全米2000のCDC(地域開発組合)

 ―市場社会に生まれたNPO型開発運動

                     岡部一明(『社会運動』第181号、1995年4月)
 

 「あのようなことを決してこの街では起こしたくありません。」

 イーストベイ・アジア系地域開発組合(EBALDC)の事務局長リネット・リーが静かに、しかしきっぱりと言った。彼女は、92年5月のロサンゼルス暴動のことを語っている。「皆さんも、ニュースで見ていたでしょう。あの時、韓国系のお店がたくさん焼かれました。」

 リーはアメリカ生まれの中国系女性。ここオークランド(サンフランシスコ近郊)のチャイナタウン地域で住民による地域開発運動を進めている。「大切なことは、オークランドには多様な人種民族集団が住んでいるということです。確かにアジア系は増えていますが、アジア系の社会がそれだけで成り立っているわけではありません。だから私たちは皆が共に生きる街づくりを目指して様々に活動しています。」

 例えば、彼女たちがつくった低家賃住宅には、できるかぎり多様な人種・民族の人びとに入る。チャイナタウンでどうしてもアジア系が多くなれば、マネジャーはアフリカ系アメリカ人を選ぶ。黒人地域社会でもそこの市民団体とともに共同の住宅建設プロジェクトを行なう。

 「私たちは、入居者たちといっしょに、様々な民族のお祭りを祝います。アジア系のだけでなく、メキシコ系のお祭り、毎年2月の黒人歴史月間などを共に祝って互いに学び合います。」
 

NPOによる地域開発運動

 EBALDCは、アメリカに約2000あると言われる地域開発組合(Community Development Corporation, 以下CDC)の一つである。CDCは、1960年代に貧しいスラム地区などではじまった住民による地域起こし運動で、非営利団体(NPO)が実際的な成果をあげている事例として注目される(NPO制度については例えば、岡部『社会が育てる市民運動?アメリカのNPO制度』社会新報ブックレット参照)。

 EBALDCは、公民権運動の中で新しく権利意識を目覚めさせたアジア系の学生たちによって、1975年に設立された。当初の目的は地域のコミュニティーセンターをつくること。不動産事業などにまったく予備知識のない若者たちが、多くの失敗を重ねながら、1984年に床面積4370平方メートルの「アジア系資料センター」を完成させた。現在、ソーシャル・サービス団体、地域医療機関、市民運動団体など8つのNPO事務所と、地域小ビジネスがここに入っている。

 この成功を基礎に、他の多くの低家賃住宅建設、地域ビジネス支援事業に進出し、今では、全米のCDCの中でも「上位100に入る」優良なCDC団体と評価されるまでになった。スタッフ17人、年間予算200万ドルは、平均をやや上まわる規模のCDCと言える。政府、企業、財団などから助成、寄付も受けるが、収入の三分の二を家賃収入など独自事業でまかなっている。

 「私たちは、単に建物をつくるだけでなく、地域社会に起こっていることを見定めながら、戦略的プランニングを行ないます。小ビジネスを支援し、NPOを育成し、青少年教育などにも力を入れます。」とリーが重ねて強調する。NPOによる地域開発では、社会問題も含め地域全体の改革が大きな狙いとなるのが特徴だ。小ビジネスを支援する場合でも、単に財政的な援助をするだけではなくて、地域の多様な住民とどのように関係を結んでいくかの教育活動にも同様な力点をおく。
 

NPOがつくった119戸の低家賃住宅

 「さあ、話よりも、外にでましょう」と言ってリーが案内してくれたのは、119戸建ての低家賃アパート「フランク・マー・プロジェクト」だ。和風英語にすれば「マンション」と言えるだろう。道路に面した四角い区画(ブロック)がぐるりと店舗でおおわれ、その中に安全地帯をつくるように家族用タウンハウスが並んでいる。北側には9階建ての高齢者用アパートがそびえる。ちょうど学校が引ける時間で、真中の広場で子どもたちが元気に遊びはじめていた。

 住人には中国系などアジア人が多い。修理、維持の仕事をしていたのはベトナム難民としてやってきたという青年だった。住み込みの管理人は、黒人のウォーレスさん。子どもの面倒見がよいので皆から慕われているといる。

