外国人と奴隷制
    岡部一明(『多民族社会の到来』御茶の水書房、1990年、第4章 )
 

○古代ローマ・ギリシャ

 奴隷とは外国人である。例えば、奴隷制社会の典型とされるかの古代ローマ帝国において、奴隷は常に征服戦争で調達される外国人(属州民)であった。レヴィー=ブリュールは『西洋古代の奴隷制』[ 1]の中で次のように言う。

 「古代ローマ法における奴隷制に関する知識を提供するすべての記録から、最も確実に引き出せそうな見解は、奴隷制とは、奴隷と外国人との二つの概念が混在しているという意味で、当時における本質的に国際的レベルの身分制度だということである。いいかえれば、この時代の奴隷とは権利の欠如した外国人以外の何ものでもない。・・・初期のローマの奴隷制が国際レベルの制度であると言明することは、奴隷制がローマ人の間には存在しないと言っていることであり、奴隷制がローマ人の間には存在しないと言っていることであり、再度繰り返すならば、奴隷と外国人との両概念が混じり合っているということである。この命題を、定理ふうに、定言命題の形と換位命題の形とで表現することができる。(一)あらゆる奴隷は外国人である。(二)あらゆる外国人は奴隷である。」(二一五頁)[ 2]。

 ローマ帝国は、異民族征服によって領土を拡大する過程で、シリア人、ユダヤ人、ギリシャ人、エジプト人、ガリア人、ダキア人、トラキア人などを奴隷市場を通じて奴隷制に取り込んでいった。スパルタクスの奴隷反乱(前七三年)は、その解放の戦略として出身地への「祖国復帰」という方針を出し、アルプス越えをめざしている[ 3]。国際的秩序の形成が未だ脆弱な時代には、「単に人類に属しているという事実のみから特定の諸権利を有しその人格を認められ」るという観念は発達しておらず、ローマ共同体成員に市民権が与えられたのに対し、他の共同体に属する者は人間ではなく「誰もが好きなように取得したり、使用したりできる存在、つまり殺しても罰せられないアウトロー」であり、せいぜい「動物を殺すかわりに飼育しようと考えるのとちょうど同様に、経済事情を考慮してその労働力を利用する」程度であった(前記『西洋古代の奴隷制』、二二八―二二九頁)。

 古代ギリシャの奴隷制についても同様のことが言える。

 「奴隷の過半数は外国人であったという一般的印象が明かに存在している。ある意味では、奴隷はみな他国人であった。いい換えれば、アテネ人がアテネにおいて、また、コリント人がコリントにおいて奴隷の状態にされたままではけっしていなかった、というのが・・・通則であった。 ・・・すなわち、(奴隷の)過半数は全然ギリシャ人でもなくて、ギリシャ世界の外部に居住する諸種族出身の男女であった」(八四頁)。例えば、アッティカ地方のラウリオン銀鉱山周辺にはトラキア人奴隷が集積し、その数は小さなギリシャ都市国家の人口を上回るほどであったという。こうした状況から「一部のギリシャ人が奴隷を異国人(バルバロイ)と同一視するようになった」(八四頁)のである。

 その他の古代社会でも同様である。例えばパピルス文書によると、アレクサンドリアには同国民を奴隷にしてはならないとの規定があった。ユダヤの法は、奴隷制は外国人のみに適用されるとしていたし、タキトゥスやカエサルなどの史料によれば古代ゲルマン社会でも同様の慣行が見られた(二二三頁)。
 

