はじめに
I イギリス
II ドイツ
III スペイン
IV ヨーロッパにおける自治と国家
筆者は現在、ヨーロッパをはじめ、世界の他の地域の自治体制度に目を向けている。自治体とNPO(非営利団体)を含めた市民社会のガバナンス(統治)のあり方を探求したい。封建制度を経なかった新開地のアメリカでは自治体制度も特異になるのは当然、という見方もある。では、日本と同様、長い封建制の歴史をもったヨーロッパの諸都市はどうなのか、と思い、ヨーロッパの自治体制度を調べはじめた。2002年8月に英国、ドイツ、スペインなど西ヨーロッパ諸国の予備的な現地調査を行なった。本稿はそこから得られた所見をまとめたものである。ヨーロッパの自治体はアメリカにも増して小規模なところが多かった。とりわけ人口100人以下の自治体では、隣組的で身近な自治体運営が行なわれていた。
ヨーロッパでは現在、欧州連合(EU)の統合が進んでいる。典型的と言うにはあまりに典型的すぎるこの地域の民族諸国家が序々に相対化されつつある。国外的にはEUに統合され、国内的には広域(リージョン)が台頭している。スコットランドもウェールズも独自の議会をもち、西ヨーロッパで最も民主化の遅れたスペインでも、カタルーニャ、バスク、ガリシア、バレンシアなど広域政府の自治拡大が著しい。
さらに、ヨーロッパ統合の中では「補完性の原理」(Subsidiarity, kommunale Selbstverwaltung) という新しい自治原則が共有化されつつある。公的サービスは住民に最も近い機関(自治体など)が優先して提供するべきであって、それが困難な分野でだけより上部の機関(広域政府や国家)が提供する、というボトム・アップ型のガバナンス原理だ。この原理は当然、自治体よりさらに身近である地域市民団体やNPOの役割にも重要な示唆を与える。ヨーロッパは典型的な旧世界であるがゆえに、そこでの変革にはより深刻な影響力がはらまれている。
以上の諸論点を中心にしてヨーロッパの自治体制度を下記に概略紹介する。なお、今回の現地調査にあたって東邦学園大学の個人研究費の支給を受けたことを付記しておきたい。
(写真:ドイツ・ブレーメンの市庁舎(右)。ヨーロッパの都市は、中心に教会と市庁があり、広場で市が立つというパターン。)
これらと比べると日本の市町村の平均人口約4万人はいかにも大きい。しかも、これでも「小さすぎる」として、さらなる統合が目指されているのは国際的には特異である。事務の効率化の側面から統合が必要としても、自治の観点から住民により身近な小規模自治体の方向も考慮されねばならない。
また、ヨーロッパの自治制度には広域(リージョン)の存在が大きいことも特筆される。日本では都道府県の上部は国である。ヨーロッパ諸国、米国では、ここに州や広域といったものが入り、かなりの権限をもった地方政府を構成している。後述の通り、統合ヨーロッパのガバナンスはEUと広域政府の力が強まり、その間の国民国家は地盤沈下する傾向にある。
国 名 | 人口
(1998年) |
地方政府 (Regional Government) | 中間自治体 | 自治体 (Local Government) | 自治体当りの人口 |
オーストリア | 8,077,000 | 9 lander | - | 2347 gemeinde | 3,441 |
ベルギー | 10,214,000 | 3 regions, 3 communities | 10 provinces | 589 communes | 17,341 |
デンマーク | 5,301,000 | - | 14 amter | 275 kommuner | 19,276 |
フィンランド | 5,153,000 | 1 autonomous region | 19 regions | 455 kommuner | 11,325 |
フランス | 58,847,000 | 26 regions | 100 departements | 36,433 communes | 1,615 |
ドイツ | 82,024,000 | 16 lander | 426 kreise | 16,068 gemiende, 117 kreisfreie Stadte | 5,068 |
ギリシャ | 10,515,000 | - | - | 359 demoi, 5562 koinotikes | 1,776 |
イタリア | 57,369,000 | 20 regions | 95 provinces | 8,066 communi | 7,112 |
アイルランド | 3,705,000 | - | 29 counties | 83 municipalities, 5 city corporations | 42,102 |
ルクセンブルグ | 426,000 | - | - | 118 communes | 3,610 |
オランダ | 15,694,000 | - | 12 provinces | 633 municipalities | 24,793 |
ポルトガル | 9,957,000 | 2 autonomous regions | - | 305 municipios, 4,220 freguesias | 2,200 |
スペイン | 39,371,000 | 17 regions | 50 provincias | 8,098 municipios | 4,862 |
スエーデン | 8,851,000 | - | 23 landsting | 288 kommuner | 30,733 |
英国 | 58,649,000 | - | 56 counties | 482 districts, 10,000 parishes | 5,595 |
計 | 374,153,000 | ヨーロッパ平均 | 3,959 | ||
(参考) 米国 | 270,561,000 | 50 states | 3,043 counties | 36,001 municipalities & townships | 7,515 |
日本 | 126,410,000 | - | 47都道府県 | 3,230市町村 | 39,136 |
(出典)
The Committee of the Regions, Regional and Local Government
of the European Union, 1996.
U.S.Census Bureau, 1997 Census of Govrnment, Volume I
Government Organization, 1997, p.IV.
各国の人口(1998年央推計)、日本の市町村数(2000年)は総務省『日本統計年鑑
平成14年』による。
イギリスのパリッシュ数は推定。
イギリスの正式国名はUnited Kingdom(UK、連合王国)であり、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4国からなる連合国家である。日本語の「イギリス」は、この内イングランドの名前に由来し、UK全体の名前としては不正確である。スコットランドにはScottish Parliament(1999年初選挙)、ウェールズにはNational Assembly for Wales(1999年初選挙)、北アイルランドにはNew Northern Ireland Assembly(1998年初選挙)という独自の議会が設立され、かなりの自治権を獲得するに至った 2)。こうした4「国」を国家と見なすか広域政府とみなすかという議論は一応おき、ここでは、そのレベル以下の自治体制度、とりわけイングランド国内における自治体制度について述べる。
(写真:テムズ川方向から見たイギリスの国会議事堂)
イングランドには基本的に下記のような自治体レベルがある。
広域(Region)広域はイングランド内に大ロンドン庁(GLA, Greater London Authority, 2000年発足)を含めて9つある。GLAは直接選挙で選ばれる市長と議員(25名)をもつが、他の広域は今のところ正式の公選議会をもたない。権限が弱く、自治機能は完全ではない。だが、2002年2月に出された政府白書 3)が、公選議会をともなった完全な自治機構化の方向を示し、今後体制が整備されていく見込である。