 「連邦住宅局、オークランド市再開発局、その他10近い政府機関、銀行などから資金を集め、土地取得後5年でこれを完成させました。資産価格は1700万ドルです」とリーが説明する。地下には2階建ての市営駐車場をつくり、1階は、レストラン、メガネ店、コンピュータ店、保育所などが入る。家賃なしで入れているという保育所(これもNPO)は、この日が開所第一日目だった。

 このフランク・マー・プロジェクトは、都市中心部での健康な居住空間づくりの試みとして国連の世界ハビタート賞など5つの賞を受けた。1990年にできたばかりという真新しい集合住宅。白壁がまぶしかったのは、必ずしもカリフォルニアの強い日光のせいだけではなかったろう。
 

低家賃住宅建設の主役としてのNPO

 市民団体(NPO)が119戸、1700万ドルの集合住宅を建設してしまう。

 この「フランク・マー」だけではない。EBALDCの建設したものには他に、マーカス・バーベイ・コモンズ(22戸360万ドル)、マドローネ・ホテル(32戸190万ドル)、ヒューテイラー・ハウス(42戸230万ドル)があり、現在、92戸1700万ドルの大規模集合住宅その他を建設中である。最初のアジア系資料センター(600万ドル)も含めて、EBALDCの資産はすでに3300万ドルになった。

 CDC運動ほど、アメリカNPOの力をまざまざと見せつけるものはない。つまり、アメリカでは、低家賃住宅もNPOが建てているのだ。日本では、市営住宅、都営住宅など、低家賃住宅は「公共」の事業であるのがあたりまえだ。住民は、国や自治体に要求をぶつける側であって、自ら低家賃住宅をつくることはまず考えない。

 アメリカでも、1937年住宅法以来、一応ある程度の公共住宅建設が行なわれてきた。しかしこれは、アパートを自分の家と感じられない居住民から大切にされず、スラム化を生む一因となったと言われる。そのため連邦の政策は、60年代以降、徐々に家賃補助の方に重点を移し、最近では公共住宅の建設は年間5000戸前後にまで落ちてきた。これに対して非営利セクターの提供する低家賃住宅は年間2万戸に上ると推定される(後出NCCED報告書など)。
 

公民権運動から生まれたCDC

 CDCは、60年代の公民権運動の中で都市部マイノリティ地域の地域自立の運動として始まった。貧しい地域では、市場経済の自動的立ち上がりを待つだけでは問題解決が見込めず、また政府が上から金をばらまくだけでも進展がない。住民自らが問題に対処するという戦略が長い試行錯誤の中から生まれてきた。特に当初は、経済機構の根本的な改革をも視野に入れたラジカルな変革運動の色彩が濃かったと言われる。

 フォード財団の助成により1950年代末からはじまる「灰色地域プログラム」(GAP)がCDCの最初の試みだった。ソーシャル・チェンジ(社会変革)を前面に出し、住民による開発組織「地域革新法人」(CPI)が各地でつくられ、都市内貧困に対する各種取り組みが行なわれた。アメリカの財団は、しばしば政府に先駆けて、しかもかなり革新的な政策を実行することがあるが、これもその一例だ。アクション・ハウジング(ピッツバーグ)など、このプログラムの中で設立されたものの中には、今日まで活動を続けている有力CDCがある。

 やがて、1964年に経済機会法が成立し、連邦政府内部に経済機会局(OEO)が設置される。都市貧困地帯の経済振興をめざす同機関が、各地に生まれたCDCへの援助を開始した。この時期、CDC運動の象徴となったのは、ベッドフォード・スタイブサント改修組合(BSRC、ニューヨーク市ブルックリン)の運動であった。黒人住民たちが、白人中心の地方経済界や自治体から独立した住民の経済機構をつくろうとした。R・ケネディ上院議員などからも積極的な支持を得た。

 1966年、経済機会法改正により、地域開発モデル事業に助成を行なう「特別影響プログラム」(SIP)が開始され、67年、上記BSRCが最初の助成団体となる。68年にはヒューエリア開発組合(HAD、クリーブランド)にも助成、69年には全米の他のCDCにも助成が行なわれていった。

