近代はなぜヨーロッパに始まったか

   −「世界史」への接近

  (ギリシャにて、『西研通信』復刊1号、1981年1月)


 ギリシャまで来ると「東洋」がはじまる。アラビア風の音楽が聞こえる。物価も「東洋的」に安い。入った宿が1日約1200円。そしてこの雑踏。人、人、人、排気ガス、突っ込んでくる車とその警笛、かび臭い街路のにおい。私の着いた夜にテロリストによって爆破されたビルの残骸。屋台が所狭しと出てあらゆるものを売る。野菜、果物、下着、おもちゃ、手袋、靴下、裁ちばさみ、コップのたたき売り、…そう、男がガラスのコップを鉄の棒にガチガチとたたきつけながら「割れないですぞ!」と怒鳴って売っている。
 狭い通りには車が渋滞し、私は人の群れでまっすぐ前に進めない。くすんだ空気のかなた南には、白いアクロポリスの廃墟がそびえている。それはもう、はるか昔に滅んだ別の人類の遺跡のようだ。

 1980年11月から81年11月までヨーロッパ、中東、アフリカ、南アジアを放浪した。ヨーロッパの旅(1回目)の最後に、ギリシャのアテネに3週間ほど滞在した(81年1月)。ヨーロッパ旅行の総括のつもりで下記を書いた。参照できる文献は限られ、現地図書館にあった百科事典Britanica、Americanaを中心に、持参した上原専禄『日本国民の世界史』、飯沼二郎『風土と歴史』などを参照した。

ヨーロッパ中心史観の克服

 かつて私たちは「世界史の再構成」という課題に取り組んだ。ヨーロッパ中心史観からの脱却と、歴史を各国史ではなく有機的一体的な「世界史」としてとらえる方法を目指した。

 それまでの「歴史」は、メソポタミアに始まり、古代ギリシャ、ローマ文明を経て中世ヨーロッパ世界が展開し、ルネサンス・宗教改革の胎動を経て市民革命が勃発、産業革命を伴って近代資本主義が生まれた(むろん、ヨーロッパで)、と叙述された。そこで初めてアジア、アフリカ、アメリカが舞台に登場し、その「後進」諸民族は支配され、植民地化が進むとされる。日本の歴史教科書では、欧米とは異なり、古代から大帝国を築いた中国、インドなどの歴史も一定程度叙述されるが、やはり停滞社会として描かれ、またそれ以外の地域(例えば東南アジア)などはほとんど出てこない。

 しかし、第一次、第二次大戦を契機としてアジア・アフリカ・ラテンアメリカの覚醒が始まり、新しい世界観が要求されるようになる。「ヨーロッパが発展したのに、第三世界諸国は封建社会にとどまった」のではなく、ヨーロッパが第三世界を収奪してその発展を抑え、それを基礎にしたからヨーロッパが発展したのではないか。歴史を各国別に見るのではなく、第三世界の支配を通じて台頭するヨーロッパ資本主義を、その通りの世界的な体制としてとらえ、第三世界の停滞もその体制の一環と位置づける必要があるのではないか。

 そうした観点から多くの研究がなされた。例えば、かの宗教的聖戦とされる「十字軍」が、実は地中海制海権、したがってまたその貿易圏を東方のイスラム商人及びビザンチン帝国から、ベネチアを中心とするイタリア商人に奪い返す優れて経済的な戦争であったこと。スペインのアメリカ征服がもたらした富、とりわけその銀によってスペインのみならずヨーロッパ全体が急速に潤ったこと。イギリスがインドの富とその綿工業に食いつき、それによって自国の資本主義化と産業革命を達成し、今度は逆にインドの綿工業を壊滅させ、イギリス製品の一方的な受け入れ国に転化したこと。日本の朝鮮支配が日本資本主義の原始的蓄積に果たした役割、などなど。

 しかし、これらの構造を明らかにしても、なおひとつの重要な疑問が残った。ヨーロッパが第三世界の支配・犠牲の上に資本主義を発達させたとしても、なぜそれがヨーロッパだったのか。何ゆえインドでもアフリカでもなく、ヨーロッパが他の世界を支配する力を得たのか。資本主義と近代産業の発展が、世界支配を基盤としていたとしても、いったい何がヨーロッパにその世界支配の力を与えたのか。あるいは、このような問いに変えてもよい。かつてモンゴルもイスラムも巨大帝国を築いた。広大な地域を支配し収奪したそれら帝国が近代資本主義を生み出せなかったのに、何ゆえヨーロッパはそれを生み出しえたか。

 その問いに答えるため、ここではより風土的地理的な条件に焦点を当て、ヨーロッパ史をもう一度批判的に検討してみる。結論を先取りして言えば、何よりもヨーロッパは世界的に見ても、温帯地域として最も入り組んだ海岸線(地中海、バルト海、北海など)をもち、海上交易を発展させる条件が整っていた。さらに「地理上の発見」により新大陸へのアクセス上有利になるなど地理的条件で優位性があった。熱帯地域には、東南アジア地域などこれに匹敵する複雑な海岸線をもつ地域もあるが、やはり、厳しい冬をもつ温帯地域で、資本主義の基本となる勤勉性がより急速にはぐくまれた。また、温帯湿潤地域での農業は、灌漑を用いない畑作が主で、専制ではない分権的共同体の形成に適していた。

畑作文化の分権性

 歴史の順序に沿い、まず、畑作による分権性について見る。これはほぼ、飯沼二郎『風土と歴史』(岩波新書)に依る。

 文明の基礎となる農耕文化はまずメソポタミアからインダス、中央アジア、華北に至る乾燥地帯ではじまった。ここで言う農耕文化とは飯沼の言う「犂(すき)農耕文化」であり、農業自体の起源は、さらにそれより原始的な鍬(くわ)農耕文化に求められる。鍬を使った原始的な農業は湿潤な熱帯地方に起こり、放っておいても植物が茂るような環境の中で、採集経済に近い形の「農業」として生まれたという。しかし、「文明」がそれとともに始まる本格的な農業である犂農耕(畜力の使用と穀物の栽培を伴う)は、紀元前1万年前頃に、上記乾燥地帯で始まる。