○ヨーロッパ中世

 中世のヨーロッパでも、この内外人の区別による奴隷制が貫かれたが、区分の基準として民族に変わって世界宗教たるキリスト教が登場する。「国家は無限に細分された。しかしながら、そのうえに巨大な人間集団を包含する一個の新しい国、すなわち、キリスト教徒の国 civitas christiana が生まれた。そこでは全成員が精神的にただ一つの国に属していたのである。そこには平和はまったくみられなかった。しかしながら、教会法およびより根本的には宗教的良心は、キリストの前に敗者と勝者が兄弟である場合には勝者が敗者を奴隷とすることをけっして認めなかった。ここにわれわれはキリスト教がやや迂遠ながらも人間の自由の進歩にたいして、さらにまたおそらく社会構造全般にたいして与えた最も強い作用を認めるのである。キリスト教は奴隷解放を大いに奨励したが、奴隷制を禁じなかった。キリスト教は異教徒や非キリスト教徒を奴隷とすることを承認したばかりでなく、真のキリスト教会を追放された者と考えられたカトリックの離教者をも奴隷とすることを承認したのである。」(三一〇頁)。

 ただし、このキリスト教徒か否かによる俊別の原理は完全には貫かれず、例えばサクソン人(ゲルマン系のブリテン島征服者)は先住ケルト人との戦争によって多くの奴隷を得たし、ウェールズ人(Weath)という言葉は奴隷を意味した(三一一頁)。奴隷(Slave)とスラブ人(Slav)という言葉には直接的な関連があるが、これは中世ヨーロッパの奴隷の多くがエルベ川やボヘミアの森以東のスラブ人世界から供給されていたことによる。一四世紀から一五世紀にかけて、南東欧・ロシアのスラブ人奴隷がクレタ島を経てヴェネチア植民地、エジプト、南フランス、東スペインなどに移送、使役された。ウォラーステインはこの事実を、奴隷が外的な経済から供給されるという命題を証明するものとして示している[ 4]。
 

○近代黒人奴隷制

  米国南部の奴隷制では、周知のように、アフリカから強制的に連れて来られた黒人が奴隷とされた。先住民(インディアン)が、奴隷に適さなかったのは、農耕労働に慣れていなかったなどの理由の他、土着の民として、たとえ奴隷化しても、慣れ親しんだ環境の中に容易に逃亡してしまうという事情があった。例えば次の通りである。

 「南部の土地所有者に必要な労働力をまかなう方法として、インディアンの奴隷化は十分な、あるいは満足できるものとは決してならなかった。文化的要因から、インディアンはプランテーション体制への順応が困難であった。黒人とは違って、インディアン奴隷の場合には勝手を知った森林の小道づたいに仲間の下へ脱出することも比較的容易であった」[ 5]。
 あるいは「おそらく、残っている原住民を使うとして、その逃亡を阻止するのに要すると思われるコストに比べれば、アフリカからの奴隷輸送コストの方が安上がりだった」[ 6]

 奴隷貿易は、一九世紀初頭、アフリカがイギリスを初めヨーロッパ列強の植民地的な経済圏に編入されるに至り停止される。西アフリカでのプランテーションが始まる一方、スタンレー、リビングストンらの奥地の探検が進む。イギリスは当時成長し始めていた国内石鹸工業の原料・パーム・オイルを西アフリカから輸入しはじめる。その額は一八三〇代で年二〇〇万ドル、一八六〇年代で六〇〇万ドルに達した[ 7]。アフリカはヨーロッパ世界経済の内部に組み込まれることにより、奴隷の供給源としての役割を停止する。奴隷はあくまで外部の経済から一方的に奪ってこれるものでなければ経済的意味がなかった。

 奴隷制の前提、例えば奴隷を生産点にしっかりとつなぎ止めることを実現するには、奴隷となる人間が、その土地では自由に生きられないよそ者であることが必要だった。周りの自然・社会環境全体が彼の慣れ親しんだ生活の場であっては、奴隷にとどめておくことはできない。外国人は、新たな地で自立的に生きる能力を一定程度奪われる人間集団である。その土地の言葉が話せない。自然、習慣、行動様式、すべてに不慣れである。彼らは生活の全般を補助されることが必要となり、その補助(奴隷への生活資料給付等)が隷属とともに与えられるとしても、それを拒否するのが難しい。また、多くの場合、外国人は身体的特徴も異なり、独自な言語・行動様式などとも相まって、土着民から容易に識別される。米国南部の奴隷制では、初期において白人の奴隷もいたが、逃亡すれば自由人と区別不可能であり、奴隷所有者には都合の悪いものであった。黒人という人種と隷属が明確に結合された点に南部奴隷制の堅固さの秘密が横たわっていた。
 