 1968年に新しい連邦住宅法が成立。第236条で、非営利団体、専門家団体が低所得者用住宅の建設、賃貸事業をする際の税制優遇や助成措置を規定した。例えば非営利団体が住宅建設をした際には、そのローン(30年ローン)について年利のほとんど(99%)を連邦政府が助成するとした。これによって非営利団体が積極的に低家賃住宅建設を行なうインセンティブができ、以後CDCの動きが活発化する。

 当初の試みには失敗も多かった。1973年までに、非営利団体の建設した低所得世帯住宅の65%、低所得老人住宅の33%が倒産又はローン支払い不能に陥り、これを肩代りする連邦政府は多大の赤字をこうむっている。
 

CDCの現状

 何ごとも中央官庁がすべて掌握している日本とちがって、アメリカの全米的な動きを把握するのはなかなか難しい。CDC運動の場合も同じだ。民間機関の調査研究によって少しずつ輪郭がわかってくる。

 これまでに行なわれた最も大規模な調査研究である全米地域経済開発会議(NCCED)の報告書(Against All Adds, The Achievements of Community-based Development Organizations, 1989)は、現在、全米に1500から2000のCDCがあると推計している。70年代半ばの200からの大幅増。地域開発を中心におかないが何等かの形でこれに関わるNPOを含めると、団体数は少なくとも4000を越える。

 CDCが最も得意とする分野は住宅の建設、改修プロジェクトで、サンプル数834の内87%が住宅プロジェクトにかかわっていた。このサンプル数だけでこれまでに12万戸以上の住宅を建設し、27万戸の改修工事を行なった。その他、30%が商業・産業不動産プロジェクト(スーパーマーケットの建設、工場建設・改修など)に関わり、35%が小ビジネス育成・支援事業(後述)を行なっている。

 平均的なCDCのイメージは、地域開発研究センター(CDRC)の調査研究(Community Economic Development Assessment, 1989、全米29市、130CDC対象)によれば、スタッフが7人いて、年間予算は70万ドル。平均して設立12年の歴史をもっており、大体が何等かの住居プロジェクトを行ない、その他、2つのプロジェクト(アドボカシー、職業訓練、経営コンサルタント、福祉、経済開発など)を行なっている。住宅建設を行なっているCDCでは年平均30戸の住宅(アパート)をつくり、すでに150戸の建設実績をもつ。住宅を建設、改修したCDCのうち60%はその管理運営も行なっている。理事会の60%は地域住民または地域組織の代表で、多くの場合、プランナー、経済コンサルタントなど専門家も理事に加わっている。4分の3が少なくとも1つの子会社をもち、4分の1が営利と非営利の法人を一つずつもっている。子会社の平均売り上げは年400万ドルである。8分の1は有給スタッフが居ない小組織で、3分の1は年50万ドル以下の予算。事業利益を上げてすべての経費を独立採算でまかなっているところもあるが、多くは政府などから助成を得ている。事業外収入の3分の1は連邦政府資金、主に地域開発ブロック助成(CDBG)である。その他、財団、自治体、州政府、企業、銀行などから助成を得ている。1980年以降、住宅建設にかかわったCDCのうち14%が失敗(ローン返済不能など)を経験、ビジネス開発にかかわったCDCでは失敗(倒産)率はその2倍である。

 大きなCDCの例では、例えば前出ニューヨークのベッドフォード・スタイブサント改修組合(BSRC)は、200人のスタッフをかかえ、すでに4000戸の低家賃住宅をつくっている。子会社としてスーパーマーケット、アイスクリーム会社、プラチナ工場などを所有する。CDCによる商業・産業関係の開発で多いのは、集合住宅建設とあわせてその中に小売店舗を改修、運用するという形。その他では、大きなショッピングセンターを小売店舗・事務所用センターに改修したマイアミのタコルシー経済開発組合(TEDC)、空き工場を小規模・ハイテク事業施設に改修したピッツバーグのノースサイド市民開発評議会(NSCDC)などの事例が有名である。

