東アジアの地方自治・試論

   岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

 

目  次

はじめに
1.現代中国の地方制度
2.専制国家と村落
3.江戸の民主主義
4.展望
 
 

はじめに


 中国に何度か出かけるようになって、中国は日本だ、という思いを強くした。かの地には反日が吹き荒れ、日本国内にも歴史見直し論や、中国をあしざまに非難する論調が幅を利かせている。しかし、筆者にとって、中国を調べていって突き当たるのは日本であり、世界的な視野から見て同じ東アジア社会の諸類型だと思わされることがしばしばだった。中国における民主主義の状態、地方自治のあり方を追究するのでもそれは同じだ。確かに欠陥は大きく、中国嫌いの人たちの非難も決して外れていない場合も多い。しかし、にもかかわらず、そこに見えるのは私たちの日本社会が抱えるのと程度の差こそあれ同じ問題であり、課題であるのではないか。それがたとえ共産党政権の中国であろうと、根深いところでやはり日本なのだ。中国の公共図書館で「外国人はコピーをできません」と言われ愕然としてからも、その思いは変わらなかった。

 やや心情的なまえがきとなった。私の主観である。しかし、研究の始点たる仮説は、こうした自分の体験や感覚から生み出されるのであるから、まずそれを示すということでお許し願いたい。以下、中国を中心に、東アジアの自治の枠組みとその可能性について論ずる。
 
 

1.現代中国の地方制度

 

省―地区―県―郷


 中国の地方制度は概略的には、省―地区―県―郷の4段階である1)。それぞれ、省級、地級、県級、郷級と言われる2)。

 ただし、省レベルは22の省以外に4つの直轄市(北京、天津、上海、重慶)と5つの民族自治区(内蒙古、広西壮族、チベット、寧夏回族、新彊ウイグル)、2つの特別行政区(香港、マカオ)が含まれる。地級レベルには自治州、地級ランクの市及び前記直轄市の中の区が含まれる。県レベルには県(内蒙古自治区の旗を含む)の他、自治県(内蒙古自治区の自治旗を含む)、県ランクの市、前記地級市の中の区などが含まれる。日本と違って市の下、又は同等に県が来ることに注意する必要がある。また、市でも省級、地級、県級にランク分けされており、それぞれの管轄する区もその1級下に配置されるなど複雑である。

 末端の地方である郷レベルには郷のほか、民族郷、鎮がある。郷が村、鎮が町に相当する。かつて郷を基礎に人民公社設立がめざされたことはよく知られる。1983年の政社分離により、人民公社が再び郷に変わっていった。また、80年代から90年代初めにかけて中国経済を引っ張った郷鎮企業は、まさにその名前の通り、郷や鎮がつくった集団所有企業である(現在はその完全民営化がめざされている)。

 以上それぞれのレベルで、行政機関として人民政府、議会として人民代表大会(人代)がある。県級以下の人代代表は直接選挙で、地級以上の人代代表は1級下の人代により選出される。民族自治区、自治州、自治県などは少数民族が自治を行なうことになる区域である。民族郷は自治区域ではないが、少数民族に一定の配慮が払われる地域である。また地級市の中に14の計画単列都市と呼ばれる大都市があり、経済、社会発展の諸項目において省から独立し単独で全国計画に編入され、全国会議にも省と並んで参加する。

 また、街で、街道弁事処(街道)の看板をよく見かけるが、これは直轄市や地級市などの区、及び県級市の行政派出機関であり独自の政府レベルは構成しない。街道は行政の最末端機構であるが、80年代の開放政策以来街道経営の企業が増え、大都市の街道は規模も大きくなったので格上げして街道政府をつくるべきだとの意見もある3)。1996年末の統計では、全国で5596の街道弁事処があった。うち県レベルの街道弁事処は1181である。街道弁事処が管轄する人口は大都市で5―8万人、中小都市では2―5万人程度とのことである4)。

 これら各レベル政府組織と並行して、一党独裁の共産党組織があることが中国の特徴である。共産党は国家に優越するとされ、各地方行政レベルに党委員会の組織があり、行政を「指導」している。これの民主的チェックとアカウンタビリティー確保をどう行なうかが、今後の中国社会の発展のためにも重要な課題と思われる。また注意すべきは、以上述べた省から郷レベルまでの機関は決して地方自治団体ではなく国の行政機関であることである。国家機関が地方を一元的に管理している形だ。地方政府で働いている職員も国家公務員であり、例えば中央政府国務院(日本で言えば内閣)の部級機構(省庁)は省級地方と同格であるなど、位階上の対応関係もある。「地方政府は、地方の国家行政機関であって、同級の国家権力機関である人代に責任を負う一方、中央政府たる国務院を頂点とする各級政府の序列に従って命令=服従関係に置かれている」5)ということだ。
 

居民委員会


 郷や鎮、及び街道弁事処までが行政機関である。その域内にある居民委員会、村民委員会は、これら行政機関と密接に連携して動くが、行政機関ではなく住民の自治的団体の位置づけである。憲法では「基層群衆性自治組織」(末端大衆自治組織)と規定されている。その役割は「居住地の公共事務と公共事業、民間紛争の調停・解決、社会治安の維持・保護への協力、人民政府へ大衆の意見、要求提案の吸い上げ」などであるとされる6)。日本の町内会に相当するが、より組織化され活動分野も広く、フォーマルな全戸加盟組織である。その役員である主任、副主任、委員は住民の選挙によって選ばれ、有権者で構成する住民会議に責任をもつ。

 1949年の新中国成立後、それまであった隣保組織である保甲制にかわって導入された7)。1954年の第1期全国人民代表大会で憲法、地方組織法他が審議される中、都市末端組織関連条例として都市居民委員会組織条例、都市街道弁事処組織条例、公安派出所組織条例などが可決された。1958年から農村ではじまった人民公社化の波が都市に及ぶと居民委員会は人民公社に取ってかわられるが、その失敗と解体(62―65年)により復活する。しかし、今度は1966年からの文化大革命により打撃を受ける。革命居民委員会に改組され、幹部が無秩序な批判闘争の犠牲になるなど活動は麻痺した。

 1976年に文革が終了し、1980年の第5期全人民代表大会常務委員会第12会議で、他の法律とともに都市居民委員会組織条例も原文のまま回復措置がとられた。1982年の憲法改定でも新しく居民委員会についての規定が入り、1989年には、都市居民委員会組織法が制定された。

 新中国設立当初は、人々は職場や学校などを生活の基礎とし、ここで管理された。これを「単位」と呼ぶ。居民委員会はこの「単位」に所属しない地域住民の組織化をねらったものである。近年では単位の組織力が弱まり、居民委員会の重要性が高まっている。前出1989年都市居民委員会組織法には「社区服務」(コミュニティーサービス)の項目が付加された。これを機に「住民に要求し、監督し、管理する」という行政末端機構の性格が薄められ、「住民のニーズに応えてサービスを提供する」という方向が強化されたといわれる。

 職場で単位に組織化されている労働者も居住区では居民委員会に所属する。単位が建設する従業員宿舎というのも多いが、ここでも家族委員会という名前の居民委員会がつくられる。都市居民委員会組織法によれば、100戸から700戸にひとつの居民委員会が設置される。しかし、加盟住戸が増えても居民委員会を分割するのは様ざまな困難が伴うので規定戸数を超えた居民委員会も多い。大きな居民委員会ではより小グループの居民小組(15―50戸)が組織され、特定分野の活動をするための「工作委員会」を設けることもできる。

 1999年の統計では、中国国内に667の都市、19250の鎮があり、その居民委員会内で生活する人口は3億人前後である8)。居民委員会の活動に自主的に参加する市民も増え、ボランティア(「社区志願者」)は1000万にのぼるという9)。
 

雲南省昆明市


 2005年8月に雲南省昆明市において、官渡区双橋村などいくつかの地域で、住民の案内により居民委員会の活動状況を視察する機会を得た。

 雲南省は中国南西部に位置する内陸の省で、開発が遅れていたが、観光資源が豊富で、東南アジアに近い位置関係などから西部大開発での発展が期待される地域である。少数民族が多く、日本と同じ照葉樹林地帯に属すなどで日本からの注目度も高い。その省都である昆明は表1のとおり面積2万1501平方キロ、人口488万。ただし、一般に言えることだが、中国の都市の領域は広くとってある。2万平方キロといえば愛知県の4倍、東京都の10倍の面積であり、人口規模もそれを踏まえて理解しなければならない。昆明市の場合だと、市街地にかかる盤龍、五華、官渡、西山の4区だけだと190万人である。

 表1を見ながら中国の4階級地方制度を復習すれば、まず省級地方として雲南省があり、その下に地級の市として昆明市がある。その下の県級地方として(昆明市の)直轄区が5つ(盤龍区、五華区、官渡区、西山区、東川区)、県級の市が一つ(安寧市)、県が8つ(内、少数民族の県である自治県が3つ)ある、ということになる。(昆明)市の下に県があることに注意したい。市(昆明市)の中にまた市(安寧市)があるのは奇妙だが、それは市のレベル(級)が違うからである。また、区のうち東川区は、昆明市内からか北に25キロほど離れた実質的に別の都市である。この県級地方政府の下に郷、民族郷、鎮が存在するわけである。