○賃労働者・農奴

 ここで横道にそれておけば、奴隷が外国人であり、国境を越える支配から発生するのに対し、賃労働者は基本的に「国内的」に発生する。それは少なくとも消費の部面において「自由な個人」として現れ、自らの「自由」によって明日への労働への自己再生産=消費活動を行なう。土着的な人間は、自立的にその共同体内部で生活していくことができ、したがって雇用者に丸がかえに養われなくとも、適当な資力さえ得れば自己を再生産していける。

 資本主義のそもそもの発生の過程の中に、賃労働者の国内的生成の事実は刻印されいる。イギリス、オランダ、フランスなど最も早期に資本主義中枢たる地位にたどりついた社会では、その発展の初期(一五―一八世紀中ごろ)、いずれも局地的市場圏を基礎にした農村工業の台頭があり、その過程で近代的賃労働者が形成された。資本主義は、決して遠隔地貿易に基づいた既存の特権的商業資本から生まれたのでなく、地域的経済の中から自生したのである。大塚によれば次の通りである。

 「毛織物工業は、この国(訳注:イギリス)では早くも一三世紀のうちに「農村」地域へ移動しはじめ、この趨勢は一五世紀後半のテューダー絶対王政成立のころにはすでに決定的となり、一六世紀の半頃、つまり「マニュファクチャー期」の開始期にもなると、もはや逆に「都市工業」を圧倒しはじめる。さらに市民革命(いわゆるピュウリタン革命と名誉革命)を経て一八世紀に入ると、一方では重要工業はほとんどすべて農村地域で行われ、都市ではむしろ商品取引の拠点にすぎないというような状態に達するとともに、他方では、すでにそうした農村工業の凝集点として各地に現れつつあった、おびただしい数のいわゆる「茸都市」mushroom town −亡びさった「中世都市」とはおよそ相貌をことにしたいわば萌芽状態にある「近代都市」−の中からマンチェスター、バーミンガムなどの新興工業都市が姿を現しはじめ、こうして工業が再び都市に集中されるという傾向を生みだしてくる。」「「農村工業」を基盤として形づくられた新しい「局地的市場圏」は、封建地代やその転化形態たる商業利潤をも購買力として逆にその中に捲きこみつつ、競争を導きの糸として互いに接合され、かつ内部に新しい階級分化(つまり購買力としての賃銀労働者層)をはらみながら、いっそう大規模な「地域的市場圏」に、ついには国民的な規模での統一的国内市場にまで成長していくのである。」[ 8]

 また、中世的な農奴制、もしくは一般に貢納制においては、生産さえも一定程度自らの自主性にまかされる。例えば農奴は、例え土地ともに売買される存在であろうとも、土地を事実上占有し、自らの自主性において農耕し、領主に対してはその生産物の一部を年貢などとして収める。つまり、農奴も「国内的な」出自である。中世的農奴は、近代的賃労働者とちがって、生産においても自らの労働を共同体のもとで行なう。彼らは、国内(共同体内)に自生する人間であるから、自ら生産かつ消費することが可能であり、それを許すことが搾取者にとっても効率的・合理的である。農奴や労働者は丸ごと管理下におくより、ある程度「勝手にさせ」、その上で年貢を取りたてたり、日々再生される労働力商品を買った方がよい。
 

○「不法外国人労働者」の時代

 現在、世界には二〇〇〇万から三〇〇〇万の外国人労働者が存在し、その内約半数が「不法」滞在であると推計される[ 9]。これら一〇〇〇万から一五〇〇万に上る「不法」外国人労働者(米国の移民・少数民族運動の中では「未登録(Undocumented)外国人」、国連の用語では通常「不規則(Irregular)移民者」と呼ばれている[10])は、米国や西ヨーロッパ諸国などで最も嫌われる職種に最低の労働条件でついている。