 ビジネス支援事業では、後述する「マイクロ・ビジネス」支援が中心だが、一般企業も対象とし大規模に事業を展開するところも出てきている。例えば、シカゴのローレンス・アベニュー開発組合(LADC)は、すでに2400企業に技術支援のコンサルタント活動を行ない、セント・ポールの女性経済開発組合(WEDC)は年間2500人の企業マネジャーに研修を行なっている。CDCの子会社の例では、例えばデトロイトのフォーカス・ホープCDCが所有する労働者自主管理の自動車部品工場は、約100名の労働者を有し、大手自動車企業と年1000万ドルの契約がある。通常は、これより規模が小さく、例えばサンフランシスコのアジア系近隣開発(AND)所有のたんす製造工場は、10人の労働者で年商100万ドルである。コンピュータ利用のハイテク木材工場に就職できない新移民の家具工に職場を提供する一方、その横で地元低所得層青少年向けに木工技術の訓練を行なったりしている。

 NPOの限られたリソースで巨大な地域問題に立ち向かうのは大変なことだ。そこで、CDCは「重点的部門介入」(Sectorial Intervention)と言われる戦略をとる。その地域の生活に重要な産業分野を絞り込み、そこに重点的に介入する。都市部の低所得者地域なら低家賃住宅建設、アパラチア山脈周辺の貧困地帯であれば木材業、衰退する北西部工業地帯なら鉄鋼や石炭産業(この場合は代替産業の育成戦略も含む)などに重点を置く。また、地域にかかわらず、産業全体の活性化の基礎になる金融に対しては、とりわけ力を入れた介入が行なわれ、CDC運動全体の特徴ともなっている(後述)。
 

地域ビジネス・インキュベーター

 「これは、今、全米的な傾向です。私たちは、ビジネスを起こすことで地域経済全体を活性化を目指しています。」

 オークランド小ビジネス育成センター(OSBGC)のファヒーム・ハミード事務局長がそう強調する。OSBGCは、小ビジネス起こしを支援するNPO版の「インキュベーター」(孵化器)事業。地域の駆け出し起業家のため安価な事務所を提供し、会議室、コンピュータ、コピー機その他設備を共用して、困難なビジネス立ち上げ期を支援する。活発化する起業家経済を反映して全米に500を越すインキュベーターがあると言われる。通常は、ビジネスとして運営される営利インキュベーター・センターだが、最近では、大学やNPOが運営するセンターが増えている。CDC運動の中でも小ビジネスの育成を柱にした地域経済開発の動きが強まっている。

 「そう急には成果は出せません。最近やっと10のテナントが入るようになりました。この(95年)春までには15程度になるでしょう。」

 OSBGCは、1993年、EBALDCと同じオークランド市内の貧しいアフリカ系アメリカ人地域内で設立された。倉庫を改造した大きな建物。事務所スペースが1380平米、軽工業・倉庫スペースが5300平米ある。ハミード事務局長が案内してくれたセンター内は、まだ改装工事の途中で、巨大な空間がガラガラ空いている。

 インキュベーターに入れば、できたばかりの小ビジネス、例えば一人で行なう個人ビジネスでも一応の事務所がもてる。事務所住所を名刺やビジネス手紙に刷り込むことができる。設備、機器を共用でき、レセプショニストや電話応対のサービスも共同で受けられる。来客があれば共同応接室や会議室を使え、一人ビジネスでもいっぱしの企業のような外見を装うことができる。

 OSBGCの場合、設立直後のビジネスではなくて、2ー3年一応事業を続けたビジネスを対象にする。ある程度シリアスな事業であることを立証した小ビジネスに重点を絞るわけだ。家賃は平米当りに換算して、事務所スペースで7ドル、「倉庫」(作業所)スペースで5ドル70セント。基本的な施設、機器、サービス共用の他、別途料金で、経理、データ処理、マーケッティングなど専門なコンサルティングのサービスも受けられる。セミナーが頻繁に行なわれ、地域大学と提携した起業家講座が近く始められる予定と言う。

 連邦政府(地域開発ブロック助成)から170万ドルのローン、オークランド市(経済開発雇用局)から25万5000ドルの助成を得た。民間ディベロッパーの支援も受けており、「公共、NPO、民間のパートナーシップ事業」であることをハミードさんは強調する。
 