郡(County)
地区(District)
パリッシュ(Parish)
広域は現在のところ、地域代表のボランテタリーな会議である広域議会(Regional
Chamber)などがある程度の民意をくみ上げる体制をとる 4)。1999年にロンドン以外の8広域でそれぞれ広域議会が設立され、その構成は地域内の地方自治体の代表が大勢を占め、地方自治体と関わりない者が30%以上なること、性別や少数派民族のバランスなどにも配慮されている
5)。また、各広域に広域開発公社(RDA,
Regional Development Agency)もつくられ、国務大臣(ロンドンの場合は市長)に任命された理事会の下、広域全体の経済開発に主導権を発揮している。RDAの2001年度の予算は約13億5000万ポンドで、これが2003年度には17億ポンドまで拡大する見込みである
6)。
広域の下に郡(総数34)、地区(同238)の段階がある。郡が日本の県、地区が市町村レベルの自治体に相当する。ただし、この系列以外に、大都市では郡と地区が一体化した都市地区(metropolitan district, 36)またはバラ(borough, ロンドンのみ。32)などがある。また地方でも、1995年以降、郡と地区を統合した統合自治体(Unitary Authority, 47)が拡大している。ウェールズやスコットランドでは、ほぼこの統合自治体方式でまとめられている。政府の狙いとしては、広域と統合自治体を中心に地方自治制度をまとめる意向と言われる。
地区の下にあるのがパリッシュで、英国自治制度の草の根部分を形成している。これはもともと教会の「教区」であり、中には1000年以上の歴史をもつものもある。しかし、徐々に、宗教的な教区とは区別された市民的教区(Civil
Parish)の成立が活発化し、これが1894年自治体法で公的な自治体制度の中に組み込まれた。イングランドとウェールズで約14000のパリッシュ(市民的教区)がつくられた
7)。その後、自治体合併の波の中でも存続し、むしろ草の根運動により、徐々に自治権限が拡大されてき
た 8)。
現在、プライバシーの関係で人口100人以下の自治体は詳しい統計が発表されないなどの制約 9)から厳密な統計はないが、イングランドに少なくとも1万以上のパリッシュがある。小さいパリッシュは村(village)、大きいパリッシュは町(town)とも言われる。最近では、市民の政府離れを防ぐ意味からある程度国の方針としてもこの基礎自治体の強化方向が出てきている。(現在、英国の地方自治への関心の薄さは政府でさえも危機感を感じるレベルで、『エコノミスト』によるとイタリア、ドイツなど小自治体をもつ国の自治体選挙投票率がそれぞれ85%、72%であるのに対して、英国のそれは30%である10)。)
国土の約80%、人口の40%にパリッシュがある11)。人口数十人から数万人の規模のものがあり、ほとんど活動していないパリッシュもある。パリッシュ議会は任期が4年、定数はパリッシュごとに決められる。
これら広域(リージョン)からパリッシュに至る自治体制度の顕著な例外がロンドンである。すでに述べた通り街全体が大ロンドン庁(GLA、Greater
London Authority)として広域(リージョン)と同レベルである。その中の32の区がバラ(borough)である。また中枢部に中世からの伝統をもつシティー(City
of London)が存在することも特異である(後述?参照)。バラの下に現在のところパリッシュは存在していない。ロンドンには以前は大ロンドン県(GLC,
Greater London Council)がおかれていたが、保守党政権下の1986年にこれが廃止され、以後長らく、ロンドンには細かい区(borough)しか存在しなかった。労働党政権下2000年に、再び全体を管轄する大ロンドン庁(GLA)ができた。
英国には、これら各種自治体を連携する全国団体がいくつかある。地方自治体協会(Local Government Association,12)は、郡、地区、統合自治体、GLAなど約500のイングランドの既存自治体、ウェールズの22の統合自治体を連合している。また、草の根のパリッシュ自治体を連携するのは地方カウンシル全国協会(National Association of Local Councils, NALC13))であり、大英博物館近くに事務所をかまえている。下記は、このNALCのジョン・フィンドレイ事務局長(John Findlay, Chief Executive)へのインタビュー記録である14)。
(写真:NALCのジョン・フィンドレイ事務局長)
教会の教区から出発したパリッシュは1894年の法律で正式に自治体として認定された。郡自治体も同じ頃からはじまった。パリッシュの全国組織としてのNALCは1947年につくられた。パリッシュ自治体に法律的その他必要なサービスを提供するとともに、国レベルではパリッシュの立場を代表して議会などにはたらきかける。
イングランドとウェールズに1万以上のパリッシュがある。80%のパリッシュは農村にある。しかし、現在では徐々に都市部でもパリッシュが設立されつつある。ロンドンでもそれをつくろうとする運動がある。パリッシュは地理的にイングランドの80%を覆い、人口の40%をカバーしている。現在急速に増えており、過去3年間に100以上のパリッシュが設立された。住民が請願によって政府当局に設立を申請することができる。NALCは5年前までは非常に小さな組織だったが、それ以降急成長している。私は2年前に事務局長になったが、任務のひとつは、小さな組織形態を現代的な組織に転換することだ。法律支援・政策活動を強化し、より早い段階で国の政策策定に参加するようになった。何か自治体に関する法案が発表されたら、それを迅速に検討し修正案などを出す。多くのニュース、出版物も出し、パリッシュ関係者に情報を流す。また、パリッシュの設立が増えるにつれて、実際の行政事務支援の活動も多くなった。専門家をパリッシュに派遣し自治体行政強化を支援する。
私たちのは、イングランドとウェールズのパリッシュ自治体を代表している。スコットランドには別の協会組織がある。北アイルランドには今のところパリッシュはない。北アイルランド議会の下に「地区」の自治体があるだけだ。しかし、ここでもパリッシュをつくろうという動きがあり、私たちは支援に入っている。北アイルランドでは、教育をはじめ多くの機能が自治体から取り上げられていた。これを基礎自治体に戻すことで、コミュニティーの人々の間に連携を回復したいと思う。
日本と同様英国でも自治体の統合化が進んでいる。1964年にロンドン、74年に全英で自治体合併が進んだ。例えばロンドンは32の区にまとめられた。他でも多くの自治体が統合された。それが、ここ30年ほどの英国の自治体制度の基礎をつくった。しかし、現在、また別の動きが出ている。一つは、スコットランド、北アイランドなどでの自治権拡大の動きだ。独自の議会づくりの過程が進んでいる。もうひとつは欧州連合(EU)の統合に伴い、国内での新しい自立的広域(リージョン)の確立が求められていることだ。英国でも広域政府構造が少しずつ整備されており、そこに議会や住民投票など民主主義的プロセスを確立しようとする動きがでている。しかし、広域政府ができると自治体制度は多層化しすぎる。国-広域-郡-地区-パリッシュとなってしまう。政府としては、広域自治体を導入するからには層を減らさなければならない、特に郡と地区を統合しなければならない、と考えている。マンチェスターやバーミンガムなどの大都市ではすでにこの統合化が完成している。地方でも統合自治体が増えている。
地区と郡が統合自治体にまとめられていく中で、「地区」自治体の機能の一部が下部のパリッシュに移行してくる可能性がある。比較的大きいパリッシュの場合、例えば都市計画やゴミ収集などの権限を得るかもしれない。パリッシュには人口200人、300人の小さなものも多いが、何万人規模の大きなコミュニティーもある。とにかく、こうした統合化の中でパリッシュ権限の拡大があり得る、ということが私たちの現在の大きな関心事だ。