 「不法外国人」は勝手に法を破って入国して来るから不法外国人になるのではない。「北」と「南」の著しい賃金・経済格差、それにもかかわらず急速に経済的社会的相互依存を深める世界が、人々を移動させる。それは、一国内で職のある都市へ農村からの人口流入が発生するのと同じ純経済的な過程である。この経済過程が、国境をまたいで展開すると、移動する労働者は自動的に「外国人労働者」、さらには「不法外国人労働者」に転化される。「法をやぶってけしからん」「締め出せ」という排外感情が強まれば、それは彼らを増々地下に潜航させ、労働抑圧を強める。こうして、本質的には純経済的な運動が、国境という装置を介して不自由労働創出のシステムに変わる。

 現代は「不法」外国人労働者の時代である。彼らは、今日の世界体制によって恒常的に生産されざるを得ないし、合理化しやすい低賃金労働者の予備軍として現代のグローバル資本主義の中に組み込まれている。

 あらゆる調査が、「不法」外国人のおかれている特別の隷属状態を示している。米国労働省の依頼で行われた「不法」外国人の調査(リントン報告[11]、一九七五年、対象:検挙された米国内一九都市七九三名の不法外国人)では、「不法」外国人でホワイト・カラー職についている者は全体の五・四パーセントにすぎず(外国出生者の米国平均では三九・六パーセント)、ほとんどが単純労働についていた。また彼らの平均時給は二ドル六六セントで、米国平均の四ドル四七セントの六割程度であった。同報告書の推定では、「不法」外国人労働者の四分の一は連邦最低賃金以下の賃金を得、三分の二は、「貧困レベル」と規定されている時給二ドル五〇セントを下回っているという[12]。西ドイツの調査では、例えば一九八三年時点で、建設業の正規労働者の時給が四七マルクであったのに対して、違法派遣労働についている「不法」外国人の時給は二六−三二マルクであった[13]。日本の労働省によれば、調査した全国四三の中小企業に働く違法就労外国人一五四名の賃金は、日本人雇用者の賃金より六割程度低かった(平均月収は八万−二〇万円[14])。日本の建設労働などの現場では、フィリピン人の賃金について「マニラ相場」という言葉があり、八〇〇〇円から一万円が日雇い労働の通常の賃金であるところ、フィリピン人労働者はその半分の四〇〇〇円しかもらっていない[15]。
 

○現代の奴隷

 現代においても奴隷制は、古代ローマと同様「本質的に国際レベルの身分制度」であることを止めていない。今なお奴隷制は、外国人と深く結びついて今日の世界に蔓延している。「不法外国人労働者」はその一形態、おそらくは比較的軽度の奴隷形態であろう。日本における「じゃぱゆきさん」をはじめ、外国人女性への性的奴隷制や人身売買など、外国人を対象にしたあからさまな奴隷制が現在でも広く世界に蔓延している。国際刑事警察機構(インターポール)が国連人権委員会に提出した報告『女性の人身売買 ― 最近の動向』(一九七四年)は、各国政府機関が公的に把握しているものだけでも、世界には次のような人身売買ルートがあるとしている。

一.南アメリカの女性 ― その大半はアルゼンチン女性、あるいは同国を訪れた女性 ― が、プエリトリコ、ヨーロッパの地中海諸国、あるいは中東へ“輸出”されている。

二.ヨーロッパには地域“市場”があり、ルクセンブルクとドイツ連邦(のエロスセンター)を中心とした燐国諸国で“働く”フランス女性が取り引きされている。しかし、南アメリカや他の国の女性もときには含まれている。この“市場”と他の地域、特に中東とはつながりがある。

三.いくつかの人身売買のネットワークは、明かにヨーロッパで女性を集め、アフリカのある国々へ送り込んでいる。そうしたネットワークは、売春の国際的搾取という段階にまで発展している(コートジボアール、セネガル)。

