黒船論を超える

  (岡部一明『サンフランシスコ発 ―社会変革NPO』御茶の水書房の「あとがき」より)

 アメリカと日本は歴史的文化的背景がまったく違うので、そのまま学ぶことはできない。− 最後に、本を出すごとに必ず言われるこの論点について、潜越ながら、あらかじめ私の考えを述べておきたいと思います。

 私たちは根本的に異なる文化からこそ学べるのではないでしょうか。似た文化からは真似ること、前例を見つけられるだけ、では。魂をゆすぶられ自分が変わ るような「学ぶ」体験を得られるのは常に異なるものとの交流の中からだと思います。学ぶということは常に異なることから学ぶことです。

 自分と全く異なるものに触れた時、「参考にならない」と心を閉ざすか、興奮してくらいつくかはその人、その民族の活力の度合を示すように思います。常に 自分を変革し前に一歩踏み出そうと躍動している精神には、全世界のあらゆる根本的に異なるものが刺激的な学ぶ対象として現れます。本書をここまで読んで来 られた方々もそういう人に違いありません。あなたのために本書を書きました。

 異なるものに触れて一方的に崇拝したり、逆に「学ぶものはない」とつっぱるのは、異文化コミュニケーションでよく見られる初歩的な不適応症状です。日本 の近代史は、大げさに思想史のレベルから解きあかさなくとも、そのような不適応症候群の典型事例として解析されると思います。異なるものへの一方的崇拝も 困りますが、かと言ってそれへの反発で「もはや欧米に学ぶものはない」と言い放ってみても何も根本的解決にはなりません。むしろ、そう言った時にこの国の 最も破壊的な堕落がはじまったことはこの百数十年の歴史が幾度となく示しました。コミュニケーション不適応の解決は、はやり恥をかきかき試行錯誤コミュニ ケーションを続けていくこと以外ありません。そしてそれが、多文化・多民族化を深める現代、人類が等しく負っている課題です。

 おそらくこの点ほど、国内と国外の評価が別れる分野はないと思います。日本の人はだいたい、日本は「外圧」に弱く、いつも「黒船」が来て、「翻訳文化」 ばかりの国だと考えています。しかし外の人は日本ほど自分のやり方や観念に固執し、外のものを受け付けない国はない、と見ています。(翻訳についてもユネ スコ統計を見れば明らかですが、日本の人口あたり翻訳出版点数は、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、デンマーク、スイス、ス エーデンその他ほとんどのOECD加盟諸国より少ないのです。例えば総務庁『国際統計要覧』参照。)

 NPOに関しても最近は「もはやアメリカに学ぶ段階ではない」と言われてばかりです。しかし、当初の「とにかく導入」の段階が過ぎてからこそ本当の学 び、学びあいの時代がはじまるのではないでしょうか。「学ぶ」というのは、最初だけしかたなく?やるが、あとは忘れるべきもの、ということではないはずで す。(「とにかく導入」のレベルでも、実は重要なことはまだちっとも伝達されていない、ということも私は本書で示したかったわけですが。)

 日本の変革はいつも外からの影響、と自嘲的に言う風潮も日本では一般的です。が、アメリカはイギリスに対する独立戦争(一七七六−八一年)をフランスと 組んで(フランス軍を米国内に招き入れて)戦っています。フランス革命(一七八九年)も詳細に調べれば、この新大陸での革命と、さらにジュネーブ革命(一 七八二年)、オランダの革命、アイルランド農民の抵抗運動、ロンドンの民衆暴動(一七八〇年)、ベルギー革命(一七八七年から)など当時の全ヨーロッパ的 革命情勢を背景に生まれています。ベトナムの強力な抵抗がアメリカ国内に反戦運動を生み、モザンビーク、アンゴラ、東チモールなどの植民地独立が本国ポル トガルに「リスボンの春」(一九七六年)をもたらしました。現在のアメリカには年間一〇〇万人近い主に第三世界からの移民が入り、彼ら自身が米国内で多様 な運動を展開しています。六〇年代の全世界的な学生運動、七〇年代の反原発運動、現在の国際的な環境運動……国際化を深める市民社会は常に緊密な相互影響 のもとで動き、連鎖的に変革していっています。これが今日の世界の一般現象です。が、日本周辺だけではこれが「外圧」、「黒船」となり、「翻訳文化」など 特別の言葉で語られます。そういう言葉が存在する。外からの影響をそう識別する。識別したい。識別できる。「外からの影響」がそれとして識別できる程度に まだ例外的であり特別な現象である、というのが実は事の真相であって、「黒船」問題の核心はむしろそちらにあります。黒船は三〇〇年来なかったからこそ黒 船になったのです。毎日黒船が多数訪れ、我らが御朱印船も(日本製品を大量に積んで?)日々諸外国に出航しているならば、それは単なる「船」です。

