日系アメリカより

   岡部一明(『おーJAPAN』連載、1981年10月―83年3月)

*『おーJAPAN』は1978年3月から1986年までオーストリア・ウィーンで発行されていた日本語の月刊誌。内容的にも体裁的にも現在の『週刊金曜日』をミニコミ化したような歴史的な雑誌。河内喜彦氏(発行人)などヨーロッパ在住の日本人が協力し合ってつくっていた。久野収、宇井純両氏が顧問をつとめた。

1、マイノリティ(少数民族)の見るアメリカ日本町のみこし

多民族国家

 アメリカは多民族国家である。たとえばサンフランシスコについた旅行者は、街に多くの東洋人が歩いているのを見て奇異に思うだろう。彼らの大部分は中国系人だ。サンフランシスコの人口七〇万のうち六万人近くが中国系。マイノリティー(少数民族)の場合統計もれが多いので、市の人口の約一〇%が中国人と考えていいだろう。ちなみにサンフランシスコで最も多い名字は「リー(李)」だ。(以下、人口統計はすべて七〇年国勢調査。二〇〇〇年には、サンフランシスコの中国系人口は二割を超えている。)

 ロサンゼルスに行くと今度はメキシコ系人が多い。一〇〇万人を突破するという。ロサンゼルス郡の全人口が七〇〇万だから一割以上だ(二〇〇〇年の同郡中南米系人口は四割を超えて四三〇万人)。こんなにメキシコ人の多い街はメキシコ国内でさえも首都メキシコシチー以外にない。もともとカリフォルニア他西南部諸州はアメリカ合州国がメキシコから戦争で編入(形式上は「購入」)したところだから、メキシコ人にはあまり「よその国」という感じがしない。数千キロにまたがる砂漠の国境を越えて不法・合法含め移住者たちが陸続とやってくる。一説には合州国内の密入国者数は七―八○〇万と言われ、またメキシコ系など中南米系の数は近いうちに黒人の人口(二、三〇〇万人)を越えるとさえ言われる。(二〇〇〇年国勢調査で、黒人人口を超えて三五〇〇万人)。

 西南部からアメリカ大陸を東に進むと、アリゾナ、ニューメキシコなどでは先住アメリカ人(インディアン)の姿を多く見かけることになる。ディープ・サウス(深南部)に入れば黒人の数が増え、郡によれば人口の七―八〇%が黒人などという所もある。「黒人共和国」の独立が左翼のスローガンにかかけられることがあるが、その対象となるのがこの地域だ。

 フロリダまで行くとキューバ人が多い。マイアミ市のあるデイド郡のキューバ人人口は六〇万、市人口の四〇%強だ。ここに七九年から八〇年にかけてさらに一三万人のキューバ人難民が入った。フロリダはまた、他のカリブ海沿岸諸国からの移民・難民・密入国者も流入する。東海岸の大都市ニューヨークに行けば、ここにはあらゆる人々が来ている。黒人ではプエルト・リコからの流入者の多いことが、南部・西部など異なっている。東海岸にはアジア移民は少ないが、そのかわりヨーロッパからの移民者が多い。イタリア系・アイルランド系など白人でも合州国社会の主流から差別されてきた人たちが多い。移民コミュニティーがある程度存在する。たとえば映画「ロッキー」て描かれたのはフィラデルフィアのイタリア系人社会だ。

 総人口の一一%をしめるアメリカ最大のマイノリティー・黒人は、他のマイノリティー同様、近年都市に流入する傾向がある。首都ワシントンは人口の七一%が黒人。これはミスプリントではない。その他、アトランタ五一%、バルチモア四六%、デトロイト四三%、フィラデルフィア三四%、シカゴ三三%、ニューコ一ーク二一%、ロサンゼルス一八%、サンブランシスコ一三%などが主要都市の黒人人口の割合である。