ビジネスを通じた経済的自立

 30年来のCDC運動活動家であり、OSBGCの設立にも尽力した地域経済学者ムタングリージー・サンヤッカさんが次のように言う。

 「CDCの地域経済開発は、市場ダイナミズムだけでは問題は解決できないという前提に立っています。しかし、これまで民間セクターが用いてきた起業家的手法を無視しません。マーケット調査、ビジネス計画、金融パッケージングその他を使い、効率的、生産的、収益的な事業を目指します。それを、単なる利益のためでなく、地域的価値と公共的ニーズの文脈の中で追求するのです。」

 CDCの地域開発運動は、決して市場経済の原理を否定しない。むしろ、小ビジネス起こしによる地域活性化に力点をおくと言ってもよい。インキュベーターはその一つの例だ。その他に、起業家養成講座、極小ビジネスを対象にした「マイクロローン」運動など多様な試みがなされている。

 例えばサンフランシスコの「自営業のための女性運動」(WISE)は、女性を対象に1コース12週間の起業家講座を開き、ビジネスを通じた女性の経済的自立をはかる。エティアン・デグランド事務局長によれば、同講座を通じて、「レストラン、カフェー、翻訳業、民芸工芸品製造、デスクトップ・パブリッシング、子ども衣服店、ベーカリー、美容院、グラフィック・デザインまで、あらゆる分野のビジネスが起こされた」と言う。

 この6年間、約2000人受講者の内、200人が新たな事業を起こし、100人が事業拡大を成功させた。ホームレスの女性を対象にした起業家養成特別プロジェクトもあり、開業率40%という良好な成果を上げているという。事業を始める人への小口融資も行なっており、1990年に財団助成など40万ドルの資金で「循環ローン基金」を設立し、すでに70件26万ドルのマイクロローンを行なった(詳しくは『社会新報』94年11月8日)。

 これまでは、失業したら職業訓練と職探しと相場が決まっていた。が、ビジネスによって自立するという新しい方向もあるのではないか、ということをこのグループは提起しようとしている。「大企業に依存して職をもらうのでなく、人びとが自ら仕事を生み出すことを実現しようとしています。これが今、私たちが年月をかけて検証しようとしている新しい戦略です」とデグランド事務局長が言う。

 経済の情報化とネットワーク化が進む中で、小単位が全体の中で果たす役割が強化されている。フォーチャン五〇〇の大企業が年2%雇用を減らす一方、従業員50人以下の小企業が新雇用の3分の2を創出している。個人ビジネスも急増し、93年に設立された200万ビジネスの内、1ー2人の小ビジネスが20%を占めた。ホーム・ビジネスは全米で3000万に上るとの推計もある。かつては「スモール・イズ・ビューティフル」が語られたが、今は、「スモール・イズ・ポッシブル」(小さいことは可能だ)を経て「スモール・イズ・パワフル」(小さいことは強力だ)が語られている。WISEの運動は、こうした社会全体の流れを最もグラスルーツレベルから体現した運動だ。19世紀より続いた大企業体制は、「プロレタリアートによる革命」などではなく、こうした自立的起業家経済の台頭によってこそ終焉への道を歩むのかも知れない。
 

マイクロローン事業

 「銀行は普通、5万ドル以下の融資はしたがりません。私たちは、この枠外におかれる極小ビジネスに250ドルから3000ドルくらいのマイクロローンを提供します。自分の家で保育事業をはじめる人、靴修理業や裁縫事業、ピザのお店などをはじめる人などを対象にします。利率は、収入に応じてゼロから年8%程度です。」

 そう語るのは、前出EBALDCのリー事務局長だ。貧困地域ではこの程度の資金の有無で地域活性化が大きく左右される。住宅開発を中心とするEBALDCもこうした小口融資活動に積極的にかかわっている。

 マイクロローンはバングラディッシュの農村開発運動ので生まれた試みだが、これが、現在、アメリカのCDC運動の中でも大きな広がりをみせている。前出NCCEDのCDC834団体対象の調査では、16%にあたる133団体が1件当り2万5000ドル以下の小口融資活動を行ない、計2048ビジネスに融資を行なっていた。WISEのような小ビジネス支援運動の連合体「事業機会協会」(AEO、約100団体、本部シカゴ)の加盟団体の多くもマイクロローン事業を重点課題においている。こうした動きを受けて、連邦小ビジネス局は92年度から市民団体の小額融資事業への助成を開始し、93年度は9500万ドルを出費した。
 

