同街道。はるか東方にビザンチウム(今のイスタンブール)、さらにシルクロードの東洋があった。
テッサロニキは、奥まった湾(テルマイコス湾)が入り込み、港としても重要だった。バルカンをはじめ東南ヨーロッパへの物資調達拠点となった。
同上。かつてはここに多くの帆船が係留された。現在、近代的な港湾施設はこの撮影者の裏手の方に集積している。
ついでに言うと、テッサロニキの西、南には、このような広大な沖積平野が広がり、豊かな農業地帯になっている。リアス式海岸の地中海北東部では、このような広い平野は貴重だ。これもテッサロニキの繁栄の条件になったと思われる。
アギア・ソフィア聖堂。8世紀末に完成。聖像否定の時代につくられたため、内部の装飾は控えめ。
パナギア・ハルケオン聖堂。「銅細工師の至聖女」の意で、1028年に創建された。街の中心とも言えるディスカスティリオン広場(中央市場の向かい)の片隅にひっそりとたたずんでいる。周囲の地面より低くなっているところに年代を感じる。なお、ここで紹介してるガレリウスの凱旋門、ロトンダ、アギア・ソフィア聖堂、このパナギア・ハルケオン聖堂、そして次の「城壁」などすべて世界遺産だ。建造物など15件で「テッサロニーキの初期キリスト教とビザンチン様式の建造物群」として1988年に登録された。
そのディスカスティリオン広場の夜の賑わい。まだクリスマスには早いが。
そのディスカスティリオン広場から南に伸びるアリストテルス通(写真)からアリストテルス広場にかけてが、テッサロニキの中心と言えるだろう。
中央市場のにぎわい。
テッサロニキの北側は丘が迫っており、その丘の上にビザンチン時代の城壁が張り巡らされている。あまり視界のいい日ではなかったが、丘の上からテルマイコス湾が見渡せる。城壁の近くまで民家が密集している。
ビザンチン時代の城壁

古代ギリシャ、アレクサンドロス、ビザンチン

ギリシャは過去の歴史から多くの恵みを得ている。他の周辺諸国が簡単に入れないでいるEUに、1981年という早い時期に加盟を認められている(当時はEC)。その後の経過を見ればわかるように、同国は経済的社会的に多くの問題を含んだ国だったが、古代ギリシャの後光がすべての障壁を取り去った。ヨーロッパの精神的支柱である民主主義は古代ギリシャに生まれたのではなかったか。そもそも「ヨーロッパ」という言葉自体ギリシャから生まれている。そのギリシャなしで「ヨーロッパの統合」だと? というわけだ。

アテネ民主制ばかりではない。ギリシャはマケドニア共和国に対して、アレクサンドロス大王の帝国もギリシャ史の一部だとクレームをつけている。その後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)についても同じことを言う権利がなくはない。

そもそも、ビザンツ帝国を中心的に担ったのはギリシャ人だった。帝国内でギリシャ語話者が多数派になると、620年には帝国の公用語もラテン語からギリシア語に変わった。ギリシャ化が進むにつれて、西ヨーロッパやルーシ(ロシアの前身)からは「ギリシア帝国」と呼ばれ、東ローマ帝国の人々自身も、当初自分たちを「ローマ人」と呼んでいたが、13世紀以降は「ギリシア人」と言うようになった

もう充分でしょ

古代アテネという至高の遺産を得たギリシャだ。もう、それくらいにしておけば、と思う。そしてなおビザンチンを主張するなら、それはテッサロニキの方なのだよ、ということは釘を刺しておきたい。(アレクサンドロスも。)