存在への旅

     岡部一明

焼うどん

 焼きうどんを食べる。麺や野菜や肉が、唾液に溶かされ胃に下っていく。うまい。
 この「うまい」という感覚。食物が食道を通っていく感覚。こんな感覚、宇宙の普遍的存在(神?)は体験できないだろう。なぜ私がここに居るのかわからないが、とにかく広大無辺な宇宙の一角に今存在して、こんな、おそらく非常に珍しい感覚を体験している。

 「食べる」感覚ばかりではない。私の眼腔に反映される外の景色。食堂があり、男たちが昼間からビールを飲み、開け放たれた三方の窓からはハノイの街が見 える。緑の街路樹が垂れ、秋のすがすがしい風が吹いている。私にとってはありふれた光景だが、宇宙的全体から見たら、これは実に不思議な、驚嘆すべき光景 に違いない。

 そして眼腔の内側に存在する「私」という意識。こんなところに「私」が入り込めているのはもっと不思議だ。奇跡だ。手足をもち胴をもち、肉体を借りてこ んなところに入っている「私」の体験を、宇宙の造物主でも簡単にはできないだろう。なぜ私はこんなところに居り、この豊穣な世界を体験しているのか。

記憶喪失者

 私は必死に思い出そうとしている。果てしなく広い宇宙の中で、なぜ私がここに。
 いつも、ついそこまで記憶が戻るようで戻らない。思い出しそうで思い出せない。私はどこから来たのだったか。
 何か重要な、根本的に大切なことを忘れている。それがすぐそこまで出掛かっている。が、出てこない。

 私は3次元宇宙というところに居る、と聞かされている。膨張する宇宙に無限の銀河があり、その中の特定するのも難しい一角に銀河系宇宙があり、そのまたどこだかわからない微小な一角に太陽系が存在しているという。
 私たちの地球と同じように水がある可能性のある惑星は銀河系だけで100億個あるという。そのどこかに一定のパーセンテージで知性をもった生物、あるいは生物を超えた存在が生息しているに違いない。

 地球の大気圏外にさえ出られない私が、観念するだけの宇宙に、存在している、らしい。でも違ったんじゃないか、ほらそこまで記憶がよみがえりかかっている。そんな宇宙より、もっと巨大な真実の中に私は以前生きていたのではなかったか。

 こんな重要なことを確認しないで暮らしてしまっている。どこだかわからないまま、もう63年も暮らしてきてしまった。
 存在とは何か。私たちの考えられる世界のすべて。現存する世界のすべてである「存在」。どこかに何かが存在しているな、という対象化できる確認できるひ とつの存在でなく、それがなければ何もない全体性としての「存在」。それがわからない。しかし、そんな基本的なことがわからなくて暮らしていていいのか。
 もしかしたらここは流刑地かも知れない。記憶を奪われた人々が生きる牢獄という可能性だってある。

 生まれてきてしまった。そして死んでいく。旅の者のようだ。ここがどこだったかさえ知らずに私たちは消えてなくなることになる。消えたらもう「私」は終 わりだ。歴史は終わり世界は終わり。生き残る人にとっては歴史も世界も存続し続けることは、消えていく「私」にも「想像」はできる。
 去るにしても、どこだっかくらいはわかって去りたいものだ。今、出立する空港が、アメリカにあるのか、ハノイにあるのか、そんなことは普通はわかるものだが。

 不思議と、旅に出るとこの思考に駆られる。日常の些事、あるいは緻密な人間関係から解き放たれるからだろう。まわりに、知らない民族が、知らない言語を 話して存在している。私はその中に紛れ込むが、なおその一部ではなく、客人として光景を見ている。だからか、アジアを旅するとこの問いに駆られる。ラオス の山岳地帯を夜行バスでさすらい、窓から真っ暗闇の夜空を眺め、黒い山影の間に星々が輝くのを見ながら、私は必死に存在の問いを考え続けた。

 私は、私たちは、旅の者です。いずこから来て、いずこへか去る。
 前世は何だったのか、死んだらどこに行くのか。それはとりあえずはどうでもいい。少なくとも、どこに来たのか、くらいは知りたい。私たちが執着してやまない現世。この現世がいったい何だったのか。
 そりゃ決まっているだろ。日本だよ、ここは。そうか君は世界を旅してるのか。それじゃ、まあ地球だろう。
 いや、そういうことではない。地球は太陽系にあって、太陽系は銀河系にあって、銀河系は3次元宇宙にあって、そこにあんたは存在しているんだよ、ということでもない。天文学の問題でもない。