 この欄での主題となる日系人はアメリカ全体て約六〇万人。在日韓国朝鮮人の数にほぼ匹敵する。アジア系の中では最も数が多く、黒人・中南米系・インディアンに次ぎ「第四のマイノリティー」だ。六〇万のうち二〇万がハワイ、同じく二〇万がカリフォルニア、残りの二〇万が他の諸州に分布する。ロサンゼルス都市圏で約一〇万、サンフランシスコ圏(ベイ・エリア)で約五万人を数える。

 しかしこのような多様な民族をかかえるアメリカも、人口の八〇%をしめる白人中心の国であることは隠せない。特にワスプ(WASP)とよばれるアングロサクソン・プロテスタントの人々が歴史的にこの国のメインストリームを形成してきた。人種差別的な移民法を通じて人口的にもワスプ中心の国を目的意識的につくってきた。だから、「アメリカは多民族国家である」と手ばなしでは言いきれない。が、それでもマイノリティーの人々は、理念を現実化するためにもその命題を取りさげない。
 

アメリカ人の顔をしたアメリカ人

 「アメリカは多民族国家である」ということは「アメリカ人」という人種は存在しないということだ。黒人もアジア人もインディアンもアメリカ人なのである。この意味を「単一民族国家」―本当はちがうのたが―の人間てある私たち在日日本人はなかなか理解できない。「アメリカ人」という言葉を「白人」の意味で使ってしまう所がある。これは、アメリカを白人の国だと言っているのも同然で、人種差別的な用法である。たとえば黒人とアジア人と白人が居た時、白人の人だけを「アメリカ人」と呼んだら、黒人やアシア系の人はどう感じるだろう。日本の某大学の英会話家庭教師募集のはり紙に「アメリカ人の顔をした人に限る」という一項があったと、日系三世の友人が話してくれた。
 

移民によってっくられつつある国

 アメリカが多民族国家なのはこの国が移民によってつくられたからである。インディアンだけがもともとこの地にいた真のアメリカ人なのであって、あとはすぺて過去四〇〇年くらいに外からやってきた。アメリカはたてまえ上、決っして特定の民族のための民族国家なのではなく、「自由」という建国理念によってつくられた国だ。だからアメリカは隷属と抑圧にあえぐ旧大陸の人々を受け入れ、民衆にとって「自由の大地」として存在してきた ―というのは、しかし、残念ながら神話である。白人にとってはともかく、有色人種にとってはそうではなかった。黒人は奴隷としてアフリカから無理矢理つれてこられたし、アジア人は移民が制限、あるいは禁止された。そしてどんな民族・人種であっても新移民は常にアメリカ社会の最下層にくみこまれ、安い労働力として使われる構造がアメリカ史を一貫してつらぬいた。

 アメリカは移民によってつくられただけでなく、今でもつくられつつある。年間四〇万から六〇万の移民受け入れは今でも世界最大。とくに一九六六年に人種差別的な移民制限が廃止されて以来、第三世界の国々から多くの移民を迎えることになった(七八年度の移民総数のうち七七%がアジア、ラテンアメリカよりの移民)。中国系・韓国系・フィリピン系は年間ほぼ三万人が移民しているし、日本人でも年平均四〇〇〇から五〇〇〇人になる。むろんアメリカ合州国自体は堅固な近代国家だが、人脈的には細いパイプ管を通じて今でも世界の他の国々とつながっている。アメリカ合州国は、(他の新大陸諸国も多かれ少なかれそうであるが)これまでの国家と一味ちがい、どの民族の人々にとっても可能的には「私たちの国」でありえる性格をもつ。現実には、新移民は低賃金労働力としてこの人種ヒエラルキーに入るだけだが、いったん新しい社会で生きはじめた人たちは「よその国で働かせていただく」という意識を捨てはじめる。アメリカが「移民の国」であり、「万人にとっての自由の大地」であるならば、我々もまたアメリカの本質の正統な具現者ではないか ― 六〇年代からのマイノリティー意識覚醒の中でこういう意識が確実に成長している。
 
