火が猛烈な勢いでアパートに広がりはじめた。倒壊した二階部分に入っていた消防士が脱出した。上の階の窓から炎が吹き出す。混乱する路上の群衆。と、その時、閉じ込められたはずの住人が二階窓に姿を現した。自力ではいだしてきたのだ。
「逃げろ。」「飛び降りろ。」
興奮した人びとが叫ぶ。男は立ち上がり、三メートル下の瓦礫の上に頭から落下する。すぐ消防士とボランティアがかけ寄り彼をタンカにのせる。「妻がまだ居る。助けてくれ。」と男は叫んでいた。
「大丈夫だ。今、助ける。」
ウソだった。彼の飛び降りた窓は火をはきはじめていた。タンカが一街路区画も運ばれない内に、アパートは轟音をたてて崩れ去った。「そこに居合わせただれもが、この恐怖の瞬間を息をのんで目撃した。私たちは泣いていた。が、すぐ、次にでき得る救助作業に移らねばならなかった」とスチュワート・ブラントが書く。
一九八九年一〇月一七日、サンフランシスコを襲ったロマ・プリータ地震。死者六七名を出したこの地震で特に被害の大きかった同市マリーナ地区を、たまたま『ホールアース・レビュー』誌のブラントが通りかかり、にわかボランティアを体験した。カウンター・カルチャー時代、かのベストセラー『ホールアース・カタログ』をつくり、現在コンピュータ分野でも活発な仕事をしている。震災の傷が癒えていく中で、彼はボランティア体験を反芻し、多くの他のボランティアにも取材しながら、市民の視点から貴重な震災総括特集
Learning from the Earthquake (Whole Earth Review, Fall 1990) をものにした(現在Whole
Earth誌、Whole Earth magazine, 1408 Mission Avenue, San Rafael, CA
94901, (415) 256-2800, info@wholeearthmag.com)。
救出は、混乱の中での試行錯誤の連続だ。声などから倒壊家屋に人が居るのがわかっても、実際にどこの部分に閉じ込められ、どういう経路で救出できるか特定するのが難しい。へたに構造物を動かすとさらなる倒壊の危険もある。そこに火の手がまわる。消防車は来ているが、消火栓から水が出ない。
「これは悪夢だ。消防士として火事の現場に居ながら火を消せず、しかも中に人が閉じ込められているというのは悪夢だ」と陣頭指揮をしたジャブズ消防長が言う。
倒壊アパートに閉じ込められていたレイ夫妻は、抱き合う形で救援を待っていた。外と声でやりとりはできたが、身動きが取れず、特に妻は腰から下に重症をおっていた。火がまわりはじめた時になって、夫は渾身の力を振り絞ると這い出すことができた。瓦礫が動いて妻がさらに苦痛で悲鳴を上げた。そして彼女を引き出すことができない。取り合えず外に出よう……。そしてそれが最後の別れになった。
救援ボランティアたちは、無駄な恐怖を与えないため、中の二人に火災発生の事実を知らせないでいた。「だが、発火直後に初めからこれを彼らに言っておけば……ビルがもっと早く脱出し、救助隊はジャネットの方も助けられたのでは。」とブラントは問う。
過酷な問いである。しかし、ここから、そして他の多くの震災時ボランティアの証言の中から、彼はある重要な教訓にたどりつく。「閉じ込められた被災者を無力な犠牲者として扱ってはいけない。救助チームの中の、ぬきん出て意欲的な一部として扱わなければならない」。つまり、「彼らにあらゆる情報を与え、彼らの協力を得なければならない。どこにどう閉じ込められているか積極的に説明させ、どう救助したらいいか聞く。こちらのやっていることを説明し、可能なら用具、医療機器も渡して努力を促す。」
大地震のまっ只中では、居合わせた現場の居た人びとが急速にボランティア化し、これが救助の主力になる。突き詰めて言えば、閉じ込められ傷ついた被災者自身が最も苛烈な形で「救助ボランティア」になる……。
「さあ、ここをどいて。」