政府の側も、ある意味でパリッシュのような小規模自治体を強化しようとしている。自治への市民の意識を高める必要があるからだ。現在、一般市民の中で自治体に対する関心が危機的にまで薄らいでいる。自治体への信頼も低下した。人々に自治体についての意見を聞いてもいい答えは返って来ないだろう。自治体を住民により近づける必要が出てきている。政府の人々も公式には言わないが、非公式の席でよくそれを言う。
一般市民は自治体は自分のものという感覚をなくしている。例えばスーパーマーケットが建てられるとしても、決定は地区やバラのレベルで行なわれる。身近なパリッシュ段階では決められない。どこか別のところで自分たちの将来が決められると感じてしまう。だから決定権限を下に移動させ、自治への所有感覚を強める必要がある。
確かに、自治体を小さくすると効率上問題が出る。道路を建設するのに何百もの基礎自治体の合意を取り付けるのは大変なことだ。あるいは地方公共交通を小さなパリッシュが運営するのは不可能だろう。補完性の原理(後述?参照)にのっとり、そのサービスに最も適したレベルの自治体に任務を配置していくことが大切だ。その際、サービス提供が可能な限り、最も住民に近い機関がサービスを提供するべきだ。自治体制度は常に統合と分権の力に揺れている。現在の英国では民主化のプレッシャーの方が強く、自治体は再び細分化に動いていると言える。
大英図書館の近くを歩くうち、カムデン区(バラ、London Borough of Camden、人口19万人)の区庁(Town Hall)を見つけた。区立図書館と隣り合わせになっている。区議会の会議予定表を見ると、8月の夏休みにも関わらず、委員会会議が開かれている。さっそく事務局に問い合わせた。だれでも自由に傍聴できるとのこと。外国人でも問題ないと言う。市議会の行政評価委員会(Overview and Scrutiny Commission)に出席した15)。ちなみに、カムデンは少数民族、外国人住民が多い区だ。人口の18%が非白人、他の21%が他のヨーロッパ諸国からの白人であり、120の言語が話されているという16)。
(写真: カムデン区庁舎<右>)
区にはそれぞれ憲法(Constitution17))があり、その制度を細かく規定している。カムデン区には54名の公選区議が居る。18の内区(Ward)から各3名ずつ選ばれる。互選で年毎の市長(Mayor)を決める。市長は儀礼的な存在で実際的な権限をもたない。区議会本会議の議長を勤める他、年間500あまりの各種地域行事に出席する。区議会本会議は月1回開かれる。行政評価委員会、一般目的委員会(General Purpose Committee)などいくつかの委員会があり、さらに小委員会がある。
本会議で区議の中から特に選ばれた10人が代表部(Executive)を構成し、細かい決定はここで下す。代表部の長が「リーダー」で、行政の最高責任者。代表部は全員、同じ政党(多数派政党)の区議であり、執行部的性格が強い。月3回の代表部会議はカムデン区の場合公開である。
行政評価委員会は、代表部が率いる区行政をチェックする。委員の内訳は、複数政党からの8名の区議、ロンドン司教監督管区理事会(London
Diocesan Board)から2名の代表、区内の保護者会代表(Parent Governors)
3名から成る。3週間に1回、委員会会議を開く。
区議の給料は同区憲法が規定しており、基本年俸は7500ポンド(140万円)。役職がつくと、例えば代表部のリーダーだと2万2600ポンド、行政評価委員会議長であれば1万2600ポンドなどと付加される。
イングランドとウェールズでは2000年に地方自治法が改正され(The
Local Government Act 2000)、代表部の設置など、自治体の内部組織を大幅に変えることが求められた。それに従ってカムデンでも2001年9月から体制を変えた。以上はその新法下でのカムデン区自治体制度の概要である。
書記官に、写真やテープ録音はOKかどうか尋ねると、彼女の顔がやや引きつり、驚いたようだった。認められていない、とのこと。その反応の様子で、英国制度の公開度が「体感」できた。アメリカには公開会議法というのが地方レベルにもあって、市議会や各委員会、審議会などの会議はすべて公開になるのはもちろん、発言もできるし、写真撮影、テープ録音、ビデオ録画もまったく自由だ18)。それに比べると英国はまだ「傍聴は自由」という日本に近い公開度のようであった。各種会議の議題案内には次のような文面が書かれている。
「だれもが、カムデンの公開会議に来て決定がなされるところを見ることができます。これらの会議の議題は前もって入手でき、何が話されるか知ることができます。何か特定の問題を会議で取り上げてもらい発言したい場合、区庁の最高責任者に書面で申請し許可を得なければなりません。当該会議の2勤務日前の正午までに申請が届いてなければなりません。」「議員だけが決定を行なうことができます。・・・皆さんは、(代表して発言するよう招待されていない限り)議論に参加するはできないことを承知おきください。」19)
こうした会議の公開制度については、行政文書への情報公開も含めて1985年の自治体法20)で詳しく規定された。ヨーロッパは広く、国、州によって制度が異なるので一概には言えないが、今回調べた限り、(人口100人以下など極めて小規模な自治体以外では)諸会議は厳密な代議制で市民に発言権はなく、写真、テープなども制限されている、というのが基本のようであった。
そう言いながら、リヒャルト・ペステマー(Richard Pestemer)が自宅前の有機野菜畑に出かける。この夏21)のドイツは雨が多かった。冷いやりとした小雨にあたりながら、グリーンハウスのトマトやキュウリをもぎる。ドイツ西部のラインラント・プファルツ(Rheinland‐Pfalz)州ノインキルヒェン(Neunkirchen)村。人口146人の小村だ。古代ローマの前線都市、モーゼル・ワインの集散地であるトリール市からなだらかな丘を車で約30分。静かな山里にノインキルヒェンはあった。数十戸の家が谷間に立つ。比較的新しいペステマーの家の周りには畑やビニールハウスが広がる。人気ない静かな農村を眺めていると、まるで日本の伝統的な山里に帰ったようだ。
(写真:人口146人のラインラント-プファルグ州ノインキルヒェン村)
(写真:有機農業をするリヒャルト・ペステマー村会議員)
ペステマーは、この小村で村議をつとめている。議員は村長を含めて7人。年4-5回集まるだけの権限の弱い村議会-自治体だが、それでも村道の維持管理、墓や森の管理、街灯、消防、スポーツクラブなどの運営に責任をもつ。80年代にペステマーは、大都市ケルンの市議会議員をつとめた。その後、自然派のライフスタイルを自ら実践するため田舎に入り、有機農業とフリージャーナリストで悠々自適の生活を送る。無所属として選出された村議会の仕事はボランティア。給与はない。村の人びとへの奉仕のようなものだ。
「村にはコミュニティー・センターがあり、そこで村議会を開く。村役場はない。村職員もいない。村長の家に全部書類がおいてある。村議会は年4-5回だが、村の人たちとは村に一軒ある飲み屋でよく議論する。」とペステマーが言う。
ヨーロッパの街は、中心部に教会と市場があり、その傍らに市庁があって市民生活の中心となる、というのが基本パターンだ。しかし、人口100人程度の村になると教会や市場はなく、かわって「村1軒の雑貨屋と飲み屋」が村生活の中心になるとペステマーは言う。
「村の人口は150人程度で、約40世帯ある。職業は大工が2世帯、お店と飲み屋が1軒ずつ、兼業農家が2軒、パーティーサービス業をしている人が1人、後は付近の工場や会社に勤めている人だ。私はフリージャーナリストだ。」と村の様子を説明する。
「小さな村議会でも地球環境やアフガン戦争を議論すべきだと私は主張する。例えば、村の街灯。この電力はどこから買えばいいのか。ドイツの電力のかなりが原子力でまかなわれている。最近、市民が電力会社を選んで電気を購入できるようになった。街灯の電気も、少し高くても、風力など自然エネルギー主体の地元電力会社から買うよう主張している。」
