*『おーJAPAN』は1978年3月から1986年までオーストリア・ウィーンで発行されていた日本語の月刊誌。内容的にも体裁的にも現在の『週刊金曜日』をミニコミ化したような歴史的な雑誌。河内喜彦氏(発行人)などヨーロッパ在住の日本人が協力し合ってつくっていた。久野収、宇井純両氏が顧問をつとめた。
ロサンゼルスに行くと今度はメキシコ系人が多い。一〇〇万人を突破するという。ロサンゼルス郡の全人口が七〇〇万だから一割以上だ(二〇〇〇年の同郡中南米系人口は四割を超えて四三〇万人)。こんなにメキシコ人の多い街はメキシコ国内でさえも首都メキシコシチー以外にない。もともとカリフォルニア他西南部諸州はアメリカ合州国がメキシコから戦争で編入(形式上は「購入」)したところだから、メキシコ人にはあまり「よその国」という感じがしない。数千キロにまたがる砂漠の国境を越えて不法・合法含め移住者たちが陸続とやってくる。一説には合州国内の密入国者数は七―八○〇万と言われ、またメキシコ系など中南米系の数は近いうちに黒人の人口(二、三〇〇万人)を越えるとさえ言われる。(二〇〇〇年国勢調査で、黒人人口を超えて三五〇〇万人)。
西南部からアメリカ大陸を東に進むと、アリゾナ、ニューメキシコなどでは先住アメリカ人(インディアン)の姿を多く見かけることになる。ディープ・サウス(深南部)に入れば黒人の数が増え、郡によれば人口の七―八〇%が黒人などという所もある。「黒人共和国」の独立が左翼のスローガンにかかけられることがあるが、その対象となるのがこの地域だ。
フロリダまで行くとキューバ人が多い。マイアミ市のあるデイド郡のキューバ人人口は六〇万、市人口の四〇%強だ。ここに七九年から八〇年にかけてさらに一三万人のキューバ人難民が入った。フロリダはまた、他のカリブ海沿岸諸国からの移民・難民・密入国者も流入する。東海岸の大都市ニューヨークに行けば、ここにはあらゆる人々が来ている。黒人ではプエルト・リコからの流入者の多いことが、南部・西部など異なっている。東海岸にはアジア移民は少ないが、そのかわりヨーロッパからの移民者が多い。イタリア系・アイルランド系など白人でも合州国社会の主流から差別されてきた人たちが多い。移民コミュニティーがある程度存在する。たとえば映画「ロッキー」て描かれたのはフィラデルフィアのイタリア系人社会だ。
総人口の一一%をしめるアメリカ最大のマイノリティー・黒人は、他のマイノリティー同様、近年都市に流入する傾向がある。首都ワシントンは人口の七一%が黒人。これはミスプリントではない。その他、アトランタ五一%、バルチモア四六%、デトロイト四三%、フィラデルフィア三四%、シカゴ三三%、ニューコ一ーク二一%、ロサンゼルス一八%、サンブランシスコ一三%などが主要都市の黒人人口の割合である。
この欄での主題となる日系人はアメリカ全体て約六〇万人。在日韓国朝鮮人の数にほぼ匹敵する。アジア系の中では最も数が多く、黒人・中南米系・インディアンに次ぎ「第四のマイノリティー」だ。六〇万のうち二〇万がハワイ、同じく二〇万がカリフォルニア、残りの二〇万が他の諸州に分布する。ロサンゼルス都市圏で約一〇万、サンフランシスコ圏(ベイ・エリア)で約五万人を数える。
しかしこのような多様な民族をかかえるアメリカも、人口の八〇%をしめる白人中心の国であることは隠せない。特にワスプ(WASP)とよばれるアングロサクソン・プロテスタントの人々が歴史的にこの国のメインストリームを形成してきた。人種差別的な移民法を通じて人口的にもワスプ中心の国を目的意識的につくってきた。だから、「アメリカは多民族国家である」と手ばなしでは言いきれない。が、それでもマイノリティーの人々は、理念を現実化するためにもその命題を取りさげない。