金融インフラへの重点的介入

 通常、市場の失敗を補完するのは政府である。しかし、周辺化された地域ではしばしば政府も失敗している。そこで、下からの市民自身によるNPO型の地域開発が出てくる。CDCは地域住民の自主性を組織化することによって市場の基盤整備を行なう。

 ここでのCDCの課題はテクニカルには政府の課題と同じである。産業インフラを整備して市場が自律的に機能するまでを支援する。各種社会組織、公共サービス、教育、金融その他のインフラを堅め、住民が主体的に問題に立ち向かう地域全体の活力を組織していく。インフラ整備として道路を建設するもよし、通信情報網を整備するもよし、かつての日本の農村開発のように潅漑用水づくりを柱にしたりTVA(テネシー渓谷公社)のように河川の総合的開発に取り組むのもいいだろう。が、アメリカのCDC運動が力点をおいたのは金融インフラの確立だった。

 金融は、あらゆる分野の産業活性化の基礎となるインフラである。が、貧しい低開発地域では、このインフラが大きく欠落している。銀行は貧しい地域の住民から預金を集め、それを域外(例えば都市中心のビジネス街など)に投資してしまう。資金を流出させて地域衰退の要因とさえなっているわけだ。特に問題となったのは「レッドライニング」と呼ばれる投融資差別だ。金融機関がマイノリティの多く住む都市部スラムなどを「赤線」で囲い、その中での住宅ローン提供などを抑制する差別慣行が批判の対象になった。

 70年代以降、レッドライニング反対運動のとった戦術はまず、銀行の買収、支店開設などの際に、この許認可権を握る州・連邦の各種機関に圧力をかけるということであった。その銀行の投資慣行を詳細に調べて、買収などの申請に対して公式の異議申立てを行なう。公聴会を開かせ、追求する。抗議デモやビラまきの他、政治家を通じたロビー活動、政府機関への請願、当該銀行からの預金の一斉引き出し、銀行との直接交渉、ピケットはりなど行なう。さらに、監視の機構を制度的に保証するため、議会へのはたらきかけも行なわれた。

 こうした運動の成果として、1977年、連邦地域再投資法(CRA)が可決する。金融機関に地域への資金還元を義務づけ、地域への責任を果たさない金融機関には支店開設、合併、買収などを認めないとする法律。住民側は銀行規制に法的強制力の後ろ楯をもつことになった。

 日本では、銀行の合併や事業拡大に際して、その社会的責任が問われるなどということはまずない。例えば1990年、三井銀行と太陽神戸銀行が合併し、日本最大、世界でも第二位の「太陽神戸三井銀行」(現さくら銀行)が誕生した。これは衝撃的合併として伝えられはしたものの、地域貢献の観点から合併を認めていいかなどという議論は日本ではまったくなく、そもそもそのような概念自体が存在していなかった。しかしこの合併の米国内での認可は市民団体から強い反対を浴び、大いに難航した。低所得地域への融資の低調さ、経営陣に黒人、中南米系などマイノリティ登用が少ないことなどが批判され、CRAに基づく異議申し立てが行なわれたのだ。合併認可後も、ニューヨーク現地信託法人の商業銀行への転換申請をめぐって公聴会が開かれ、批判が噴出した。三井側は結局、この採決が下りる直前になって申請を取り下げている。

 在米日系銀行の地域貢献問題は以後も尾を引いており、例えば邦銀が全金融資産の4分の1を占めるまでになったと言われるカリフォルニアでは、グリーンライニング連合などの市民団体が、融資状況のデータを公表するなど積極的な抗議啓発運動を展開している。邦銀側も一定の地域貢献努力を行なう方向に動いている(詳しくは石朋次、柏木宏『アメリカの中の日本企業』日本評論社、柴田武男「地域再投資法改正の影響と現行の規制構造」『証券研究』1994年2月など)。