 本格的な農耕がなぜ乾燥地帯から始まるのか。それは「人類が初めて穀物と大家畜と鋤とを手にした時、植生の旺盛な大森林におおわれた湿潤地帯よりも、植生の劣る大地の露出した乾燥地帯の方がはるかに手に負える風土であった」(上記『風土と歴史』、p.52)からだ。うっそうとした森林は当時の技術にとっては開墾困難であったし、開墾できても強力な雑草とのたたかいに勝てなかった。

 こうして例えばメソポタミアやインダスの山麓地帯、華北中原の乾燥台地などに乾地農業が成立した。注意しなければならないが、これは大河川の灌漑農業を基礎としたいわゆる古代四大文明とは別ものということだ。それ以前の農耕様式である。大規模な灌漑農業が生まれるのはさらなる農業技術の発展と、灌漑技術の開発が行われてからで、比較的制御しやすいナイルをもったエジプトでは紀元前5000年、メソポタミア、インダスでは同3000年、黄河流域ではずっと遅れて同500〜600年頃の春秋時代になってからである(したがって、中国のいわゆる「黄河文明」は厳密には灌漑農業以前の文明を指しており、必ずしも黄河の水には依拠していない)。灌漑農業は大河川が近くにないと発展しえない特殊な農業であるが、その農業生産力は極めて高く、これによって、いわゆる「灌漑を基礎としたアジア的専制国家」が生まれた(ウィットフォーゲルの「水力社会」概念)。

 さて、農耕文化は、このような特殊な灌漑農業を局所的に成立、させながら、基本的には雨水による乾地農業の形態で徐々に湿潤地帯に広がっていく。西方ではメソポタミアからギリシャ、ローマを経て西北ヨーロッパへ。東方では華北から華中、華南、さらに東南アジア、日本、朝鮮半島などへ。インドでも乾燥したインダス川流域から湿潤なガンジス川流域(ヒンドスタン平原)へ。湿潤地帯に拡大する背景には技術の発展、特に鉄器使用の開始という要因がある。それまで木や石でできていた犂も鉄製になる。鉄は銅に比べてはるかに埋蔵量が多く、青銅が農具になど使えない貴重なもの(武器、祭器などに使用)だったのに対し、鉄器は広く農具として使われた。

 ギリシャ、ローマなどの地中海地方はまだ乾燥地帯であるが、西南アジアに比べて年間降水量は多く、いったん開墾されれば、より大きな収量が可能になる。この高まった農業生産力を基盤にしてギリシャ、ローマなどの古代地中海文明が発展する。

 犂農耕はさらにアルプスを越えて西北ヨーロッパに広がり、地中海地域に比べてさらに湿潤なこの地は、その後飛躍的な農業生産の発展をもたらし、近代ヨーロッパ台頭の一つの物質的土台をつくっていく。西北ヨーロッパは地中海地域に比して年間総雨量が多いのみならず、特に夏の降水量が多いことが根本的に異なる。夏作が可能となり、冬作が中心の地中海地方と大きな収穫差をもたらす。湿潤地帯の夏作農業には雑草が一番の難題になるが、技術の発展(例えば深耕用の犂)と、3年に一度だけ畑を休ませて除草深耕を行う三圃式農業の導入によりこの問題を乗り越えた。

 こうして乾燥地帯からはじまった農耕文化が次第に湿潤地帯に移り、その最も湿潤性の高いところまで来て、最高の農業生産力という近代社会への発展の一つの条件を用意することになった。

イネと灌漑システム

 以上はメソポタミアから西に向かった農耕の流れを見る時には概略正しいが、インダスや華北の東、もしくは南に向かっていった流れを見るときには若干の修正が必要である。これらの地域では、主要穀物となったイネが農業形態をも大きく規定した。

 ヨーロッパに向かった農耕は初めから終わりまで、例えばムギのように雨水を用いる穀物が中心だった。つまり畑作だった。ところがイネは、近代に開発された陸稲を除いて水田栽培される植物であり、このような大量の水を要する植物の耕作は、灌漑用水からの水抜きには考えられない。したがって、ヨーロッパに向かった農耕文化では灌漑農業が常に局所的なものに終わったのに対し、ガンジス川から東南アジアを経て華中・華南、日本に至る東アジア湿潤地帯では、灌漑農業が主流を占めることになる。

畑作の分権性

 同じ湿潤地帯でも、東アジアのこの地域は西北ヨーロッパより2倍から、ところにより10倍以上も雨量が多い。したがって河川も多く灌漑もやりやすく、このような風土があったればこそ、イネという水生植物も選択されたと言える。

 しかし、雨水に頼る農耕は分権的であるが、灌漑に頼る農業は中央集権的である。河川の修復・治水からはじまり広大な灌漑施設網を建設し、管理するためには強大な中央集権国家が必要となる。空から降ってくる自然水にのみ頼るのであれば、農民は地上の強大な君主に頼らなくても、ただ「天」とのみ緊密につながり、孤立的な村落の中で農耕することができる。中世ヨーロッパの封建制には分権性が明らかに見てとれ、資本主義発生の必要条件としてこの分権的経済が、特にイギリスなどで重要な役割を果たしたことを大塚史学が明らかにした。

 東アジアで湿潤地帯に向かった農耕は、稲作化(灌漑農業化)し、生産力は上昇したものの、専制主義が長く存続することになり、資本主義の発生にとって障害となった。

ヨーロッパは「海による支配」に適していた

 強大な帝国は常に、それを一つに結合する広大な交通網、したがって広大な交易圏を基礎として生まれる。交通・交易圏には陸上と海上の2種類がある。モンゴルの遊牧帝国は、砂漠・半砂漠地帯の馬による移動という典型的な陸上交通を基礎とした帝国だった。インド、西南アジア地域に出現した大帝国も陸の交通を主要にしていた。これに対し、海上交通を基礎とした大帝国は、深く内海が入り込んでいる地域、あるいは島嶼が広範に連なる地域などに出現する。前者の典型はローマ帝国を始めとする幾多の地中海帝国であり、後者の例は例えば、インドネシアに7世紀に出現したシュリービジャヤ帝国、13世紀に出現したマジャパイト王国などがあげられるだろう。