アメリカは移民によってつくられただけでなく、今でもつくられつつある。年間四〇万から六〇万の移民受け入れは今でも世界最大。とくに一九六六年に人種差別的な移民制限が廃止されて以来、第三世界の国々から多くの移民を迎えることになった(七八年度の移民総数のうち七七%がアジア、ラテンアメリカよりの移民)。中国系・韓国系・フィリピン系は年間ほぼ三万人が移民しているし、日本人でも年平均四〇〇〇から五〇〇〇人になる。むろんアメリカ合州国自体は堅固な近代国家だが、人脈的には細いパイプ管を通じて今でも世界の他の国々とつながっている。アメリカ合州国は、(他の新大陸諸国も多かれ少なかれそうであるが)これまでの国家と一味ちがい、どの民族の人々にとっても可能的には「私たちの国」でありえる性格をもつ。現実には、新移民は低賃金労働力としてこの人種ヒエラルキーに入るだけだが、いったん新しい社会で生きはじめた人たちは「よその国で働かせていただく」という意識を捨てはじめる。アメリカが「移民の国」であり、「万人にとっての自由の大地」であるならば、我々もまたアメリカの本質の正統な具現者ではないか ― 六〇年代からのマイノリティー意識覚醒の中でこういう意識が確実に成長している。
「幼い頃、私はよく聞かれた。おまえは何人? ママが教えてくれた通りに答える。アメリカ人よ。チンチン・チャイナマンだ。おまえはジャップだ! くやしさをかみしめながら家に帰る。ママは言う。かまわないのよ。ひとりで歩いていく人が一番速く歩いていけるのよ。私は聞かれつづける。あんた何もの? 私はアメリカ人よ。言葉が返る。いいや、ほらナショナリティのことさ。私はアメリカ人よ。そこが私が生まれたところ。こみあげる熱いもの。そして皆が知りたがっている答が出る時・・・ジャパニーズ。ああ、私はそれまでずっと日本に生きてきた!」(Nobuko Joanne Miyamoto, Chris Iijima and Charlie Chin, "A Grain of Sand," 1973)
私たちが「彼ら外人、アメリカ人」と割りきる時、それは「私たちとは違う」ということを言ったまでで、こちらはむろん明々白々に「日本人」であるから思考はそこで停止だ。ところが彼らは自分が何ものであるかつきとめるまでこの疑問を追い、時にそれは危機的な様相もおびる。いわゆるアイデンティティー・クライシスだ。しかしこれが六、七〇年代の日系三世(一般にアメリカ内マイノリティー)の原点であり、彼らが跳躍していくパネであった。彼らは自分が何者であるかをつきつめる中で新しい地点に進み出ることになる。それは私たち「在日日本人」という多数者がついに獲得することがなかった新しい立場である。('81/11)
この頃、日系三世の多くは多感な二〇才前後の時期に達していた。黒人運動に刺激されながら、自分たちの運動「エイジャン・アメリカン.ムーブメント」(アジア系アメリカ人運動)を生み出していく。一九六八年秋、サンフランシスコ州立大学で、黒人・中南米系・アジア系など「第三世界系」学生のストライキが勃発。翌六九年秋には近郊のカリフォルニア大学バークレー校でも同様のストライキがおこった。彼らの要求の中心は、大学内に少数民族が自己を知っていくための自己教育学部「第三世界研究学部」を設立する、ということだった。サンフランシスコ近辺にはアジア系も多く、中国系・フィリピン系・韓国系などにまじり日系三世たちもこのストライキに積極的に参加した。とくにサンフランシスコ州立大学でストライキを強硬に弾圧したのが日系二世のハヤカワ学長(現上院議員)であったことから彼らの「目覚め」ぱ急速化した。自分たちが抑圧された側の人間だという認識があるにもかかわらず、ハヤカワがそれを代弁するどころか、マイノリティーの人々を抑圧する側にまわっていることが許せなかった。