 インフラの整備に関しては、発展途上経済ばかりでなく成熟した市場社会でもしばしば非市場的な公的介入の方策が採られる。重要なことは、経済開発に市場がいいか公共路線がいいか二者択一の選択があるのではないということだ。市場は必ず公共的なインフラを前提にするし、公的インフラは活発な市場の動きの中で醸成される。100メートル短距離走に人びとの興奮の目が向く時、そこには、動かない大地、安定した大気、走り抜ける各走者の空間、各種規則(号砲での一斉スタート他)といった競技上の「インフラ」が前提として与えられている。そしてそのインフラはしばしば競技者以外によって「公共的に」形成されてきた。

 それまで背景のインフラだと思われていた「通信」に市場原理が入り込み、活発な競争に行なわれる、ということが起こる。しかし、それは市場と公的インフラの境界をどこにおくかの問題であり、技術と産業の変化によってこの境界の組み合わせは柔軟に解決されなければならないということである。一方の原理が他方よりも無前提的に優れるとの主張は全体の見取図ではない。

 政府の失敗している所でその代わりを果たすのは市民の運動だった。それは抗議と告発にはじまり、CDCなど住民型の地域づくりに受け継がれていく。CRAの場合は、それがさらに立法化を経て一定の公的制度にもなった例だ。

 が、CRAでみる限り、公的介入の形態は依然として「アメリカ的」である。決して政府自らが低所得地域で融資を行なうというのではない。あくまでも民間の銀行が融資を行なう。政府の役割はそこへの誘導を行なうことだ。住民の監視機能に公的な「歯」を持たせ、最低限の規制的な介入を行なう。「CRAは、年間40ー60億ドルの低所得地域向け融資を実現されているが、これを大きな官僚組織なしに行なった」と連邦準備制度理事会(FRB)のローレンス・リンゼイ議長は評価している(CRA Alert, Jan. 28, 1995)。
 

CDCのオルタナティブ銀行

 ここ30年間のCDC運動の最大の成果は、こうした経済開発の具体的ノウハウを、確実に地域の人びとの間に蓄積してきたことだと言われる。金融の面に限ってみても、例えばCDCの全米援助組織、地域イニシアチブ支援組合(LISC)は、NPOの税制優遇を最大限生かして低家賃住宅開発基金(National Equity Fund)をつくり、企業がそこを通して税控除で事業投資を行なえるシステムをつくっている。別法人の地域主導資産管理公社(Local Initiatives Managed Assets Corp)をつくり、これを通じて金融機関にローン転売を行なうという高等戦術もとる。ローンを証券化して売却、それをさらに新たなローン提供に流用して手持ち資金以上の融資を可能にする訳だ。自治体の通常歳入以外の収入でつくられた住宅信託基金が全米に25あり、例えばサンフランシスコやボストンでは、商業開発をするデベロッパーに低家賃住宅建設も義務づけ、これができない場合は信託基金に寄付をさせるという形で資金を集めている。テナントみずから共同出資する住宅生協、共同住宅協会など多様な所有形態による住宅建設も実験されている。

 このような中でも、CDC運動の最も象徴的な存在となったのは、シカゴの市民銀行、サウスショア銀行であった。1972年、同市サウスショア地区のサウスショア・ナショナル銀行が、低所得者地区・サウスショアの店舗をたたんでシカゴ中心部へ移転する計画を発表したが、これに対する反対運動の中で、「イリノイ近隣開発組合」(INDC、1986年に「サウスショア銀行組合」と改称)というCDCが同銀行を買収し、市民のオルタナティブ銀行につくり変えた。教会、財団、個人などからの寄付寄付(80万ドル)の他は、買収先資産を担保(240万ドル)にした「LBO買収」という危険な賭け。周囲のほとんどの人が低所得地域の市民銀行など失敗すると思っていたが、試みは成功し、現在、サウスショア銀行はクリントン政権の経済開発政策にも影響を与える有力なCDC運動事例となっている。