悟り

 宗教的賢者たちは、「悟り」の境地を開いて、この果てしない煩悩に答えを出した。
 色即是空。この感性と物体に満ち満ちた世界、それが即空(普遍)なのだ。この目に見える身近なものども、人、生き物、そのおそらくは極小の世界が無限の宇宙と等価だ。極小即普遍。無限は極小の中で全体を現し、極小は徹底して突き詰めれば無限の真理に連なる。

 が、悟りほどつまらぬものはない。私たちは矛盾した幻覚の中に生きるからこそ、喜びがあり悲しみがあり、感動と落胆がある。その「色」の中で、つまり フォイエルバッハとドイツ古典哲学の言葉を使えば「感性的現実」の中で、あるいはマルクス主義の言葉で言えば「唯物的世界」、サルトル風に言えば「実存」 の中で生きるからこそ、存在のすべての価値を享受する。悟りを開いてしまった時点で私たちの人間としての、生き物としての、物的存在としての感動は消滅す る。あるいはポアンカレ予想を解いた数学者ペレルマンのように精神を崩壊させてしまうかも知れない。

 かつて放浪の詩人たちが旅に出て、同じように存在の問いに駆られた。もののあわれ、漂白、遍歴、そして無常。彼らも日常のつながりから解き放たれ、「俗世」をかたわらに垣間見ながら、普遍に迫った。
 が、彼らは「宇宙観」は経なかったろう。
 荒海や佐渡に横とう天の川。宇宙は見えたが、それは夜空であり、私たちの周辺自然の一部だった。それを見あげているこの大地の側が実は球体で、その外に 広大な宇宙が存在することなど知らなかった。だから宇宙観の中に自分を置いて考える思考はなかったろう。ビッグバン137億年の歴史も知らない。

 しかしそれでも、「月日は百代の過客にして」の時代的変遷と、日本の村と自然の、やはり広大な拡がりの中に自分を位置づけて思考したに違いない。

哲学の終点

 若いころ、この問いをずっと考えていた。そして結論が出たはずだった。哲学は死に至る病だ、と。
 突き詰めて考えていっても決して答えは出ない。敢えて言えば、「色」から、「感性的現実」から、平たく言えば、生きたいように生きるナマの人間から始め ることだけが、哲学的真理の唯一の到達点。生きられていない人間の頭の中からだけ哲学は始まる。生きる実践がすべての矛盾の解決であり、哲学の到達点だ。

 私の哲学の基本はあの頃からちっとも変わっていない。進歩もしていない。到達点なのだからその先に進みようがない。後退(つまり思弁)は常に繰り返されるが。

 トルストイはこの「人生の根本問題」を徹底的に考え抜くため、人生の晩年、家出をした。死に至る病だ。そして実際彼はすぐ旅先で高熱を出して死んでし まった。家で妻を大切にして暮らしていればよかったのだ。トルストイの行動を理解できない妻は夫を非難した。後世の人々は、この妻を、ソクラテスの妻など とともに悪妻の代表に数え上げた。

 哲学の終点に達したと考え、そこが出発点になって、あれから私は懸命にこの現実世界で生きてきたはずだが、そこで何かをつかんだか。真実をつかんだか。 世界中を旅し、人と交わり、人を愛し、子をもち、人を育て、働き、人の死に向き合い、与えられた肉体的自然を鍛え、音の宇宙に親しみ、そして一歩でも真実 に近づいたか。


色即是空

 勝手に解釈していこう。
 色とはこの現実界のこと。喜怒哀楽と欲望をもって生きる人間、生物、その対象となる現実世界。
 この世界が実は空なんですよ、無、幻覚なんです、ということだろう、まずは。世界にはもっと深い真実があって、あなたの生きてる物欲あふれた世界は真実の世界ではない、と。これがわかりやすい俗的説明で、多くの場合、そういう意味だと平板化されている。

 しかし、空とはここで、より高い真実をあらわす言葉としても語られている。俗的な世界から離れ、物欲の世界から無縁の深い真実の世界。人間の俗的日常か らは認識不可能な普遍的な真実。俗人には「空っぽ」と見えるかも知れないが、深い真実を体現した状況。山で修行して悟り開いた人、仙人のような生活をして いる人々があこがれてやまない世界。
 そう解釈すると、意味がひっくり返る。物欲のこの現実界がすなわち普遍的な真実だ、に変わる。現実から離れ、霞を食って生きている仙人や、思弁に明け暮 れる哲学者は、実は真実から最も遠いところにいる。むしろ俗世で喜怒哀楽している人の方が真実に近い。いや、そここそが真実に通じる唯一の回廊だ、という 意味になる。