 

2、日系三世:アイデンティティーの旅

日系人とは何か

 日本人にとって日系アメリカ人とはどう映るだろうか。一世についてならかなり鮮明にわかる。明治の頃、裸一貫アメリカに渡って大変な苦労をして今日の成功を築いた人々。まれな成功物語ばかり語られるのでそんなふうに理解している人が多いだろう。実際は排日の中でアメリカ内少数民族としての悲哀をなめた人たちであり、抵抗運動あり、身よりない異郷にひっそり死んでいった人あり、と多くの「埋もれた過去」をはらんだ人々だった。しかしそれでも明治の日本人としての一世の姿は比較的容易に思い浮かべられる。また二世も、英語を話すが日本語もかなり理解し、隔離された日系社会で育ったから人情その他の日本人的性格を多分に残し理解しやすい。わからないのは三世である。彼らもやはり日本人の顔をしている。ところが話しかけても日本語を解せず、ペラペラと英語でまくしたてる。動作といい表情といい、まったく「アメリカナイズ」されている。ドキリとして「あれ、日本人じゃないのか」と思う。私たちの知っている日本人とは、日本語を話し「恥」とか「人情」の文化につかっているあの日本人でしかないから、この突然の遭遇にまごつく。「日本人じゃないんだ、アメリカ人なんだ」とわりきることが多いだろう。が、どうもやはり日本人の顔をしていし、変だなあという感じかつきまとう。
 

三世の自問

 私たちのとまどいは日系三世のとまどいでもある。「私は何者なのだろう」という疑問は彼らの中でこそ、より深刻にあらわれる。例えば、アメリカで最初にアジア系アメリカ人のアルバムを出した日系三世シンガーソングライター、ノブコ・ジョアン・ミヤモトが次のように歌っている。

 「幼い頃、私はよく聞かれた。おまえは何人? ママが教えてくれた通りに答える。アメリカ人よ。チンチン・チャイナマンだ。おまえはジャップだ! くやしさをかみしめながら家に帰る。ママは言う。かまわないのよ。ひとりで歩いていく人が一番速く歩いていけるのよ。私は聞かれつづける。あんた何もの? 私はアメリカ人よ。言葉が返る。いいや、ほらナショナリティのことさ。私はアメリカ人よ。そこが私が生まれたところ。こみあげる熱いもの。そして皆が知りたがっている答が出る時・・・ジャパニーズ。ああ、私はそれまでずっと日本に生きてきた!」(Nobuko Joanne Miyamoto, Chris Iijima and Charlie Chin, "A Grain of Sand," 1973)

 私たちが「彼ら外人、アメリカ人」と割りきる時、それは「私たちとは違う」ということを言ったまでで、こちらはむろん明々白々に「日本人」であるから思考はそこで停止だ。ところが彼らは自分が何ものであるかつきとめるまでこの疑問を追い、時にそれは危機的な様相もおびる。いわゆるアイデンティティー・クライシスだ。しかしこれが六、七〇年代の日系三世(一般にアメリカ内マイノリティー)の原点であり、彼らが跳躍していくパネであった。彼らは自分が何者であるかをつきつめる中で新しい地点に進み出ることになる。それは私たち「在日日本人」という多数者がついに獲得することがなかった新しい立場である。('81/11)
 

3、六〇年代の運動から何かがはじまった

 アイデンティティー危機を通りぬけて日系三世たちは「アメリカ内のアジア人」、「アメリカ内第三世界」の立場にめざめていく。その背景にはアメリカにおけるマイノリティー(少数民族)運動の活発化という現実があった。
 

若い三世たちの目覚め

 六〇年代、ベトナム戦争を行なうアメリカは、内部に活発な反戦運動や学生運動を生んだ。とりわけ黒人を中心とする公民権運動の波は全米を揺り動かす。「ブラックパワー」がさけぱれ、大都市のスラム街では暴動がおこった。学校や公共交通機関内での人種隔離など、社会生活の細部に染み込んだ差別を取り除く運動がいたる所でおこった。

