フリーライターにおける市場の役割
大竹財団『地球号の危機』1995年7月号より
「よい本は売れない。」
そううそぶいて、しかし私は、売れないという市場の判断をとても重要なものだと思っている。自分の書いたものが売れないことをそういう形で弁護するのは、私の瀬戸際のメンツであるだろう。しかし、「よい本」は結局売れるのだ。大売れはしないにしても、よい内容のものを適切な切口で書けば、ある程度までは必ず売れる。売れないのは、たとえ中身が「よく」ても、切口が鋭くなかったり、問題意識が古かったり、思い込みが強すぎたり、現実への取材がなかったり、やはりどこか欠陥がある。売れるか売れないかの「市場」を決してばかにしてはいけない。それが、市場でフリーライターをやっている私の信念だ。
私は青年実業家だ
あなたは何者かと聞かれて、私は、時には「市民活動家」と答え、時に「フリーライター」と答え、さらには「青年実業家」、「ジャーナリスト」、「在野の研究者」など様々に答える。それぞれに一理ある。「青年実業家」というのは、私がフリーライターという「営利事業」を行なっているからだ。フリーライターは企業ではないが、市場社会の中で機能する個人の事業であり、その意味で一つのビジネスである。
市場は、私の執筆的活動を歪めるだろうか。つまり、私は金のために書くことによって内容を堕落させるだろうか。
幸いにもそうとは言えない。私は、書こうと思っても金になる推理小説や快楽小説は書けない。ビジネスやコンピュータ産業をヨイショする記事も書けない。売れるものを書こうとするとなかなか書けなくて返って損をする。それよりも、売れるかどうかを別にして自分の納得のいくものを生まじめに書いた方が、結局筆も進み、長い目では金もある程度は入ってくる。街の商店などでも同じだろう。儲けようとえげつなくやっているとかえって儲からない。大儲けしなくてもいいからと、正直な商売をやっていけば結局はそこそこ儲かる。フリーライターもそれと同じだ。
そういう意味で、私は「社会的責任ビジネス」をやっている、とも思う。グリーンビジネスを初め、環境に害を与えず人権を損なわず軍事にもかかわらず「社会的に責任をもった」ビジネスを起こし、またそれを消費者(グリーンコンシューマー)が支援して育てる運動がアメリカで盛んだ。私は個人のビジネスだが、大企業同様、社会的責任や社会的貢献を社是とし、時には実際に「企業のボランティア活動」にも励み、企業市民の責務を果たさなければならないと思う。
思うに、知的事業者は市場を離れる時にむしろ堕落する。大学などに永久就職し、何も研究しなくとも給料が保証されるようになったら要注意だ。マルクス主義や左翼理論一般が現実にあわなくなっても、大学内ではマルクス解釈学派が長い命脈を保つ。市場につき合わざるをえない硬派の雑誌、出版社、フリーライターは、すぐ潰れる。
市場に左右されない学の世界というのもそれなりに必要なのかも知れないが、本当の意味で知的活動を大切にするなら、そういう世界は避けたい。
私は練金術師か
腰痛持ちの私は、足腰を鍛えるため毎日1時間以上散歩する。必ず行くのが近くの古本屋だ。
アメリカの本屋というのは貧乏人に優しい。新刊でもちょっと売れないとすぐに値引きされる。古本屋では、今年発売の本も古本で出る。何年か前のものになると、新本でも古本でも一冊一〇〇円、二〇〇円などというのが出てくる。
私が探しにいくのはそういうセール本……でさえない。「ただ」の本だ。くだんの古本屋にはセール本コーナーの下、床上の段ボールに無料本の置場がある。毎日お昼頃に一〇〇冊程度がドバっとぶちまけられる。私はその頃合をみはからって「散歩」に出、数人の同業他社と競って床上をはいずりまわる。昔の学術書みたいなものが多い。運動関係の本、例えば六〇年代のアングラ誌に関する本、黒人解放運動史の本なども多く、私にとっては宝と言えるような貴重本がたくさん手に入る。
定価販売の再販制をどう見るか、制度全体を評価する力は私にはない。しかし、少なくとも本の消費者にとって、こういう出版自由市場はありがたい。売れないが貴重な本が必要な人の所にきちんと届く。少なくとも在庫本を大量に裁断するシステムより優れているように思う。
日本でも私は古本屋でよく3冊100円といった古本ばかりを漁った。何々社自主管理闘争全記録などという私にとっては貴重な本が二足三文で売られているのを見るのは、痛ましいというか、うれしいというか。
ただの本を元手に記事を書いて原稿料を稼いでいるとしたら、私は練金術師ではないか、とある時考えついた。私は無から価値を生み出している! 興奮して友人に話したら、売れない本ばかりを元に書くから書いた記事も売れないのだ、と指摘された。ウーム、どっちが本当なのだろう。
シビライズされた市場
市場はシビライズ(文明化)されている。例えば私が雑誌社に記者として雇われているとする。へたな文を書けばたちまちデスクに怒鳴られ、同僚からも容赦ない批判を浴びせられるだろう。人と人との激しい関係の中で、感情を荒げながら文章が「洗練」されていく。
ここで、雑誌社という企業の中は、非市場的な空間だ。記者は、原稿1枚いくらで記事を編集長に売っているのではない。命令経済の中で強制的共同的に記事を書いている。
だが、フリライターは純然たる市場の中で存在し、チェック機能は、怒号を伴わず静寂の中で残酷に作動する。凡作を書けば、もう二度とその雑誌社から原稿の依頼は来ない、という形で私は制御される。激しい批判を浴びることはないが、いつの間にか仕事がなくなるという形でチェック機能がはたらく。