四.東アジア市場があり、そこでは主としてタイから、またフィリピンからも女性が集められ、他の諸国へ送り込まれている。

五.レバノンから寄せられた統計には、この国に売春が集中していると信じるに足る理由が示されている。これに関わっている女性は主として他のアラブ諸国から、また他の多くの国々からも来ている。クウェートにおいても状況は同じとみられる。

六.寄せられた回答により、人身売買のネットワークやそうした活動が多かれ少なかれ集中している地域を別にしても、多くの国の女性が通常の生活を営んでいる場所以外の国で売春婦となっていることが明かにされたが、彼女たちが女性の人身売買の被害者かどうかについては決定が不可能である。

 このインターポール秘密報告を暴露したキャスリン・バリー『性の植民地』[16]は、その他、数多くの女性に対する性的奴隷制を報告している。そのほとんどが国境を超えた外国人女性の取り引きと関連していることが注目される。例えば、フランス警察局には人身売買取締本部が置かれているが、同本部で働いていたフランス人警察官の証言によれば「毎年姿を消す数千人のフランスの十代の少女の多くが、最後にはアラブのハレムに送られていることを、当局はよく知っている」。イギリスに本部を置く反奴隷制協会が扱ってきた多くの人身売買のケースもほとんどが外国人女性に関するものである。コルシカのフランス外国人部隊兵舎の中にプーフという軍用売春宿があるが、ここには地元コルシカの女性ではなく、わざわざ他のヨーロッパ諸国の女性や少女が送り込まれている。「コルシカのギャングは、自分たちの女がそうした形の売春をさせられるのを好まず、したがって女性は他の国から来なければならなかったからである」。ベトナム戦争中の少数民族庸兵を使ったCIA作戦の中では、機密保持の観点からわざわざ言葉の通じない遠く離れた別の少数民族の女性が庸兵用売春婦として供給された。「アチェ・インディアンがいまだに一人について二ドルで買われるパラグアイ」では、それ以外の農家の娘たちも都会や米国・ヨーロッパ諸国に売られており、例えば「過去数年間に七〇〇人を超える少女が、カラグアタイの農村部から一〇人ないし二〇人のグループにまとめられて、マイアミ、シカゴを経由し、そこからバスでニューヨークにやって来た」証拠がある。また、バリーは、世界の人権を守っていくべき立場にいる国連職員や外交官が外国人メイドを家事奴隷に近い形で使用していると批判している。この慣行は広く国際的に行われており、主に貧しい第三世界の少女が国際的にリクルートされている。その中には、性的な虐待や国外追放の脅しを使いながらの人身拘束も事例も含まれ、訴訟事件として衆人の目に触れる場合も少なくない。

 日本では、第二次世界大戦中、一〇万から二〇万とも言われる朝鮮人女性たちを徴用し、「皇軍」兵士の慰安婦にした歴史があった。現在、日本男性の東南アジアへの観光買春が行われる一方、日本国内の強制売春に多くの東南アジア女性が導入されている。
 

○国境という抑圧の装置

 国境は奴隷をつくりだす法的装置である。国境の外は共同体の外部であり、戦時には殺してもよい者どもが住む土地である。国境は、人間と動物が分けられる境であり、人間性と非人間性の分断される線である。国境は人間の恥部であり、自由と平等の近代に持ち込まれた非近代である。

 過去において国境は多かれ少なかれ、自らの生活圏の限界に近いものであったが、近代における国境は資本の生活圏の*内部*に張りめぐらされ、資本の運動の内部機構として機能している。国境にはまったくとらわれずに展開するグローバル資本主義の中で、人間だけは国境によって分断される。本国人から植民地住民が分けられ、さらにその外側に*外国人の*労働者が生み出され、不法外国人労働者がつくられる。