日系人社会にとってこの三世の「反乱」はある断絶を示していた。「排日」の嵐を耐えた一世はもちろん、第二次大戦中うむを言わさず強制収容所に入れられそこで育った二世も、一部を除き、アメリカ社会への反抗は行なわなかった。新しく目覚めた三世たちは、この長い抑圧の歴史を含めて「アメリカ」への激しい告発と抵抗をはじめたのだ。
「従順で静かな日系人」のイメージがくずれはじめた。
サンフランシスコの「日本町」の場合で言うと、次のような運動(団体)がいずれも七〇年代の初期に生まれ、多くが今日(八一年)までも続いている。
・気持会 ―若い人によるお年寄り
(一世など)の世話団体・共同食事プログうム。
・日系青少年協会(JCYC) ―青少年のための教育・文化活動。
青年団。
・日系社会奉仕会(JCS) ―カウンセリング、ソーシャルサービス。
・のびる会(新渡米者の会) ―新移住者の互助組織。
・日系社会奉仕連盟(UJCS) ―奉仕活動一般。援助金とりつけのための親団体
・リトル・フレンズ ―日英両語(バイリンガル)の保育所
・バイリンガル・スクール ―公立学校の中につくった日英両語教育プログラム。
・日本町芸術運動協会(JAM) ―独自文化を守り育てる芸術・工芸活動。
そしてこのよう日常的な地域活動グループと平行して住民運動的なグループも生まれた。当時進行しつつあった日本町の再開発に反対をかかげた「日本町の立ち退きに反対する会」(CANE)である。('81/12)
日本人街が再建された所でも第二の「破壊期」がすぐにやってくる。戦後、黒人などマイノリティー追い出し事業として非難されたスラム一掃の都市再開発事業が各地の日本人街もおそうのである。とくにこれが大規模におこったのはサンフランシスコの「日本町」だ。ここは隣接する黒人地域とともに、アメリカ戦後再開発史上に悪名をはせる「ウェスタン・アディション地区再開発」が行なわれた所である。五〇年代からはじまった同再開発事業は七〇年代頃にほぼ完成し、三〇〇メートル四方ほどの日本町も一新された。
しかしこうした立派な街がつくられるためにに何千人もの人が強制的に家を追われたことを忘れてはならない。家主ならともかく、借家人の多いこの種のアパート街では補償金や移転地の保証もほとんどないまま次々に追い出された。日系人、とくに一世にとって住み慣れた日本町は特別な場所だ。住めればどこでもいいというわけではない。最初、彼らはかつての強制収容時と同じようにだまって立ち退いたが、その社会的混乱は大きなものがあった。
さらに、新しくできた「立派な」街に、追い出された人々の多くは戻れなかった。「過密住宅をとりこわした」こともあって住居戸数が半分以下に減った。また新しい高級アパートの家賃は驚くほど高く、入りたくても入れない。わずかな低家賃アパートには応募者が殺到して待ちリストが長くなる。高級ホテル、高級おみやげ店、高級レストランは日系人にどういう関係があるだろうか。全米から多くの観光客が「珍しい日本人の街」を見にくるようになったが、彼らのコミュニテイーは「見られる」ためのものだろうか。ジャパニーズはジャパニーズでも日系人というよりは日本からの人、駐在員などが多くなる。日本総領事館ができる、住友銀行や東京銀行が中心にたつ、カラオケバーがたくさんできる。三世たちとつきあっていて気がついたが、日本町の中で彼らの行ける飲み屋は「国際劇場」という映画館の地下にあるジャズバーだけだ。なるほど「ナツメロ」のカラオケバーじゃ彼らも行きたがらないだろう。
こうして日本町は見かけは立派になったが、かつての人間味あるコミュニティーの機能は失なわれつつある。観光客とビジネスマンが急がしく歩きまわる街。住む街というより商売の街になってしまった。日系人の街としての性格はその冷たい建築物の形の中に、例えぱあの丸いコンクリートの五重塔などに残されているにすぎない。('82/5)
