市場からの革命(続)

(下記は、岡部一明『インターネット市民革命』御茶の水書房、1996年、第6章「2、企業社会の消滅」「3、市場から市民社会へ」からの抄録である。)

憲章企業

 企業は合法か。企業は労働者の心身の健康を破壊し、環境汚染を引き起こし、薬害・欠陥商品問題を生み、女性、少数者の雇用差別を行ない、脱税、ワイロ、インサイダー取り引きを行なう。その個々の行為が批判されることはあっても企業という制度自体の合法性を疑う人は少ない。しかし、現在のような企業に自然人の様な自由を認めた体制は決して永遠のものではなく、かてのアメリカにあったような、市民が企業を憲章によって規制しこれを解体する権利を復権すべきだと、グロッスマンとアダムスは言う[15]。

 例えば企業は、地域経済の中心を担う基幹企業である場合でも、たった数日前の予告でどこにでも移転してしまえる「自由」がある。企業は人びとの経済生活を深く規定し、重大な影響を与える制度になったにもかかわらず、社会からそれ相応のチェックを受けてはいない。民主社会の市民は、政治的代表者を選出することができるし、堕落した政権をとってかえることもできる。しかし、政府同様に巨大な存在である企業に、私たちはこうした主権の発動ができない。

 独立革命後のアメリカにおいて、企業は厳密に市民の統制下におかれる存在だった。企業は生存年数を限って個別に立法によって設立され、あるいは、社会に対して守るべき様々な規則を定めた「憲章」によって設立を認可された。つまり、企業とは期限を定めた一種の社会事業であり、そのための社会制度だった。運河や橋、特定の道路をつくるために例えば一〇年、二〇年の期限で「憲章企業」が設立された。例えばマリーランド州は製造業の企業に四〇年、鉱業企業に五〇年、その他企業に三〇年の企業存続期限を定め、ペンシルバニア州は製造業企業に二〇年の期限を定めた。東インド会社をはじめ、初期のイギリスの憲章企業を認可するのは国王だった。しかし独立革命を経たアメリカではこれが議会の手に渡った。

 市民と社会が企業という特権機構を例外的に認めるのであるから、企業が市民の利益を犯した場合、企業は当然にも解散させられる。「憲章を守らなかった場合、企業への罰は、罰金や単なる制裁措置にとどまらず、憲章の撤回と企業の解体にまで及んだ。市民は、悪を廃棄するのはその社会固有の権利であると信じたのである。」[16]。特に一八四〇年代、五〇年代に市民の企業解体権が頻繁に行使され、オハイオ州、ペンシルバニア州、ミシシッピ州などで多くの銀行が憲章を剥奪された。マサチューセッツ州、ニューヨーク州では、道路維持改修の不徹底を理由に道路建設企業などが解体に追い込まれた。一九世紀末に至っても、例えば一八九五年、ニューヨーク中央労働組合の訴えによりニューヨーク・スタンダード石油会社の憲章が剥奪されている。

 だが、こうした市民の企業に対する統制は、一九世紀後半の一連の司法判断によって廃棄されていく。企業に自由な契約主体とししての地位を認め、企業内での労働者の市民的自由の制限を合憲化し、民主主義を役員会内部だけに限定した。この集大成として一八八六年、連邦最高裁は企業に自然人と同じ地位としての「法人」格を認める[17]。以後、企業は、市民に統御される社会事業から、市民社会でほとんど無制限に権限を行使する私的集団となる。

 社会において巨大な権力となり、環境破壊をはじめあらゆる社会悪の根源になってきた企業は、存続を許されていいのか、今、問い直されてよい。企業は合法か。確かに、企業は歴史の一段階で役割を果たし、経済活性化に重要な貢献をしたかも知れない。しかし、現在、その社会貢献はその社会悪に対して充分大きいか。

 企業の否定が現時点で現実的かどうかは異論のあるところだろう。しかし、企業のオルタナティブが積極的に考えられてよいことは確かだ。大企業に代わり個人・小企業を中心とした起業家経済を育てていくことは、むしろこれからの時代の経済合理性に合致するかもしれない。どうしても巨大化せざるを得ない事業には憲章企業のような社会的統制の制度を導入し、規模の経済に見合った社会的責任を果たさせるのも一つの方法である。社会的責任は、単なる企業のリップ・サービスではなく、社会制度として、今日の市場原則の中に深く組み込まれなければならない。そうした方途を考える上で、「憲章企業」は刺激的な概念を提供する。