 このうち、近代を準備した(つまり、近代資本主義を発生させるに充分な富の集積を可能にした)のは、海上交通・海上貿易の方だった。海上交通が対象とする圏域は陸上交通よりはるかに大きいからだ。車輪の発明をもってしても、水上を抵抗なくすべる船の輸送力には太刀打ちできなかった。

 ヨーロッパは海上交通に最も適した地域である。何よりも地中海。このように大きく、かつ入り組んだ海岸線をもつ内海は地球上他のどこを探しても見つからない。それ以外でも、北方にはバルト海、北海を中心として陸と海が複雑に交錯する地域があり、ヨーロッパは海上貿易圏が成立しやすい恵まれた条件を備えていた。

 ヨーロッパの地位を最終的に決定したのは大西洋航路の発見・開拓にともなう新大陸支配であった。それまで西北ヨーロッパは、ユーラシア大陸の西端という位置関係から、交易、富の集積に必ずしも良い条件にあったとは言えない。しかし、新大陸の「発見」は、ヨーロッパを、このほとんど未開拓の新天地から一番近い位置におくこととなった。

 以下、このヨーロッパの海上貿易圏の発展を、さらに詳しく見ていこう。

エジプト、フェニキア人、エーゲ文明

 紀元前3200年頃、統一国家を形成したエジプトは、灌漑農業を基礎とした農業国家であり、地中海での交易活動にはほとんど手を出していない。彼らは帆船および、奴隷に漕がせる櫓(ろ)の船を使うようになったが、ナイル川とその運河が主要な交通路で、沖合に出ていくのはずっと後代のことだ(紀元前4世紀のアレクサンダー大王の征服後に地中海岸にアレクサンドリアが築かれ、海上交通の要衝となっている)。

 最初に地中海の海洋民族となったのは紀元前10世紀〜同8世紀に最盛期を迎えるフェニキア人である。彼らは近隣(小アジア)のヒッタイトから鉄の製法を学び、鉄器使用を始めている。鉄器による木材加工で大型船がつくれるようになり、海洋航海能力が高まった。

 また、陸の交通を強化して西アジア内陸貿易を牛耳ったアケネメス朝ペルシャがフェニキア人を保護したことも、彼らの発展を支えた。フェニキア人は、ペルシャの内陸貿易と地中海貿易を結び付け、それによって、当時、東地中海に力を持っていたクレタの海上支配を駆逐していく。

 すでにこの頃までには、クレタ島(前30〜15世紀)、トロヤなど小アジア西岸、ミュケナイなどギリシャ地域(前15〜13世紀)に様々な文明が盛衰していた(総称してエーゲ文明)。これらの文明の一つの基礎になったものが至便な海上交通だった。入り組んだ地中海海岸線でも、エーゲ海ほど海が複雑に入り込み、無数の島が密集するところはなかった。

 やがてこの一角からドーリア系ギリシャ人のポリス文明が生まれる。

古代ギリシャ

 都市は商工業者の権力を基礎とする。ギリシャの都市国家(ポリス)も例外ではない。

 初期のギリシャ社会は、農業・放牧を基礎とする村落社会であったが、農業生産が高まり(鉄器使用がはじまっている)、農業集散活動としての商業や手工業が発達し、紀元前9〜8世紀に都市(ポリス)が生まれる。しかし、初期は農民(独立小農)も都市に住み、また商工業と言っても土着の農業生産を基礎とする活動が中心で、農業ポリスの性格が強かった。

 しかしギリシャ人は地中海支配と、そのもとにおける貿易活動にのりだし、ポリスはしだいに商人・商業活動の拠点としての性格を純化させていく。アテネはその典型であり、スパルタは土着の農業(とそれを基礎とする域内商業)にまだ深く依拠する農業ポリスであった。したがって当時、東地中海(特にエーゲ海)貿易の争奪をめぐり全力をあげてアケネメス朝ペルシャとたたかった(ペルシャ戦争、紀元前5世紀)のはアテネだった。ペルシャはフェニキア人の地中海貿易を保護しギリシャの商業活動を抑えていたが、このペルシャ戦争によりアテネがエーゲ海交易の実権を握る。

 これまでのポリスはスパルタを中心とした農業的なポリスが主流を占めていたが、ペルシャ戦争の勝利以後、アテネ的な商業ポリスへの発展が進み、やがてスパルタとアテネが衝突する(ペロポネソス戦争、前431〜404年)。

 ここで勝つのはスパルタだ。アテネは海上権力として後のローマ帝国ほどの力を持つには至っていなかったし、海上権力であるがゆえに、スパルタのような内陸都市・陸上権力を征服する力はなかった。アテネの支配は最後まで東地中海の沿岸部に限られていた。内陸を含む全一的な帝国の形成はローマの時代を待たなければならない。

 商工業の拠点としての都市は、取り引きの自由を確保する意味からも内部に一定の民主制を打ち立てるが、同時に広範囲の交易とその安全を確保するため、常に強大な帝国、したがってまたそれを可能にする専制君主をも必要とする。中世ヨーロッパの諸都市が、土地と農業生産に基礎を置く封建諸侯とは対立したものの、しばしば王権、皇帝権力と結びついたのはそのためである(ただし、ハンザ同盟諸都市、イタリア諸都市などは、自分たちで海軍力を備え、外的な権力とは結びつかない方策をとった)。古代地中海世界においても、帝国は商人を把握して利益を得るとともに、商人はその交易権を保護され、依存関係にあった。

海上権力としてのローマ帝国

 ローマ帝国は史上最も徹底的に地中海貿易を支配した権力である。地中海の存在により可能になった帝国であり、その交易を基礎にした帝国だった。

 地中海貿易はアケネメス朝ペルシャ、フェニキア人諸都市、エーゲ文明、ギリシャ諸都市と植民市、アレクサンダーのヘレニズム帝国などが部分的に支配してきたが、ローマ帝国ほど完璧に地中海世界を征服し、その内海の交易を支配した帝国はなかった。その後にもなく、ビザンチン帝国、サラセン帝国、セルジュク・トルコ、オスマン・トルコ、イタリア諸都市などはやはり部分的に支配しただけだっだ。