 また、さらにそれらの下に「村」や「小区」と呼ばれる地域があることもある。これは正式の行政区域ではないが、村民委員会や居民委員会の単位区域になっていることがある。村は、伝統的な自然村の流れを汲む集落だが、かなり都市化している場合もある。小区は、主に都市部で新しく開発された住宅団地の一まとまりを指す。「社区」同様、公式に規定されておらず、地理的境界さえあいまいな場合もある。しかし、通常は「住宅小区」のことを指す場合が多く、この住宅小区とは「都市統一計画建設により、基盤設備が比較的完備し、建築面積5万平米以上あり、建設済みですでに使用されており、入居率が60%以上に達した住宅地域、あるいは小区内の組、団体である」との定義がある10)。
 

視察状況


 官渡区和平村は昆明市のほぼ中央にあり、和平路を中心に小商店や屋台が軒を連ねる一大市場地域である。日用品、食品その他あらゆる種類の店が出て大変な賑わいであった。静かな一角に市街電車軌道跡の路地が伸びて来ており、市民の散策路になっている。歩くと官渡区人民政府呉井街道弁事処のコミュニティーセンター(居民服務中心)があり、周囲で若者たちが集まってにぎやかに興じていた。高齢者介護施設、保育所の他、居民委員会や共産党組織の事務所もあり、全てが集まっているようであった。路傍に掲示板があり、男女平等や健康関係の教育的情報、ポスターなどがはってある。一人っ子政策の掲示があり、育児資金、大学への優先入学などの優遇措置が書いてある。どこでも同じだが、お年寄り向けなどの健康関係情報が非常に多い。脂っこいものはひかえる、夜寝る前にコップ半分の水を、など。性病やエイズ関連の情報も。こうした掲示は、居民委員会の人が定期的に張り替えるとのことだ。

 次に市内南部、昆明空港にも近い官渡区双橋村や日新小区の視察へ。双橋村も市場と商店街の地域であった。屋根付きの市場施設があり、野菜を中心に、肉魚、衣料、日用雑貨も売っている。この市場も居民委員会が管理しているとのことで、傍らに市場管理の事務所(市場管理処)があった。市場では、農民が生産物を持ち寄り直接販売する。市場管理処が場所代を取る。1日だけの使用も可。基本的に早い者順に場所をとる。近郊の農民が来て朝早くから並ぶ。市場の中央部は、長期利用(数ヶ月、半年など)の農民に確保されている。値段も市場管理処が管理。同じ種類の品目なら市場内でだいたい同じ値段になる。抜け駆け的に安く売る者も居て農民同士のけんかが絶えない。昨年には少数民族が店で使う肉切り包丁でけんかして2人が死亡する事件があった。市場管理処には警官が詰め、市場内を巡回する。電気警棒、拳銃も持てるとのこと。

 街を案内されていて驚くのは、居民委員会の活動が極めて多岐に渡ることだ。郵便や新聞の配達までも請け負う。飲料水の大型ビンを積み上げた水屋があったが、これも居民委員会が委託したサービスで、住民に飲料水を配達する。地域クリニックがある。子供の予防接種その他を行っている。就学前検診を受けないと小学校に入れない。アパートの修理屋もあり、これも居民委員会が行っている。安く修理してくれる。街内に居民委員会が経営する温泉があった。薬屋に薬剤師が居て住民の相談にのる。これも居民委員会が雇っていて、病院に行けない貧しい人が薬局で薬を処方される。その他、保育園、高齢者の集まる喫茶店、文化センター、スポーツセンター、パソコン教習所、ダンス場など、住民のあらゆる地域生活に居民委員会が関わっているようであった。

 隣接する日新小区へ。全体が塀で囲まれた閑静な団地。入口に鉄格子の門があり、守衛がチェックする。特に夜は厳しくチェックするという。アメリカで最近有名になっているゲーテッド・コミュニティー11)が中国にもあるのか、と感慨深く思った。買い物は、隣の双橋村の商店街や市場に出かけるが、日新小区の団地内にもある程度のお店はある。保育所、公園など公共設備は一通りそろっている。住んでいる人は中堅のホワイトカラーが多いという。

 団地の一つに入れてもらった。3LDKで、日本の団地と同じようなつくりである。テレビ、パソコンなど通常の電化製品はそろっており、日本の団地と言われてもわからない。夫婦と子ども1人の家族構成が多い。一人っ子政策だから当然である。広さは約90平米。80年代に建てられたアパートである。職場から割り当てられて居住した。その後、20万元で買い取った12)。3人世帯の場合、管理料金を年350元払う。新築当時は高級マンションだったが、今では中流の部類だという。90年代に建てられた団地はもっと素晴らしいという。(実際、昆明市内で90年代に建てられた別の団地も視察したが、確かに高層マンション風の立派な団地だった。200平米あり、リビングの広さはアメリカの家を思わせた。)

 案内してくれた住民は「居民委員会があるから本当に便利」と言う。「水漏れがした、といえばすぐ頼める。修理も何でも頼める。自分でやるとなると、まず部品を買って来なければならない。タクシー代も必要になる。家の掃除でも居民委員会に頼める。共稼ぎには重宝する。居ない間に掃除してもらう。鍵を渡しておく。自分の部屋は鍵をかけておくが。新聞配達、牛乳配達もやってくれる。冠婚葬祭ももちろん居民委員会がやってくれる。」

 この地域の居民委員会は12―15名の委員から成る。2年に1回、住民からの直接選挙で選ばれる。有給職員は50―60名おり、警官、技術者、その他いろんな職種の人が居る。ボランティアも多い。主に退職した人が活動する。定年男60歳、女55歳である。月1回月末の週末に住民会議を行なう。小区会という。以前は、居民委員会のサービスは無料で、費用を政府が負担していた。現在は3分の2程度は自己負担である。その方がサービスがよくなる、という。

 全体として、居民委員会が住民の生活支援を全面的に担っており、いささか驚いた。日本にも町内会や自治会はあるが、これほどまでの活動はしておらず、これほどまでに住民を把握してはいない。率直な感想として、このような地域組織が、社会主義政権下で突然生まれたとは到底思えなかった。人民公社などの伝統もあるが、それ以前の、中国社会の長い伝統と基層の中から生まれてきたと思われた。後に、居民委員会の起源は、中国古代の「里甲」や「坊市」の制度にまでたどれるとする論があることを知り、納得できた13)。日本の町内会、隣組にも長い伝統があり、少なくとも江戸時代の強固なムラ組織にさかのぼれる。
 
 

2.専制国家と村落

 

郡県制の歴史


 中国は紀元前3世紀の秦漢帝国の成立以来、郡県制(後に州県制)の中央集権主義によって全土を支配してきた。古代に、地方支配について封建制と郡県制の2つの考え方があったことはよく知られる。封建制は家臣に征服地を与えて統治させる分権的なシステムであり、郡県制は中央政府が直接官吏を派遣して統治する集権システムである。愛宕元14)によれば、前7世紀の春秋時代に封建制の萌芽が見られるが、軍事的要請から中央による直接統治形態が次第に増え、中国最初の統一王朝・秦(前221―前206年)が、その地方支配に郡県制を採用した。その内実は次のようなものである。
 「郡には守(知事)、丞(副知事)・尉(軍事・警察長官)・監(郡県官吏の監察)が、下位の県には県令・県正が中央から派遣され、各地方行政単位を皇帝の代官として統治する。郡守以下の各官吏はランクに応じて一律に国家から俸給を支給され、一定任期で配置替えとなり、ポストの世襲は許されない。任地で地縁的な諸関係を結び分権化することがないように十分な配慮がなされている。」15)

 この郡県制が以後の中国地方制度の基本となる。秦は全土を36の郡にわけた。短命の秦を継いだ漢(前漢:前202―後8年)は秦の強硬な中央集権策の失敗から学び、折衷策をとった。国都長安に近い15郡では郡県制とするが、遠隔三十余郡では家臣を諸侯王として封建した。いわゆる「郡国制」である。しかし、これも武帝期(前141―前87年)までに直轄化を強め、実質的な郡県制に移行している。前漢末には郡国103、県邑・侯国・道1587を数えた。また、武帝期には複数郡を監察する13の州が新たに設置され、後漢期までには州―郡―県の三級制が確立する。

 その後南北朝時代を経てこれら州郡県の細分化が進む。南朝梁代には107州、350郡、1022県、北朝の北周期で211州、508郡、1124県に達した。隋(581―618年)を開いた文帝がこれに大なたを振るい、郡を廃して州に統合化した。この結果、190州、1255県の体制となった。唐(618―907年)の全盛期では328州、1573県となり、以後、中国の地方制度は「300州、1500県」あたりが標準となる。

 宋代(960―1279年)には州の上に新しく15の路がおかれ、元代(1271―1368年)にはさらに広域な11省がおかれている。現在の中国にある23省は、この征服王朝元の制度を引き継いだものである。

 以上の通り中国の地方制度は、細かい変遷はあったが、秦漢の時代より郡県(州県)制が基本であった。現在の中華人民共和国では、郡の上に省、県の下に郷が加わり4段階になっているが、地方政府がすべて国家機関であり国家公務員が配されるなど、郡県制の基本は貫かれている。

 また愛宕は、この地方制度の変遷を振り返る中で「注目すべきは漢代以来の県数にさほど大きな変動がないことである」と指摘している16)。つまり、郡の上に州ができ、郡が州に統合され、路、省ができ、かつそれらの規模が様ざまに変化しても、末端の県の数は1500前後でさほど変化せず、「広さは方40キロ、戸数は1―2万戸、人口にして5000―1万人前後という規模」がほぼ維持されてきた。直接支配の末端はこの程度を適正とし、皇帝権力は最低限県までは確実に把握しようとしたと愛宕は指摘する。ちなみに、現在の中華人民共和国にもこの秦以来の県が存在し、県級地方の総数は2,143、県面積は800-3,000平方キロである。数、面積は歴史的な規模に準じるが、人口規模は大きくなり、30-150万人である17)。現在はこの下のレベルの郷級地方が住民統治の末端単位となったと言えるだろう。
村落機構