大手電力会社が必死の値下げ攻勢をはじめたので自然エネルギーへの転換はなかなか進まないようだが、村レベルからこうしたエネルギー自立をすすめていく必要があると彼は強調する。
連邦政府 Bundesregierung(1)この例外として、大都市に関しては、郡と通常の自治体を統合した都市自治体(kreisfreie Stadt)があり、全ドイツで117を数える。ただし、首都ベルリン、旧ハンザ都市のハンブルクとブレーメンは「都市州」として別格である(後述IV参照)。また、自治体が小規模なところでは、例えばラインラント-プファルツ州の前記連合自治体(Verbandsgemeinde)のような連合体を形成して運営効率化をはかっている。
州 Lander(16)
郡 Kreis(426)
自治体 Gemeinde(16,068)
60年代と70年代に西ドイツでは活発な市町村合併が行なわれ、その自治体数は約2万から1万に減った。合併した東ドイツでは市町村合併が進んでおらず、現在7500の自治体がある。
確かに、ノインキルヒェン村のあるラインラント-プファルツ州は、ドイツでは自治体が小さい州である。しかし、ドイツ全体でも、全部で1万6000の自治体があり、平均人口は約5000人だ。1000人以下の自治体が3800、500人以下の自治体が1500ある23)。ドイツにおいても、市民が直接参加する最下位の自治体は小規模なのだ。
「任期は5年だが、当時緑の党はローテーション方式をとっていたので、2年で次の人に代わった。ケルン市議会は91人居た。緑の党はその中で10人だった。給料はなく、会議のあった時だけ謝礼が払われた。私は1年だけ党のケルン市議会議員代表をつとめたが、そのための党からの月給は900マルク(7000円)だった。社民党の議員に言ったら、笑われた。」
ケルン市議をやめてからトリールに移り、さらにこの山里ノインキルヒェンに住み着いた。1995年に緑の党を辞めた。革新的な若者の党も既成政党化してきたと感じたからだ。「ペトラ・ケリーは『反政党の政党』の旗印をかかげた。しかし、議員になると偉くなる。いろいろ党内に亀裂が出てくる。緑の党も責任を取らねばならない、ということで現実派が力を得て、政治的な駆け引きの中で妥協もしていくようになる。」
政治屋になってしまう危険をおかしてまで市議会議員になる必要があるのだろうか。
「議員になることのメリットは情報が取れることだ。ケルン市議になる前、市役所でいろいろ情報を取ろうとしたが、なかなか取れなかった。市長と話したいと言っても相手にしてくれない。しかし、市議になると自由に市長に会える。新聞にも発言が取り上げられるようになる。緑の党の議員代表がこれこれを言った、と新聞に出る。「えらくなった」と思った。市民運動の人と話をしても、彼らの求めることを議員権限である程度実現できるように感じた。」
今、この田舎の村に引き込んで、次の目標は何なのか聞くと、彼は「あそこのお墓だ。」と村の墓地を指しておどけた。しかしそれは本気なのだと言う。「ここで村議としてがんばっている。もう引っ越せない。引っ越したら逃げたと思われる。村から新しいライフスタイルをつくっていきたい。」
ラインラント-プファルツ州の自治体は全般に小規模なもので、前述の通り村の連合体「連合自治体」(Verbandsgemeinde)を形成し行政の効率化をはかっている。ノインキルヒェン村はタルファン(Thalfang)連合自治体に属している。近くのタルファンの村にその連合自治体の役所があった。社会業務課のエドムント・マスマン(Edmund Massman)課長に話を聞いた24)。
(写真:ラインラント-プファルグ州タルファン連合自治体のエドムント・マスマン社会業務課長)
タルファング連合自治体には21の村がある。それぞれ村議会があり、村議会の議員は人口により多いところで25人。年に数回の村議会を開く。小委員会はもっと頻繁に会合をもつ。互選で村長が選ばれる。私はこの連合自治体役所で15年働いている。役所に30人のスタッフがおり、私の課には7人だ。
連合自治体役所で上下水道、ゴミ、警察、スポーツ、プール、経済開発など、基礎自治体の任務をほとんど全部行なっている。残りの任務を村が行なうのだが、ほとんど残らない。村には行政職員もおらず、行政遂行能力がない。
自治体制度は、州によってまったく違う。このラインラント-プファルグ州では村の人口が少ないが、他州の自治体はもっと大きい。自治体関連法律は数年ごとに変わる。そのたびにそれらすべてを勉強しなければならない。
小さな自治体は効率が悪い。他州では市町村合併を積極的に推し進めたが、この州ではカトリックとプロテスタントがいるので、まとめて一つの村にすることが難しかった。例えば現在この地域で風力発電所をたてる計画が出てきているが、21の村議会にその成否を聞かなければならない。非効率的だ。
私は他の自治体も含めて20年以上この仕事をしている。この仕事が好きだ。住民と密なコンタクトができる。大きな自治体だと、狭い分野の専門的な仕事だけになってしまう。ここなら、いろいろな問題について住民と密接に付き合える。難しいが楽しい。自治体の仕事の他に教会や赤十字でもボランティアをしている。行政の仕事を委託するなどで市民団体との付き合いも多い。
次は、連合自治体の上、郡の議員に話を聞こう。ぺステマーと同じく元緑の党議員ヨハネス・シュナイダー(Johannes Schneider)だ。現在、自分たちでつくった市民団体「市民のための市民連合」(VBB25))からバーンカステル-ヴィットリッヒ(Bernkastel‐Wittlich)郡26)の郡議会議員に選出されている。同郡は、タルファンなど10の連合自治体が所属する郡で、約100の村をかかえ、人口は12万ある。
(写真:バーンカステル-ヴィットリッヒ郡のヨハネス・シュナイダー郡会議員)
VBBの事務所は、同代表ハイデ・ワイデマン(Heide Weidemann)の自宅だった。ワイデマン自身も近くのモーゼル川を横切ってつくられる高速道路の建設反対運動を組織している。インタビューはこのVBBの事務所、彼女の家の居間で行った27)。郡議会議員も固定給はなく、会議があった時だけ4000円程度(75マルク)の日当が出るだけだ。議員は皆職業をもっている。シュナイダーは、小さな有機農業のブドウ園とワイナリーを経営している。この地域で有名なモーゼル・ワインの製造だ。つい最近まではこうした有機農業ワイナリーの全国団体の議長もつとめていた。
私は1999年に地域団体「市民のための市民連合」(VBB)から出馬してバーンカステル-ヴィットリッヒ郡議会に選出された。郡には1人の郡長と42人の郡議会議員が居る。VBBは私を含めて2議員だけだ。他は緑の党が2人、キリスト教民主同盟(CDU)22人、社会民主党(SPD)12人、自由民主党(FDP)2人、独立派2人だ。
一般市民は傍聴できるが、発言はできない。本会議は年に4回のみだ。いろいろ小委員会が頻繁に開かれる。委員会レベルでほとんどが決まり、本会議はセレモニー的だ。「これに賛成ですね」と議長が聞いて採決するが、市民は、それが何を意味するのがわからない、ということもある。多くの場合、多数派であるCDUの意向どおりに決まる。多数派は必ずしも22人だけでなく、24人、26人などともなる。独立派、SPDなども多数派に加わる場合がある。
私たちは最初から、採決では勝てないことを了解している。しかし、異なる見方や意見を出すことが重要だ。また議席があることで、いろいろ情報が取りやすくなる。
議員の仕事はフルタイムではなく、会議に出た時だけ給与が払われる。一日に付き75マルク(4000円)だ。国と州の議会の議員はフルタイムだが、それ以外の地方議会は基本的に日当払いだ。
政治のプロではなく、普通の仕事をしている市民がその考えを議会にもってくるべきだ、という考え方が根底にある。普通の生活感覚のない人が政治をしたのでは、本当の代議制民主主義にはならない。
VBBは1994年に設立した。市民団体的な政治クラブ、協会だ。伝統的な政党とは異なる。非営利団体で、寄付をすればその分が税控除になる。大政党は国から直接政治資金をもらえる。我々はもらわない。このワイデマンさんの居間が事務所だ。小さいながらコンピュータだってある(笑)。ウェブサイトもある。メンバーは約100人で、その内15-20人が常時活動している。ワイデマンさんがVBB議長。私は2人の郡会VBB議員団の代表だ(笑)。