阪神大震災で行政の対応は圧倒的に遅れたが、アメリカの行政は素早い対応をした−というのは幻想である。ここでも事態は似たようなもので、直後の緊急時に行政の能力は完全に事態に圧倒された。いたる所で無数のボランティア救助活動が行なわれ、マリーナ地区では「最初の最も重要な数時間、三対一の割合でボランティアの数がプロの救助隊を圧倒した」。そして、遅れてやってきた警官はマニュアル通り、まず市民の排除を行なおうとした。むろんブラントは引き下がらない。
「私の方が、ここでもう一時間も救援作業をしてきたのだ」と言い返す。
けんまくに圧倒され、警官は引き下がる。
「このような権威の逆転は、マグニチュード七・一の地震に襲われた北カルフォルニアのあらゆる所で、様々な形をとって展開された。居あわせたボランティアがその場で学び救助活動を行なった。救助のプロたちはこの災害の規模に充分準備されていなかった。だれもがにわか仕立てで行動していく以外なかった。」
消火栓、水道、電気、ガス、電話、すべてが停止した。乾き切ったカリフォルニアの夏が木造建築を燃え易くし、倒壊して壁のなくなった木造物は漏洩ガスの爆発も伴って驚くべきスピードで燃え広がった。近くの池の水で消火活動をするが、とても間に合わない。六時過ぎ、消防隊長は海上消火艇の出動を要請する。
マリーナ地区はサンフランシスコ湾に面し、火災箇所はヨットハーバーの近くにある。消火艇フェニックス号が波止場への困難な接岸を果たすと、待ちかまえたボランティア数十人がホースをもってディビザデロ通りを火災現場にかけ上る。これはTVカメラに収録され、地震で最も感動的な場面の一つとなった。毎分三六トンの強力な海水ポンプが作動し、さしもの大火事も下火になる。
「マリーナ地区は救われた。」
翌日の新聞は、消防署、市当局、ボランティアの勇敢な消火、救助活動を賞賛した。消防隊員が肩をたたきあう姿。確かに彼らも死力をつくした。が、そんな手放し賞賛の報道は、あの場で妻を失ったビル・レイを怒らせた。「私の個人的な悲劇をシェアしてくれとは言わない。……しかし、私の立場から見ると、救助活動は極めて不充分なものだった。状況が異なれば事態はさらに悲惨なものになったはずだ。」
地震が夜だったら倒壊家屋に何百という人が居たはずだ。日暮れまで数時間あり、救助活動がやりやすかった。何とか消火艇が使えるだけ海の近くだった。被害は(地盤の弱い)マリーナ地区に集中し、外部から多くのボランティアがやって来れた。そして何よりこの日、風がなかった。この地域は普段なら、ゴールデンゲイト橋の方向から強い西風が吹く。それがあれば火は一時間で全マリーナ地区をなめつくしたただろう…。
「溺れている人を助けるため危険を侵して水に飛び込む人のことを新聞などで読む。たぶん、考えている暇などないのだ、自然にそういう行動が出るのだ、と私は思っていた。しかし、そうではなかった。実際はこの時、人は考える。救助のためこの(半壊)家屋に入ることもできる、入らないですませることもできる、そして入ればリスクもある、と短い時間に考える。そして決断を迫られ、結局入ってしまう。そして入りこむや否やもはや考えない。最善をつくすことだけに集中する。」
血だらけになった人を車からひっぱり出した時、周囲の群衆が立って見ているだけでがっかりしたとも彼は言う。ボランティアは自然に生まれるわけではない。それまで個にこもっていた都市市民に飛躍が訪れるには何らかのきっかけが必要だった。
彼の場合、直接には、二人の男が負傷者を窓から下ろしている姿を目撃したことで救援活動に入った。そうか、救助が必要な人びとがいるのだ、とその時気付いたと彼は言う。「ショックと混乱が支配する中で、災害時の行動のほとんどは模倣から始まる。最も有効なリーダーシップは例を示すことだ。」
ショーフラーはこの二人の男に「隣の家にも負傷者が居るのか」と聞いた。そして「なんで俺が知ってる?」と怒られた。二人が事態を完全に掌握して動いているかのように思ってしまっていた。そこでまた教訓。「地震の直後では、どこにも責任者など居ない。自分でまず行動を起こすこと。でないと、何もはじまらない。」