 この頃、日系三世の多くは多感な二〇才前後の時期に達していた。黒人運動に刺激されながら、自分たちの運動「エイジャン・アメリカン.ムーブメント」(アジア系アメリカ人運動)を生み出していく。一九六八年秋、サンフランシスコ州立大学で、黒人・中南米系・アジア系など「第三世界系」学生のストライキが勃発。翌六九年秋には近郊のカリフォルニア大学バークレー校でも同様のストライキがおこった。彼らの要求の中心は、大学内に少数民族が自己を知っていくための自己教育学部「第三世界研究学部」を設立する、ということだった。サンフランシスコ近辺にはアジア系も多く、中国系・フィリピン系・韓国系などにまじり日系三世たちもこのストライキに積極的に参加した。とくにサンフランシスコ州立大学でストライキを強硬に弾圧したのが日系二世のハヤカワ学長(現上院議員)であったことから彼らの「目覚め」ぱ急速化した。自分たちが抑圧された側の人間だという認識があるにもかかわらず、ハヤカワがそれを代弁するどころか、マイノリティーの人々を抑圧する側にまわっていることが許せなかった。

 日系人社会にとってこの三世の「反乱」はある断絶を示していた。「排日」の嵐を耐えた一世はもちろん、第二次大戦中うむを言わさず強制収容所に入れられそこで育った二世も、一部を除き、アメリカ社会への反抗は行なわなかった。新しく目覚めた三世たちは、この長い抑圧の歴史を含めて「アメリカ」への激しい告発と抵抗をはじめたのだ。 「従順で静かな日系人」のイメージがくずれはじめた。
 

地域社会にひきつがれる運動

 六〇年代のあらゆる革新運動が下火になっていく中で、しかし、マイノリティー運動は各コミュニティー内での地道な地域活動に継承されていく。アジア系の学生たちもチャイナタウンや日本町の中の具体的な問題にとりくむようになる。そこにこそマイノリティーの現実の問題が様ざまにあるし、またそこは、中国系・日系などとしてみずからのアイデンティティーを確認していく場でもあった。コミュニティー活動が自身の変革と重ねられるようになった。

 サンフランシスコの「日本町」の場合で言うと、次のような運動(団体)がいずれも七〇年代の初期に生まれ、多くが今日(八一年)までも続いている。

気持会 ―若い人によるお年寄り (一世など)の世話団体・共同食事プログうム。
・日系青少年協会(JCYC) ―青少年のための教育・文化活動。 青年団。
・日系社会奉仕会(JCS) ―カウンセリング、ソーシャルサービス。
のびる会(新渡米者の会) ―新移住者の互助組織。
・日系社会奉仕連盟(UJCS) ―奉仕活動一般。援助金とりつけのための親団体
リトル・フレンズ ―日英両語(バイリンガル)の保育所
バイリンガル・スクール ―公立学校の中につくった日英両語教育プログラム。
・日本町芸術運動協会(JAM) ―独自文化を守り育てる芸術・工芸活動。
 

 そしてこのよう日常的な地域活動グループと平行して住民運動的なグループも生まれた。当時進行しつつあった日本町の再開発に反対をかかげた「日本町の立ち退きに反対する会」(CANE)である。('81/12)
 
 

4、日本町の再開発

少数民族のとりで

 北米には日本人町というものがいくつかある。それは駐在員などがアジアなどで日本人社会を形成するのとは性格がちがっていて、「排日」からみずからを守る少数民族(マイノリティー)の地域社会であった。特に戦前では他地域に住むことが公然・隠然に禁じられたため、どこでも日系人の多い町では日本人街が形成された。現在でもロサンゼルスの「リトル東京」・サンフランシスコの「日本町」をはじめ、バンクーバー、シアトル、サンノゼ、フレズノなどにそのなごりが見られる。日系人が多数居住する他、日本語学校、教会・仏教会、日本食料品店、食堂、雑貨屋、日本語の本屋、理髪店などがならび、日系人の生活の拠点になっている。
 