地方議会では、CDUにしてもSPDにしても党組織に自立性がない。中央にコントロールされている。政党に所属しない独立派の議員たちも、多くの場合、昔関係のあった党の影響下にある。そこで私たちは、まだ党に入ったことのない人を中心にこの団体をつくった。多くの市民は、環境にしろゴミ問題にしろいろいろ不満があるが、それをどう解決していけばいいかわからない。私たちは、それを中央の政策にまかせず、地域的に解決することを目指す。ゴミを遠くまで運んでいっては解決にならない。地域で解決する。それが環境にも、コスト的にもよい。
大規模なビジネスを行なうのでなく、地域の小事業を活発化させる。そのことによって地域に雇用も生まれる。グローバリゼーションで何でも大規模な事業に置き換える傾向があるが、それでは地域に益がない。
現在の自治体制度にいろいろ問題はあるが、それなりの市民参加制度はあると思う。私は、市民の側にも問題があると思っている。多くの市民が郡政治に参加すればいろいろ変えることができる。しかし、なかなか参加しない。チャンスはない、チャンスはない、と人々は言う。しかし、それを実際にためそうとしない。たたかえば負けるかも知れない。しかしたたかわない者はすでにその時点で負けている。例えば選挙制度にしても、党ばかりでなく議員個人に投票できるよう制度が改正された。しかし市民はそれをあまり活用しない。
前回の郡長選挙(2001年)では、多数派のCDU以外では私たちの市民派代表しか立候補しなかった。世論も新聞も初めから「どうせだめだ」という論調だった。確かに私たちの1999年の郡議会選での得票は3%で、望みは薄かった。しかし実際にやってみると、VBB候補の得票は14.6%まで伸びた。最初からあきらめていてはだめだ。
初期の緑の党は、反対はしたが、何を求めるか、はっきりしたビジョンをつくれなかった。私たちは、エネルギーや食糧の地域自給など、明確なビジョンをもちたいと思う。また、ある程度展望をもった人でも、理論だけで、自分ではそれを実践しようとはしなかった。
私は無農薬のワインをつくることでそれを実践している。3ヘクタールのみの小さな果樹園だ。全国に約300の有機農業ワイン生産者が居る。私はその全独連合組合の議長をつとめていた。有給職員はいるが、議長はフルタイムにできない小団体だ。郡議会とワイン生産者連合組合の2つのボランティアをするのは大変だった。郡議会は委員会他で週に数時間、本会議が年に数日で、大した仕事ではない。しかし、連合組合の議長は週1、2日はとられた。
民主化で地方の自治権が強化された。それまでの県、自治体の上に自治州(communidades
autonomas)の設立が進められた。1978年までにカタルーニャ、バスク、バレアレス諸島、カスティージャ・イ・レオン、エストレマドゥーラの自治州が生まれ、さらに80年のアンダルシア、ガリシア自治州の設立が続く。83年までに全土が計17の自治州に分割され、地域再編は完了した。
自治州は独自の基本法のもと、議会と、そこから選出される州知事を有する。州旗や州歌をもち、州によっては(カスティリア系)スペイン語とは異なる独自言語を公用語にするなど広範な自治権を行使する。
自治州の下に計50の県(provincias)があり、その下にさらに計8089の自治体(municipios)がある。自治体の議会は直接選挙で選ばれ、その互選で市長が選ばれ、それが任命する執行委員会が自治体運営を行なう。県議会は自治体議員から選ばれ、それが指名する正副議長、執行委員会が県行政に責任をもつ。自治体の60%は人口1000人以下であり、44%は人口500人以下である28)。
1985年の自治体法が自治体の行なうべき業務を規定している。しかし、憲法は自治体に「その利害にかかわるあらゆる事項に関する権限」を保証しており、法定業務以外も行なえる。法定業務は、基本的なところで街灯、上下水道、道路整備、墓地、食品規制、ごみ収集などである。人口規模が大きくなるにつれて法定業務が増える。例えば人口5000人以上の場合は公園、図書館他、2万人以上は消防、福祉サービス他、5万人以上は公共都市交通、環境保全他と業務が加わっていく29)。
自治州-県-自治体の基本系列以外に、マンコミュニダデス(mancomunidades)、コマルカ(comarcas)、大都市圏(entidades
metropolitanas)がある。いずれも複数の市町村が共同の公共サービスを行なう広域連合体だ。ただしコマルカの場合、固有の法人格を有し議会も有する(自治体の議員・長から互選)。カルターニャ州では全945市町村が構成する41コマルカがあり、県の存在意義が薄れている30)。
そう言って弁護士のアポロニオ・アルカイデ(Apolonio Alcaide)が苦笑する。サンタ・ブリヒダ学院(Instituto Santa Bri‐gida)で法律を教える傍ら、マドリッド市議会議員など向けの法律講座を受け持つ。時々出張で地方の自治体へのコンサルティング活動にも出かけるが、人口100人を切るような自治体では、皆手弁当でやっており、彼の旅費なども出ないことが多い。
(写真:小自治体支援に奔走するアポロニオ・アルカイデ弁護士)
「特に、マドリッドの北側に100人以下の自治体がたくさんある。こういうところでは何事も皆で決定して直接民主主義が行われている。しかし、役職者になった人は大変だ。無給で、住民のあらゆる要望にこたえねばならない。嵐が来てテレビが見えなくなった、いつ見えるようになる、などという苦情も村長のところに来る。」
もともとの専門は労働法だったが、議員相手に彼らの職務や権利を講義するうち、自治体法の専門家にもなった。講座のテーマとして人気があるのは、市議の給料はどれくらいが適当か、市議は市長からどういう情報を得る権利があるか、その職務上の責任は何か、どういう法的保護が得られるか、どのような訴訟に訴えられる可能性があるか、さらに市議会の具体的な運営方法、例えばどのような問題について委員会を通すか、市民の参加はどうするか、などなどという。「要するに、市議会議員たちが法的な誤りを犯さないよう、自治体関係の法律を講義する、彼らに法的な助言をする、ということだ。」
スペインの自治体制度について、その他の彼のコメントは次の通りである31)。
自治体の議員数は人口による。人口300万人のマドリッドだと53人か55人だ。スペインには100人以下の自治体がたくさんある。人口が100人以下だと制度が異なり、村長を直接選挙する。政党を通さない。すべての住民が議会に参加してものごとを決定する。100人から250人の場合はまた制度が変わり、5人の村議を選ぶ。市民は市議会に参加でき、最後に質問をすることができる。しかし、決議権は市議にある。市民は決定には参加できない。満足できなければ選挙まで4年待たなければならないということだ。市民の市役所情報へのアクセスについては、一応すべての情報が公開ということになっている。人口5000人以上の自治体ではニュースレターも発行されている。住民投票はあるが、その決議はオフィシャルではない。政治家に市民の意見を伝えられる、というだけだ。
議員の給料は自治体により異なる。基本的には市議会が議員給料を決める。市民は決められない。しかし、あまり高くすると次の選挙で落とされる。したがって議員は、市民の覚醒度の許す範囲内でできるだけ高い給料を設定しようとする、ということだ。小さい自治体では議員は給料をもらっていない。むしろ自治体を動かすために多額の持ち出しとなっている。
大きい市の場合、内部にさらに区があり、区役所がある。市長が各区長をすべて任命する。ただし、バルセロナでは、各区の政党支持率に合わせて区長が選ばれる。自治体内に新しい自治体をつくって独立することは不可能ではない。しかし、市の中心地域(カスコ)の承認を得る必要があり、実際上は難しい。
小さい自治体では民主主義が機能しているかもしれない。しかし大きな街では、権力と金を求めて政治が動く。各政党が、得票率により政府から選挙費用を支給される。得票がなければ政党は政府からの資金を得られない。1票につき10セントだ。市民参加とは結局カネである、という意識があると思う。