ブラントは、半壊家屋に入った時の奇妙な感覚をこう記す。「壊れた部屋に足を踏み入れると、私は、見知らぬ人のプラバシーに侵入した人のような気分になった。つぶされた遺体やものすごい怪我をした人がいるのではないかと緊張した。だまりこくり、忍び足で歩いた。」
が、この時、彼の歩いた床の下三メートルには、傷ついた老コックス婦人が閉じ込められていた。彼はこれに気づかなかった。数時間後、彼女は無事救出される。「教訓。建物を捜索する時には声を出せ。“だれか居ますか。居たら叫ぶか、何かたたいて音を立てて下さい”と。」
地震は突然やってきて、それまでの日常をひっくり返す。しかし、人びとはすぐにはこの状況変化に対応できない。運転する車の停車中に揺れを感じた彼は、まわりにいた黒人少年たちが車を揺すったのだと思った。
彼は、この貧しいアフリカ系アメリカ人地域でガン予防の会議に出席した後、恋人にイグアナのびっくりプレゼントを買うため、は虫類のペットショップに向かっていた。犯罪多発地帯だ。用心し、ドアのロックを締めて運転していた。だから車が揺れた時、ドライバーを外に誘い金を取る常習手口と判断した。車を急発進させてその場を逃れる。
すぐ、垂れ下がった電線に行く手をさえぎられた。何だろう…上を見て初めて彼はあらゆる物が揺れているのに気づく。
「緊急事態を認識するまで人はどれくらい時間がかかるのか。地震は一五秒だけだったが、この間私の頭を支配したのは、(この夜もうすぐ始まるはずだった大リーグの)ワールド・シリーズのこと、仕事のこと、そして車の安全と通過中の地域への恐怖感であった。これが私の判断をあやまらせた。……私は、最初の最も危険な時、安全な所に車を寄せるという、行なうべき肝腎なことを実行できなかった。」
十字路でハンドルを切ると、目の前に、陥落した高速道路が飛び込んできた。まだ残骸が落下し続けている。二層の道路が一層にひしゃげ、何台もの車が地上に落ち、上層に残った車のいくつかがユラユラ揺れて落ちそうだった。
周辺の家から、工場から、上層の路面から、人びとが次第に現れる。不思議な光景だった。彼らは決してあわてふためいていたのではない。ゆっくりゆっくり、半ば放心したように動いていた。
「私は医者として直ちに行動に出た……と言いたいが、残念ながらそうではなかった。最初のぼんやりした時間、私は、早くペット店に急がねば、と考えていた。」とレネッカーが振り返る。
その時、一人の黒人青年が道路に現れ、前に進むのは危険だとドライバーを制しはじめた。それでレネッカーは我に返る。車を止め聴診器をつかんで最も近くに落下しているトラックに向かった。
プロの救急隊員も我を失う。つぶれた車の中の被災者を救出するため、レネッカーは現場で両足切断手術を指揮した。これに加わった救急隊員の一人が自失状態に陥った。ある時点で、車の中に残された足をじっと見つめるだけになり、レネッカーは彼を後方にまわすよう指示する。
「大災害に直面し、ほぼあらゆる人が初期には自失状態に突き落とされる。あまりの異常事態に、対処する能力を失う。皆、うろつく生物の集団になってしまう。しかし、そのどん底からの這い上がり方で、人間の間の違いがでる。各々は、自分がやり慣れた行動を起こすことにより立ち直る。私の場合なら医療活動であり、警官にとっては交通整理、レポーターにとっては取材活動だ。自力更正を行なう力は人それぞれ異なるが、今回わかったことは、人はまず何か自分ができることをやりだす中で少しずつ自己を回復していくということだ。まず、このプロセスを起こさせよう。最初からすべてを明晰に考えられるとは思うな。あらゆることをいっぺんにできると思うな。」
サンフランシスコのマリーナ地区が高所得のヤッピー層の街だったのに対して、この西オークランド地区は貧しいアフリカ系アメリカ人の街だった。しかし、ここの方がボランティア救助作戦ははるかに活発に、かつ連係して行なわれた。「なぜここの人たちはこれほどまでにしっかりした意識を保ち、地震後の行動が迅速に行なえたのか、その後私は長らく考えた」とレネッカーは言う。「が、それは当然だった。災害はこの西オークランドの日常だった。麻薬のからんだ暴力団の抗争、街路での銃撃戦。警察の援助も充分でない中、地域住民はいつも自分で自分たちを守ってきたのだ。」