「企業奴隷制」

 企業が社会にもたらした数ある害悪の中で、その最たるものが企業内の従属労働、賃労働である。企業は環境を破壊し、雇用差別をし、数々の不正商法をしてきたが、その内部の労働者の肉体的、精神的健康を蝕んできたことの害悪は、依然としてこの制度の中心的な矛盾として残っている。

 この社会では、人びとは「自由意志で」自由を売るのだとしても、そのような形で自由を売らねば大半の人々が生きていけない社会は決して「自由と平等」の近代が求めたものではなかった。近代は賃労働において挫折している。賃金労働は「市場社会の中の自由な労働」とされながら、これを「賃金奴隷」「社畜」など奴隷制のアナロジーで語る思潮が常に存在してきた。

 かつて大西洋を奴隷船に乗せられて横断したアフリカ人たちは、一生を売られ、一回こっきりの航海を行なった。現代の私たちは、郊外と都心との短い距離を、その都度その都度、一日分の隷属を売るために輸送される。かつての奴隷船では各人が横たわれるスペースだけが与えられた。私たちは、短距離輸送のためではあるが、人一人立てる空間しか与えられていない。土気色の顔をした人びとが、身動きのとれない混雑の中で、天井からたれた週刊誌の広告をひたすら見続けている。

 「自由な契約」によって自己を売ることに何か新しい意味を見いだそうとする人は、征服された異民族が、殺されない代わりに征服者に隷属する「選択」を与えられていることで奴隷制を正当化した人びとと同等の偽善をはたらく。人は、決して自らの完全な「自由意志」で自らを隷属化させることはない。野生の動物さえも家畜化されることには命をかけた抵抗を行なう。人は、自らの生存が不安にさらされる時、生きていくための、多くの場合残された唯一の選択として他者への隷属を選ぶ。賃金奴隷は、かつての借金奴隷が自己を奴隷化する以外に借金を返済できなかったと同じ強制の下で自らを奴隷化する。

未完の近代

 近代の企業奴隷制は、巧妙な仕組みではあるが、隠されたスキャンダルではない。労働者はだれでも、賃金という対価と引き換えにこの隷属を選んだことを知っている。その隷属が、報酬と引き換えられる苦役であることを知っている。人々の幻想だけが、幸福にもこの世界を奴隷制とは無縁のものと思わせている。

 賃労働を基礎とした資本主義的生産様式は、市場経済の敗北した世界である。未熟な市場が覇権を握ることに失敗した。あるいは賃労働は、市場経済の現発展段階に適応した奴隷労働である。ある程度までに発展した市場経済が、奴隷主が自ら奴隷を養う手間を省いてくれる。市場経済が自動的に労働力を再生してくれるなら(労働者が「自由な」消費生活を通じて自分で自己を再生産してくれるなら)、奴隷主にとってこんなありがたいことはない。賃労働は、近代に生まれた新しい「自由な」労働形態であるより、近代に巧妙に侵入した従属労働遺制である[18]。

 マルクス経済学を含めてこれまでの経済学は、近代社会の解剖をこの不完全な近代社会を対象に行ってきた。一九世紀米国南部の奴隷制の分析が決して典型的な近代社会の分析ではないように、賃労働の解剖は典型的な近代社会の分析ではない。近代社会は矛盾をはらんだ未完の過程としてのみ存在する。私たちは依然として市民革命前夜に生き、アンシャンレジームの中から、単なる理念でしかない市民社会を観想している。

 近代初期において、雇用は対等な個人間の自由な契約と考えられた。自由な契約によって行なわれる以上、少年労働も長時間・深夜労働も干渉すべきではなく、採用と解雇の自由が経済状況に従っていかように行使されてかまわず、労働者が職務上の事故を起せば、過失責任の原則から労働者個人が責任を問われ、当然、補償などはなかった。まして労働者組合の結成やストライキなどは、「自由で平等」な契約関係を力の威圧によって破壊するものとして重罪に値した。

 二〇世紀に入り、近代的労働法は、雇用労働が「平等な個人間の自由な契約」であるとの認識を捨て、従属労働であることを認定した。自由と平等の市民社会が浸透しない世界であるが故に、少年労働の禁止、最低労働時間、最低賃金をはじめ「自由な契約」に制限を加え、労働者の側に単なる民法的契約主体の立場からは決して導き出されない特別の権利(団結権、争議権、ストライキ権など)を認めたのである。
 一九世紀は奴隷制を廃止し、賃金奴隷制を温存した。二〇世紀は賃金奴隷制を改善して市民社会との妥協をはかった。