 また、このローマ帝国成立に至る過程を見ると、古代地中海帝国の中心が次第に西に移動しているのが見て取れる。オリエント地域からはじまり、クレタ・エーゲ海沿岸、ギリシャを経てローマに移り、ローマで大帝国形成に至る。オリエント方面ではじまったフェニキア人の交易都市でさえ、やがてその西端の植民都市カルタゴが最も栄えるようになる。農耕の発展が東から徐々に進み、ローマの時代に至って全地中海地域が支配の対象となる農業の発展段階に達したとみることができる。

 ローマが地中海世界帝国を確立する上で、紀元前264年からのポエニ戦争、つまりカルタゴとの戦争が一つの画期を成した。このフェニキア人植民都市こそ当時最も優れた海軍力をもち、地中海の交易を牛耳っていた。これを破ることが取りも直さずローマ帝国の実現だった。3次にわたるたたかいの中でローマはカルタゴの造船、航海技術から学び、次第に海軍力を強化する。最終的には前146年にカルタゴに上陸し、これを徹底的に焼き尽くし滅ぼした。

ローマ帝国の残影

 ローマ帝国は、史上一度だけ現れた全一的な地中海世界帝国だったから、その威光は後世まで人々の脳裏に政治理念・イデオロギー(「帝国理念」)として残った。ローマ帝国が滅びた後でも、それは様々に復活する。

 ローマ帝国では皇帝が最高権力者であり、キリスト教(教皇)は皇帝に服していた。しかし、コンスタンティヌス帝期の330年に、首都がビザンチウム(すぐコンスタンチノープルと改称。現在のイスタンブール)に移され、ローマの教皇権は皇帝権から地理的に離れる。4世紀末には帝国が東西に分裂し、しかも476年に西ローマ帝国はゲルマン人の侵入によって滅亡する。ローマには教皇権だけが残ったが、これをコンスタティノープルに首都を置く東ローマ帝国の皇帝権下に抑えることは徐々に難しくなっていった。8世紀には東ローマ帝国皇帝レオ3世の聖像禁止令に反発し、ローマ教皇はフランク王国に近づくようになる。800年には、ローマ教皇が、イスラムのヨーロッパ侵入を食い止めたフランク王カルロスにローマ皇帝の冠を授け、ここにかつてのローマ帝国の亡霊が現れる。

 962年に今度は東フランク王オットー1世がローマ皇帝の冠を受け、以後東フランク(現ドイツ地域)の王は歴代ローマ皇帝を「兼ねる」ことになった。フランク王国のうち東フランクだけが「ローマ帝国」になったわけだ。これは「神聖ローマ帝国」と呼ばれる。ドイツ地域はやがて諸侯が乱立し、神聖ローマ帝国の実体はなくなるが、それでもその末期にはこの地域の最強勢力オーストリアの皇帝がその称号を受け取り、1806年にオーストリアがナポレオンに敗退するまで、ローマ帝国の亡霊は引き継がれていく。

西北ヨーロッパの台頭

 ゲルマン民族大移動(4〜6世紀)によって、滅びゆくローマ帝国領の北辺に「バーバリアン」たちが住み着き、農耕に従事するようになった。彼らは徐々にこの地を開拓し、農業生産力を伸ばし、やがて先進・地中海世界と肩を並べる新しい経済圏を形づくっていく。

 この西北ヨーロッパの台頭を先駆的に象徴するのが800年のフランク王カルロス大帝の戴冠だ。この年、ローマ教皇によってローマ皇帝の冠が蛮族フランクの王に与えられた。フランクは現在のフランス、ドイツ、北イタリア他の領域を含む全西欧的な王国だが、当時破竹の勢いで地中海世界に進出してきたイスラム勢力を撃退する力はこのフランクにしかなかった(732年、トゥールポアチエの戦い)。地中海貿易はすでにイスラム商人に握られ、その貿易を基礎とするかつてのローマのような地中海帝国がヨーロッパに生まれるのは不可能になっていた。フランク王国自体も内部構造としては地方豪族が強く強固な中央集権力はなかった(現に、763年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約でフランク王国は3分裂している)が、当時のヨーロッパにはそれ以上の王国はなかった。

 西北ヨーロッパはさらにじっくりと力を蓄えていく。8世紀頃出現した三圃式農業は次第に広まり、特に西北ヨーロッパが開墾熱に浮かされた11〜13世紀の「大開墾時代」に著しく広まった(飯沼『風土と歴史』、p.83)。それまで牛2頭で引かれていた犂が馬6〜12頭で引かれるような大型になる「技術革命」があった。

 9〜11世紀にはノルマン人の移動が起こる。スカンジナビアに居た彼らは、アイスランド、グリーンランド、ブリタニア(イギリス)、フランスのノルマンディー地方、東のノブゴルド、キエフ、果ては南イタリア、シチリアまで進出、征服した。ノルマンの移動は4〜6世紀のゲルマン民族移動とは別個で、何よりも彼らは海賊(バイキング)だった。この移動の要因は、もちろん人口増など彼ら社会内部にもあったが、何よりも外的要因、つまり、バルト海、北海を中心とした北ヨーロッパの貿易圏が発展したこと、海賊行為が利益をあげるに充分な海運活動が行われるようになったという要因があった。かつてユーラシア西部で突出した重要貿易圏であった地中海地域の他に、この時期、北海、バルト海の北方貿易圏がついに台頭してくる。

ハンザ同盟

 13世紀に北ドイツ諸都市を中心に結成されたハンザ同盟は北方貿易をほぼ独占したが、彼らは強力な陸海軍を擁していた。これは、まずはバイキングに対抗するためだった。広大な地域にまたがる交易を保証するには、例えばローマ帝国のような広大な帝国が不可欠になるが、北方貿易圏諸国はいずれも分権的性格が強く、そうしたものは存在しなかった。それが、バイキングの暴れまわる下地をつくったのだが、ハンザ同盟はそれに対し、都市が連合して帝国的な軍事力(海の警察力)を自ら装備する方法をとった。