 かつては県まで、現在では郷までが中央政府の直接統治機関であり、その下には多かれ少なかれ自生的な村落があった。租税や徭役など中央政府の統治は、具体的にはこうした村落組織を利用して実行された。後述の通り日本の江戸時代に、武士の農民支配が、年貢の村請けを通じて、村方三役を頂点とした村組織を通じて実行されたことに似ている。

 秦漢帝国の時代には、県の下に、郷(きょう)という行政村がおかれていた18)。100家(戸)を1里として10里で1亭、10亭で1郷が形成される(「10里1亭・10亭1郷の制」)。結局1万戸で郷を形成するという意味だが、実際には約1000戸で1郷がおかれた。郷には三老、有秩、嗇夫(しょくふ)・游徼(ゆうきょう)などの役務がおかれ、徴税・治安の役割を果たした。南北朝時代の北魏では、郷制に準じた「三長制」が敷かれ、唐代になると100戸1里,5里1郷とする「郷里制」が行われた。耆長・郷佐、郷長などの役務が置かれ,郷の行政・司法を担当した。唐の郷里制は641年に廃止されるが、北宋が再び郷里制を採用する。南宋では両浙・江東西路を中心に郷都制を敷き、元代から明代まで続いた。

 また自警的・軍事的な制度としては、北宋の王安石の改革時(1070年代)に「保甲制」が導入されている。10戸を1保、5保を1大保、10大保を1都保として一単位(保甲)とし、成人男子が2人以上いる戸から一人ずつ兵士を出す。保甲内で治安維持を行なわせ、犯罪者が出た場合は連帯責任とする。

 明代1381年には里甲制が施行された。110戸を単位に徴税や村管理を行なわせる制度である。そのための戸籍簿、租税台帳として「賦役黄冊」が編成された。110戸の中で裕福な1戸を里長、それ以外の10戸を甲首とし(里甲正役)、10年をサイクルにローテーションさせて納税、労役の責任を負わせた。後に里老人もおき、争訟の調停、教化、農業指導などを行なわせた19)。

 しかし明代も中期を過ぎると貨幣経済の浸透と農民層の分化・移動が進み、里甲制の維持が難しくなった。里老人の機能も低下したことから、風俗振興のため「郷役」が広がる。郷役は同郷の郷人が守るべき規約であり、その教化のため実行組織もつくられた。また、治安維持のため保甲も組織され、郷約と保甲が結合した郷約保甲組織が里甲制に代わっていった。清朝も初めは里甲制を継承したが次第に名目的になり、自然村を通じた徴税、保甲法による戸口管理が一般化した。

 なお、こうした村落機構のさらに下層には日本・江戸期の「5人組」に相当するような隣保制度が存在していた。唐の戸令(719年)においてその最初の法令化が見られる。「四家を隣となし、五家を保となし、保に長あり,以てあい禁約す」とある。5戸で構成される1保のうち、1戸が罪を犯せば残りの4戸が共同責任を負う。連帯責任・相互監視のもと、犯罪防止、報告、逮捕、農民流出入規制など治安維持の役割を果たすとともに、相互扶助への機能も期待された。のちには徴税業務も課された。

 こうした隣保制度はかなり古くからいろいろな史料に現れていた。前4世紀中ごろ、春秋期秦の商鞅の変法で導入された「什伍(じゅうご)の制」が後代への影響が大きいとされる。5戸(伍)または10戸(什)ごとに集団化し、連座制によって犯罪の発生を防いだ。漢代にもこれに類する伍制が行われた。北魏・三長制の基礎を成したのも5戸からなる隣(隋では保)であった。隋の郷里制にその基礎単位が継承され、前述の唐の戸令に結実したものと思われる。北宋の保甲制でもその基本単位に保があり、民兵的組織としての機能も加えられた20)。

 日本の律令制にも「五保の制」があり、中国の制度の移植と考えられる。養老戸令(9条)に「凡そ戸は皆五家相ひ保(まも)れ」とある。その後、1597年には、豊臣秀吉が治安維持のために下級武士に5人組,庶民に10人組を組織させている。有名なのは、江戸時代の5人組制度で、1603年に十人組による連座制がはじまり、1637年の郷中条目で五人組制が唱導されている。太平洋戦争直前の1940年には内務省の通達で隣組が発足するなど、日本の歴史の中にも、東アジア的隣保制度の影が繰り返し出現している21)。
 

東アジアの専制国家


 中国の専制国家は、東アジアの大陸中核部に2000年以上も続いた強固な権力である。その影響は日本を含め、周辺諸国・地域の歴史的展開を大きく規定した。その制度の中味は、反発・変容を受けながらも、東アジア全域に拡大していった。日本の体制の本質に迫るにも、この東アジア体制全体をとらえる視点をもたねばならないだろう。この地域における住民自治の進展を展望する上でも、その上に強大に立ちはだかるアジア的専制国家の解析を踏まえなければ本質的な議論はできない。以下、この問題にやや深く立ち入る。

 東アジアに、なぜ強大な専制国家体制が成立したのか。なぜ、長年にわたって維持されたか。多くの歴史家がこの問題に立ち向かっている。ウィットフォーゲルの水力社会論はその古典的著作と言ってよいだろう22)。中国の大河大平原では、大規模な治水灌漑工事の必要があり、そこから巨大な官僚制、そして東洋的専制国家がつくられた、とする。

 最近、それとはまったく異なるユニークな論に触れた。岡田英弘の「皇帝を頂点とする大商業組織」としての中国論である23)。ウィットフォーゲルを含め、ほとんどの歴史家は中国の社会基盤を農業とし、この農業の特色(ウィットフォーゲルの場合は大規模な水利事業)からアジア的専制国家を解読しようとした。ところが岡田は、この専制国家の本質を商業活動から説く。
 「中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組み込まれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生み出した言語なのである。」24)「夏朝が、黄河中流の渓谷に沿った、洛陽盆地に中心をおいて、東方、東南方、南方にのびる内陸の水路を伝わってひろがる商業都市網を支配する、東アジアの最初の広域政治組織になった」25)。

 岡田によれば、中国文明が洛陽盆地周辺から発生したのは、この地域が交通の要衝になる自然条件があったからだという。黄河文明は決して黄河大平原に発達したのではなく、氾濫を繰り返す河川平原はむしろ人々の居住を拒んだ。黄河は、洛陽盆地直前までは河北の山西高原、河南の秦嶺山脈に囲まれ、急峻な谷を下る。渡河困難であり、河が交通の障害だった。黄河は洛陽盆地でやっと平地に出会い、流速を落とす。交通の便を成り立たせる。そしてその一帯は「南船と北馬が出会うところ」「東アジアの南北をむすぶ陸路と水路の結節点」となった。遠くは絹の道、海上の道にもつながる。ここに多くの民族の交易が集まり、そうした商業ネットワークの核として中国の皇帝体制が生まれた、とする。

 岡田は語源や都市構造など様ざまな分析からこの論を補強している。中國の「國」は城壁をめぐらした都市を意味し、「中國」は首都の意味という。『詩経』の大雅の「生民之什」に「中國を恵(いつくし)み、もって四方をやすんず」という詩があり、「この中國とは、京師<首都のこと>である」との注釈がある。中国の都市は清代に至るまで城壁で囲まれているのが特徴で、王宮もその中にある。王宮の北には「市」、すなわち市場があり、南の宮門の内側には「朝」、すなわち「朝廷」がある。その朝廷で毎月何回か指定された日に朝礼の儀式が行われる。皇帝は午前2時ごろ起きて身を清め、犠牲を捧げて正殿に出御する。儀式が終わる頃日が昇り、北側の市場が開いて取り引きがはじまる。「王は市場の差配であり、朝礼は市場開きの儀式であった」26)とする。市場を原型にした城郭都市は、首都から内陸水路に沿って各地に建設される。これら地方都市は古くは「邑」と呼ばれ、後に「県」(懸と同音で、首都に直結するの意)と呼ばれる。ここには首都から派遣された軍隊が駐留して交易活動を保護し、県城の県衙(役所)では、首都の儀式と同時刻に朝礼が行われた。岡田は言う。
 「いうならば、中国の本質は、皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲が、すなわち「中国」だったのである。こうした地方都市と地方都市の中間の地帯は、夷狄の住地であったが、城郭都市の商業網の網の目が密になるにつれて、ますます多くの夷狄が城郭都市の名簿に登録して中国人となり、前221年の秦の始皇帝の中国統一までには、華北、華中の平野部では、夷狄はことごとく中国化して姿を消し、山地の者のみが取り残された。」27)
 

なぜ専制国家が生まれるか


 現在、少なくとも日本の歴史学会では、中国専制国家成立の説明について、次のようなものが定説となっているだろう。

  「皇帝を頂点とする国家機構―官府連合体(公家)と1千万戸前後の百姓とが国家を構成する基本的要素であり、かつ租税・賦役収取をつうじて基本的な生産関係を構成する。ここでは、政治と経済とは不可分である。社会内部にはさまざまな中間団体が形成され、個別的な生活の諸部面で社会的秩序を形成してはいたが、国家機構の解体期を除いては、政治的には無力であった。国家の専制的形態は、社会それ自体が組織化されておらず、社会の諸階級・諸身分集団が未成熟で、それらを代表する政治勢力がいないか、著しく弱体もしくは衰弱しているときに可能となる国家形態である。」28)