くずれつつある日本人街

 この日本人町が最近急速に崩壊しつつある。大きな目で見れば、四〇年前の戦時強制収容がその第一の引金になった。西海岸から日系人たちが根こそぎ追われる中で、各日本人町は一時期崩壊していた。強制収容が終って日系人がかえってからも日本人街の復興はもと通りまでは進まなかった。かつて繁栄したバンクーバーの日本人町などはほとんど復旧されなかったと言っていいほど小規模化した。

 日本人街が再建された所でも第二の「破壊期」がすぐにやってくる。戦後、黒人などマイノリティー追い出し事業として非難されたスラム一掃の都市再開発事業が各地の日本人街もおそうのである。とくにこれが大規模におこったのはサンフランシスコの「日本町」だ。ここは隣接する黒人地域とともに、アメリカ戦後再開発史上に悪名をはせる「ウェスタン・アディション地区再開発」が行なわれた所である。五〇年代からはじまった同再開発事業は七〇年代頃にほぼ完成し、三〇〇メートル四方ほどの日本町も一新された。
 

再開発がなぜよくないか

 再開発はスラムのようにゴチャゴチャした街を新しくする事業だからいいではないか、という意見もある。確かに「日本町」もかつてのゴミゴミした街から、清潔ですっきりした「美しい」街になった。日本貿易センターという大きなショッピングセンターができ、その中には日本の銀行、電化製品のお店、宝石店、日本的物産のみやけ店、高級日本レストランなどが入った。都ホテル・京都インなどの高層ホテルも建ち、アパートなどもすべて新しくなった。

 しかしこうした立派な街がつくられるためにに何千人もの人が強制的に家を追われたことを忘れてはならない。家主ならともかく、借家人の多いこの種のアパート街では補償金や移転地の保証もほとんどないまま次々に追い出された。日系人、とくに一世にとって住み慣れた日本町は特別な場所だ。住めればどこでもいいというわけではない。最初、彼らはかつての強制収容時と同じようにだまって立ち退いたが、その社会的混乱は大きなものがあった。

 さらに、新しくできた「立派な」街に、追い出された人々の多くは戻れなかった。「過密住宅をとりこわした」こともあって住居戸数が半分以下に減った。また新しい高級アパートの家賃は驚くほど高く、入りたくても入れない。わずかな低家賃アパートには応募者が殺到して待ちリストが長くなる。高級ホテル、高級おみやげ店、高級レストランは日系人にどういう関係があるだろうか。全米から多くの観光客が「珍しい日本人の街」を見にくるようになったが、彼らのコミュニテイーは「見られる」ためのものだろうか。ジャパニーズはジャパニーズでも日系人というよりは日本からの人、駐在員などが多くなる。日本総領事館ができる、住友銀行や東京銀行が中心にたつ、カラオケバーがたくさんできる。三世たちとつきあっていて気がついたが、日本町の中で彼らの行ける飲み屋は「国際劇場」という映画館の地下にあるジャズバーだけだ。なるほど「ナツメロ」のカラオケバーじゃ彼らも行きたがらないだろう。

 こうして日本町は見かけは立派になったが、かつての人間味あるコミュニティーの機能は失なわれつつある。観光客とビジネスマンが急がしく歩きまわる街。住む街というより商売の街になってしまった。日系人の街としての性格はその冷たい建築物の形の中に、例えぱあの丸いコンクリートの五重塔などに残されているにすぎない。('82/5)
 
 