 外国人労働者は近代の発明である。それは厳密な国境管理と労働者管理の存在を前提にして初めて生まれる。国境管理のないところには外国人労働者も不法外国人もない。

 米国は、一八七五年までは完全な国境の開放政策をとり、外国人の入国を制限する法律を制定した州に対しては、連邦最高裁が違憲判決を出すほどであった。全ての「不法」外国人の入国は合法であった。しかし、米国は一八七五年になって初めて本格的な移民法を制定し、以後不法外国人が出現するようになる。一八八二年に「中国人排斥法」が制定され、まず中国人が不法外国人化された。米国における(そしておそらく世界における)最初の「不法外国人」は中国人であったろう。しかし、米国ではこれ以後も、例えばメキシコの国境は二〇世紀初頭まで事実上入国管理が行われず、メキシコ人は自由に米国内に入ってきていた。一九二四年、二七年の制限的移民法による国境警備隊の創設と国境管理の開始が、初めて国境を現実のもとし、メキシコからの「不法移民」を歴史に登場させる。

 ヨーロッパにおいても、厳格な入国管理体制がしかれるのは、たかだか第一次大戦以後のことである。「一九世紀末においても、何百万という「不法」移民者が、ツァー支配下のロシアなどから自由に出国していた。ほとんどの国の政府が、その国境の包括的物理的管理を行っておらず、国境を越える人々を不法・合法と区別する洗練された官僚制をもっていなかった。国際移動の効果的管理は、第一次世界大戦が近代世界にもたらした多くの遺産のうちの一つである。少数の国でしか必要とされていなかったパスポートは、戦時政策として導入され、そして消えることがなかった」[17]。
 
 国境は線であるよりは制度であり、支配と抑圧の形態がたまたま地理的に表現されたものである。国境はその内外に様々に類別化・差別化された不自由人と従属労働をつくり、世界資本主義がその場その場に求める労働力を創出してきた。中枢においては「自由な」労働者、植民地においては半奴隷、そしてさらにその外側には公然たる奴隷が配備された。

 例えばイギリスでは、英国市民(British Citizens)以外に、英国領従属領土市民(フォークランド、ジブラルタル、香港など一二地域の市民)、英国海外市民(東アフリカ在住のインド人、中国人など)、英国保護民・英国臣民(英連邦市民など)など、中枢から外縁に向って様々に規定された植民地住民の政治的地位がある[18]。古くからの植民地・アイルランドは英連邦には含まれないものの、その市民は特に英国の出入国管理の対象にならず、英国内において選挙権・被選挙権を有するという中間的な地位を与えられている。EC諸国での、移動が自由なEC域内労働者とそうでない域外労働者の区別も国境装置がつくる二重構造である。

 米国では、市民の下に、移民法上の資格によって永住者、一時滞在労働者、不法外国人など位階制がある。市民(Citizens)にも、州制度のもとに居住する全権をもった市民以外に、連邦議会への参政権のないプエルトリコ(コマンウェルス政体)やグアム(自治州)などの居住市民がおり、また「国民」(Nationals)という、市民ではない米国籍者という中途半端な地位が米領サモア、スエインズ島などの住民に与えられている。一八九九年に併合されてから一九四六年の独立までのフィリピン住民の地位もこの「国民」であった。

 日本の植民地支配下におかれた朝鮮・台湾・カラフトでも、住民は「二級国民」であった。選挙権はなく[19]、「内地」への渡航さえもが日本の景気変動にあわせて周到に規制・管理された[20]。

 かつての南アフリカのアパルトヘイトも国境による差別体制だった。一九一三年の原住民土地法にさかのぼるバンツースタン(七八年より「黒人国家」と呼称)政策は、南ア人口の七三パーセントを占めるアフリカ人(黒人)に、国土の一三パーセントにすぎない不毛の地を「ホームランド」として与え、これを自治領として「独立」させた。これに伴い白人地域で働く黒人を「外国人労働者」とし、数々な国内の人種差別を外国人差別に置き換えて国際的な非難をかわそうとした。一九四八年以来、白人地域から三五〇万人以上の黒人が一〇のホームランドに強制移住させられ、トランスケイ、ボツワナ、ベンダ、シスケイの四「国」の「独立」が強行された。少なくとも八〇〇万人の黒人が外国人化され、その他の黒人も一九七〇年のバンツー・ホームランド市民法により、いずれかのホームランドに属する市民とされた。