 中間団体がある程度形成されてきたことを踏まえるところに適度なバランス感覚を感じる。しかし、なおそれらは政治的に無力であり、組織化されず、未成熟であった。結局は、一方の極に皇帝、他方に多数の百姓が分散して存在する単純な二極社会にこそ、専制国家出現の要因が横たわると見る。

 中国専制国家について意欲的な理論化を試みた足立の『専制国家史論』も同様である。研究史を振り返り、専制国家が地縁的共同体を背景に生まれてくるという説(「専制国家=共同体論」)と、中国社会の非団体的な性格を背景に生まれてくるという説(「専制国家=非共同体論」)のせめぎあいの中から、結局、後者の立場が承認されていく過程を詳細に追っている。「中国の村落と日本のムラ」を比較検討した上、次のような結論を導いている。
 「自律的能力を持たぬが故に権力の介入を待望する非団体的な社会の上に、それを統一的に行政編成する権力がそびえていた。権力自身も皇帝の専権に依存して非団体的であった。」29)

 これに対し、中国の理論家・金観涛らは、こうした学説史からまったく離れたところからではあるが、ユニークな中国専制国家を論じている。宗族的結合を重視し、中国社会のむしろ「団体的性格」の上に専制国家の成立を理論づけている30)。立論にやや理屈に過ぎる点も見受けられるが、"我国にはなぜ専制国家が2000年もの長きに渡って続いたのか"という懸命な知的追究の熱意が感じられ、注目される。彼らはこの「超安定システム」の自己調整メカニズムを、サイバネティックスやシステム理論を用いて解析した。
 

王朝を再生させるメカニズム


 金らは、中国専制国家の強靭性を、例えば次のように指摘する。

  「世界史の角度から中国封建大国の盛衰を俯瞰してみると、その巨大な修復能力には驚かされざるをえない。腐敗した旧王朝は農民大反乱の猛烈な打撃の下に土崩瓦解するが、わずか十数年、長くても2、30年の間に、数百万平方キロメートルの版図と数千万の人口を持つ統一された封建大国が、奇跡のように再建される。ところが新たに創建された王朝の社会構造はほとんど旧王朝の複製なのである。世界の歴史において、このような「死んではまた生まれる」(屈原『天問』)という再生現象が見られることはまれである。」31)

 ローマ帝国を再建しようとした神聖ローマ帝国は「実際はドイツの統一すら実現できなかった」し、シャルルマーニュ帝国、ウマイヤ朝アラブ、オスマン=トルコなども同様の運命をたどった。しかるに中国王朝は、最初の帝国・秦が滅亡してからわずか8年で漢が成立し、前漢帝国の滅亡から20年で後漢が成立し、隋末の農民大反乱から7年で唐・高祖が即位し、元から明までは約30年、明末農民戦争から清の樹立までも2―30年を要したに過ぎない、とする。

 このように強靭な修復能力をもつシステムの秘密として金らが見出すのは、中国社会に伝統的に存在する宗族の結合である。「中国封建社会の一体化構造は、組織の次元でも、ヨーロッパの封建社会とは大きな違いがある。それは、国家と個人との間に、宗法的家族という強固な中間次元の組織が存在していることである」32)とする。

 社会が地方割拠の分裂に追い込まれるのを抑止する結合メカニズムを彼らは「一体化構造」と呼ぶ。ヨーロッパ中世、そしておそらく日本の中世でも、領主などへの権力分裂が顕著に見られ、集権国家は生まれにくかった。中国でそれが早期に実現するのは「宗法的家族」、つまり宗族という「中間次元の組織」が存在するからだ、とする。宗族とは、中国伝統社会において、共通の先祖への祭礼で結ばれる父系同族集団である。周の王位継承にともなう政治組織から生まれたと言われる。日本の家制度に比べはるかに組織的であり、厳格な組織規定(宗法)をもつ。大宗(本家)は家長を出し全族人を統治し、かつ長子相続で永続的につながっていくが、各世代の兄弟を開祖とする小宗(分家)は6代目で開祖祭祀権を喪失する。宗族は祖先霊廟をもち、それが祭礼と集団的統合の場となり、族田などをもって一族の救済事業までも行なう。この宗族が、中間的組織でありながら国家とは矛盾・対立せず、むしろ国家を編成する原理を下から提供したと金らは言う。

 「もし、儒家学説がただ宗法組織と国家組織の協調を唱え、国家組織を家族の同型構造体と見なすだけならば、それはただ単にひとつの観念としての力であるにすぎない。だが、いったん儒家学説を指導理論として国家組織がつくられ、なおかつ儒生によって国家の管理が行われるならば、この観念の力は、直ちに組織の力に転化し、宗法組織と国家組織を協調させていく調整装置となるのである。いいかえれば、儒生を利用して国家官僚機構を組織し一体化構造を実現させることで、封建大国における宗法組織の利用推進が有効なものとなるのだ。」33)「子の孝行、妻の服従、父の慈愛によって築き上げられた家庭関係は、人民の恭順、臣下の忠信、君主の仁政といった社会関係の縮図にほかならない。王朝の統治期において宗法家族制度は国家構造との同型構造効果を発揮し、封建国家の個人に対する支配、管理の作用を大いに発揮する。宗法家族構造はあたかも細胞のように国家組織の情報を保存したといってよいだろう。」34)

 個人は国家と宗族から二重に規定され、専制国家は安定する。その組織原則は民衆の内部にまで深く浸透するので、王朝打倒の農民反乱の中にさえ濃厚な皇帝思想が見え隠れするという35)。

 そして、一つの王朝が腐敗し農民反乱で瓦解する時、宗法組織は新しい王朝再興の原理を提供する。宗法組織を「家庭」におきかえて、金らは次のように言う。

 「家庭は国家の同型構造体であった。そうであったがために、旧王朝が崩壊する際には、国家の組織構造の情報を保存する家庭が新王朝再建の第一の鋳型となることができたのだ。ここでいう鋳型(模板)とは遺伝学の用語を借用したものである。個体としての生物はいずれ死すべきものではあるが、しかし生物個体のあらゆる情報を保存する生殖細胞が新個体の発育成長の鋳型になりうる。」36)

 つまり、宗族はDNAだとも言いかえられよう。王朝という生命体は、滅びても滅びてもこのDNAによって複写・再生されていくというわけだ。「新王朝の再建者は多くの場合宗法貴族の出」であり、「農民大反乱の打撃の下に旧王朝が土崩瓦解する際には、きまって一部の封建世族がいつになく活動的になる」点などについて例証を試みている。そして「これらの歴史的事実が示すとおり、農民大反乱が旧王朝を倒壊させるちょうどその時、封建的家族組織は競って活躍し始めるのである。地主階級は農民大反乱の成果を奪い取って封建王朝を再建する、とはよくいわれるが、ある意味でこれは、封建的宗法世族の代表する封建的関係こそ最も強力で、何にもまして宗法家庭の鋳型としての作用を発揮しうる、ということにほかならない」37)という。
 

発展をつみとる農民反乱


 農民反乱のとらえ方も、金らの場合、独特のものがある。これまでの多くのマルクス主義史家、人民闘争史研究者にとって、農民反乱は社会を発展させる原動力だった。しかし、金らは、これこそ中国を繰り返し発展の原初に引き戻した破壊の元凶だったとする。

 まずは、その苛烈な破壊力である。中国の農民反乱は、単に旧王朝の腐敗を取り除くだけでなく、その体制下にあった社会的経済的発展を根こそぎ破壊し、戦乱や飢餓で住民を大量死滅に導くのである。金らは、多くの歴史資料から、農民反乱と王朝交替期にどれほどの人的犠牲があったか衝撃的数字を示す。秦から漢への王朝交代時の8年間に中国の人口は2000万から1000万に半減した。大飢饉もあり、『漢書』は「人と人が食いあい、死ぬ者が半数」と伝える。後漢最盛時に5000万人まで回復した人口は、後漢末の動乱後には700万余にまで激減した。実に7分の1である。隋代には再び人口5000万、戸数900戸に回復したが、唐初には200万戸余に激減する。唐最盛期に人口は5000万に復活したが、唐末の大動乱と五代十国の戦乱を経て北宋創建時に登録戸籍は300万戸になっていた。明末から清初への移行時20年間でも、総人口は5166万(1626年)から1403万(1655年)に減っている。

 後漢末の5000万から700万の人口激減など「一つの民族の滅亡」といってもよいくらいだ。『三国志』によれば「江淮(揚子江と淮河にはさまれた地域)一帯は空っぽになり、人々は互いに食いあうというありさまだった」という。前出日本の中国史家・岡田英弘も、この時期の人口減少を各種史料から検証し、4915万人から450万人以下に、という数字をはじき出し「これは事実上、漢族の絶滅である」と言っている38)。「空っぽ」に近くなった華北平原に遊牧民(五胡)が大量に入り込み、続く五胡十六国の135年間に「華北の中原の地は遊牧民の天下になってしまった」39)。やがて再び中国を統一する隋・唐の皇帝たちも遊牧民・鮮卑系であり、岡田は、隋唐期をこれまでの漢族とは異なる新しい漢族・「北族」の時代ととらえている。

 さて、このような民族構成も変化させかねない大規模な破壊をもたらす農民反乱が、王朝末期には必ず起こった。それは破壊的すぎ、新しい社会をつくるよりは、これまで積まれてきた次の時代への発展の芽を根こそぎ破壊してしまう。金らは次のように言う。