海賊とイギリス

 人通りの少ない街路が危険なように、人通り(船通り)が極めて少ない広大な海洋は、盗賊にとって最高の活躍の場だった。船を見たら近づき、飛び乗り、武器で脅すか殺すかすればよい。他に見ているものはいない。広大な洋上では、警察に通報され追いかけられる心配もない。しかも船は重要な物品のみを大量に運ぶものだから、収穫は大きい。このような海賊は19世紀の終わりまで、つまり通信と海軍力(警察力)の発達により大洋が必ずしも「無限の荒野」ではなくなるまで、ずっと存続する。時には犯罪として、時には戦争として、そして時には国家事業として。

 最も有名なノルマン人のバイキング(9〜11世紀)は立派な船と航海術を備えていたが、この「資質」はノルマン征服により、ヨーロッパ各地、特に、後に近代資本主義発生の地となるイギリスに移植されていく。イギリス人の原型はケルト人(現在のスコットランド人、アイルランド人はその流れを汲む)と、ゲルマン民族大移動の時にやってきたアングロ人、サクソン人との混血であるが、そこに10世紀末、ノルマン人がやってくる。11世紀初め、その王クヌートは「全イングランドの王」になる。さらにイギリスは1066年、仏ノルマンディーからのノルマン人に征服される。ノルマン人の一派がノルマンディー地方を征服していたが、そこからさらにイギリス征服を敢行したのだ。

 こうして、もともと島国で海運に優れたイギリスは2度のノルマン征服を受け、バイキングの伝統で海洋民族文化を強化する。

十字軍

 十字軍(11〜13世紀)が行われる背景には、「北西ヨーロッパの台頭」という歴史的方向性がある。十字軍の直接的原因は、キリスト教の聖地エルサレムが11世紀にセルジュク・トルコに占領されたことだとされる。しかし、エルサレムは7世紀にイスラム(サラセン)帝国に征服されてから久しく「異教徒」領になっており(イスラム以前はローマ及び東ローマ帝国領)、11世紀になってようやく聖地回復の事業が始まる要因には別の背景を考えなければならない。

 注目すべき点として、この11世紀頃、ヨーロッパ人(特に西北ヨーロッパからの)のエルサレム巡礼が活発化し、それが「異教徒」(セルジュク・トルコ)に妨げられたということがある。エルサレムのような遠方までの巡礼を広範に起こさせるには、単なる「宗教心の向上」などでなく、その送り出し地域の経済発展が看取されなければならない。1095年に教皇ウルバン2世がクレルモン宗教会議で聖地回復を訴えたのが十字軍のはじまりだったが、これに呼応したのは西北ヨーロッパの国王、諸侯、騎士たちだった。この時から13世紀まで続く十字軍のほとんどは現フランス、ドイツ、イギリス地域から出ており、十字軍は何よりも西北ヨーロッパの膨張運動としてとらえられる。

 すでに封建制の拡大で発達していた騎士層も、この十字軍によって数的・制度的・イデオロギー的に強化される。いわゆる「騎士道」の確立である。「忠誠、武勇、キリスト教への献身」を中核とするこの騎士道は、イスパニアの項目で述べるように、客観的にはイスラムに対する西北ヨーロッパの膨張を推進する側面を担っていた。キリスト教は古代ローマ帝国内で、それへの抵抗(特に東方住民の抵抗)として生まれ成長したものだが、やがてその国教となり、同帝国の滅亡後、この十字軍の時期に至って、対外的にはそうした西北ヨーロッパ拡張の役割を担ってくる。これは後のヨーロッパ列強による世界征服の中でさらに明確になる。(一方、キリスト教は「対内的」には、宗教改革(プロテスタント化)を経て資本主義の倫理的基礎となる。M・ヴェーバー参照。)。

十字軍で利益を得たイタリア商人

 十字軍によりベネチアを始め北イタリア諸都市の商人が大きな利益を上げた。彼らにとり十字軍とは、イスラム商人、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)に握られていた地中海・東方貿易を彼らの手に奪い返すことだった。彼らは十字軍の輸送で直接的な利益を得たばかりでなく、例えば第4回十字軍(1202〜04年)を、ベネチア商人の要求通り、その商敵ビザンチン帝国(キリスト教国であった)の征服に向かわせたりしている。第8回十字軍は、ジェノバ、ピサ、マルセイユなどの要求に応じて商敵チュニスを突いている。そもそも、目的地のエルサレムに向かったのは第3回十字軍までで、それ以後は別の所ばかり攻めている(ビザンチン帝国領、チュニスの他、エジプト、シリアなど)。結果として東地中海へヨーロッパ勢力、とりわけイタリア商人の貿易圏が広がった。

 十字軍の要因が北西ヨーロッパの台頭であるのに、そこで利益を受けるのが北イタリア商人であるというのは一見、矛盾のように見える。しかし、そうではない。まず第一に北イタリアは地中海地域に入るが、西北ヨーロッパとのつながりなしには存在しえない位置にある。カルタゴのような北アフリカの海港はもはや繁栄できない。シチリアもギリシャも、ローマを中心とするイタリア半島主要部さえも、もはやこの時期の商業都市として発展できなくなった。西北ヨーロッパとのつながりの中で地中海貿易を行える地域として、イタリア北部、フランス南部にしかこの時期の都市は勃興できなくなっている。この地域の都市のみが西北ヨーロッパから来る十字軍を東地中海に(船で)送りこめたし、東方と西北ヨーロッパの貿易を媒介できた。

 第2に、北イタリアは気候的に、したがってまた農業的に、西北ヨーロッパに近似していた。古代ローマ時代に、地中海的乾地農業はこの辺にはあまり広がらなかった。半島の南部に比して夏でも比較的雨が多く、アルプスからの雪解け水も継続して供給されるため、ロンバルディア平原はどちらかというと湿潤農業に適する。西北ヨーロッパにも言えることだが、ローマ時代にはこうした湿潤地帯で農業を行う技術が不足し、この地域は後進地帯だった。その農業はむしろ西北ヨーロッパと足並みをそろえて発展し、十字軍の頃に至り、人口が増え都市も成長するようになった。このイタリアにおける歴史的な南北の相違は、現代イタリアにおける南北格差を理解する上でも重要なカギとなる。