これは極端なケースだが問題をよく示している。多文化主義に慣れていない日本の人だと、アメリカの少数民族の子どもが英語で教育を受け、文化的にも「アメリカナイズ」されていくことはあたりまえ、むしろ必要なことと思ってしまうかもしれない。しかしそのような「同化」的な教育体制の中では、子どもは自分のもっている「妙なもの」へのコンプレックスをふりはらえないまま、様々な傷を人格の中に残していくことになる。
別の例。日木から移住した両親の子どもが学校の遠足でお昼のお弁当をひろげたとする。すると中から海苔のお結びがでてくる。まわりの「アメリカ」の子どもたちは、この「妙なもの」を食べる彼をからかう。大人なならばともかく、子どもてあればなぜ自分がこんな「妙なもの」を食べるのか訳がわかっているわけではない。ただひたすらはずかしい思いをし、自分の「異質性」へのひけめを蓄積させていく。(これは、新移住者の父母からよく聞かきれる話だ。)
こうしたパイリンガル教育は、六〇年代にテキサス、ニューメキシコほか西南諸州のメキシコ系人子弟の教育などではじめられ、次々に運動が拡大する中、六七年の法律で全米的に施行されたものである。現在、合州国全体で英語を母語としない子どもたちは約三五〇万人。そのうち連郵政府の援助によるバイリンガル学校だけでも五〇万人をかかえる。予算総額年間七億ドル。使用される言語は、スペイン語(中南米系人のため)からはじまって、ベトナム語などに至る約七〇言語。むろん地域の必要性にしたがって開設されるわけで、たとえばサンブランシスコの場合だとスペイン語、中国語、日本語、韓国語、タガログ語(フィリピノ人のため)などのバイリンガル学校がある。
もちろん、これまでにも合州国移民社会の中に外国語で教える学校はあった。しかしこの新しいバイリンガル学校が根本的にちがうのは、それがアメリカの公立学校であり、アメリカ政府や州政府のお金で運営されていることである。日本で言えば、公立学校の中に在日韓国朝鮮人の教育機関ができることに匹敵する。朝鮮高校などがその建設さえ住民から反対され、政府からにらまれるという状況の中で、はたしてそれが「都立」や「県立」の学校になることがあるだろうか。
またバイリンガル学校は、移民の子どもが英語文化になじむまでの一時的な特設学校でもない。最初だけ母語でも教え、ゆくゆくは普通の「アメリカの」学校に編入していくのではなく、むしろ子どものもつ少数言語・文化を積極的に守り育て、「多民族・多文化・多言語社会」の正当な構成員を恒常的に送り出していこうという主旨だ。だから、すでに英語文化の中にいる少数民族の親たちもバイリンガル学校に子どもを送る。例えば、三学校・一六学級・児童生徒数約三五〇名になったサンフランシスコの日本語バイリンガル教育の中で、日本語を話す移民者の子どもは半分以下。残りの大半は英語を話す三世の子(四世)である。日系三世たちは自分では日本語を話せなくなったが、子どもには自分の「ルーツ」をきちんと保持させることを願ってここに送る。日本語バイリンガル学校設置のため最も活発に運動したのも、実は三世の親たちだった。
この会が対象としている新渡米者(Newcomer)とは、日本語を母語とし戦後日本から渡米した人々全体のことで、必ずしも「来たばかりの人」をさすのではない。一世、二世、三世、四世だけと思われがちな日系人社会にあって「もうひとつの世代」、新一世の存在を提起したグループだ。