 「王朝が安定している2、300年の間、生産力は進歩し蓄積されるが、王朝が崩壊して脆性瓦解が起こると、<ギリシャ神話のシーシュポスの石運びの話で>大石が山頂からふもとにころがり落ちたのと同じで、新王朝は蓄積を一からやりなおさざるをえなくなる。生産力の進歩的要素の萌芽は、発芽―成長―切断という周期的な破壊をくりかえし、その結果、萌芽は新組織の大樹へと発展することができなくなる。」40)
 「中国社会の大動乱は「立」のない「破」であり、新しい果実を結ぶことのない営みであった。緩慢な蓄積の過程は数百年に一度の大動乱によって切断されてしまう。歴史の発展過程を総体として見れば、歴代王朝の生産水準は緩慢な上昇発展の中にあり、後代の封建王朝の生産水準と生産関係は前代の王朝に比べ発展、前進していた。しかしながらこの前進は再三にわたる破壊の後の復活であり、忘却と亡失の後の再創造であって、その発展は緩慢なものであった。前進の道程がかくも紆余曲折したものである以上、人々は一代また一代とその歩みを反復せざるをえなかった。中国封建社会の前進の過程が特別に長く感じられるのはこのためである。」41)
 

歴史は繰り返す


 こうして中国の専制王朝は、宗族と農民反乱のメカニズムによって繰り返し再生し破壊され、持続する。つまり、まずは宗族的結合が専制国家の編成原理となり、下と上から二重に社会を維持する。農民反乱が、腐敗した王朝とともに、蓄積された発展の芽も根こそぎ破壊し、全てを振り出しに戻させる。その時かの宗族DNAが作動し、旧態依然の専制国家が再生される。

 このサイクルから、現代中国は逃れられているのか。金らの専制国家論は清代までであり、近代以降については多くを語らない。しかし、アメリカで発行されている中国民主化運動の雑誌『中国の春』は、1984年11月の17期で金らの別の論文を掲載し、次のようにコメントした。

 「この論文の趣旨は明確である。中国共産党の勝利は、単なる農民反乱の勝利にすぎない。彼らの打ち建てた政権は封建官僚政体の延長であり、この論文の分析した封建社会構造は、もとより今日の一党独裁構造を含むものである。」42)

 金らは明確には言わぬが、実は彼らは、現在の中華人民共和国の時代にもつながる専制国家の分析を行なったのであり、革命運動をかつての農民反乱の末裔ととらえたというのだ。なるほど言われてみれば、金らは文革期に苦悩し、それを「封建専制主義」の残存として総括した世代に属している。金らは、むろんこの『中国の春』の見解を勝手な解釈として否定したが、現体制下で苦悩しながら変革を展望する中国知識人たちの営為に思いをはせる必要を感じた。
 
 

3.江戸の民主主義


 東アジアには絶望的な専制社会だけがあったのだろうか。確かにこの地域には強固な専制支配が古くから確立し、村を支配したが、そこから住民自治の可能性は生まれてきていなかったか。東アジア専制システムの中心から見て周辺になるが、日本を例に取り、最近の「江戸の民主主義」再評価の動向を追ってみたい。日本で江戸時代の見直しがはじまったのはここ2-30年のことだ。中国でも同様の歴史のとらえ返しが今後現れるかも知れない。歴史は常に、新しく生み出される時代による過去との対話なのだから。
 

江戸の村


 日本の自治体数は、度重なる合併により現在2000をも割ろうとする趨勢だが(2005年9月12日現在2,326、2006年3月31日1,822の予定43))、江戸時代には6万以上の村落が存在し、小さな村(現在の大字程度に相当)ごとに一定の自治を行っていた。1834年の幕府調査結果(「天保郷帳」)では6万3562村が記録されている44)。幕藩体制のもとで武士が城下町に集住させられ(一国一城令、1615年)、村は領主(武士)の直接支配から免れることになる。年貢は個人に課されるより「村請け」という形で村に課され、農民間である程度やりくりできるものとなった。

 これまで、江戸時代の村落共同体は支配の末端機構とされ、「五人組」と「村八分」の監視の下、「生かさぬよう殺さぬよう」の過酷な農民支配が行われたとだけ言われてきたが、最近の江戸研究ルネサンスがこの暗黒イメージを少しずつくずしている。年貢率も言われているほどのものではなかった。額面上30―40%の年貢でも、それは一昔前の(実際より少ない)登録石高への賦課率なので(「定免法」)、実質年貢率は下がる。さらに米以外の生産物に対する賦課がほとんどなかったので、賦課は全体で10―20%程度だったという45)。五人組も相互補助の側面があり、村八分の掟も、小農が支配的になった江戸期農村で、なお集団的協力を成り立たせるための共同体規制の性格があったことを考えなければならない。

 江戸初期まで村長にあたる名主(庄屋)は世襲だった。幕府から中吏(ちゅうじ)という官職を受け、給米も幕府から得ていた。しかし、17世紀半ばから18世紀半ばにかけて村内の力関係が変化し、世襲の永代中吏職は廃止される。佐渡、越後の村文書を丹念に調査した田中圭一は、例えば1665年につくられた佐渡・蚫(あわび)村の名主についての定書(さだめがき)を紹介し46)、名主の報酬を村の百姓から集めた年1石3斗とすること、長百姓(平百姓)6名によって名主を選出すること、長百姓を集めた寄合での合議で村政を行うことなどが記されていることを示す。幕府も1713年に名主の世襲を禁ずる法令を出した。末端役人だった名主の性格がこの時期、大きく変わっていったと田中は言う。

 「重要なのは、名主が村人によって選ばれ、村人が名主の給与を出すことになったということである。名主が、村人の意志と関係なく、中世からの支配のしくみを引き継ぎ幕府から給料をもらうとしたら、名主は村人の上に君臨することになる。名主が村人によって長百姓の中から選ばれるということは、名主が単に「村政を任せられ、幕府のために年貢の配分と徴収と治安の維持にあたる」という立場とはちがう性格をもちだすということである。また、名主の給与を村に出させることにしたことは、幕府の負担を軽くしたが、逆に見れば、名主は村民の意志をおしはからなければならなくなったのである。」47)

 1727年の佐渡・羽茂本郷(はもちほんごう)村の寄合史料では、組ごとの持ち回りで名主を受け持つことにし、5組それぞれの代表がくじ引きで順番を決めたとある48)。信州の幕領では、安永年間(1770年代)に、名主の約3分の1が輪番制になっていた49)。選挙でさえなく、だれもが名主になれる輪番制では、名主の性格はさらに変わらざるを得ない。

 佐渡・馬場(ばんば)村の史料では、規定の3年たっても名主を止めない者には村からの名主給米を出さない、寄合での飲食費用は出さない、奉行の江戸帰還見送りの旅費が支給されたら村に返す、などの厳しい名主規制が定められている。1684年の佐渡・南片辺(みなみかたべ)村の村定めは、規則を守らない場合、名主を代官に訴えるとして、「名主なににても、わがままなる儀申し付けられ候とも、非分なることに候わば、一同合点つかまつらず候て、御代官様へその段申し上ぐべく候事。」と定めている50)。
 

入れ札、寄合、多分の儀


 名主を村人が選ぶということは要するに選挙である。選挙制度は近代になって欧米から移入されたのではなく、日本の江戸時代の村で始められていた。これを「入れ札」という。例えば、大阪府羽曳野市に含まれる古市村では、1808年に行われた庄屋選挙で、200軒以上あった百姓家に対し入り札が実施され、その札が今も残されている51)。こうした諸研究に基づき、水谷三公は「江戸の遺産 ―民主主義」52)について簡潔にまとめている。それによると「江戸も少なくとも後期に入ると、近畿地方や関東地方など、社会・経済的「先進地域」のかなり広い範囲の村々で、村人一般による入れ札、つまり投票が実施されるように」なった。それを幕府も黙認していたようで、例えば、1848年、常陸の幕府代官・新井清兵衛が村々にまわした「申渡」で、後任が入れ札で決まっても退任を渋る名主が居るが、速やかに対応をすべきであると指示している53)。この入れ札制度は遺産として明治にも受け継がれたとして水谷は次のようにも言う。

 「公式の幕府文書や村方史料に記録される以上に、入り札、つまり多数決で、人選や各種決定をする慣行が庶民の間にあったのではないかと想像する。そうでなければ、維新後まもなく導入された県会議員や町村会議員の選挙が、あれほど円滑に機能したのか、理解が難しい。」54)

 江戸時代の村政は、こうした(時に)選挙される名主(庄屋)と、組頭(年寄)、百姓代(村目付)による「村方三役」の合議で運営された。重要事項は、各戸長の集まる「寄合」で「多分の儀」(多数決)により決められた。「村の民主主義」について説得的にまとめた田中優子は、次のように言う。

 「村の重要事の議論と決定は、<寄合>で行われた。いわば議会である。寄合は全員加盟が原則だったが、この場合の一人というのは、一家に一人のことをいう。入れ札の票も、一家に一票である。家族単位のところが、現代と大きく違っている。寄合でものごとを決めるときは、多分(多数決)が基本であるが、時には満場一致が求められることもあった。このようなものごとの決定と運営は、生活の村の仕事であり、制度上の村=村方三役の仕事ではなかった。」55)

 入れ札も多分の儀も、必ずしも江戸期に初めて現れるのではなく、それ以前からの長い歴史があるようだ。例えば水谷は、中世から戦国時代にかけて「多数決が重要な政治・軍事的決定の際のやり方として公認されていた」として次のように言っている。

