日系アメリカ人:強制収容から戦後補償へ
          岡部一明(岩波ブックレット、1991年)

目次
---------------------------本の表紙
一、四六年後の祝福
二、囲い込まれた日系人
三、公民権運動と三世の覚醒
四、日本と日系人
五、補償運動の歩み
六、日系人補償の内容
七、マイノリティ運動の中で
八、日本の戦後補償
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(抜粋:「1、四六年後の祝福」から)

 第二次大戦中、アメリカは米国市民を含む一二万人の日系人を内陸の収容所に抑留したたが、一九八八年八月一〇日、「一九八八年市民的自由法」が成立し、米国政府は日系人に謝罪するとともに、一人二万ドルの補償を実現させた。

 強制収容がよくなかったことは、多くの人が認めていた。しかし、補償については、運動の中の人たちでさえ実現は 難しいと思っていた。八〇年代は、米国経済が不振に陥った時期であり、連邦政府は大幅な財政赤字で苦しんでいた。レーガン政権の下で保守化が進み、六〇年 代公民権運動の成果が掘り崩され、アジア系移民への反発や日本の経済的進出への警戒も高まっていた。このような時期に「四〇年以上も前のこと」への個人補 償など考えにくく、否定的材料は全てそろっていた。だが、日系人補償はかちとられた。何がこれを可能にしたのだろうか。

 「アメリカ人は、自分が悪くても絶対謝らない」というのが日本人のアメリカ人論の常識である。だが、ア メリカは謝罪した。日本はどうか。内陸への収容などでなく、何百万という民間人の虐殺や、捕虜の虐待、強制連行と強制労働など、あの戦争の時の蛮行に日本 はどれだけ謝罪し、罪の償いをしたのか。絶対謝らない国民というのは本当はどこの国の人なのか、本書で考えていきたい。

 祝いの会場には収容を受けた一世、二世ばかりでなく、若い三・四世の姿も多く見えた。補償運動は実は、 収容を体験した世代よりも、その経験のない三世たちによって突き動かされてきた。その源流には一九六〇年代の公民権運動と、それによって覚醒した新しい 「アジア系アメリカ人」の運動があった。
 

(抜粋:「4、日本と日本人」から)

本物の日本

 サンフランシスコの日英両語のバイリンガル保育所の日本人の母親たちから、ある時おもしろい苦情を聞いた。日本 文化を伝えるということで「ひな祭」の行事をやってくれたのはいいが、三世の保育者たちが、身分的な段差のあるひな段はけしからんと飾らせてくれない、と 言うのだ。子供たち手製の人形をたいらに並べるだけで、あんなのひな祭じゃない、と憤慨する。実物を見せてもらったが、なるほど、素朴な人形が数個座布団 の上に並べてあるだけで、宮廷人形の絢爛さはまるでない。「文句を言ってくれ」と息まくお母さんたちの話をフムフムと聞きながら、私はニンマリと笑ってい た。彼ら、なかなかやるではないか。

 三世たちの「日本」追求は、日本人から見れば的はずれのものが多い。「三代目なのに日本文化に関心を もってくれてなかなか結構」と喜んでいた本場日本人組も、「これが日本のメロディーだ」と主張する三世作ジャズ音楽を聞いたり、キモノ風ディスコ服を見せ つけられているうちに、気を悪くしてしまう。「こんなのは日本文化ではない」「やっぱりやつらアメリカ人だ」ということになる。

 確かに彼らのつくり、回帰しようとする日本は「本物の日本」ではない。しかし、実はそれこそが本物の日 本なのかも知れない。私たちの知る、私たちのつくっている日本ではない。しかし、何も私たちのつくる日本だけが本物の日本であるという決まりはどこにもは ない。少なくとも彼らが北米の地でつくる日本ももう一つの日本であり、私たちが「本家」を任じて彼らを偽物扱いすることはできない。

 そして何よりも彼らの求める日本は、アジアの、第三世界の日本であった。この日本の中の方にこそむしろ 本物の日本の可能性が秘められているとは言えないか。ショウウィンドーの中に飾られる数十万の宮廷人形よりも、子供のつくった座布団の上のひな人形の方に こそ本当の日本文化が生きている。位階性の段差は身分制をあらわすのでよくない、というのは、なるほど単純な見解かも知れないが、このような文化の破壊力 (創造力)に私は一つの可能性をみる。

日本の反対物の日本

 「私は日系人だが、アメリカのマイノリティとして、日本の多数派日本人より、日本のマイノリティの人々に強い連帯感を感じる。」

 一九九〇年にアメリカで行なわれた日米マイノリティ会議の席上。在日朝鮮人、アイヌ民族など日本のマイ ノリティ代表をむかえた歓迎パーティで、日系三世の女性がこう発言した。通訳をしていた私が在日日本人であることを知ってか知らぬか、彼女は、私の方を きっとにらみ付けたようでもあったし、悪かったかなとはにかんだようにも見えた。

 私はうろたえもしたが、彼女のきっぱりとした口調に完全に連帯もしていた。よく言ってくれた。日本とア メリカという因縁の二大国の間で、どちらかと言えば「自分側」に近い存在だと誤解してしまう日系人から、このような明確な言葉で三下り半を突き付けられる のは爽快である。

 貿易摩擦から捕鯨問題まで、何ごとにつけアメリカにたたかれていると感じる日本にとって、日系人問題は 格好のうさばらしの場を与える。そらみろ、アメリカはひでえじゃないか、日系人を差別してるじゃないか、強制収容したではないか、と。そしてそれへの補償 が実現したことにもある種の満足に心をくすぐられる。

