道路の真ん中を歩こう

にぎわいを渇望

いつの間にか、にぎやかな商業地区を歩くようになった。毎日の散歩だ。私は自然派で、普通は、緑多い公園や農業地帯を歩く。人混みは避け、大量の車が走る大通りなどには絶対行かない。だから、この郊外都市に住み始めても、まずは川沿いの散歩道や公園、近くの丘に足が向いた。

だが、いつの間にか商業地区に足が向いている。ある時、それに気づいて苦笑した。小商店が密集し人々が多く行きかう近隣商店街の風情ではない。自動車交通が多い幹線道路が交わるあたり。広大な駐車場がひろがり、そこに大型スーパーやドラッグストアが建つ。小規模店もその一部になっている屋外ショッピングモールのようなものだ。アメリカでは普通の商業地区だが、日本でいうところの「郊外型大規模商業施設」に近いか。

皆車で移動し、歩道に人も居ない所ばかり歩いていると、少しでもにぎやかな場所、ざわついた場所に行きたくなるらしい。いつか好んでこんなところに毎日向かっている自分に気づき苦笑したのだ。車で来て帰るだけの場所だが、少なくともそこには人が居る。そして日々姿を変える街(のようなもの)がある。おや、ここのレストランはコロナで閉まっていたが、廃業してしまったようだ、お、今度は新しい店が入ったのか、あっちの子供服洋品店は再開したようだな、いつもここで寝ていたホームレスの人はどうなったのだろう、昼間のステーキハウスまわりにこんなに車が停まっているのはだれかの誕生パーティか、などと日ごとの小さい発見がある。街の息使いが少しでも伝わってくる。

住宅街の歩道空間

郊外の住宅街は道路が広く、それに沿って青い芝生の家々が延々と続いている。塀もない。街路樹もあり決して悪い環境ではない。カリフォルニアの乾燥した青い空の下の健康なサバービア。(日本から見れば)大きな一戸建て住宅は、細かく見るとわずかな設計の違いがあって同じ家はない。なのに、皆同じように見えるのはなぜだろう。

街路は公共の空間というより、各家の庭の延長のようなものだ。芝生の庭は広いが、それが歩道にまで延長している感覚。私の部屋も庭を挟んで道路に面しているが、歩道を歩く人の話し声が聞こえると、だれだろう、と思ってブラインドの隙間から外を覗いたりする。それくらい人が通らないし、歩道も私領域だという感覚があるのだろう。

カルフォルニアの対人感覚

散歩中たまに庭に人が居るときがある。芝生水やりか車の修理か。プライバシー侵害になっては悪いと思い知らんぷりをするが、そこはさすがカリフォルニア人。「ハーイ」と声をかけてくる。こっちも明るく返すが、おいおい、せっかくプライバシーを守ってあげようとしたのに、知らんぜ。

日本の都会では、近所でも知らない人には挨拶しない。少し知っている例えば同じ団地の人でも目も合わせず「どうも」などと軽く会釈する。いちいち笑顔で挨拶していたら変な人だと思われるだけだ。ところがどっこい、ここはカリフォルニアだ。スーパーのレジでもHi, how are your today!などと明るく笑顔で声を交わしあう。東アジア人は目も合わせずカネを出したりするので誤解されるのだという。

地下鉄の対人距離

ニューヨークに住んでいた頃、対人距離の感覚が微妙に違うのを感じた。やたらハイテンションに「ハーイ」などと挨拶しない。互いに、勝手に生きてろ、という感じでむっつりしている。

人生、そう楽しいことばかりではない。こういう対人関係は私は好きだ。そう言えばロンドンの人たちこんな感じだった。

で、地下鉄に乗っているある時、そうかこれだ、と気がついた。地下鉄は、座っていて向こう側に人が居ても、にこりともしない。目が合いそうになっても知らんぷりをする。笑顔で挨拶などしたらそれこそ、変な奴だと怪しまれる。これが、ニューヨークの、大都市の対人距離感覚をつくるのだ、と「発見」した。

日頃むっつりしている日本人も、山登りで人に合えば、笑顔で「こんにちは」と言うだろう。ほとんど人に合わない世界では、たまに合うと見知らぬ人でも親しく感じる。これが富士登山のように、人が次々に行列で降りてくるような環境だったら、挨拶しなくなる。

「ザ・ストレインジ」の魅力

人間的な都市の在り方を探求したジェイン・ジェイコブズは、その古典的著作The Death and Life of Great American Citiesで、都市のこの「見知らぬモノ」「未知性」(strangers, the strange)への感性を考察している。

「大都市は町とは違う。ちょっと大きい。郊外とも違う。ちょっと高密度だ。大都市は町とも郊外とも基本的なところで異なり、定義上、見知らぬ人であふれているということがその一つだ。どんな人にとっても、大都市では知り合いより見知らぬ人の方がはるかに多い。人の集まる公共的な場だけでなく、自宅すぐ前でもそうだ。小さな地理的空間に多くの人が住むというだけで、近くに住む人同士が見知らぬ人になる。」(Jane Jacobs, The Death and Life of Great American Cities, Vintage Books, 1992, p.238)

自分たちの内輪では合わないような人、他の街からの人、異なる民族的背景をもった人たちも多い。そうした「見知らぬ人」が存在することこそ都市の本質ととらえる。「多様性をもった都市域は、見知らぬ予想外の活動や光景を生み出す。しかしこれは多様性の欠点ではなく、むしろ都市の本質、あるいはその一部なのだ。このようなことが起こること自体が、都市のひとつの使命に沿っている」とし、ハーバードの神学教授ポール・ティリッチの言に沿いながら次のように続ける。

「その本質から言って、メトロポリスは「見知らぬモノ」(the strange)という、他では旅をしなければ得られないようなものを提供する。見知らぬモノは価値観を再考させ、慣れ親しんだ伝統を相対化する。理性を究極の重要性にまで高める。…すべての全体主義的権威が見知らぬモノを国民から遠ざけようとする事実ほど、そうした作用の重要性を証明するものはない。」(同上)

道路の真ん中を歩く

暖かい隣人関係もいいが、ストレンジャーとして街を歩ける心地よさも代えがたい。見知らぬ者として居られ、見知らぬ者としての存在が完全に認められている空間。だれかの場所でなく、だれのものでもない空間に平等に普通に生きられる。そこに自由を感じるのだろう。「都市の空気は自由にする」。そんな解釈では羽仁五郎さんに叱られるか。

多くの多様な人たちが勝手に生きる。その都市の空間が人々の精神を自由にし、創造的な活動をうながす。それがリチャード・フロリダの創造的都市論の基本ではなかったか。

ある日、車道の真ん中を歩いた。すると気持ちよい。個人宅のプライバシーに侵入しないし、車と同じく街の主役になったような気がする。広い道路に車はほとんど通らない。通っても、後にエンジンの音を聞いたらわきに寄ればいい。カリフォルニアの青い空が眼前に広がり、街路樹の緑を左右に配し、広い車道をまっすぐ歩いていくのは気持ちよい。

自転車で車社会とたたかうなどとやっているから、苦しくなる。素直に車を使って暮らしていれば、ここはもっと暮らしやすいところかも知れない。