緊急時には、災害の起こったその場その場で、ただの市民が強力なボランティアに変身しなければならない。しかし人びとはそれまで、個にこもった都市市民であり、その日常を緊急事態になっても引きずっている。この流れがどこかで切断されなければならなかった。刺激が与えられる必要があった。それは時には革命時の様に、強力なアジテーションによっても与えられた。
ブラントは、この点についてより実際的でシンプルなアドバイスをする。「援助したいなら(どうしてほしいか)聞け。助けてほしいなら(どうしてもらいたいか)言え。地震は恥ずかしがったり遠慮している場ではない」。
声をかけあう、という極めて簡単なことだが、実際これで「群衆は居るのにボランティアが居ない」事態は、容易に解消されたと言う。人びとが隔離されている都市社会にコミュニケーションを復活させ、その場で急速にコミュニティをつくりだすことが、緊急ボランティア活動の本質だった。
高速道路上で何人もの負傷者の手当をした後、下におりると、しばらく前タンカで下ろした重症者がまだそこに寝かせられていた。驚いてすぐ病院に送るよう指示する。
救助の主力となった地域住民たちは、すでに一ブロック離れたバリケードのかなたに押しやられ、それに代わって大規模な救急医療隊が到着していた。八台の救急車が横付けになり、明るい救急照明の下に最新鋭医療機器が並び、多数の医師が手術服を着て待機していた。
レネッカーは、この医師の一人と話してまた愕然とする。二時間前に来てまだ一人の患者もみていないと言う。すぐ近くで重症者が鎮痛剤一本打たれることなく放置されていたではないか。救急隊の責任者を探したが、そんな人は居ない。救急活動にほとんど連係がなく、皆右往左往している状態に彼は気づく。
オークランド唯一の救急病院は当然にパンク状態と判断し、重症者を他の病院に送る指示も出した。しかし後に、この救急病院にはこの夜「数えるほどの重症者」しか運び込まれていなかったことが判明する。
レネッカーはくたくたに疲れていた。車に戻り、ラジオを聞いて初めて全体の様子を知る。何のことはない、彼の張りついていた所が最大の被災地だった。再び現場に戻ると、「そこにはありあまる救急車と人間が居てまるで博覧会のにぎわいだったが、皆、訳もなく歩きまわっているだけだった。」
急に、ここを去らなければならない、という思いにかられる。家に車を走らせるうち、怒りがこみ上げてきた。「なぜ私は聞いたことをそのまま信じたのか。今も、カーラジオからのニュースが、確認死亡者は六人と言っている。そんなことはない。今夜、私一人でそれ位の死者を充分見たのだ。」
ブラントは、彼らのコンピュータ・ネットワーク「ザ・ウェル」を通じてこうした悩みを打ち明け合った。「スチュワート、できるだけ早く、話のできる人を探しなさい。待てば待つほど回復に時間がかかる。」「あなたたちは凄惨な場面を体験してきた。……怒り、落胆、不安の感情をもち、現場で自分のとった行動に悔恨の気持さえ感じはじめているかもしれない。それらはすべて正常な反応なんだ」などの助言が届く。
しかしブラントは正直に告白する。「確かにすべて正しい。でもその他に何があるか、知っているか。あのような緊急事態の後で、日常生活があまりにも平板なのだ。あのドラマに何度も思いを馳せている自分がある。今の私たちは単に混乱しているのではない。倦怠しているのだ。」
贅沢な思いだと彼はこれを卑下するが、人間の原点に回帰させられるこうしたボランティア体験の影響は、永く人びとの記憶、社会的遺産の中に残る。
「救助作業はあまりに生々しく、息をのむことの連続だった。一度これをやってしまうともうのがれられない。名前さえ知らない他の救助者、救助した人との間にできたつながりはかけがえなくすばらしい。災害現場でやったことが何であれ、人は以後永くこれを反芻する。誇り、時に後悔の感情を伴いながら。他の人を助けるため懸命に活動したなら、その鮮やかな記憶と研ぎ澄まされた自己意識は、生涯にわたって続く。」