ルネサンス

 十字軍が終わってすぐ、北イタリア諸都市でルネサンスが始まっている(14世紀から16世紀はじめ)。これはヒューマニズム、古典文明の再生とされるが、より本質的には地中海交易圏におけるイタリアの再生を表現している。西ローマ帝国の滅亡(476年)以来、地中海の制海権、貿易権は長らく東方諸国に奪われていた。7世紀に出現したイスラム(サラセン)帝国、コンスタンチノープル(現イスタンブール)を中心とするビザンチン帝国、中央アジアからトルコ、エルサルム周辺まで支配を広げ十字軍のきっかけをつくったセルジュク・トルコなどが地中海を支配した。これを再び西方(イタリア)に奪い返したのが十字軍であり、それで活性化したイタリア商業資本主義の文化的・イデオロギー的表現がルネサンスである。ルネサンスの発祥地、フィレンツェは大富豪メジチ家の拠点であり、多くのルネサンス文人はこうした新興商業資本に支えられた。

 しかし、奪い取った地中海貿易権は、すぐまたイタリア商人の手を離れる。13世紀に出現したオスマン・トルコが勢力範囲を中東全域に伸ばし、南はエジプト、西はバルカン半島まで進出。1453年にはコンスタンチノープルを陥落させビザンチン帝国(東ローマ帝国)を滅亡させている。さらに1538年にはプレヴェサの開戦でイスパニア、ベネチア、ローマ教皇連合艦隊を破り、地中海制海権を拡大した。(イスパニアはこれを契機に、地中海から大西洋(新大陸)に進出の重点を移さざるを得なくなる。そしてこれは「正解」であって、やがて主要な貿易海洋は地中海から大西洋をはじめとした外洋に移行する。)

 こうしてイタリアから近代資本主義が発生する可能性は遠のく。しかし、この時期、イタリア諸都市は単に商業資本を発展させただけでなく、例えばフィレンツェのように内陸都市でも毛織物など産業資本の萌芽が見られた。イタリアの貿易圏がそのまま増強されていれば、別の近代的発展のシナリオがあり得たかも知れない。

ルネサンスと宗教改革

 エルンスト・トレルチ『ルネサンスと宗教改革』によると、ルネサンスはすぐれてイタリア的な現象であり、宗教改革はアルプス以北(西北ヨーロッパ)の現象であった。言葉を変えると、宗教改革はアルプス以北のルネサンスだった。あるいはルネサンスはイタリアの宗教改革だった。(事実、イタリアのルネサンスは宗教を否定して人間主義を打ち出したのではなく、キリスト教をヒューマニスティックな形で再生する形をとった。ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロがどんな絵を描き、彫刻を掘ったかを想起。)

商工業者の台頭の表現としての宗教改革

 宗教改革はまず第1に勃興する商工業者(市民、あるいはブルジョアジー)の運動であり、資本主義の精神基盤となる彼ら自身の倫理を打ち立てようとするイデオロギー革命であった。例えば、16世紀スイスのカルビン派の宗教改革では、「与えられた職業を完全に遂行することが神の意思に従うことである」との論理から勤勉な生活態度が打ち出されている。

 しかし、宗教改革は単なるイデオロギー上の改革にとどまらず、ブルジョアジーが政治経済的にも課題を実現していく動きにもつながった。初期においてブルジョアジーはその主張を宗教的衣の中に潜めたのであって、例えばオランダの市民革命(1581年。イスパニアからの独立という形をとる)は、商工業者の信仰(カルビン派)が抑圧されていたことに対する宗教的反抗という形をとって現われた。イギリスの市民革命=ピューリタン革命も、名称通り、ピューリタン(清教徒。やはりカルビン派)の宗教的抵抗運動の形をとった。(同じプロテスタント系の長老派、独立派も加わった。)

 宗教改革と市民革命は切れていない。両者は一つの繋がりの中にあり、一つの歴史過程の中の二つの表現形態である。市民革命は宗教改革の徹底した実現だったし、逆に宗教改革は市民革命の第1段階だった。

 市民革命に宗教的なヴェールが付けられなくなるのは1776年のアメリカ独立革命からだ。ここで初めて「自由」「平等」や「人権」など世俗的概念が登場する。アメリカは新しい国で宗教的抑圧の伝統がなかったことが関係しているだろう。これ以後、全ヨーロッパを震撼させたフランス革命でも同様の理念が掲げられ、民主主義的諸原理がかつての宗教的理念に取って代わる。

 (しかし、おもしろいことに、例えばフランス革命の中でロビエスピエールは「理性の宗教」なるものをつくりだし、儀式や祭典を行い、近代民主主義諸理念に宗教的後光を付けようとしている。我々の時代に至るこの「近代」においても、やはり民衆は何らかの形で宗教的帰依に値するものを求めたようだ。「社会主義」はイスラムに続く第4の世界宗教であったが、今日の「民主主義」も、それに対抗する別の宗教として押し上げられる力が働いている。)

西北ヨーロッパ台頭の表現としての宗教改革

 宗教改革における勤勉倫理の強調は、資本主義発生の時代的要請に沿ったものであると同時に、「アルプス以北」の西北ヨーロッパの風土(とそこから生まれる独自の生活様式)の反映でもあった。熱帯ほどではないにしても年間を通じて温暖な気候の続く地中海地方とは異なり寒冷な冬をもつ西北ヨーロッパの生活論理をキリスト教の中に体現しようとする試みでもあった。