 「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」(親鸞)も勝手に解釈すれば、そういうことになる。別に倫理的な意味の善悪ではない。人生のアプローチ のことだ。悪人は俗世に生きる人間。善人とは俗世を否定し真実に迫ろうとする求道者。悟りを求めて虚空のかなたに旅立った哲学者、宗教家。その努力のあま り、得てして抽象的な虚空の世界に住むことになる人々である。もちろん求道も立派な人生だ。だから彼も当然救われる。しかし、もっと確実に救われるのは俗 世の人間である。現世の喜怒哀楽から一歩もはみ出ずそこで生き抜く俗世凡人たち。そこでこそ、人生のあらゆる秘密が明かされ、真実が啓示される。


無限の宇宙

 科学は、妖怪や悪魔やお化けといった奇想天外なものを次々に排除し、信頼に足る世界像を導き出してきた。が、事実は小説よりも奇なり。科学はまた、人間 の想像も及ばなかった、壮大極まりない奇抜な世界を私たちの前に提示し続けてもいる。大地が丸く、回っている、などはほんの序の口であった。

 万物を照らし育くむ太陽は、銀河系2000億個の恒星のひとつに格下げされ、その銀河系宇宙も、137億年前のビッグバン以来膨張し続ける気の遠くなる大宇宙のけし粒のような存在にされてしまった。
 それで終わりではない。ビッグバン宇宙の先に、無限個の宇宙、マルチバースがある、別の宇宙が「あわ」のように次々沸いてくる。我々の宇宙にもビッグバ ン直後に他の宇宙と衝突した痕跡があるかも知れないと全天のマイクロ波背景放射が調べられている。次元も物理法則も異なる「あわ宇宙」が無限に存在し、そ の中には我々のコピーが暮らす並行宇宙が存在する可能性もある。
 悲鳴が出そうだ。

 一方、無限小の方向にたどって行っても結果は同じ。分子から原子、陽子、素粒子、さらにその素粒子の大もとに10の−35乗メートルの「ひも」があり、10次元や11次元の空間を伴いながら振動している。
 最近の宇宙論を聞いていると怖い。この宇宙を果てしなく遠くまで行くと、たどり着いたところがお隣さんだった、なんてことになりそうな気がする。素粒子のさらに根本の「ひも」のさらに根本にまで入っていくと、意外とそこに大宇宙が広がっていたりして。
 何でもあり、になりそうだ。

無限の存在だから確定真理がない

 空間と時間が「空」だったのか。幻覚的な基準だったか。空間と時間から出発する限り「無限」の呪縛から解放されない。空間には大きさがある。大きさがあ れば、それを果てしなく大きくしていける。どこまでも大きくして、結局、先が無限になる。ゼロからはじまり数を刻んでいく事象は必ず先に無限がある。小さ い方向に進んでも同じ。果てしない無限小の世界になる。

 時間もそうだ。過去にも未来にも無限に時間を伸ばしていける。時間は137億年前のビッグバンからはじまった・・・が、それ以前の時にも何かが起こって いただろう、とどうしても考えてしまう。今後何百億年後かに「ビッグクランチ」があって宇宙が消滅したら時間も終わる・・・が、ビッグクランチの次がある だろう。またビッグバンの繰り返しか。

 空間と時間、つまり数を刻み増える概念を最初に基本にしたことが幻覚のはじまりだったかも知れない。数を刻みはじめたとたん、先に無限が待つ。数は、私たちの身近な現実界を認識する強力なツールではあったのだが。

 無限に至る世界は真理と同居できない。真理の探究が永久に終わらなくなる。最終的、確定的な真理がない。より高次の真理が無限に現れて世界がひっくり返 る。多様性が続くだけ。多様なだけ。つまりカオス。無限とは何でもありということで、私たちが通常考える「真理」はそこにはない。それが無限の宿命。無限 はカオス。無限を数学的に?処理するとカオスになる。

 人間の回りには遠い銀河も含めて有限なものばかりがある。無数の人間も、昆虫も微生物も、膨大な数存在するが有限だ。理屈上、根気よく数えれば数が確定 できる。海水の原子数、銀河系の星の数、それを構成する原子数も気が遠くなるほど多いが、無限ではない。無限は常にその最果ての先の先、最小の果ての果て の2方向に現れる。中間には有限だけがある。

 大きさの感覚、時間の感覚、これらは危険な感覚である。無限に行き着く。真理と秩序を破壊する危険な思想。

問いを疑う流派

 存在とは何か、なぜ存在するのか。この困難な問いに、「その問い自体が間違いだ」と答える一派がある。問い自体が幻覚から来たものだとする。人は存在し ている。世界には存在しかない。人間の頭の中だけで、その対極の「無」が抽象的に考え出される。無から存在が生まれたのではなくて、存在から無(という観 念)が生み出された、とする。