 だが問題のあり方はそういうものではない。アメリカの日系人差別を批判する視点は、真直ぐ日本の差別を 批判する視点につながる。アメリカの日系人差別を批判するなら、同様に、日本の在日外国人、被差別部落民、先住民俗その他マイノリティへの差別が批判され るべきである。自らの非を顧みず、アメリカが日系人を差別するのはけしからんと声を荒げる態度は見えすえている。

 日系三世たちは、かつて七〇年代のデモで日章旗を焼き払った。日本企業の日本人街への進出にも反対運動 を組んだ。中曾根発言、梶山発言と続く日本高官の米国マイノリティ差別言動にいち早く抗議の声を上げたのも日系人たちである。日本の外国人指紋押捺拒否反 対運動に対して米国側で支援のネットワークをつくったのも、在米韓国人とともに日系人たちであった。日系人たちがたどりついた「ジャパニーズ」は、額面は 日本であるが、それはおよそ今日ある日本と異なるものである。日本の反対物、日本を批判的に照らし出す日本と言ってもよい。
 

(抜粋:「五、補償運動の歩み」から)

語り出される収容体験

 「公聴会が転期(ターニング・ポイント)だった。」

 取材を続ける中で、この言葉を何度も聞いた。一九八一年九月、ワシントンで最初の公聴会が開かれて以 来、全米一〇都市で行なわれた「戦時市民転住収容に関する委員会」公聴会で、五五〇人が証言した。公聴会は、予想外の成果を上げた。それは、アメリカの一 般国民を教育だけでなく、日系人の意識を変えていく上で決定的な場となった。日系人たちは、心の底に押し殺してきた収容体験を、初めて、公聴会という公の 場で語ったのである。感情を抑え切れず、証言の途中で言葉をつまらせてしまう人が続出した。公聴会は、進むにつれて熱が入り、証言に立つ人も増えた。親が 初めて収容体験を語るのを聞く若い世代もいた。

 補償賠償実現全米連合(NCRR)は、公聴会により多くの人が参加し、収容体験者を自らの言葉で語ってもらおうとキャンペーンを強化した。ジナ・ホッタは言う。

 「私たちが二世に収容所の話をもちかけると、最初は”収容所も楽しかったよ”とか、”そこで今の妻に会 えたんだ”などと言って私たちをはぐらかすのです。しかし、公聴会が進むにつれて彼らの態度が変わりました。軽口を叩いていたいた人たちが、公聴会の証言 にたち、抑えこまれていた深い傷を語りはじめるのです。」

 「私たちは、二世に収容の体験を語ってもらうことに全力を注ぎました。多くの人は、この苦い体験を語り たがろうとはしませんでした。わかるでしょ。例えばFBIが来てたんすの中を引っかきまわす、夫が連れ去られる、家族が分断される、そういうことに何もで きず見ているだけだったことが彼らをとても深い所で傷つけていたのです。白人の委員が並んでいる公聴会で、大勢の聴衆を前に過去の傷について語るのは勇気 が必要だったのです。しかし、誰かが語りはじめると、一人ひとりと後に続き、やがて何かがふっきれたよう空気が日系社会全体に広がりました。私たちは、一 人ひとりにはたらきかけ、勇気づけサポートしました。二世に語りかけていったこの時期の活動が一番困難ではありましたが、最も重要なプロセスだったと思い ます。」
 
 

(抜粋:「7、マイノリティ運動の中で」より)

他のマイノリティとのつながり

 「日系人の運動の勝利が、今回の湾岸戦争で、政府がアラブ系アメリカ人を拘束することを難しくしたと思います。」

 ジナ・ホッタが控え目ながら誇りを込めて語る。九〇年八月のイラクのクェート侵攻以来、米国内ではアラ ブ系アメリカ人の取り締まりが強まり、FBIが一部の人々を拘束する動きも出ていた。日系人は、この動きに敏感に反応し、過去と同じ誤りを繰り返してはい けないと抗議キャンペーンを行なった。日系人への補償問題以降、米国政府は、戦時における民族マイノリティへ取り締まりに慎重にならざるを得なくなった。

 日系人補償運動は、確実に他の米国内マイノリティの運動に影響を与えている。そして同時に、日系人補償 運動は、他のマイノリティの運動から多くの影響を受けてきた。日系人の運動とその勝利は、米国マイノリティ全体の運動の流れの中で起こっている。黒人公民 権運動が日系人の覚醒に与えた影響、補償運動の中で公民権団体が寄せた支援についてはすでに述べたが、もう一つ取り上げるとすれば、インディアンの補償運 動の影響である。

 インディアン(先住アメリカ人)の運動からは、一九九〇年、「ウーンデッドニーの虐殺」への謝罪、補償 要求が起こされている。ウーンデッドニーの虐殺は、その一〇〇年前の一八八〇年、インディアン掃討戦の末期に起こった事件で、女性、子供など数百人の非戦 闘員が米国陸軍に虐殺されている。九〇年に議会に出された謝罪・補償要求の法案は日系人の場合と同額の「一人あたり二万ドルの補償」を求めている。九月に 米上院インディアン問題委員会で公聴会が開かれた。要求の実現は難しいと言われていたが、翌月、上下院が相次いで謝罪決議を挙げた。「インディアン戦争期 の最後の武力対立としてのこの事件の歴史的重要性を確認し、・・・ここに、合衆国を代表して、犠牲者と生存者の子孫及び部族社会に対し深い遺憾の意を表明 する」としている。金銭的補償は実現しなかったものの、同様の法案は、今後継続して出されていく模様である。
 


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