 熱帯その他の温暖な地域では、年間を通じて植物が生い茂り、人々は常時自然の恵みを享受していられる。しかし、温帯以北の寒冷な冬をもつ地域では、冬のため食糧を備えねばならない。衣服、住居も備えねばならない。これら地域の人々は、厳しい冬とたたかうため、年間を通して勤勉に働かなければならず、「蓄積」の観念も発達させた。だから「南」では自然の富に甘え、生活の享受に重点が置かれ、産業社会の発展が遅れた。しかし「北」では勤勉な生活を基礎に産業が発展し資本主義が生まれた ―と断定しては「地理決定論」になる。しかし、このような風土の影響がまったくなかったということも無理がある。確かに資本主義は、アリやミツバチのように懸命に働く勤勉性の中から最も発生しやすいだろう。生を謳歌し、自然との闘いでなく自然の豊かさの中に溶け込んで生きた「南」の人々の中にも「資本主義の文化」とは別の価値と、その独自の新しい社会の可能性が存在している。しかし、少なくとも資本主義の生成に関しては(とりわけそれを世界に先駆け最初に生み出すことに関しては)こうした「南の文化」は不向きだった。むろん諸条件が整えば、これらの地域でも遅かれ早かれ資本主義が勃興するが、それは「北」よりもゆっくりした過程で生じるだろう。そして歴史はそれを足踏みして待つほど悠長ではなく、生まれやすい所にさっさと生まれさせ、たちまちのうちにそこを中心とした世界資本主義体制をつくってしまう。

 1517年にはじまるルターの宗教改革においては、その教義は必ずしもカルビン派ほど明確に商工業者(ブルジョアジー)の生活倫理と政治的主張を打ち出したわけでなく、むしろローマ教皇への面と向かった対決という側面に特徴があった。例えば当時、教皇は免罪符を民衆に売り付け、それを言わば税収入にしていたが、ルターはその購入を拒否し焼いたりした。ローマ教皇はイタリア中部に広い領土をもち、すでに一つの封建諸侯もしくは国王に比すべき経済基盤を備えていたが、ルターの行為はこうした地中海側に基礎をおく勢力への絶縁の意味をもった。それゆえ、その後引き起こされる農民戦争(最も有名なものはトマス・ミュンツァー率いる農民戦争<1525年>)や、諸侯間・都市間の宗教戦争(1618〜1648年の三十年戦争)の中で、商工業者だけでなく、一部の封建諸侯も新教側に付いて動いた(例えばルターはザクセン候に保護されていた)。ただドイツは当時「神聖ローマ帝国」であり、その皇帝は教皇に任命されたローマ皇帝ということになっていたから、この皇帝(実際上はドイツ内封建諸侯の一つ)やそれになびく諸侯たちが教皇(旧教)側に付いたりして話をややこしくしている。

 イギリスにおいても、国王ヘンリー8世(在位1509〜1547年)は初めルターに反対していたが、王妃の離婚を教皇に反対されたことから教皇離れを起こし、イングランド教会を設立した。これも一応「宗教改革」の中に含められているが、教義や儀式の上でローマ=カトリックとあまり変わらず、ここに何らかの歴史の歩みを読み取るとすれば「西北ヨーロッパの一国であるイギリスが、古い権威を着た地中海権力から独立した」点に求められる。イギリスにおける真の宗教改革は、さらに次の世紀(17世紀)のピューリタンの抵抗運動の中に見いだされるが、これはすでに明確な市民革命として実行される。

 早熟なオランダでは、すでに宗教改革の時代(16世紀)に宗教的抵抗が市民革命として実現してしまっているが、この場合でもイスパニアからの独立という形を取り、地中海権力に対する西北ヨーロッパの台頭という流れが見て取れる。オランダはバルト海、北海など北方貿易圏とライン川交通を結ぶ中継貿易拠点として発展し、後述の通り、西北ヨーロッパの台頭を当時において典型的に体現する地域であった。

地理上の発見

 イスパニア、ポルトガルによる「地理上の発見」がヨーロッパ近代への画期をつくる。それまで一貫して西方世界最大の海上貿易圏であった地中海が決定的に主役から降りる。大西洋を隔てた新大陸、さらにはアフリカ南端を経たインド、東南アジア、すなわち「世界」への貿易圏が拡大することで、貿易活動の中心はヨーロッパの大西洋岸地域に移行する。地中海世界vs.西北ヨーロッパ世界の競合に最終的に勝負がつく。

 地中海貿易から大西洋貿易への移行を、その両方に面したイベリア半島の国(イスパニア)が遂行するのはいかにも役に似つかわしい。イベリア半島は756年よりイスラム(後期ウマイヤ朝)領だったが、西北ヨーロッパとの交流の深い北部に小規模なキリスト教諸国が存続し続け、これが次第に南に向けて発展していく。第2回十字軍(1147〜1149年)の時には、ドイツ、イギリス地域からの軍の一部がイベリア半島に来て、イスラム軍を破った。つまり、イスパニア、ポルトガルの成立(つまり、イベリア半島のキリスト教徒への奪還)も十字軍の一部として、つまり西北ヨーロッパ膨張運動の一環としてはじまっている。

 この後、すぐれて西北ヨーロッパ的な武勇の伝統である騎士がイベリア半島内部にも形成され、これが数世紀にわたり次第にイスラム勢力を南に退けていく。イスラムを完全に追い出した時(1492年)が騎士の任務が終わった時であり、その後に『ドン・キホーテ』が書かれる(1605年、第1部出版)。(ただし、スペインは、イスラムを追い出した後も、進出した新大陸で武勇の需要があった。より正確には、無敵艦隊の敗北(1588年)に象徴されるイギリス、フランスなど新興勢力が台頭する時代、スペインが衰亡していく時代に『ドン・キホーテ』は書かれた。)

 イスパニア・ポルトガルはイスラム商人の通商基盤を受け継ぎ、活発な商業活動を行った。彼らが最初に目指したのはやはり地中海貿易だった。イスパニアの前身の一つ、アラゴン国はイスラム勢力を駆逐するずっと前からバレアリック(バレアレス)諸島(1229年)、シシリー島(1282年)、サルジニア島(1326年)、南イタリア(1442年)などを征服している。