時には面と向かって罵声を浴び、徹底して議論し合いたい、と思わないでもないが、それは批評会の席でやればいい。市場は、人間関係を不必要に荒げることなく社会を制御する文明の巧みだ。
人は青果店や衣料品店や金物店で、この商品はくだらん、けしからんと罵倒して社会的生産を制御するのではない。つまらないモノには一瞥をくれただけで静かに去る、つまり買わないという行為によって制御する。時には生産者に向かって正面から批判することも必要かも知れないが、複雑な現代社会で、すべてをそんな形の制御にまわすことはできない。
市場を拒否して生まれた生協組織やワーカーズ・コレクティブが、非常にしばしば人間の間の感情的対立で崩壊する。例えばバークレー生協がそうだった。人びとの間の直接的な共同性を実現しようとすることが、返って経済的諸矛盾を内部の人間関係の中に体現させ、危険なレベルに燃えさからせる。市場的な統御の美をわざわざ捨て去る理由はない。独立した個人のゆるいつながり、というネットワーク組織論がここから生まれる。
フリーライターのグローバル出版業
インターネットは私の職業生活を変えるだろう。私はフリーライター兼出版者になる。苦労して大雑誌に記事を売り込む必要はなくなる。「市場」からの厳しい評価は相変わらず受けるが、もはや記事が採用されないという形で制御されるのではなく、発表した後、読者からの直接の評価によって制御される。
ゴーファーでもワールドワイド・ウェブ(WWW)でも、インターネット上では、世界的ネットにつながった自分の情報ベースを簡単に持つことができる。現段階でも、アメリカの商業ネット、プロドジーには無料でウェブのホーム・ページをつくらせてくれるサービスがある。そこにだれでも、例えば自分の書いた記事100本を集めて、世界中の人が読めるような形に載せることができる。
独立した自分のサーバーをつくるのも簡単だ。無料の公共ソフトと数年前のパソコンを使い、電話線をつなげばよい。日本では「NTT亡国論」が出るほど通信回線が高いが、アメリカは安い。例えばカリフォルニアのパシッフィック・ベル社管内ではISDN料金が月25ドル。ケンタッキー州グラスゴー市営電力公社では、日本なら大学や企業しか入れない高速の「T1回線」を月20ドルという驚愕的料金で提供しはじめた。インターネットではホストがどこにあってもかまわないから、これからは日本向け日本語データベースもどんどんアメリカ内に設置されるだろう。日本では「通信産業空洞化」が進む。
さて、私はこうして世界3000万人がアクセスするネットに私自身の記事データベースを構築できる。現在の所、日本語を読む層は少数派だが、インターネット自体が爆発的に拡大しているから、近い将来、日本語読者層もだけでこれくらいになるだろう。
私は宣伝をする必要はない。読者は、キーワード検索で自主的に私の記事にたどり着いてきてくれる。例えば日本で大きな地震があってボランティア活動が活発化した時、アメリカではどうだったのかと、「サンフランシスコ地震」「ボランティア」などのキーワードを入れる人が出てくるだろう。すると、私が書いた「サンフランシスコ地震−ボランティア市民の教訓」などの記事が現れる。他に同種記事はないので、これは結構読まれるかも知れない。
すばらしいのは、一塊のフリーライターの記事が、天下の朝日新聞の記事などと同じレベルで、例えばその隣に映し出されるということだ。同じ条件で情報が世界中に届き、純粋に「内容で勝負」の商売ができる。
現在、インターネット上は、課金システムが徐々に開発されてきており、これをインターネットの商業化として嫌う人もいる。しかし、分権的なインターネットでは、どこかの中心が一元的に課金するのでなく、そこに垂れ下がった無数の個人、小ネットが独自にお金を取るということだ。世界ネット上にだれでも私設データベースが持て、規模の大小に関わらず検索によって平等に発見され、かつ平等の手軽さで代金がとれるとしたら、ネット上の課金は、長期的には、個人や小ビジネスを強化する方向に作用する。「レベル・プレイング・フィールド」(平らな競争の場)が生まれ、規模の経済が意味を失う。そこにこそ、インターネットの興奮の本質がある。
市場の公共性
かつて市場は公共の場だった。市の立つ空間は他のどのような空間にも増して公共の場であり、人びとはそこに集い、語らい、曲芸に興じ、異国の産物に触れ、市の秩序を語り、都市の政治を行なった。そこは、人びとの精神が解放される場であり、芸術家は好んでこの活気ある空間をキャンバスに描いた。
市場は私利追求によってだけ成り立つというのは後世の経済学者の創作である。むしろ市場は公共の精神が誕生した地であった。政治が、民主主義が、人びとのあらゆる社会活動が、要するに市民社会が市場から生まれた。
今日、市場は特定の空間から離れ社会全体に拡大したが、そこで人びとは市場を制御する崇高な使命からも切り離された。企業に侵蝕された市場の中で、人びとは雇われた労働者か、消費者としてだけシステムにかかわる。彼らはこの市場に愛着を感じず、あらゆる悪罵を投げ、これを打倒しようとする革命思想さえ生み出した。しかし、市民社会は市場を奪い返さない限り自らを完成させることがなく、市場を市民の制御下におくことが革命の内実だったのだ。
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