 奴隷制が経済の必要にあわなくなって初めて廃止されたように、企業奴隷制も経済条件がそれを乗り越えた時にしか廃棄されない。しかし、廃棄される時は、かつて奴隷制が廃棄された時と同じ理由「人道への罪」をもって廃棄される。隷属は人道に対する罪であり、犯罪は法によって禁じられなければならない。

一つの工場のように

 社会主義者たちは社会を「一つの工場のように」計画化しようとした。なるほど工場には市場の無計画性はなく、全体が整然と組織され効率的な生産が行なわれているように見える。それを「公有化」し、さらに社会全体も一つの工場にすれば、社会主義が生まれると思った。

 だが、この「効率的な」システムこそとてつもなく無駄の多いシステムだった。必要なものは生産されず、要らないものがいつまでも生産されて在庫がたまった。人間の欲求とその生活をあらゆる細部にわたって予知するのは、どのような巨大なコンピュータによっても不可能である。人間の生活(実践)は、常に既存の予測を超えて新しい世界をつくりだす。これを無前提で認め人間に「自由」を認めながら、事後的な調整でコントロールしようとしたのが市場である。これに対し、社会主義はあらかじめ「正しい計画」という神が存在しうると考えた。神の意志が存在しそれを人間が正しく認識できるのなら工場でもよかっただろう。だが人間は、自分の中に存在する神をあらかじめ認識することはできない。

 工場はつくられた時点で効率的であってもすぐ古くなり、外的諸条件にあわなくなる。あわなくなっても容易に変更ができない。計画経済は、革新を不断に内部に取り込めず、最後に総崩れする以外に根本的な調整機能をもたなかった。「現存社会主義」は正しくもそのようにして崩壊し、調整過程に入っている。

 工場には常に「神」が居た。つまり、頂点に常に「正しい路線」が存在しなければならず、無誤謬の政府、党、指導者が君臨しなければならなかった。そしてそれは不可能だから、裏面で常に抗争が行なわれ、ツアーリの弾圧を上まわる粛正が行なわれた。

人間の本質への謙虚さ

 市場は、人間は自分自身を知らないという謙虚な前提から出発する。あらかじめ社会のすべて、人間の欲求のすべてを理解しているという傲慢な仮定からは出発しない。人間はまず自分の求めることを極限まで自由に行なう中から、事後的に自分を知る。人は自由が実現されている限りにおいて自己を実現し、その限りでの最大限の自己を知る。

 だから市場にとって自由は根本的である。あらゆる人間があらゆる場で、最大限自由に物事を行なうことから、最良のものが生まれる。これが自由だと社会に規定される自由は自由でないことをこのシステムはよく知っている。自由は常に秩序を越え、機軸を転倒し、新しい価値を生み出す予測不能の力であることを知っている。

 したがってこのシステムは分権的である。あらゆる個別単位が自由に動いてなければならない。決して与えられた権威から出発せず、世界を極めつくした絶対者はおらず、中央からすべてが制御されることはない。アナーキーとも言える分権制が広がり、各所で無限に多様な企図が試みられる。

 しかし、なおかつ市場は単なる拡散したシステムではない。相互に関連なく勝手に生産し暮らす人びとの集まりではない。逆だ。需要と供給の原則に基づき活発な交換が行なわれるのが市場であって、むしろ、この激しく交流する経済の中に、なおかつ分権と各単位の自由を最大限保証するのシステムが市場である。

 交換の中で、人びとは単なる「私利」だけに導かれるのではない。例えば、盗賊が他者のモノを強奪する時、あるいは国家が侵略で異なる国の人びとを殺害する時、そこではたらくのも一方的な「私利」だが、市場交換の中での「私利」はこれと同じではない。市場の理論家、アダム・スミスが何よりも倫理学者であり「共感の原理」を説いていた(『道徳情操論』)のは単なる偶然ではない。交換の中で人びとは他の人間のことも考えている。他者はもはや殺しても強奪してもいい物体ではない。交換は自己の私利と相手の私利との間の取り引きゲームである。できれば相手をだまして高く売りつけようとするかも知れないが、しかし少なくともそこで、同じ様に私利を欲している相手の存在を考えざるを得ない。自分の欲する価値と、相手の欲する価値を共に考え、それをつきあわせ、摺りあわせるプロセスの中で価格が決定する。どのような形であれ、他者の思惑を考えに入れるから交換がおこり、そうでなければ強奪と殺人がおこる。つまりここで市場は、「自由と平等」だけでなく「博愛」の端緒さえも提示している。