七〇年代でも年間平均四〇〇〇人から五〇〇〇人が日本からアメリカヘ移住している。これはそれぞれ三万人近い中国系、韓国系、フィリピン系移民に比べると少ないが、自分の生きる国として日本以外のところを選ぶ日本人がこれだけ居るということは、やはり私たちの「常識」に何ほどか挑戦的である。のびる会の会員の多くもこうした戦後移住の人々であり、七○年代に渡航した若い世代が多い。
「私たちのもつ「異国の」文化・言葉にもかかわらず、私たちはアノリカの一部である、私たちはこの「異国の」土において全き権利をもつ。私だちは「典型的アメリカ文化」などというものの存在を認めない。アメリカは多様な民族・文化によって構成されるべきである。(中略)私たちはこのアメリカに消えることによって入るのではなく、積極的に独自性をだし、アメリカに何かを付け加えることによって入る。」(『のびる会機関誌『風車』八一年一月号。原文・英語)
彼らはアメリカに移住することを 「よその国に住まわせてもらう」というふうには考えていない。 「日本人だってアメリカに生きていいし、日本人だって生きていけるのがアメリカだ」という意識だ。なるほど新大陸が旧大陸の人々にとっての「自由の大地」として存在し、ヨーロッパ人が大量に東海岸から入りこんできたのであれば、東アジアの民は少なくとも西海岸アメリカの方へ大量に流れこんできていい。 一九世紀にはカリフォルニア州の労働人口の三分の一が中国人になった時期があり、カリフォルニアが東洋化するのを恐れたヨーロッパ系アメリカ人たちは中国人排斥法をつくった(一八八一年)。アメリカは意図的に白人の国としてつくられたわけだ。そのことを知る新しい世代の少数民族や新移民は、よそ者意識を捨てはじめている。
私もこの「のびる会」に接することによって国に対する考えが変わったように思う。のびる会メンバーの多くは私とちっとも変わらない日本人の若い世代だ。なのに彼らはアメリカの社会で生きていこうとしている、ある人は日本の息苦しい生活から抜け出したい気持ちでやってきた。ある人は留学や旅行で来て偶然こちらの人(日系人、アジア系人も含む)と結婚してしまい居つく。私もふと、この人たちにまぎれてこの地に一生生きることになるのではないか、と思い、そしてそれがごく自然に思えて)びっくりすることがある。
日系人と日本人の間には一般に考えるほどはっきりした境目はない。
深刻なところでは精神病、自殺未遂、離婚相談などのケースがある。その他法律相談、裁判での通訳、ビザ関係のトラブル、仕事探し、アパート探し、英語学校、職業訓練、紹介、社会保障の受け方の案内など、守備範囲は多岐に渡る。
リクリエーション、文化、学習会活動も盛んで、たとえばのびる会主催の運動会には新渡米者の親と子どもたちがたくさん集まる。活動資金は寄付、諸財団からの助成金の他、年四回日本町で開かれるコミュニティー祭の時、屋台の照り焼きチキンなどを売ってかせぐ。社会問題に対する関心も高く、本誌で紹介されたように(『おーJAPAN』、八一年一月号)、日系企業内でのストライキ支援活動も行なった。第二次大戦中の日系人強制収容に対する賠償実現運動など、日系社会の諸活動とも連携している。
日系社会の基礎のないところでは、新渡米者の活動といってもこうはならない。たとえばヨーロッパの日本人ならば、あくまで「外国に出ている日本人」としての生き方を出発点にするだろう。そして例えば日本と外国の橋渡し的な活動などを行なう。それに対し、のびる会は、ある意味で日本から切れてしまっている。それは日系人社会の活動であり、そういうものとして「アメリカの活動」であろう。だから、のびる会は別に日本に向って何も呼びかけないし、そのニュースレターも地元サンフランシスコ近辺に配布されるだけだ。が、彼らが選んだ生き方を日本に住む日本人にも伝えてくれるなら、それは私たちにとっても何らかの糧になるのではないか。('83/10)