 外国人差別は近代世界に残る唯一の合法的差別である。近代の民主主義諸法典は、人種、民族、信条、宗教、身分的出自、性別、身体的特徴その他あらゆる非合理な理由による差別を禁じ、これを非合法化している。が、外国人に対する差別だけは例外で、あらゆる民主主義国家の憲法が人権に対する限りない美辞麗句を労した後に、裁判所や法律学者は当然のことのように、「(国家がなお国際主体として基本的な地位を占めている現在)、内外人の取扱に法律上の差異を設け、外国人に対し、その国の国民と異なる処遇をし、あるいは権利の一部を特別に制限することがあるのはやむを得ない」[21]と語る。入管法は今日においても日々奴隷をつくりだし続ける。外国人の入国を制限し、入国資格を観光者、留学生、専門的労働者、単純労働者など細かく区分し、滞在=居住する期限を定め、さらに特定の職や職場に厳格に限定して滞在を認める。「自由な近代」は、もともとその内部にこのような権利制限された人間をつくることを認めていなかった。が、外国人だけは例外である。国家主権がすべてに優先し、外部の者への人権制限が合法化される。
 

○人間性の観念を知らない時代

 国家主権の支配する現代において、その圏外にいる個人は、どのような取扱をしてもかまわない存在として現れている。「外国人というのは煮て食おうが焼いて食おうが自由というのは、言い方はともかく、そのとおりです」という日本国法務省高官の発言[22]は、この体制の本質を端的に語ってくれた。

 しかし、相互連関を強めた今日の世界は、民族国家体制の周辺を普遍的な(すなわち人類的な)人権の秩序でも被いはじめている。現代においては、戦争という状況における捕虜でさえも、決して煮たり焼いたりしてはならない存在である(例えば捕虜虐待を禁じたジュネーブ協定)。平和時においてなら、なおのこと外国人の権利は国際法や「人道上の配慮」で様々に守られる。なるほど、それは“唯一の法治権力”たる国家によって公式に保証されるものではない。しかし、それを各民族国家に暗黙裏に強制するくらいの相互依存的世界性を今日の人類社会は獲得しつつあることを忘れてはならない。

 古代ローマの奴隷制を論じる中でレヴィ・ブリュールが次のように言っていることがここで想起される。

 「今日、われわれの文化タイプを持つ社会において、あらゆる人びとの間に、ある精神的まとまりが存在するということができる。人間は、単に人類に属しているという事実のみから、特定の諸権利を有し、その人格を認められている。しかしこの観念は比較的新しく、それが浸透していない社会はまだ数多くある。この観念がない所では、外国人は必然的に権利を持たず、権利がないのであるから彼は物である。彼を捕らえることや殺すことは誰にでもできるし、もし経済条件が許すなら、あるいは求めるならば、彼を隷属状態に落すこともできる。いいかえれば、条約や契約の外にあっては、殺害と奴隷状態とは、市民権に基礎を置いた諸社会で、人間性の観念を知らないところでは、外国人の当然の運命である。」[23]。

 このような見方からすれば、「煮て食おうが」発言が出る社会は、いまだ「人間性の観念を知らないところ」であり、古代社会から進歩がない社会であることを自ら暴露してしまったと言えよう。
 

