日本は民主主義か

 岡部一明(月刊『晨』1997年6月)

 日本は民主主義かといえば、いろいろ皮肉は言えるとしても一応、立憲君主型の民主主義国家だろう。とにかくは選挙が行なわれ、代議制の議会が存在している。

 確かに選挙は民主主義の重要な要素である。権力の頂点を一般市民が投票によって替えられるのだから。だが、アメリカの社会を永年取材してきて、民主主義は選挙と議会だけでないことを痛切に感じる。アメリカには、過去の直接民主主義の痕跡が様々に残存、あるいは再生されている。
 

議会、公聴会、市民参加

 立法における直接住民投票制度、司法における陪審員制度は、日本でもよく紹介されるのでここでは触れない。

 例えば市議会。アメリカの市議会に行って驚いた。まず、市議が少ない。通常五―七人。サンフランシスコのような大都市でも一一人。それが前の「壇上」にこちらを向いて座っている。こちら、つまり「客席」の方には何十人、(過熱した議題がある場合など)時に何百人もの市民が埋める。そして市議会といってもほとんど市民が発言している。次々に前に出て行きマイクの前で発言する。会場からかけ声や拍手が沸く。あらかた市民がしゃべった後で市議どうしで「パネルディスカッション」をして決める。

 アメリカの自治体はそれぞれ違うから一概には言えないが、だいたいどこでもこんな感じで議事が進む。市議会でもまるで公聴会のようだ。

 そして本物の公聴会はもっとすごい。これは州機関だが、私のよく取材するカリフォルニア州公益事業委員会(CPUC)は一九九四年度に計六四一日分の公聴会を開いた。CPUCは電話、電力、交通会社の規制機関。この一州機関だけで毎日、州内どこか二ヶ所で公聴会を開いている計算だ。CPUC公聴会の場合、発言に制限がない。しゃべりたい人が居れば何人でも何時間でも続く。前もって賛否同数にするなどの調整はない。

 こうした公聴会が自治体、州、連邦の全レベルに細かく組み込まれている。これではよほどの暇人でない限り、長演説で公聴会妨害、などという気にならない。市民には金も暇もないから過熱した問題の公聴会でない限り、背広を着た会社側おかかえ弁護士ばかりという光景が増える。だからこそ市民側もNPO制度を確立し専門家を育成・雇用し、本格的な政策提言型活動を重視する方向を向く。日本では政策提言活動型NPOをつくってもあまり出番がないのではないか。
 

自治体は市民団体

 日本に自治体はあるか。―ない、というのが私の結論だ。

 アメリカの自治体も私には衝撃だった。例えばアメリカの自治体は住民が設立を決議してはじめてできる。決議しなければ自治体はなく、実際アメリカにはどこの自治体にも入っていない非法人化地域(Unincorporated Area)というのが広大にある。そういう所は、カリフォルニア州の場合だと、州の下部機関である郡が行政サービスを提供している。日本の自治体はこの郡にあたる統治の末端機構だろう。

 アメリカには、大平原の真中に五―六戸の集落がつくる人口数十人の自治体などというのもある。通常の自治体はつくらないが警察だけは必要だから、小地域内で「警察区」をつくり自治警察官数人を雇う、などというところもある。その他、学校区、潅漑区、電力区、大気汚染監視区など様々な特別自治体があり、これらは時には、通常自治体とまったく無関係に領域を引き、独自選挙も行なうなど「別系統の自治体」ぶりを発揮している。日本の自治体数三二〇〇に対してアメリカの自治体(Local Governments)は八万七〇〇〇ある。

 自治体とは、結局のところ、市民が自由に結成する市民団体だったのだ。自治体とは領域をもった全員加盟制の非営利団体(NPO)である、という認識を私はもつようになった(詳しくは拙稿「NPOの起源としての都市」『平和経済』九六年四月)。
 

官僚制を部局ごとにコントロール

 コミッション制度も日本ではあまり知られていない。コミッション(委員会)は連邦段階ではいわゆる独立行政機関。立法、行政、司法外の「第四権力」だ。権力はできる限り分散させるべきだから、この意味からこの制度もおもしろいが、州・自治体段階でコミッションは官僚制監視の市民参加機構の性格が強い。

 これも一般化は許されないが、サンフランシスコ市の場合だと各部局ごとにコミッションがあり、これが部局ごとの立法機能を果たす。保健局に保健コミッション、都市計画局にプラニング・コミッションなどとあり、市憲章に規定されているものだけで一七、市管理局によれば計五五のコミッションがある。

 各コミッションの五名程度の委員(コミッショナー)は市長に任命される。コミッションは小委員会も含めて週一回程度会議を開き、これが市民に開かれた討論の場となる。多数の市民が参加、発言し、実質的に公聴会のようになる。サンフランシスコ中央図書館の電子図書館化をめぐって紛糾している図書館コミッションのコールター議長が最近、ニューズウィーク誌に次のように息まいている。

 「この前のコミッション会議など、夕方五時三〇分にはじまり真夜中まで続いた。参加者が次々に立ち、声を荒げ叫びながらあらゆることについて発言する。もう一九三〇年代の労働争議のようだった。」(Oct. 21, 1996)

 コミッションは、日本の「諮問委員会」「審議会」と異なり、実際の政策決定機関だ。日本の民主主義は選挙と議会止までで、あとの「細かい」行政決定は官僚制の独断場。コミンションはここに踏み込み各部局ごとの市民コントロールを効かす。コミンションの議事録はサンシャイン条例によってすべて公開され、各部局の情報公開も通常、コミッションが窓口になる。

 連邦政府レベルでも各部局が施行規則(Regulation)をつくる際、行政手続法により一般からの意見書提出や公聴会開催など詳細な市民参加が織り込まれていることが日本でも知られるようになった。

 アメリカでは政府以前にコミュニティーが生まれたと言われる。開拓時代から全員参加のタウンミーティング式直接民主主義が普及していた。それが基本であって、現在の代議制民主主義は変則形。だから今日でも各所に直接民主主義のなごりが残る。
 一八〇〇年にワシントンDCがアメリカの首都になった時、連邦政府の公務員は一三七人だった。同じ頃、日本の首都・江戸には三〇万の武士階級が常駐していた。日本は徳川以来四〇〇年の官治政治の果てに、最近ようやくそこから抜け出そうとしているにすぎない。その日本の現在位置が、こちらにいると痛いほどよく見えてしまう。
 


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