 文化と風土が変わるところ・「国際」は変革の源泉です。世界に異なる文化・社会があるからこそ、このカオスと揺らぎを源に世界の変革が生まれてきます。 世界のこの本質的な推進力を無視して「外からの影響を排して土着の枠組から」と考えるのは幻想です。頭の体操、もしくは形而上学です。土着的なものは国際 的であり、国際的なものは常に土着的なものとして発現する……。地球に生命が生まれたのさえ、宇宙からの隕石がもたらしたアミノ酸だったらしい、という説 が出ています。おもしろいではないですか。宇宙と交信する私たちの開かれた系からこそ内在的な変革は生まれるのです。

 また視点を変えると、日本とアメリカほど文化的社会的土壌が似た国はない、ということも言えます。

 共に腐朽するくらい資本主義が発達した国であり、カネや株その他概念を同じ程度に理解し、細かくは違っても一応民主主義法体系をもち、技術・産業のレベ ルも似通っています。だから実際、アメリカのものをそっくり日本に持ってきて即成功したというケースが多すぎて、実はその方が問題なのです。コンピュータ からインターネット、ファーストフッドから郊外型のファミリーレストラン、自動車から人工衛星まですべてそうです。これほど「日本的風土」にそぐわないも のはないと極論されたフェミニズム運動でさえ、大阪府知事を実質退職に追い込む程度には日本社会に根づきました。生協運動などは日本の方が数倍巨大になり ました。NPOなどもあっと言う間に伝播されていくことは目に見えています。もちろん逆も真なりで、日本で成功したものをアメリカにもってくればかなりの 程度そっくりうまくいきます。テレビゲーム、アニメ、ポケモン、タマゴッチ、ゴレンジャー(パワーレンジャー)、ゴジラ、水着型バカ騒ぎTVショー、カラ オケ、スシ、即席ラーメン、空手、ジャストインタイム・システム、カンバン・システム、野茂、佐々木……。

 例えば、環境に調和したエコロジカルな生活を残す第三世界や先住民族の世界こそ、より根本的に異なる社会であり、むしろこうしたところから私たちは膨大 に学ぶことがあると思います。アメリカはむしろ簡単に「真似」できてしまうことが問題で、本当に学べるかどうか疑うことの多い社会です。簡単に前例が得ら れても、私たちに心高ぶる感動や変革をもたらしません。結局私たちは自分たちが変わりたい、少しでも高まりたいから他に向かうのではないでしょうか。そう やって自己を向上させようとする精神こそが偉大です。他から学ぶこと、学べることが人間にとって最高の美徳でした。学ばれる人より学ぶ人の方がはるかに偉 大です。

 それで本書は、我々とよく似たこのアメリカ社会を紹介するにあたり、敢えてより根本的に異なることにこそ目を向け、どうだ、これでもか、と問題提起を試 みました。前例やマニュアルも時に有用ですが、もっと重要なものもあります。明日から使える便利な「アンチョコ」もあるかも知れませんが、ちょっとすぐに は真似られない「根本的に異なるもの」をどれだけ出せているか、その観点からこそ本書に厳しいご批判が頂ければ幸いです。


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