<注>

 1 - M.I.フィンレイ編『西洋古代の奴隷制』大田秀通他訳、東京大学出版会、一九七〇年。
 2 - 例えばレヴィー=ブリュールは、当時の外国人の立場について次のようなローマの法律関係史料(『学説集』)を引用している。「平和時においても、帰国権は与えられている。というのは、たとえ我々がある国と修好条約も、友好条約も、また友愛のために結ばれた同盟条約も持っていないとしても、これらの人びとはたしかに敵ではない。しかし、我々のところから彼らのもとへと行ったものは彼らの所有物となり、我々の自由人は彼らに捕られれば奴隷となり、彼らの所有者となる。彼らのところから我々のもとへと何らかのものが入って来た場合も同様である。」(二二五頁)。
 3 - 例えば土井正興『スパルタクス反乱論序説』法制大学出版局、一九六九年、大田秀通「古典古代社会の基本構造と奴隷制」、『岩波世界歴史』第二巻。
 4 - I・ウォーラステイン『近代世界システムI』川北稔訳、岩波現代選書、一九八一年、一七七頁。
 5 - ケネス・M・スタンプ『アメリカ南部の奴隷制』疋田三良訳、彩流社、一九八八年、二九頁。
 6 - I・ウォーラステイン、前掲書、一二七頁。
 7 - "History of West Africa," Encyclopaedia Britanica.
 8 - 大塚久雄『欧州経済史』岩波書店、一九七三年、九五頁、一〇五頁。
 9 - Alejandro Portes, "One Field, Many Views: Competing Theories of International Migration," Pacific Bridges, The New Immigration from Asia and the Pacific Islands, Edited by James T. Fawcett and Benjamin V. Carino, pp.73-74.
10 - 一九七五年の国連総会は、全ての国連機関が、非登録(Non-documented)移民労働者または不規則(Irregular)移民労働者という用語を使うよう決議している(国連総会決議第三四四九(XXX)。
11 - David S. North, Marion F. Houston, The Characteristics and Role of Illegal Aliens in the U.S. Labor Market: an Exploratory Study, Lington & Company, 1976.
12 - Barry R. Chisiwick, "Illegal Aliens in the United States Labor Market: Analysis of Occupational Attainment and Earnings," International Migration Review, Fall 1984, p.718.
13 - 手塚和彰「外国人労働者をめぐる法的問題」、『ジュリスト』一九八八年六月一日、三一頁。
14 - Japan Times, March 31, 1988, p.2.
15 - 「座談会・外国人労働者をめぐる問題点」、『現代のエスプリ・ジャパゆきさんの現在』一九八八年四月、二〇−二一頁。
16 - キャスリン・バリー『性の植民地』田中和子訳、時事通信社、一九八四年。
17 - Alan Dowty, Closed Border, Yale University Press, 1987, p.62.
18 - Maggie Wilson, Immigration and Race, 1983, pp.1-9.
19 - 戦前の衆議院議員選挙法は「帝国臣民」に選挙権を与え、これには朝鮮人、台湾人なども含まれていた。しかし、同法は朝鮮では施行されず、結局、「内地」に居住する朝鮮人のみに選挙権が与えられた。太平洋戦争に突入する中で「朝鮮および台湾同胞をしてますます皇民たるの自覚に徹し、一億一心の実をあげ」る必要が生まれ、一九四五年四月の法律第三四号により朝鮮、台湾などについても制限選挙を行なうものとした。この改正は未施行のまま終戦となった(成田・森山・小川「国内に居住する外国人に対する選挙権及び被選挙権の付与の例」、国会図書館調査立法考査局『レファランス』一九八〇年、三月号、九五―九七頁)。
20 - 内海愛子「アジア人労働力移入の歴史的経緯」、『現代のエスプリ・ジャパゆきさんの現在』一九八八年四月、一七二―一七六頁。
21 - キャサリーン森川指紋押捺拒否事件横浜地裁判決(一九八四年六月一四日)より。同判決は、指紋押捺拒否に関する最初の判決であったが、これ以後の判決も内外人の「差異化」には同様の判断をとり、ことごとく外国人のみの指紋採取を合憲としている。
22 - 一九九八年八月、黒木法務省登録課長の発言。
23 - M.I.フィンレイ編、前掲書、二二九頁。
 
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