友人に紹介され、ジャズクラブ「エレスコンディテ」(Elescondite)を起業したホセ・ルイス・オニャーテ(Jose Luis Onate M.)に会った32)。最初はジャズ・バーをつくろうとしたが、行政とうまくいかず営業許可がおりなかった。「条件が同じでも、許可になる場合と不許可になる場合がある。コネや賄賂がものを言うのだ。私はそういうコラプション・フィー(汚職料金)を払いたくなかった。」と彼は言う。弁護士と相談して、バーではなく、会員制のクラブとして開業した。一種の法的抜け穴的なところがあり、形式上、ジャズ音楽を身内で楽しむクラブとして設立すれば、厳しい規制はまぬがれる。チューリッヒなど「北ヨーロッパ諸都市」で活発化している自営業者の運動だと言う。
(写真:ジャズバーを起業しようとして行政とうまく行かなかったというオニャーテ氏。新しく始めたジャズクラブで。)
スペインでは、自治体を含め、行政への不信を聞くことが多かった。市民参加もいいが、行政自体が腐敗していたらどうするのか、と切り返される。「自治のいい事例を求めるなら北ヨーロッパに行った方がいい」とあからさまに言われることもあった。民主主義の歴史が浅いスペインでは、まだまだ行政への市民参加が本格的課題になっていないのか。街に残る第三世界的な貧しさも含め、複雑な心境になった。市民の運動も、必ずしも行政回路を経ない外のプロセスを重視しているようである。
「政府を変えるには何千年もかかる。教会のようなものだ。」というオニャーテの言葉が印象的だ。行政が悪いならそれを変える努力をしなければ、という筆者の問いに対する彼の答えだ。「政府が変わるのを待ってはいられない。個人が責任をもち、それぞれが自立した運動をしていくべきだ。」と彼は言う。
クラブとしてのジャズ・バー運営も、そうした彼の自立的行動のひとつなのだろう。アングラ的経済が産業を活性化させているというイタリア初め地中海地域の精神に想いを馳せた。
マドリッドから北西へ50キロ。グアダラーマ山脈のふもとにサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル市(人口1万)がある。標高1000メートル、清浄な半砂漠地帯の環境に、世界遺産となった同名の修道院(短縮してエル・エスコリアル修道院とも)がたつ。スペインの全盛期、1560-70年代にフェリッペ2世が建設した王宮・修道院。スペインの聖なる地として人々に親しまれているが、マドリッド郊外ということもあり、現在、急速な都市開発が進行している。開発反対運動を行なう「自覚的市民の運動」(Movimiento Civdadano Consciente)のエレナ・フェルナンデス(Elena Fernandez)代表にインタビューした33)。
(写真:世界遺産、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院)
(写真:エル・エスコリアル修道院の保全運動を率いる「自覚的市民の運動」のエレナ・フェルナンデス代表)
筆者としては自治体との関連を探りたかったのだが、ここでも、自治体回路を通じた市民参加への関心はあまり見出すことはできなかった。むしろ、地元行政はあきらめて、世界遺産がらみでユネスコへの働きかけ、国立公園や自然保護の運動との連携、マスメディアや学者インテリ層との協働など外部回路に力を入れているようであった。ある意味で日本と似ている。
私たちの市民運動は4ヶ月前(2002年4月)からはじまった。エル・エスコリアルにおける急速な開発を止めさせるのが目的だ。この地は特別なところだ。フェリッペ2世さえ、修道院建設でこの場所を探すために3年かかっている。開発をゼロにせよとは言わないが、王がここに見出したような貴重な自然、価値ある環境を守る必要がある。壊さないよう監視し、持続的な開発、コントロールされた開発を求めている。現在の開発は無秩序だ。違法な建築さえ行なわれている。法律はあるが、政治的圧力で法を変え建築を強行する。最初は単なる民間開発業者の開発だと思ったが、よく調べると法律会社がプロジェクトを主導している。1996年、市は開発規制法をつくったが、中に適宜、規制修正を認める条項が入っている。規制法の体を成していない。一つの開発プロジェクトが済むたびに周囲の開発規制が変化していく。
エル・エスコリアルはマドリッド州に属し、開発は州に許可されなければならない。環境影響評価、交通調査その他が行なわれなければならない。市はそれら報告書作成の中でデータを偽造していることが明らかになった。例えば2つの開発プロジェクトの環境影響評価書で、この地域が環境保護地域ではない、などと書いてあった。
市議会は16対5で開発推進派が多数を占めている。市民の意向はおかまいなしに多数決で決めてしまう。背後でお金も動いているようだ。
最初、住民はまわりでぼそぼそ苦情を言うだけだった。カフェーや街角で会うたびに、あら、今度はあそこにビルができる、おや、今度はここ、困ったわねえ、と世間話的に話をしていた。しかし、それがどんどん続く。ついにある時点で、市に交渉に行こう、ということになった。集会をもつようになった。住民に情報を与え、話し合い、市や州にはたらきかけた。
この街はマドリッドと深い関係がある。マドリッドの中産階級が別荘をもつ。休日に観光客が多数訪れる。しかし、現在の開発は、これを完全なベッドタウンにしてしまおうというものだ。まったく異なる都市開発の方向で、街のインフラがそうした大量の人口増に準備されていない。コントロールされた持続的開発が必要なのだ。
エル・エスコリアルは人類の遺産だ。国の記念物だ。歴史的な文化財であって、みだりに人の手を加えるべきところではない。ピラミッドやタージマハールと同様、保護されなければならない。この地域の全体的な環境が大切だ。修道院の建物さえ保存すればいいという訳ではない。ここに修道院が建てられた原点に帰るべきだ。ここが選ばれた環境の貴重性を考えるべきだ。
2001年8月に、この近くで山火事があった。放火の疑いがもたれている。開発規制地域であっても、燃えたら規制対象から外され、商業ゾーンに転換された。以後、600戸もの住宅が建てられてしまった(Prado de 1a Era)。
市議会は2ヶ月に1回開かれる。市民は傍聴はできるが発言はできない。終わりの方で質問はできる。委員会など特別会議はいろいろあるが、運営に問題がある。建築許可を出す会議など、一日前にアナウンスされ、だれも知らない内に開かれる。
フランコ時代は貧しかったので開発もあまり進まなかった。それ以後、金は入るようになった。人びとはブラックマーケットで金を溜め込んだ。今年からペセタがユーロに変わったが、闇金ではユーロに換金できない。そこでそうした金が住宅建設に投資されている。マネーロンダリングだ。闇ペセタが家に消える。政治家は持続的開発という言葉は語っている。これから4、5年して保護開始だと言っている。それまでに金を使い切る、壊しきるということだろう。
国内の手続きではどうにもならない。国際的なルートを模索している。ユネスコなど国連機関に手紙を書く。持続的開発のための世界的な動きに連携する。大学の先生など知識人とも連携している。大学の建築、都市計画の専門家らの協力を得てレポートを作成する。エル・エスコリアルの建築、歴史、持続的経済、土地利用、環境などに関する研究報告書をつくりユネスコに提出する。画家、音楽家、詩人などからも支持を得ている。
また、現在、このグアダラーマ山脈一帯の国立公園化の計画が進んでいる。もう7、80年前からそういう話があるが、進展がなかった。現在のところ、エル・エスコリアルは公園区域に入ってない。ここを含めて山全体を国立公園にせよ、と主張している。ここでも著名な山岳愛好家、地理歴史家などの支援を得て運動を進めている。最近、新聞にも報道されるなど、展望が少しずつ出ている。市民の側からの自発的な働きかけが大切だ。
「公的な責務は、一般に、市民に最も身近な地方自治体が優先的に履行する。他の地方自治体への権限配分は、仕事の範囲と性質および能率と経済の要求を考慮して行われる。」(4条3項)「地方自治体に付与される権限は、通常、十分にしてかつ独占的でなければならない。この権限は、法律の規定する場合を除き、他の中央または広域政府が侵害または制限してはならない。」(同4項)34)