市場から市民社会へ

 「自由と平等」の市民社会は、市場が人びとの観念の中に構想させた社会像である。市場において人びとは、純粋にモノの使用価値に向き合って交換する。ここで対面する他者は身分関係にしばられたあれこれの属性をもった他者ではなく、モノを所有し処分する者として平等同等な他者である。市場では、何人も交換を強要されない。選択し拒否する自由がなければ市場は成立しない。

 交換の中で、人びとは、互いに自立した自由な人間として交わることを学んだ。それは、個が覚醒する以前の共同体的関係とも、身分制の中の抑圧された関係とも異なる新しい人間の関係だった。立ち上がる市場が、人びとの間に新しい理念としての市民社会理念を育てるが、それはあくまで理念にとどまり、現実の社会に完全に実現されることはなかった。

 そして市場はまた、公共の理念の誕生の地であった。市場が私利追求によってだけ成り立つというのは後世の経済学者の創作である。かつて市場は、他のどのような場にも増して公共の場であり、人びとはそこに集い、語らい、曲芸に興じ、異国の産物に触れ、市開催の秩序を語り、都市の政治を行なった。そこは、人びとが自由、平等に交わり精神が解放される場であり、芸術家は好んでこの活気ある空間をキャンバスに描いた。

 「公共」は、「市場」に対立するどころかその基礎である。市場は、殺し合い、盗み合う「競争」とは別物であり、発達した公共の秩序と強い市民精神を基礎にしてのみ成立する。ここから政治が、民主主義が、自治体が、非営利団体が、つまり市民社会全体が萌芽した。

 古代ギリシャ・ローマにおいて、市は、市民の政治の中心であるアゴラやフォーラムと呼ばれる広場で開催されたし、中世ヨーロッパ中世自治都市の多くは市場の広場を中心に建設された。「欠くべからざる公務の中でも第一に必要とされるのは、市場の管理である。」とアリストテレスは言っている。「そのためには営業を監督し、治安を維持する役所がなければならない。なぜならほとんどすべての国家は、互いにモノを買ったり売ったりせざるを得ないからである。それによって各人が必要な財を得るしかないからである。このことは自給自足(経済)の欠くべからざる前提であり、われわれが統一的な共同体を形成する場合の目的だといっていいかもしれない。」[21]。

 市場は、そのような売買を行なう場を公共によって提供されることなしには存在しない。市の規則が、同一の度量衡や通貨が定められないことには、競争する条件が与えられなかった。一〇〇メートル競走でさえ、安定した大地と自由に走れる空間が与えられ、号砲を合い図に一斉に出発、など共通のルールなしには成立せず、それらは通常、競技者以外から公共的に与えられる。つまり、公共は市場(競争)の不可欠の前提であった。市場から公共の思想が生まれ、公共は市場活性化の基礎を提供した。市場と公共はもともと一つのものであり、ある意味で、市民社会のふたつの側面である。

 今日、市場は特定の空間から離れ社会全体に拡大したが、そこで人びとは市場を制御する崇高な使命からも切り離された。企業に侵蝕された市場の中で、人びとは雇われた労働者か、消費者としてだけシステムにかかわる。彼らはこの市場に愛着を感じず、あらゆる悪罵を投げ、これを打倒しようとする革命思想さえ生み出した。しかし、市民社会は市場を奪い返さない限り自らを完成させることがない。

(出典・引用)


15 - Richard L. Grossman & Frank T. Adams, *Taking Care of Business: Citizenship and the Charter of Incorporation*, 1993.
16 - *Ibid.*, p.10.
17 - Santa Clara County v. Southern Pacific Railroad, 1886.
18 - 岡部一明『多民族社会の到来』御茶の水書房、第四章参照。
19 - ケネス・M・スタンプ『アメリカ南部の奴隷制』疋田三良訳、六八、八〇、八四頁。
20 - 岡部一明「失業したらビジネス起こそう」『社会新報』一九九四年一一月八日。
21 - アリストテレス『政治学』、ゲルト・ハルダッハ、ユルゲン・シリング『市場の書』(石井和彦訳)三四頁による。
22 - Mark Stencel, "The Growing Influence of Boycotts", *Editorial Research Reports*, January 4, 1991.
23 - Center for Economic Priority, *Shopping for a Better World*.
24 - 例えば Paul Hawken, *The Ecology of Commerce*, 1993.



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