5、バイリンガル(二言語)教育

言葉を奪われる人々

 三世活動家のLは日本語がまったく話せない。が、一世のおぱあちゃんに育てられた彼女は、子どもの頃は日本語を話していた。話せなくなったのは小学校に入ってからだ。クラスの中で「妙な言葉」を話しだした彼女は皆からからかわれ、そのショックで話そうとしても日本語が話せなくなってしまった。今でも彼女は日本語を開けばほとんど理解する。しかし、話せない。どもってしまう。「ウァタァクゥシーウァー (私は)…」と英語式の発音でなら何とか言える。

 これは極端なケースだが問題をよく示している。多文化主義に慣れていない日本の人だと、アメリカの少数民族の子どもが英語で教育を受け、文化的にも「アメリカナイズ」されていくことはあたりまえ、むしろ必要なことと思ってしまうかもしれない。しかしそのような「同化」的な教育体制の中では、子どもは自分のもっている「妙なもの」へのコンプレックスをふりはらえないまま、様々な傷を人格の中に残していくことになる。

 別の例。日木から移住した両親の子どもが学校の遠足でお昼のお弁当をひろげたとする。すると中から海苔のお結びがでてくる。まわりの「アメリカ」の子どもたちは、この「妙なもの」を食べる彼をからかう。大人なならばともかく、子どもてあればなぜ自分がこんな「妙なもの」を食べるのか訳がわかっているわけではない。ただひたすらはずかしい思いをし、自分の「異質性」へのひけめを蓄積させていく。(これは、新移住者の父母からよく聞かきれる話だ。)
 

少数民族の言語と文化を守る教育

 バイリンガル(両言語併用)教育は、このような「ゆがみ」をひきおこすアメリカ公教育への批判から生まれた。英語以外の言葉を母語とする子どものため、その言語と英語の両方で授業をし、かつ文化的にも両方になっていけるように育てる。たとえば日本語のバイリンガル学校なら、授業が英語と日本語の両方で行なわれ、日本語学習の授業も独自にもたれる。低学年であれば、日本の童謡が歌われたり、日本の昔話か語られたりする。子どものもつ文化が対等に尊重される環境の中で、自分への誇りを失わない積極的な生き方をはぐくもうというわけだ。

 こうしたパイリンガル教育は、六〇年代にテキサス、ニューメキシコほか西南諸州のメキシコ系人子弟の教育などではじめられ、次々に運動が拡大する中、六七年の法律で全米的に施行されたものである。現在、合州国全体で英語を母語としない子どもたちは約三五〇万人。そのうち連郵政府の援助によるバイリンガル学校だけでも五〇万人をかかえる。予算総額年間七億ドル。使用される言語は、スペイン語(中南米系人のため)からはじまって、ベトナム語などに至る約七〇言語。むろん地域の必要性にしたがって開設されるわけで、たとえばサンブランシスコの場合だとスペイン語、中国語、日本語、韓国語、タガログ語(フィリピノ人のため)などのバイリンガル学校がある。

 もちろん、これまでにも合州国移民社会の中に外国語で教える学校はあった。しかしこの新しいバイリンガル学校が根本的にちがうのは、それがアメリカの公立学校であり、アメリカ政府や州政府のお金で運営されていることである。日本で言えば、公立学校の中に在日韓国朝鮮人の教育機関ができることに匹敵する。朝鮮高校などがその建設さえ住民から反対され、政府からにらまれるという状況の中で、はたしてそれが「都立」や「県立」の学校になることがあるだろうか。

 またバイリンガル学校は、移民の子どもが英語文化になじむまでの一時的な特設学校でもない。最初だけ母語でも教え、ゆくゆくは普通の「アメリカの」学校に編入していくのではなく、むしろ子どものもつ少数言語・文化を積極的に守り育て、「多民族・多文化・多言語社会」の正当な構成員を恒常的に送り出していこうという主旨だ。だから、すでに英語文化の中にいる少数民族の親たちもバイリンガル学校に子どもを送る。例えば、三学校・一六学級・児童生徒数約三五〇名になったサンフランシスコの日本語バイリンガル教育の中で、日本語を話す移民者の子どもは半分以下。残りの大半は英語を話す三世の子(四世)である。日系三世たちは自分では日本語を話せなくなったが、子どもには自分の「ルーツ」をきちんと保持させることを願ってここに送る。日本語バイリンガル学校設置のため最も活発に運動したのも、実は三世の親たちだった。
 