また、世界地方自治宣言は次のように述べている。
「公共の責務は、市民に最も身近な地方政府の基礎的団体により行使されなければならない。この責務は、各国の慣行に従い、中間的又は地域的なレベルにおける地域団体が行使することができる」(3条1項)。「地方自治体は、他の官庁が独占する権限や地方自治体の権限から明白に除外されたものを除いたすべての事項について、自らの意思に基づき活動する一般的な権利を有する。」(同2項)35)
国がまず権限を掌握して、その一部を下部行政体に分け与える、というのではなくて、逆に市民に近い自治体が十全な権限を付与され、それが実行し切れないものを落穂拾い的に上位行政機構が行なっていく。そのような草の根自治、主権在民の原則に徹底してのっとった民主主義原理が語られている。
さらに付け加えれば、補完性の原理は単に自治体の優先を説くだけでなく、それよりもっと身近にある市民的団体や家族、個人の優位性をも説くと解釈される。実際、この「補完性」という言葉は、社会に対する個人の優位を説くカトリックの教義から派生したものである。よく引用されるその起源的言説は下記のローマ法王ピオ11世の言葉(1931年)である。
「個々の人間が自らの努力と創意によって成し遂げられることを彼から奪い取って共同体に委託することが許されないと同様に、より小さく、より下位の諸共同体が実施、遂行できることを、より大きい、より高次の社会に委譲するのは不正である」(『社会回勅』36))
当時台頭しつつあったファシズムに対して、あくまでも個人や小共同体の自由を説き、それが国家に強圧的に取り込まれていくことへの抵抗を示したのが補完性の原理であった。これが、主にドイツの自治体制度を介して次第に自治原理に敷衍されるようになった。このように見れば、補完性の原理は、NPOや自治体のレベルから新しい市民社会のガバナンスを打ち立てる原理として、とらえることが可能だ。
シティー(City of London、住民人口6000人、昼間人口32万人)は現在ではロンドンの他の32の区(バラ)と並ぶ一行政単位であるが、もともと中世におけるロンドン市の本体だった。その歴史はサクソン時代にさかのぼり、少なくとも1032年までには長老(Aldermen)による合議制が存在していたと言われる37)。1066年のノルマン征服でイギリスは大きな混乱に陥るが、ロンドンは翌1067年、ウィリアム征服王からの憲章(Charter)で既存自治権を追認されている。他のイギリス中世都市同様、ロンドンも基本的には国王の官吏であるシェリフ(Sheriff, 当時はSireeveまたはPortreeve)に従属していたが、12世紀になるとコミューン的な自治権が拡大し、1199年にはジョン王により、シェリフを選挙する権利が認められた。マグナカルタが制定された1215年に独自の市長を選出する権利も認められた。1376年からは、現在のシティー議会(Court of Common Council)の前身となる市民会議(Common Council)が定期的にもたれるようになる。
(写真:ロンドン市の中に金融の街シティがある。王立証券取引所前。)
現在、シティーは、伝統的な自治法人(Corporation of London)によりロンドン中心部に行政サービスを提供している。非常に紛らわしいのだが、ロンドン全体としての市長(Mayor
of London)とは別に、シティーだけの独自の「市長」(Load Mayor of City of
London)をもつ。
シティーは世界有数の金融街の近代的行政機構である一方、その歴史は英国国会(Parliament)より古く、その制度や運営に1000年の伝統が様ざまに残されている。今でも、25のシティー内区(Ward)から各1名選出される長老の会議(Court
of Aldermen)が形式的な立法、司法権をもつ。実質的な市議会の役割を果たすのは、各内区から(有権者数により4名から12名)選出されるCourt
of Common Councilだ。これらを選出するシティーの選挙では、住民だけでなくビジネス法人(会社)にも選挙権が与えられる点がユニークである。他のロンドン諸区(バラ)が大ロンドン警察(Metropolitan
Police Service)の管轄下に入るのに対して、シティーだけは独自警察(City of
London Police)をもつ。またシティーは域外に様ざまな行政権を行使する点でもユニークで、例えば国全体の中央刑事裁判所を管轄する。域外はるかかなたにあるヒースロー空港の検疫やテムズ川河口域全体の港湾検疫も掌握する。さらに、テムズ川の5つの橋を管理し、3つの食品市場を所有する。いずれもシティーの歴史的な経緯による権限行使である。現在では、周辺の貧しい地域との連携や、社会的弱者への支援活動を活発に行ない、シティー内大手金融会社の社会貢献活動団体の役割も果たしつつあるようだ。
ドイツには16の州があるが、その内ベルリン、ハンブルク、ブレーメンは都市州である。面積が400平方キロから900平方キロと、他州より圧倒的に小さい。この内ハンブルクとブレーメンは「ハンザ都市」であり、中世ドイツに隆盛を極めたハンザ同盟の伝統を今に伝える。Hansestadt Bremenなどと公式にハンザ都市を名乗り、州と同等の自治権を行使する。
(写真:かつてのハンザ同盟中心都市リューベックは運河に囲まれている。)
ハンザ同盟(Hanse)は、13-15世紀を最盛期として、バルト海など北ヨーロッパの交易を支配した都市同盟である38)。最も拡大した時期で100以上の北ヨーロッパ諸都市が参加し、交易の特権を握るとともに海上運送の安全を相互に保証し、遠隔地貿易を活性化させた。領土、政府、議会、常備軍をもたず、時おり都市間会議を開く程度のゆるい都市同盟の形態をとった。しかし、問題がおこると交易の禁止・封鎖を行ない、時には軍事力にも訴えて秩序を維持した。例えば1360年代にはバルト海西南部の交易権をめぐってデンマークと戦い、これを破っている(1368年)。
ハンザ同盟の中心になったのがリューベックである。1226年に皇帝自由都市(Freie Reichsstadt)となり、商人たちの自治を発展させた。「リューベックの法」が北ドイツ諸都市に広がり、交易を相互に保証しあう関係が生まれた。1280年代にはライン諸都市とも連携して同盟が拡大し、1358年にリューベックは正式にハンザ同盟の本部に指定された。
地理上の発見による交易の中心の移動、領域国家という強力なライバルの台頭などによって、ハンザ同盟は15世紀以降徐々に衰退する。1669年に開かれた会議が最後のハンザ会議になっている。もともと都市のゆるい連合であるハンザ同盟は、ある時点で「滅亡」するといった性格のものではない。1630年のハンザ会議ではリュ-ベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市が「ハンザ都市」を名乗りつづけることを決議している39)。後二者はそれを今日まで継続しているということだ。運河と川に囲まれた美しい城壁都市リュ-ベックは、残念ながら1937年、ナチ政権下でシュレスヴィヒ-ホルシュタイン州に組み込まれ、独立を失った。さらに第二次大戦で爆撃を受けるなど打撃を受ける。しかし、戦後の復興が進み、1987年にドイツ都市としては初めて世界遺産に登録された。中世ハンザの歴史を今日に伝える都市として象徴的な存在となっている。
ハンザなどゆるい都市同盟が広がったドイツ地域では、民族国家の成立に遅れをとり、このために多くの混乱とそれゆえの苛烈な反動を生み出した。しかし、第二次大戦後、州を基礎にした分権的な連邦国家体制が生まれ、分権的な自治の制度をつくり出している。「補完性の原理」が、主権国家を早期に発展させたフランスやイギリスでなく、都市同盟の伝統をもつドイツから生まれていることも示唆的である40)。