 「寺院僧侶の間で、領主相互に、あるいは村の内部やその連合体で、ほとんど社会のあらゆるレベルで「多分の儀」が強調されていた。当時の文書を見ればしばしば「多分の儀につくべし」といった類いの表現に出会うが、これを現代風に言い換えれば、多数決で決めたことには従うべきだと言うに外ならない。このような多数決の強調には、中世から戦国時代の社会に特有の事情も働いていたから、これだけで日本の強固な伝統と言い切るわけにはいかないとしても、<多数決が>伝統とは無縁な外来制度と言うのが誤りなことは分かる。」56)

 江戸の村は中世の惣村の伝統を引き継いだものであり、中世は江戸期にも勝って活発な人々の自治が行われていたとも言われる。その辺の事情を「無縁」「公界」「樂」などの言葉(横文字で言えば「アジール」)で私たちの前に大きく示してくれたのは網野善彦だ。彼は、人間の自治の空間としての「無縁」「公界」「樂」の場は、中世まで強靭に存在していたが、江戸期に入りかなり崩されてしまう、ととらえている。ここでは深く立ち入れないが、彼の論は単なる中世自治論でなく、アジール的な空間を機軸に新しい世界史の発展理論を目指す壮大さがが感じられる。太古に存在し、歴史時代を経て徐々に侵食されるアジール的空間。しかし、その新しい発展形態を模索する中で、自由・平等の民主主義原理も生まれた。そうした新しい歴史発展の見方が示唆されている57)。
 

自治体とNPO


 私たちが目指す市民社会ガバナンスのモデルは、江戸の村にあったのか。石川英輔、田中優子『大江戸ボランティア事情』(講談社、1999年)は、そんな楽しい思いを抱かせてくれる。同書は、一般向けに分かりやすく書かれているだけに、市民社会の今後を考える人々に広く深い影響を与えたと思われる。前述のような自治的な江戸の村・町を示すと同時に、連、結、講、座、あるいは若者組などのNPO的住民組織、文科省なしに生まれた市井の寺子屋、「隠居」という名のボランティア活動、市民による公共サービス「町火消し」など「江戸の市民社会」を多面的に紹介している。つまり、市民社会のガバナンスは、村や町内会など地縁的自治組織だけでは不十分であり、そこに、NPO的な市民・住民組織が加わり自由に活動してこそ、活力ある市民社会がつくられる。そうした市民社会ガバナンスの基本モデルを、江戸社会を例に描いてみせている。これまで搾取と抑圧の暗黒の時代と思われてきた江戸時代の中に、市民社会の可能性の芽をさがそうというのだ。

 例えば、田中は同書中の章「村の民主主義」の中で、長野県野沢の野沢組の活動を紹介する。江戸時代から引き継がれた<生活の村>のあり方である。
 「野沢組はもとの野沢村の範囲と重なっており、祭だけではなく、日常的には山の管理、林野登記の整理、下草刈りなどの保全、水路の堰の管理や掃除、公共施設の雪下ろし、そして、<湯仲間>という別の組織が中に含まれていて、温泉の管理まで行っている。組の財源は組員が払う組費とスキー場の使用料からなり、その組費は組の活動に当てられるほか、道路や水路や林道保全、消防や敬老会への補助金にまで使われる。」58)

 中国の居民委員会が温泉場を管理していることを思い出して興味深いが、ともあれ、このような機能をもつ組は「江戸時代の村の名主を補佐する<組>に由来」し、それ自身は行政組織ではないが、江戸時代の村組織の性格をよく今日に伝えるものだという。「野沢組に見られるように、江戸時代の<生活の村>の中には<組><衆><講><結><座>などが常に機能しており、その全体は<寄合>=議会によって運営されていた。にもかかわらず、これらは行政ではなく、実質的<自治体>なのだ。」59)

 例えば組では「若者組」が有名である。「中世では村を守る軍事組織でもあるが、江戸時代以降、祭の施行が主な目的になった。祭だけではなく、祭にかかわる地芝居、相撲、花火、各種の踊り、競馬、お囃子、綱引き、裸祭など、遊びにかかわること全般が、若者組の活動となった」60)。もちろん遊んでばかりいるわけではない。消防、警備、災害時の出動などで若者組は重要な役割を果たした。

 若者組は近畿地方では若衆とも呼ばれた。衆という言葉も様ざまなグループを指す言葉として使われ、田中は村落運営全般を担った「十人衆」「十五人衆」などの例をあげている。他に相互扶助の組織として結や講があった。臨時の相互補助活動が結であり、恒常的にそれが組織されたものが講である。田植え、稲刈り、家の建て換え建て増し、屋根葺きなど、一時に大量の労力が必要になる時、結が組まれた。それだけではない。「屋根の茅葺きだけでなく、道普請、用水の保全や掃除、宮の掃除、火災・洪水の際の出動、風呂を振る舞う結風呂、食事を振る舞う結、大火などの時に隣村から駆けつける見舞い人夫、<不幸組><無常講><同行>などと呼ばれる葬儀の実施、婚礼などの儀式。そして<出世無尽>と呼ばれるものは、孤児の救済にあたるものだった。」61)

 講は資金の共同積み立て組織の例が多く、「伊勢講」が有名だ。村人の間で資金を積み立て、毎年、かわるがわる伊勢参りを行う。当時で言えば、現在の海外旅行に相当するような大型レジャーであった。一般に講は、鎌倉仏教、とくに念仏宗の拡大とともに村々に拡がっていったとも説明される。

 こうした江戸期の村を振り返った田中の結論は次のようなものである。

 「村はかつて、実質的には自治組織であった。その性格を短い言葉で表現すると、布施=ボランティアの精神を根底にもちながら、独立精神と主義主張と結束力をもちあわせ、それが侵されようとするときには、一揆をもって応える、という、高く深く、やさしくしたたかな存在だった。」「かつての村の中で、複雑に入り組んだ形できわめて効率よく機能していたボランティア組織を、近代化の名のもとに、おそろしく経費がかかってまともに機能しない官僚組織と入れ換えてしまった、あるいは入れ換えてしまおうとしているのが、現在の日本の姿ではなかろうか。」62)
 

近代に持ち越される村の自治


 歴史の常として、あらゆる体制は、その前の体制をひどく悪く言い立てる。それを倒して現体制をつくったのだから、自己正当化のためにもそれは当然のことである。欧米的近代化路線を歩み始めた明治政府にとっても、江戸時代は遅れた暗黒の世で、高い年貢を払わされた社会であった方が都合がよかったろう。確かに江戸時代は様ざまな問題を抱えた社会だったが、プラスの面もあった。それを私たちが引き継ぐ遺産として正当に評価することが必要だし、これまで欠けていた姿勢であるだろう。

 村の自治は、ある意味で明治になってこそ根本的に蹂躙され、徹底した中央集権国家化が推し進められたとも言える。前述の通り、幕藩体制下の農村は間接支配を受けたが、明治以降の近代政府は直接支配をめざした。明治政府は1871年に廃藩置県を断行すると、翌年、末端の地方制度として「大区小区制」を実施した。当時8万あった江戸期の村は無視し、府県下に906の大区、7699の小区(1878年段階の数)を設置した。1区ほぼ10町村の計算である。旧来の名主、庄屋を廃し、区長、戸長などを任命した63)。

 人々はこれに抵抗した。1874年以降繰り広げられる自由民権運動は、国会開設などとともに、地方自治の確立を求めた運動であったことを想起する必要がある。特権を失いつつある不平士族の他、村役の出身基盤でもあった豪農層、地租改正や入会地没収などに抗議する一般農民たちもこの抵抗運動に加わっている。当時つくられつつあった地方民会を拠点に地方民会の地方議会への制度化、議員公選制などの要求が出されている。

 1876年、地租改正(1873年)とそれにともなう「山林原野官民所有区分処分」に反対して、茨城県で真壁・那珂暴動、東海地方で伊勢暴動が起こった。政府は、前者で死刑3名他1000名以上の処罰者を出すなど、徹底した弾圧を加えたが、こうした地方からの反抗に衝撃も大きく、翌1877年、地租率を100分の3から100分の2.5に急遽引き下げている。租税の徴収は大区小区制のもとでの区長、戸長の仕事でもあった。特に木戸孝允・大久保利通らは、急激な中央集権化が地方の不満を高めていることを強く憂慮し、これが1878年の大区小区制廃止(郡区町村編成法)をもたらす要因だったと言われる64)。これで、かつての小規模な町村が一旦は復権されるとともに、同年の内務省乙第54号が、町村の長(戸長)を公選にする方針も明らかにした。

 明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

 明治の集権国家の中にも江戸の村の民主主義は根強く存続していった。その原理は、町内会、部落会などで(再び支配原理に動員されながら)近代史を生き延び、戦後GHQに解散を命じられたにもかかわらず、再び町内会や自治会として今日の時代にも引き継がれる66)。現在の「平成の大合併」に抵抗する人々を突き動すのも、自由民権運動の、さらには江戸民主主義のDNAかも知れない。
 
 

4.展望

善か悪か


 その組織は本当の自治組織か、支配の末端機構ではないか、という問いは常に発せられねばならない。日本の町内会であろうと、中国の居民委員会であろうと、江戸の村組織であろうとそうである。しかし、善玉か悪玉か形而上学的に識別することにさほど積極的な意味はない。民衆はどのような時代にも、どのような体制下でも生きなければならない。生きるためにはそこで何らかの互助システムをつくり運営する。人々は常に、一定の支配機構の中で、それに何らかの折り合いをつけて生き、自治を行ってきたのである。それ以上でも以下でもない。大切なのは、善玉・悪玉の判定ではなく、そうした歴史的に条件づけられた体制の中で一歩でも新しいもの、新しい「折り合いの仕方」を求めたかどうかである。その努力があるところ、必ず次の時代の新しい制度の芽ははらまれる。そうした意味からは、困難な条件下で努力している中国の市民が、安逸な私たちよりもっと早く新しい東アジア自治モデルを生み出すこともありえる。