「アメリカ人の税金でなぜ外国の言語を?」

 このようなパイリンガル学校の行き方に対してマジョリティー・アメリカ人たちの間には強い反発がある。「なぜ我々の税金で他の国の言葉や文化を守るのか」「バイリンガル学校は費用がかさむだけでなく『反アメリカ的』だ」「せっかく英語による統一があるのになぜわざわざそれをくずすのか」などなど。連邦政府もレーガン政権になってから公聴会などをひらき「見なおし」をはじめだした。アメリカが増々多民族的国家になることにも腹立つが、その上、多言語国家になってしまうことなど到底許せない、というのが背景にある感情である。これに対して、バイリンガル運動をすすめる人たちはどう答えているだろうか。
 

アメリカン・サラダの夢

 「サラダを考えて下さい。サラダはいくらかの野菜、たとえばレタス、トマト、きゅうり…にドレッシングソースをかけてできていますね。そしてこれらの野菜は、サラダになったからといって、とけてもとの形がわからなくなってしまっているのではありません。それはトマトであり、レタスです。それぞれの色と形を保ち、独自の味をもっています。しかしアメリカン・サラダというすばらしい味をつくっていきたいということなのです。」(日本語バイリンガル教育運動をすすめる人の言、『のびる会機関誌・風車』四号、1979年1月)   ('82/9)
 
 

6、新渡米者の会・のびる会

 サンフランシスコの日本町には、日本語を話す戦後移住者の地域活動グループがある。「新渡米者の会・のびる会」がそれだ。 一九七三年に設立され、現在日本町内に事務所をもって新渡米者の互助活動を行なっている。(緊張するアメリカ社会の中で「のび」ができるリラックスした場づくりということで「のびる会」なのだそうだ。)

 この会が対象としている新渡米者(Newcomer)とは、日本語を母語とし戦後日本から渡米した人々全体のことで、必ずしも「来たばかりの人」をさすのではない。一世、二世、三世、四世だけと思われがちな日系人社会にあって「もうひとつの世代」、新一世の存在を提起したグループだ。
 

年間約五〇〇〇人の日本人が アメリカ移住

 あまり知られていないが、戦後の日本人海外移住で最も多かった渡航先は、ブラジルでもカナダでもなくアメリカである、一九七七年までですでに一二万人を超え、一位ブラジルの約二倍になっている。これはひとつには五〇年代の多数の「戦争花嫁」渡米が含まれるためである。しかしそれ以後も日本から海外への移住は依然としてアメリカがトップである。

 七〇年代でも年間平均四〇〇〇人から五〇〇〇人が日本からアメリカヘ移住している。これはそれぞれ三万人近い中国系、韓国系、フィリピン系移民に比べると少ないが、自分の生きる国として日本以外のところを選ぶ日本人がこれだけ居るということは、やはり私たちの「常識」に何ほどか挑戦的である。のびる会の会員の多くもこうした戦後移住の人々であり、七○年代に渡航した若い世代が多い。
 

日本人の国としてのアメリカ

 のびる会 は次のようなことを言っている。

 「私たちのもつ「異国の」文化・言葉にもかかわらず、私たちはアノリカの一部である、私たちはこの「異国の」土において全き権利をもつ。私だちは「典型的アメリカ文化」などというものの存在を認めない。アメリカは多様な民族・文化によって構成されるべきである。(中略)私たちはこのアメリカに消えることによって入るのではなく、積極的に独自性をだし、アメリカに何かを付け加えることによって入る。」(『のびる会機関誌『風車』八一年一月号。原文・英語)

