が、この映像の地域(パキスタン)から現在、大量の外国人労働者が日本に流れ込んでいるのではないか、という事実に私は気がつく。あこがれをもって見つめられるシルクロードの世界、その民族と文化の混交の歴史は今、そっくり私たちの街の雑踏の中で展開している。しかし、日本人は、この現実に繰り広げられるシルクロードを同じようなロマンの目で見ているだろうか。残念ながら現実では、かの映像と同じ顔の人々は「不法外国人労働者」であり、その存在は「社会問題」でしかない。私たちの民族のロマンへのあこがれはただ、観念の中だけで成立するものなのであろうか。
シルクロードはここだ。人々が、日本の人々が恋いこがれてやまない交流と混交のロマンは映像や過去の記憶の中にあるのではなくて、この私たちの日々にある。例えばエジプトのピラミッドに行く。そこで四〇〇〇年の悠久のナイル文明に思いをはせようとしても、私たちはたちどころにあこぎな物売りや観光客相手の詐欺師たちに取り囲まれ、口ぎたなく口論をはじめることになったりする。悠久の歴史の本質はこれである。交流と混交のロマンは、日々の生々しい現実、汚いところも大いに混じった人間と人間が関わりあう中でこそ展開する。シルクロードもそうであった。視聴者がNHK取材班に求めるロマンの世界は、現実には、戦争があり憎悪や対立があり富と貧しさがせめぎあう生臭い人々の世界であった。
シルクロードに思いを馳せるのは決して悪いことではない。それは日本人が − 単一民族神話にあくまで執着するこの日本人が − 実は多様な文化と民族のロマンを求めていたことの証拠なのだから。私たちは、そのロマンを、映像の中ではなく、テレビを見終えてはじまる生臭い現実の世界に求めればいい。
太古以来、私たちの文化の源流には、豊饒な民族混交の伝統が流れ続けてきた。日本の民衆は、額面の「単一民族性」とは裏腹に、南海や朝鮮半島や華南や東北アジアから来て混交して生まれた民であるし、御朱印船に深夜飛び乗って東南アジアに密航して行った安土桃山時代の「飛び乗り」組(山田長政もその一人)から、シアトルやサンフランシスコの港で海に飛び込んで上陸・密入国した「飛び込み組」日系一世に至るまで、異なる社会へのあくなき好奇心をもちつづけてきた民である。「世界まれにみる単一民族」「均質社会」の強いられた自画像から自らを解放しようではないか。呪縛のような虚像を打ち払い、豊饒なる民の伝統に立ち還ろうではないか。
私たちは、これまでも多くの歴史的転換期の中で幾度となく変わってきたし、これからも大きく変わり得る。この世代のうちに無理なことでも、次の世代までには実現できるかも知れない。民族の特質などというものは数世代のうちにきれいに変わるものだ。次か、次の次の世紀には、私たちは国際化の「得意な」民族になっているかも知れない。異なる人々と共生しあう豊かな社会を実現しているかも知れない。問題はそのための努力を今はじめるかどうかである。教育の中で、相変わらず「日本人の誇り」をつくるために「君が代」や東郷平八郎を取り入れたりしている内はだめだろう。民族の可能性を封じ込めているのはむしろこうした「愛国」を唱導する人たちだ。日本人はまだ居ない。これからできるものである。自分の何たるかは、自分が何を求めて生きているかによって語られる。
私たちが求めるのは、アジアや世界の民との交流で鍛えられその中で見つけだされる「日系アジア人」とでも言える新しいアイデンティティーであろう。私たちはまだまだ、私たちの本当の姿を見いだしていない。混交を拒否したところで念じられるアイデンティティーなど自己防衛の意識にすぎない。異なる人々との豊かな交流の中でこそ私たちは私たちの本当の姿を見いだす。それは外部に開かれた自己であり、私たちがながらく見ることのなかった可能性に満ちた自分を取り戻すことである。