 なお、善玉か悪玉かを問う私たちの発想の根底には、常に理想化されたヨーロッパ中世都市のイメージがある。暗黒の中世に封建領主の抑圧をはねのけ、外とは異なる自由の空間をつくりあげた“真の”自治都市のモデルが一方にあり、そうではない東アジアの自治を私たちは云々する。しかし、ここであまり詳しく触れられないが、当のヨーロッパの歴史学界で、中世自治都市の理想化を否定し、それを当時の歴史的諸条件の中に相対化する試みがはじまっている。ヨーロッパ中世都市論は「近代的自由・自治の祖型、あるいは理想化された自由・自治の源流を中世自治都市に求めようとした19世紀のブルジョア自由主義の歴史学」によって研究され、特定のイメージにかためられてきた。しかし、実際は都市の中にも農奴制はあり、自治や自由に関して都市と農村の間にさほどの違いはなく、自治都市の証拠とされたコミューン証書も古くからある慣習法上の権利を確認したものであり、結局、ヨーロッパ自治都市も、当時の中世的環境内部の秩序として見直すべきとされる67)。

 ヨーロッパの中世都市も、当時の歴史的限界の中でそれに適合していたのであり、東アジアの自治もヨーロッパの自治も、より普編的な文脈の中で同レベルの存在形態に一旦引きもどして分析してみることが有益だろう。
 

NPOの形成


 地域的自治組織は、市民社会ガバナンスの中で重要な役割を果たす。ある地域の住民集団が全体として決定を下し進む時に、不可欠の役割を果たす。自由に結成されそれぞれの決定で動く多様なNPOでは代替できない役割である。しかし、地域自治組織は何ほどか全体的正統的組織の形をとらざるをえないがゆえに、支配の末端機構に組み込まれやすい傾向をもつ。だからそこにNPO的な市民組織の役割が必要となる。既存のモデルを常に崩し、新しい試みをつくり出していく。そうしたNPOと地域自治組織との緊張をはらんだ協働から理想的な市民社会ガバナンスが展望できるだろう。

 日本では、とりわけ1995年の阪神淡路大震災と「ボランティア元年」以降、こうしたNPOをつくる動きが活発になってきた。次々に民主化を達成した韓国、台湾、フィリピンなど東アジア諸国でも同様であり、中国にもこの波は押し寄せている。中国のNPOについてまとめた貴重な書『中国のNPO』68)は「まえがき」で、中国に本当のNPOなど存在するのかという問いを予想して、「本書の具体的な検討に入る前に、まずこの問いに"Yes"という明確な回答を与えよう。」と宣言している。そして、中国の環境NPO「地球村」など6団体の主催による「アースデイ2000中国NPOフォーラム」に若い学生たちが多数参加したことなどを紹介する。

 著者たちによれば、中国の非営利セクターは3つに分類される。「社会団体」、「民弁非企業単位(民間非企業組織)」、「社区志願者組織」である。社会団体は日本で言えば公益法人のようなものである。会員数や資産額など要件が様ざまに定められ行政および共産党組織の主管機関で許可を得る。1999年末現在、13万6800の社会団体が存在する。

 民弁非企業単位は、社会サービスを提供する規模の大きな組織で、病院、老人ホーム、研究所、文化・スポーツセンター、職業訓練所、地域サービスセンターなどが含まれる。1999年に、全国に70万団体以上あった。

 最後の社区志願者組織が、居民委員会などを通じて地域のボランティア活動を行なうボランティア団体である。1998年の数字では、全国に約5万5000の社区志願者組織があり、登録しているボランティアは500万人以上という69)。

 非営利セクターの活性化にともない、案の定、歴史のとらえなおしがはじまっている。同書の第2章は「結社活動の2000年」であり、秦漢時代の「朋党」「会党」から、貧民救済のための義倉、義田、義荘、王朝を倒した黄巾、紅巾、近世の義和団、果ては近代の国民党、共産党まで100近い結社組織の類型が図表化されている。王朝を何度も倒している秘密結社や前出金観涛らの重視した宗法的組織の例を上げるまでもなく、悠久の中国史に現れるNPOの伝統は壮大なものがあろう。

 しかし、現代の中国において政府から自由な真に自立したNPO活動は可能だろうか。再び生ずるこの疑問に対し著者らは次のように答えており、これが中国における自主的NPO活動のための今後の課題ともなっている。

 「中国社会は現在、創発型活動が誕生しにくい、発展しにくい社会状況にあるといえる。しかし、20年前、現在中国で活躍している「私営業者」の存在を誰が想像できたであろうか。実際、今回の質問紙調査から、少数であるものの、「創発型活動」への可能性を秘めた回答がいくつか見出された。・・・居民委員会によるコーディネイト機能の遂行には、受動的自発性を促進する要因は見出せるものの、上記のような「新しい活動」への願望を実践に結びつけていく要因は見出せない。「創発型活動」を育んでいくためには、居民委員会を中核とした社区志願者活動の現状と限界を踏まえたうえで、新たな環境づくりと仕組みづくりが求められよう。」70)
 

住民運動


 散発的ではあるが、中国からも活発な住民運動の報道が伝えられるようになった。中国新聞社が伝えたところによると、陜西省大茘(だいれい)県西関村の住民286人が、選挙時の金銭授受を理由に選挙の無効を求めていた裁判で、同省合陽県の人民法院は2004年12月、訴えを全面的に認める判決を下した(『中国情報局』ニュース、2004年12月12日付け71))。法制日報が伝えたところによると、ゴミ燃焼発電施設の建設に反対して浙江省蒼南県の住民282人が、浙江省発展・改革委員会(発改委)を訴え、2005年6月、杭州市西湖区人民法院で裁判が始まった(2005年6月3日付け)。香港紙・蘋果日報の報道を引用して多維新聞が伝えたところによると、浙江省長興県煤山鎮建下村で、電池工場が原因で子ども200人以上が鉛中毒になったとして、村民ら600人が工場に侵入。中にいた従業員らを閉じ込めて抗議した(2005年7月1日付け)。新華社などが伝えたところによると、河南省修武県馬坊村で、鉛工場が排出していると思われる粉塵、汚水、汚染された気体が原因で、259人の児童のうち、約90%で鉛中毒の症状が見られ、激怒した農民が関係機関に直訴。2005年1月には工場に農民が押しかけて従業員や車両の通行を阻止した(2005年9月16日付け)。

 正式なルートを通じての抗議が難しい場合、暴動になる場合も多く、最近の例では、広東省広州市で2005年9月29日、靴工場労働者ら約100人が賃金未払いに抗議して市内の交差点を封鎖、出動した警察官などと衝突した。パトカー3台を含む車両6台が破壊され、警察官1人がけがをした(2005年9月30日付け)。中国社会科学院などが発表した調査では、2004年上半期(1-6月)に発生した農村部の暴動・紛争は130件にのぼったという。このうち87件が土地強制収用をめぐる衝突だった72)。

 研究者の側からこうした住民運動の分析も現れており、賈雪梅は浙江省三門県の「移樹事件」をとりあげ、各行動主体がどのように動いたか社会学的な分析を行っている73)。

 1998年、浙江省三門県嶺口村の住民たちは、高速道路建設のため樹齢1200年の古木が伐採されるのを知り、関係機関に計画変更を求めた。しかし、三門県高速道路建設部は、古木は確かに貴重だが計画変更は多額の費用がかかるとして建設工事を開始した。1999年1月に、嶺口村村民委員会と住民団体「老人会」は、浙江省に再度要請を出すとともに、古木周辺での24時間監視体制をとりはじめた。浙江省林業局は「森林法」「環境保護法」などをたてに古木保護の立場を明らかにしたが、建設側は聞く耳をもたなかった。老人協会は、浙江省法学会の好意的見解も取り付け、メディアにもアプローチした。2000年1月には全国人民代表大会(国会)常務委員会への要望書も出し、全国緑化委員会の支持もとりつけた。開発側は「古木の移動」という対案を出したが、住民たちは「移したら木は死ぬ」と、これにも反対した。新聞、テレビなどのメディアも好意的なキャンペーンを張るようになり、自然之友など全国的NGOにも支持が広がった。古木伐採は数次に渡り阻止されたが、長い論戦の末、古木移転が決まり、2001年3月に移転工事が開始された。5月に移樹が完了し、数日後に高速道路も完成した。

 賈はこの事件の中で動いた嶺口村老人会、村民委員会、メディアなどの役割を詳細に分析し、「中国における新しい公共圏の成立」の方向を探った。この事件で、住民の声を最も直接に体現した老人会は高齢者の互助・親睦団体である。1989年の「社会団体登記管理条例」により「社会団体」が結成できるようになり、これを受け1992年に三門県の各村で「老人会」が設立された。

 村民委員会も最初は、古木伐採反対で動いたが、次第に地方行政機関の圧力に押され、賛成側にまわる。事件の渦中で賄賂を受け取ったとされ、財政報告もないことなどから、村民は委員罷免の要望書を県・鎮政府に提出している。村民総世帯の54.08%にあたる169世帯の連名だった。村民委員会が村民の意見を政府側に反映させるという自治組織の役割を果たしていない、と賈は批判している。