 彼らはアメリカに移住することを 「よその国に住まわせてもらう」というふうには考えていない。 「日本人だってアメリカに生きていいし、日本人だって生きていけるのがアメリカだ」という意識だ。なるほど新大陸が旧大陸の人々にとっての「自由の大地」として存在し、ヨーロッパ人が大量に東海岸から入りこんできたのであれば、東アジアの民は少なくとも西海岸アメリカの方へ大量に流れこんできていい。 一九世紀にはカリフォルニア州の労働人口の三分の一が中国人になった時期があり、カリフォルニアが東洋化するのを恐れたヨーロッパ系アメリカ人たちは中国人排斥法をつくった(一八八一年)。アメリカは意図的に白人の国としてつくられたわけだ。そのことを知る新しい世代の少数民族や新移民は、よそ者意識を捨てはじめている。

 私もこの「のびる会」に接することによって国に対する考えが変わったように思う。のびる会メンバーの多くは私とちっとも変わらない日本人の若い世代だ。なのに彼らはアメリカの社会で生きていこうとしている、ある人は日本の息苦しい生活から抜け出したい気持ちでやってきた。ある人は留学や旅行で来て偶然こちらの人(日系人、アジア系人も含む)と結婚してしまい居つく。私もふと、この人たちにまぎれてこの地に一生生きることになるのではないか、と思い、そしてそれがごく自然に思えて)びっくりすることがある。 日系人と日本人の間には一般に考えるほどはっきりした境目はない。
 

「のびる会」の活動

 会の活動の中心は具体的な生活援護活動(ソーシャル・サービス)である。週五日事務所を開け問題をかかえた人の相談にのる。日本ではアメリカが、「自由な若者天国」みたいに宣伝されているが、実際は日本同様、さまざまな問題をはらんだ社会である。アメリカで日本人が生きることは、人種差別的な社会で少数民族として生きることだ。 のびる会はそうした新移住者がぶつかる困難を共同して打開するためのグループなのである。

 深刻なところでは精神病、自殺未遂、離婚相談などのケースがある。その他法律相談、裁判での通訳、ビザ関係のトラブル、仕事探し、アパート探し、英語学校、職業訓練、紹介、社会保障の受け方の案内など、守備範囲は多岐に渡る。

 リクリエーション、文化、学習会活動も盛んで、たとえばのびる会主催の運動会には新渡米者の親と子どもたちがたくさん集まる。活動資金は寄付、諸財団からの助成金の他、年四回日本町で開かれるコミュニティー祭の時、屋台の照り焼きチキンなどを売ってかせぐ。社会問題に対する関心も高く、本誌で紹介されたように(『おーJAPAN』、八一年一月号)、日系企業内でのストライキ支援活動も行なった。第二次大戦中の日系人強制収容に対する賠償実現運動など、日系社会の諸活動とも連携している。
 

日系社会の中で

 かなり地に足のついた活動をしているのがわかるが、これはやはり、のびる会がそれまでに築かれた日系人コミュニティーに支えられ、影響されながら育ってきたからである。特に六〇年代以降目覚めた三世たちが日本人街で様ざまにはじめた活動からの影響が大きい。のびる会の設立自体、そうした団体のひとつJCS(日系社会奉仕会)から生まれている。

 日系社会の基礎のないところでは、新渡米者の活動といってもこうはならない。たとえばヨーロッパの日本人ならば、あくまで「外国に出ている日本人」としての生き方を出発点にするだろう。そして例えば日本と外国の橋渡し的な活動などを行なう。それに対し、のびる会は、ある意味で日本から切れてしまっている。それは日系人社会の活動であり、そういうものとして「アメリカの活動」であろう。だから、のびる会は別に日本に向って何も呼びかけないし、そのニュースレターも地元サンフランシスコ近辺に配布されるだけだ。が、彼らが選んだ生き方を日本に住む日本人にも伝えてくれるなら、それは私たちにとっても何らかの糧になるのではないか。('83/10)


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