「封建時代の末期、ドラマチックな経済転換が起こり、物々交換的な地域経済が貨幣経済と地域間交易に道を開いていった。その中で、14世紀初頭までに政治的経済的生活を組織化する新しい制度の諸形態が生まれた。領域主権国家、都市同盟、都市国家が、遠隔交易など新しい経済的富の源泉を狙って活発に動き出したのである。当初、都市を基盤にした政治組織が順調だった。しかし長期的には、ほぼ17世紀中ごろまでに都市国家と都市同盟は傍系に追いやられていく。・・・領域主権国家が同時代のライバルたちを駆逐していった。」「領域主権国家が優越することになったのは、それが、成員の秩序逸脱を防ぎ、内部取引コストを削減し、他の統合体と信頼できる関係を結ぶ上でより効果的であったからである。主権国家はこれを三つの形で行なった。第一に、主権国家はより効果的に行政範囲と権威を一元化できた。したがってそれは、成員のただ乗り(訳注:経済学で言うフリーライディング)を防止するのにより有利な立場に立ち、経済を合理化し通貨や度量衡を統一することもやりやすかった。そして、この経済的合理性が、より高い戦争遂行能力を生みだした。かくして領域主権国家的な制度構成は、他の機構的可能性に対して競争上の有位を確立した。」41)
近代主権国家の生成を、都市同盟や都市国家など「都市を基盤とした政治組織」との競争原理の中で解明しようとしている点が興味深い。今日的な近代国家は、中世末期の混乱する世界で、初めからその当然の解として出現してきていたわけでない。神聖ローマ帝国に代表される古典古代的帝国原理、ローマ法王を中心とした神学的ハイアラーキー秩序、あるいはスプルーイトは言及していないが、各地に生まれた騎士団組織、さらには新しい動きとしてドイツを中心とした都市同盟、イタリアを中心とした都市国家、フランスを中心とした領域主権国家の台頭が見られた。こうした互いに異なる政治制度原理の競争の中で、最終的には領土主権国家の原理が勝っていく。そうしたダイナミックな競争的プロセスとしてこの過程をとらえる視点をスプルーイトは導入している。
また、ここで彼は制度派経済学の分析視点を用いて諸制度間の優越を論じていることも刺激的である。コースの歴史的論文42)以来、制度派経済学は、自由な市場に企業という「制度」が大規模に生成してくる原因を経済学的に分析してきた。スプルーイトはこの分析手法を国家生成の原因追求に向ける。市場の原理がどのような回路で国家という制度を生み出すか。制度派経済学の新しい可能性を試す分野であろう。
なお、ここでのプルーイストの分析で、都市同盟と都市国家を区別している点について補足すると、「都市国家は領域的広がりをもつが、しばしば内部の明確なハイアラーキーを欠く。都市同盟はどちらもない。隣接的領土や確定した境界を欠く。43)」ということである。都市同盟は都市だけだが、都市国家は周辺の農村地帯も含まれる。主権国家並みのハイアラーキーはないが、一定の領土性はあるということだ。
都市同盟の中では、同様に通貨統一も実現できなかった。法律についても、「リューベックの法」が普及したと言っても例外が多く、取り入れるかどうかは各都市の裁量にまかされた。ハンザの決定が各都市で厳格に守られるかどうか保証はなかった。しかも、一端どこかで強力な主権国家が形成され始めると、性格の異なる都市同盟は国際関係の中で対等な相手と扱われにくく、例えば、世界最初の本格的国際条約と言われるウェストファリア条約(1648年)に向けた交渉においても、ハンザは同盟としては列席できず、個別自治都市として参加する他なかった。このような都市同盟のマイナス面を指摘した上で、プルーイストは領土的主権国家の優位性を論じるのである。
確かに緩い都市同盟では、統一的秩序を広域に実現するのは難しかったろう。そして中世から近代に移行する当時のヨーロッパ的状況の中で、都市同盟が最終的に主権国家との競争に敗れざるを得なかったのも無理からぬことだったかも知れない。しかし、都市が自立し、ネットワーク的につながる秩序形成を目指した都市同盟は、今日的な観点からはむしろ大きな意味をもとう。インターネット的な分権的社会秩序、EUに見られる主権国家を超える統合化の試み、さらに補完性原理を基礎にした自治体復権の動き。これらの中で、歴史の一時期には不適であった試みも最適なシステムとして浮上してくる可能性がありえる。
実際、分権的な都市同盟が秩序形成能力に欠けるという断定には留保が必要である。主権国家のような明白な強制力はないが、自立した都市間同盟の関係の中にもある種の相互規制と秩序維持の力が働くことをゲーム理論的に解明できる45)。ブッカートは、スプルーイトの都市同盟分析にこうした詳細なゲーム理論的分析が欠けていることを指摘した上で、次のように言っている。
「ハンザ同盟におけるフリーライダー問題に関しても、同様な解釈上の無理が見られる。確かに、このような分権的体制の下ではフリーライディングは多くなる。都市によっては、そのために、同盟を抜けて王権の支配に服そうと考えるところも出てくるかも知れない。しかし、同時に彼らは、同盟を抜けることが本当にいいかどうか真剣に考えもする。なぜなら、王権に服することは都市の自治を永遠に手放すことだからだ。」46)
商人たちの都市がただ一方的に王権による領土国家に服すことに価値を見い出す、と考えるのは確かに無理がある。自由な自治を維持することの価値、ゆるい同盟でもその中にとどまることの交易上の価値と、領土国家に服することのメリットを天秤にかけながら、各都市はゲーム理論的な世界を動くはずである。ネットワーク構造の耐久力が様ざまな局面で論証されている今日、都市同盟のネットワークも再評価されうる。
「端的に言って、完全な国家主権という19世紀的なパラダイムは、今日、北朝鮮のような所でしか現実のものではない。とりわけ欧州連合内で我々は、民族国家の緩慢な、しかし最終的な衰退というものを目撃している。民族国家は2つの方向に崩れだしている。その決定権の独占が、上位には欧州連合の超国家的な機構に、下位には各国内の広域(リージョン)のレベルに漏れ出している。」47)
下位のリージョンへの国家の溶解を、彼は、1957年のローマ条約(ヨーロッパ経済共同体EECを成立させた条約)の頃と対照させて次のように述べる。
「ローマ条約は、民族国家がECの基本的な単位でありつづけるだろう、という前提の上に締結された。そして1970年頃まで、西ドイツが連邦制憲法をもつ唯一のEEC加盟国だった。しかし、それ以後何が起こったかを見よ! ベルギーではフランダース、ワロニア、ブリュッセルの三極構造が擬似連邦制に発展していった。新しい加盟国スペインは、フランコの死後、急速に国をリージョナル化し、同じく擬似連邦制に移行した。イタリアのリージョンもその自治権を大幅に拡大した。フランスでさえも1981年に、ジャコバンの中央集権伝統を投げ捨て、(立法できないにしても少なくとも地方的に計画を行なえる)公選地方議会をもつ22のリージョンを設立した。」
EU統合が拡大する一方で、各国内の広域(リージョン)が自治権を強める。そしてそのEUとリージョン政府の連携を機軸に新しい統治構造が強まりつつある。その中に挟まれた国家が徐々に存在感を弱めている。EUの地域支援もリージョンを主な対象とし、それに対応するために各国内でリージョン制度の整備が進むという関連にある。こうした動向の先に見えるヨーロッパの未来像はどのようなものだろうか。アスチャーソンは、台頭する広域をかつての都市国家と比較した後、次のように言う。
「では、都市国家とヨーロッパのリージョンはどこが違うのか。その答えは、糸の長さがどう違うか答えるのと同じく量的な違いである。都市国家は、現在我々が自治体政府と呼び、やがては単に政府と呼ぶようになる多様な生命形態の単なる一つに過ぎない。各々独自の生を生き、決して一つが他を支配しないこうした複合的統合体で構成されるより上位の生命体とは、海面動物(スポンジ)である。スポンジが統合ヨーロッパの未来だ。民主的な構造をもち、外部からのものをよく通し、意思決定は遅く、定義困難で、内外の自由な水を呼吸する巨大で、形なく、曖昧な海綿状の生物にヨーロッパは転化しつつある。」
未来のヨーロッパの姿としてはあまり美しい叙述とは言えないが、このような海線動物のような方向に彼は統合ヨーロッパのガバナンスを展望する。これに、自由にうごめくNPO的な市民団体の存在を含めて、より重層的で多様な市民社会ガバナンスを展望していくことが必要だろう。