 メディアについては、地方メディアは地方行政機関の圧力を受けやすく開発側にまわりやすいが、中央メディアは地方政府組織を批判することが多いと分析した。中央テレビや人民日報がこの問題を取り上げることで事態が大きく動いたとする。

 賈はこの「移樹事件」を通して、日本の読者にひとつのメッセージを出している。これまで、中国のような社会主義国において住民が行政に反対することはできないと思われていた。しかし、この事件での住民運動を見る限り、それはもはや妥当しない。「NGO組織が地方政府公権力を批判する担い手としての機能・役割を果たしつつあるということであることは明白だ」し、各種メディアも機能も果たしつつあることを指摘する。

 村民委員会について賈は次のように言う。これが彼の「中国における新しい公共圏」への展望ともなっていよう。

 「村民委員会が「大衆的自治組織」としての役割を果たしていたと仮定すればどうだろうか。NGO組織としての老人協会はどのような行動をとっていただろうか。あるいはとっていなかっただろうか。そうしたことを考えるならば、これからは、いかに村民委員会が自治的機能・役割を発揮していくかが中国的公共圏の展開にとっての重要な鍵となるだろう。」「メディアの役割が中国においては改革・開放前と後で大きく変化した点と、社会団体組織が「復活」した点とが「移樹事件」の解決に寄与した以上、民衆の意見を公開の場で反映することになったこの種の「公共圏」が中国の歴史の中で新しいものであることは言うまでもない。しかし、これに加えて村民委員会の働きが潜在的に大きいとするならば、中国における新しい公共圏の成立には中国独特の要件が働いていると見なすことができる。」74)
 
 

〈注〉

1)以下、中国の地方制度については次などを参照した。「海外事務所特集 北京事務所 2 中国の地方行政制度の概要」(『自治体国際化フォーラム』128号、2000年6月号)、「省市自治区・主要都市別の地域情報」(『中国情報局』ウェブサイトhttp://searchina.ne.jp/area_guide/)、高原明生「中国」(森田朗『アジアの地方制度』東京大学出版会、1998年)。
2)中華人民共和国憲法第30条。
3)高原 前掲論文 33ページ。
4)夏建中(鈴木未来訳)「現代中国の都市におけるコミュニティー管理組織の歴史、構造および機能」(『立命館産業社会論集』37巻2号、2001年9月)177ページ。
5)高原 前掲論文 37ページ。
6)中華人民共和国憲法第111条。
7)以下、次を参照。大塚健司「第1章、中国の都市コミュニティーにおける住民組織形成」(幡谷則子編『発展途上国の都市住民組織 ―その社会開発における役割』アジア経済研究所、1999年)、陳文源「第2章、無錫市社区居民委員会に関する史的考察」(宇野重昭・鹿錫俊『中国における共同体の再編と内発的自治の試み』国際書院、2005年)。
8)夏 前掲論文 176ページ。この場合の統計上の「都市」「鎮」の定義については190ページ。
9)蘇陀「富有生命力的新生事物」(中国民政部『都市街居通信』1999年)18ページ。王名・李妍・岡室美恵子『中国のNPO ―いま、社会改革の扉が開く』第一書林、2002年、194ページ。
10) 張民・高坂健次「中国都市地域社会における「小区」紛争」(関西学院大学『社会学部紀要』第95号、2003年10月)80ページ。
11) 例えば次を参照。Evan McKenzie, Privatopia: Homeowner Associations and the Rise of Residential Private Government, Yale University Press, 1994;邦訳:エヴァン・マッケンジー(竹井隆人・梶浦恒男訳)『プライベートピア ―集合住宅による私的政府の誕生』世界思想社、2003年。実際、ゲーテッド・コミュニティーは、アメリカだけでなく、貧富の差が激しい途上国にもできやすいかも知れない。
12) 国家年調査隊の調査によると、2001年6月まで、都市住民世帯(全国で1億3100万世帯)の平均財産は22万8200元で、そのなかの住宅が10万9400元で総財産の47.9%を占めた。張民・高坂健次「中国都市地域社会における「小区」紛争」(関西学院大学『社会学部紀要』第95号、2003年10月)、80ページ。
13) 張琢『中国の重層集権体制と経済発展』東京大学出版会、1998年。王名・李妍・岡室美恵子『中国のNPO ―いま、社会改革の扉が開く』第一書林、2002年、195ページ。
14) 以下、愛宕元「中華帝国の遺産」(『岩波講座 世界歴史5 帝国と支配―古代の遺産』岩波書店、1998年)を参照する。
15) 同上論文、205ページ。
16) 同上論文、206-207ページ。
17) 高原 前掲論文 31ページ。
18) 以下、歴史的な村落機構に関しては、地球旅行研究所『世界歴史事典データベース』http://www.tabiken.com/history/、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/を参照した。
19) 里甲制については、栗林宣夫『里甲制の研究』文理書院、1971年も参照。
20) 隣保制度については、宮崎市定「四家を隣と為す」(『アジア史研究』4号,東洋史研究会、1964年)も参照。
21) 「隣保制度(日本)」(地球旅行研究所『世界歴史事典データベース』http://www.tabiken.com/history/)
22) Karl August Wittfogel, Oriental Despotism: A Comparative Study of Total Power; 翻訳:アジア経済研究所訳『東洋的専制主義』論争社、1961年。
23) 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社、2004年。
24) 同上書、73ページ。
25) 同上書、28ページ。
26) 同上書、62ページ。
27) 同上書、64ページ。
28) 渡辺信一郎「中国古代専制国家論」(鈴木正幸・水林彪・渡辺信一郎・小路田泰直共編『比較国制史研究序説―文明化と近代化』柏書房、1992年)105ページ。
29) 足立啓二『専制国家史論』柏書房、1998年、80ページ。
30) 金観涛・劉青峰(村田雄二郎訳)『中国の超安定システム―「大一統」のメカニズム』研文出版、1987年。
31) 同上書、110ページ。
32) 同上書、45ページ。
33) 同上書、47ページ。
34) 同上書、118ページ。
35) 同上書、122ページ。
36) 同上書、119ページ。
37) 同上書、120―121ページ。
38) 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社、2004年、91-93ページ。
39) 同上書、95ページ。
40) 金観涛・劉青峰(村田雄二郎訳)『中国の超安定システム―「大一統」のメカニズム』研文出版、1987年、154ページ。
41) 同上書、162ページ。
42) 村田雄二郎「訳者解題」(同上書)203ページ。
43) 総務省「合併相談コーナー」ウェブページ、http://www.soumu.go.jp/gapei/index.html
44) 青木美智雄「村の自治―その自衛と共働」(『ジュリスト総合特集:地方自治の可能性』1980年)。
45) 例えば次を参照。佐藤常雄・大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社、1995年、 穐本洋哉『前工業化時代の経済――『防長風土注進案』による数量的接近』ミネルヴァ書房、1987年、 岡部一明「日本近代化における地域ビジネスの役割」(東邦学園大学地域ビジネス研究所編『近代産業勃興期の中部経済(地域ビジネス研究叢書(2)』唯学書房、2004年、94-96ページ。
46) 田中圭一『百姓の江戸時代』筑摩書房、2000年、116-117ページ。
47) 同上書、114ページ。
48) 同上書、116ページ。
49) 湯本豊佐太「信州中野天領の中間支配機構(二)」(『信濃』)20-23ページ。
50) 田中 前掲書 117ページ。
51) 津田秀夫『日本の歴史 天保改革』小学館、1975年。
52) 水谷三公『江戸は夢か』筑摩書房、1992年、191-199ページ。
53) 同上書、194ページ。
54) 同上書、239ページ。
55) 石川英輔、田中優子『江戸ボランティア事情』講談社、1999年、177ページ。
56) 水谷 前掲書 237ページ。
57) 網野の著作は数多いが、例えば次を参照。網野善彦『増補 無縁・公界・樂 ―日本中世の自由と平和』(平凡社ライブラリー)、平凡社、1996年。
58) 石川、田中 前掲書 172ページ。
59) 同上書、172ページ。
60) 同上書、187ページ。
61) 同上書、194ページ。
62) 同上書、203-204ページ。
63) 重森曉『地方分権―どう実現するか』丸善ライブラリー、1996年、23ページ。
64) 都丸泰助『地方自治制度論』新日本出版社、1982年、19-24ページ。
65) 重森 前掲書 27ページ。
66) 詳しくは東海自治体問題研究所『町内会・自治会の新展開』自治体研究社、1996年。特に中田実「第・?章 町内会・自治会のこれまでの歩み」参照。
67) 詳しくはシャルル・プティ=デュタイイ(高橋清徳訳)『西洋中世のコミューン』東洋書林、1998年。この中の高橋の解説(高橋清徳「解説・コミューンと都市法」、同書123-197ページ)は既発表の2本の学術論文をもとにしており、単なる訳者解説を超えて、質・量とも訳書本文に匹敵する。
68) 王名・李妍・岡室美恵子『中国のNPO ―いま、社会改革の扉が開く』第一書林、2002年。
69) 同上書、18-20ページ。
70) 同上書、205ページ。
71) 以下、報道は、中国情報局サイトのニュース・データベースによる。http://searchina.ne.jp/
72) 菅原大輔・如月隼人「行政当局による違法な土地収用を厳禁、暴動を意識か」(中国情報局、2005年9月15日12時29分、http://searchina.ne.jp/
73) 賈雪梅「中国における新しい公共圏の成立 ―公共事業をめぐる浙江省三門県の「移樹事件」を事例として―」(関西学院大学『社会学部紀要』第95号、2003年10月)。
74) 同上論文、195ページ。
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