 買収後数年間は、サウスショウア銀行には、銀行業務経験のある人がだれも入って来なかったと言う。こんな低所得地域の市民銀行にだれも未来があると思わなかった。銀行は、活動家たちの試行錯誤の中で立て直しへの道を歩み出す他なかった。営業時間をのばし、最低預金残高制限を一ドルに下げ、口座開設手続きを簡略化し、緑地環境のドライブイン窓口を開設し、建物をモデルチェンジし、従業員のデスクを顧客向きに変え、地域に出て住民のニーズを聞き、銀行理事会に住民の助言機関を設けた。域内に積極的な投資を行ない、スラム化の最もひどかったパークサイド地区やオーキーフ地区での住宅改修プロジェクトを積極的に支援した。

 買収前に同銀行の域内住宅ローンは年5万9000ドルのみだったが、1976年までに150万ドルに増える。全融資の60%が域内向けになり、域内預金の20%を受ける同銀行が、域内住宅ローンの50%を供給するようになった。単に金を貸すだけではない。地域生活の中で人びとを組織し意識を変え、地域全体を活性化することがより重要な課題だった。銀行とは別に「近隣協会」(NI)というNPOを設立し、借家人権利擁護、職業訓練、地域教育、その他多様な社会問題に対処する住民の運動を組織していった。

 現在、サウスショア銀行の金融資産額は1億2500万ドル。内、家族世帯向け不動産投資が7500万ドルを占める。域内住宅ローンの75%を同銀行が供給する。興味深いことに、これらのローンの焦げ付きは少なく、全米平均3ー5%に対して同銀行の焦げ付きは1ー2%にとどまっている。不動産損失も全体の0.1%と低く、逆に銀行収益は11.25%と、全米平均より高い。サウスショア銀行の成功は域外の他の銀行も注目するところとなり、同地域内の住宅ローンに新たに参入する銀行も現れ、かえって競争が厳しくなったという。

 他地域からの支援要請も増え、1988年にシカゴ地域のもう一つのスラム地域オースチンに支店を開設し、93年までに同地域の住宅ローンの20%を供給するまでに育てた。クリントン大統領のアーカンソー州知事時代に、同州南部の農村開発事業支援も要請され、都市部スラム地域とは異なる環境での経済開発の経験も積んだ。ポーランド・アメリカ基金を通じて、ポーランドでの小額ビジネス融資事業支援などにも駆り出されている。

 クリントン大統領は、大統領選当時から、こうした市民銀行による経済開発を高く評価し、住民主導型の経済開発を政策の柱に据える意向を表明していた。当選後の92年12月、リトルロックで行なった経済サミットにサウスショア銀行の代表を招いて意見を聞き、翌年7月にはこうした住民主導型の「地域開発金融機関」(CDFI)支援の法案を議会に出した。これは、94年9月、リーグル地域開発規制改善法(RCDRIA)として成立。その中でCDFI支援に対する向こう4年間、3億8200万ドルの予算が計上されている。

 昨年の中間選挙での共和党の勝利により、現在、議会では、CRA規制を弱める法案(H.R.317)が出されるなど、保守派の巻き返しが強まっている。が、過去30年のCDC運動の流れを元に戻すことは難しい。各地の地域開発運動体は、全米地域再投資連合(NCRC)を通じて、議会へのロビーイング活動を強めている。
 

オルタナティブの経済戦略

 「私は、大学では教職課程をとっていました。不動産については何も知りませんでした」とEBALDC事務局長のリーが言う。「私たちは、皆、活動の中で、オンザ・ジョブ・トレーニングを受けてきたようなものです」と明るく笑うリー。3300万ドルの資産を運用する法人の責任者の言葉とは思えないが、これがCDC運動の本質だろう。

 CDC運動は、決して専門家でなく、素人の、しかし地域の問題をよく知る住民によって担われてきた。地域の住民だけが、その地域の経済的、社会的、文化的な背景を最もよく理解し、その経済開発を最も有効に推進することができる。

 「CDC運動の成果は、アメリカの精神の中に、現実に対処するオルタナティブの方途があることを明かにしたことです。経済は個人的利益のためでなく、地域の発展のためにも組織されうるという概念を導入したのです」と経済学者のサンヤッカさんが語る。最も堅固な市場経済であるアメリカで生まれた協同型の地域開発戦略の意味するところは大きい。第三世界ばかりでなく、成熟した市場社会においても、それが前提とし忘れている領域に対して、今後も重要な提起をしていくことだろう。
 


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