 アンリ・ベルクソンは、そんな思考をめぐらした上で、なぜ人間はそういう幻覚的な問いを発するかを、人間の存在形態から客観的に説明しようとする。
 「一般的にいって、人間の仕事とは有用性を創造することである。そして仕事がなされないかぎりは「なにも」ない、すなわちひとが入手したかったものは 「なにも」ない。こうして私たちの生は空虚をうずめることで過ぎる。…私たちの思弁もまた同じようにやってみずにはいられない。…事象は空虚をうずめるも のだとする考えや、あらゆるものの欠在という意味での無は事実上そうではないにしても権利上はあらゆるものに先在するという考えが、こうして私たちのなか に根をおろす。私はこの錯覚を消散させようとこころみてきた。」(アンリ・ベルクソン 『創造的進化』(1907年)、 真方敬道訳、Wkipediaからの孫引き)
 人間は無(価値)から有(用性)をつくることで生きている。だから存在についても同じように「どうやって無から有が生まれたか」を問う。そのような幻覚的な問いを発せざるを得ない。発するように脳がプログラムされている。

脳科学から見た人間の意識

 同じように、この問いを発する人間の側の問題に、脳科学の分野から取り組んだのが前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのかー「私」の謎を解く受動意識仮 説』(筑摩書房、2004年)だ。この本は私に、宇宙論以来の認識転換への刺激を与えてくれた。要するに、人の心は多様な無意識活動の反映で、一種の幻想 だという主張。

 「実は、人の「意識」は受動的な機能に過ぎず、実は何ごとも自分で決めてはいないのではないか。心の主人のような顔をしている「意識」は、実は「無意 識」または「深層意識」の奴隷なのではないか。そんな「意識」は、自分の体験をエピソードとして記憶できることが環境適応のために有利だから、進化的に生 じたに過ぎないささやかな存在なのではないか。」というのがこの著の主張だ(続編本のプロローグでの前著紹介)。

 無意識の各種処理を記憶にしまいこむための「前処理」の役割。記憶しやすいように「エピソード」化の処理をする。そういう記憶のまとめ役があった方が進化的に有利だったので脳が心ををつくった。
 意識や心や「私」を、力強く起こってくる無意識の反映作用ととらえ、補完的な役割に位置づけている。衝撃的だが説得力がある。このような意識が不遜にも 「存在」を問うということはどういうことか。「意識」の隷属性から見て、その問いはある種の倒錯をはらんでいるということか。

 前野の「意識=無意識をエピソード記憶するための幻影作業」論は、唯物論だろう。人間の意識とは、物的感性的世界が生み出す無意識を人の脳に投影させた ものに他ならない。身体が、環境との交錯を通じて、無意識のうごめきを作り出し、それを投影して意識という幻覚が脳の中でつくられる。意識という幻覚はし たがって単なる幻覚ではなくて、物的感性的世界の強固な反映だ。

出発点に戻る

 存在の本質を問う問いは、常に、いろんなところで突き返され、矛盾を指摘されて元にもどってくる。元・・・、つまり自分の生きる感性的現実的な世界だ。 今回の私の思考では宇宙の彼方の「無限」にぶつかり跳ね返されてきた。宇宙の彼方に真理はない。ではどこにあるのか。ここだ、今、目前にあるこの街の風景 と人間たちだ。この目の前の現実から、そしてあなた、私の生きる欲求から、広大な宇宙の真理は確実に開示されていく。

 問い自体の幻覚性を、人間存在の客観からあばこうとする2人の思想家にも刺激された。力を借りてここに戻らせて頂いた。
 ここ、つまり感性的現実的世界、平たく言えば私たちの居るこの場所。ここから始める論理的正当性とは何か、とまた考えてしまうが、それはない。正当化する理屈、理論はない。あえて言えば、他でだめだからこれしかないという消去法の論理だけだ。

 だから、ここにある意味、宗教がある。宗教はやはり人間の存在にとって本質的だ。「ここから始まれ」という命令に帰依するのであって、論理的にその正しさを証明されて動くのではない。

 ただ、帰依しても、そこに「神」はつくらない。天地創造やその他の神話をつくらない。フォイエルバッハを経た私たちは、神の本質が人間であり、人間の感性的現実であることを知っている。ここに帰依する。
 帰依できないのであれば、スポーツでもやって体と精神を鍛えてくればいい。元気になるだろう。元気になって感性的現実的世界から出発できる。そういう問題か。そういう問題なのだよ。
               (2013.11)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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