 ところが、この頃、西アジアではオスマン・トルコが強大化し始めており、東洋との貿易が望めなかったばかりか、地中海貿易自体も次第にこの東方帝国の手中に落ち始めていた。スペインによる地中海貿易支配の野望は当初から釘を刺されており、このことがスペインを逆方向、つまり大西洋航路の開拓に向かわせる要因となった。(地理上の発見を経てイスパニアが世界帝国になってからも、例えば1538年プレブザの海戦でオスマン・トルコに敗れるなど、地中海覇権の方はうまく行っていない。東地中海のオスマン・トルコからの奪還は、西欧列強の一貫した渇望であり、それは20世紀に至るまでくすぶり続け、バルカン問題が第一次大戦の引き金になったりしている。)

西北ヨーロッパ台頭の基盤

 大西洋航路の発見・開拓が最後的に西北ヨーロッパの近代化を運命づけた。この時期までに一定の農業生産力の発達とそれに伴う交易、特に北方貿易圏を生み出していた西北ヨーロッパは、次節に見るような造船・航海技術も進歩させ大洋に進出していく準備が整っていた。時を得て、西北ヨーロッパは広大な貿易圏を眼前に与えられた。東はモルッカ諸島から西は南北アメリカ大陸まで、人類がかつて対象としたことのない巨大な地域が広がり、これの支配により西北ヨーロッパは、それまでどんな民族も成し遂げたことない莫大な富の集積を可能にしていく。それは資本(とりあえずは商業資本)として西北ヨーロッパを駆け巡り、蓄積され流用され、西北ヨーロッパ社会の隅々まで新しい活力を与えていく。そこからマニュファクチャーが、産業資本が、産業革命が、そして近代資本主義社会が発生していくのは時間の問題だった。遅かれ早かれ西北ヨーロッパのどこからかそれは起こる。どこでもよかった。しかし、最終的にイギリスに白羽の矢が立ち、そこから、全世界を転換させる近代資本主義がはじまる。

なぜ遠洋航海が可能になったか

 ヨーロッパは、地中海と北方の入り組んだ海岸線をもち、世界で最も海洋民族(したがってまた造船・航海技術)が発展する条件を備えていた。地中海では大型帆船の建造が行われ、特に甲板をもった大きな船体づくりの技術が進んでいた。北方では、例えば方向舵を使用して風に逆らって進める船の建造など、いくつか技術革新があった。この二つの造船文化が十字軍を契機に融合され、造船・航海技術が飛躍的に高まった。

 イベリア半島を支配していたイスラム勢力は、中国から伝わった羅針盤を使用しており、また天文学も発展させていた。イスラムを撃退するイスパニア・ポルトガルがこれらを吸収して遠洋航海技術を身に付けた。ヨーロッパ近代の創出において、イスラム文化の果たした役割はまだ正当に評価されていない。こうした科学技術の分野から古代ギリシャ・ローマの古典まで、多くの知識がイスラム(特にイベリア半島のイスラム)を経てヨーロッパに伝わり、北西ヨーロッパ台頭の基礎を提供した。

西・葡から蘭・英・仏へ

 ポルトガルは東洋貿易で、イスパニアは新大陸の植民地収奪(特に銀の収奪)で、ともに莫大な富を握るが、彼らはもともと海洋民族ではなかったため、次第に北方諸国に敗れていく。(例えば、アメリカを「発見」したコロンブスは、イスパニア王に雇われたジェノバの人間であり、アメリカ大陸探検の功でその名が同大陸につけられたアメリゴ・ヴェスプッチもイタリア人だった。)

 最初に台頭してきたのはオランダであった。オランダはライン川河口に位置し、ヨーロッパの内陸交易とバルト海、黒海など北方貿易圏を結びつける要衝にあり、商工業者の発展も進んでいた。例えば北海に面するロッテルダムはライン川に直接面し、後に最大貿易港となるアムステルダムも多数の運河でライン川交易圏と結ばれていた。

 すでに述べたようにオランダは西北ヨーロッパの宗教改革期にカルビン派の商工業者が中心になってスペインからの独立革命を達成していた(1572年)。これは史上最初の市民革命であり、諸々の封建的特権を排除して商工業者の活動を解き放ち、オランダの興隆を保証した。

 次に大きく台頭するのがイギリスである。イギリスは新しく開拓された大西洋航路に絶好の位置にあったのみならず、元来海洋民族であった。島国であり、バイキングの伝統も受け継ぎ、造船技術も進んでいた。早くも1588年にはスペイン無敵艦隊を破って頭角を表している。またこの時期、イギリス民間船による略奪・海賊行為が広範に行われていた。エリザベス女王(在位1558〜1603年)は、これに勲章を与え奨励しており、国家政策としての海賊事業であった。当時、世界貿易圏はローマ教皇の「神聖な」決定(1494年)で、スペインとポルトガルに二分割されており、他の国の割り込みが許されなかった。このためイギリスの歴史家は、この海賊行為を「機会均等と海洋の自由を求める」正義の闘いであったかのように書く傾向がある。地理的にもイギリスは、ヨーロッパ大陸から新大陸その他に向かう船舶の通り道にある。当時、オランダ、フランスなども海賊行為を行ったが、イギリスの華々しさには勝てなかった。この海賊事業によりイギリスは莫大な富、さらにその過程での海運・海軍力の増強を得て、繁栄の基を築いた。

 フランスもまたこの時期、海運国家として台頭する。大西洋航路の発展は、地中海地域ばかりでなく、北方貿易圏の奥の方の地域、例えばかつてハンザ都市として繁栄したリューベックなどバルト海沿岸地域をも相対的に衰弱させた。それに代わり、オランダ、イギリス、フランスなど西方の地域が興隆してきたのである。

 17世紀後半の3次の蘭英戦争でオランダがイギリスに敗退すると、英仏が主要勢力となり、この2国がヨーロッパで、また植民地で世界制覇をかけて争う事態となる。結局勝利するのはイギリスだが、その要因は、1)海洋民族として造船・航海技術、したがってまた海軍力でフランスに勝っていた、2)フランスは大陸側の国として、ヨーロッパ大陸内の様々な内紛・戦争に関心を示し手を下した(18世紀のオーストリア継承戦争、七年戦争など)ため、海外植民地が手薄になった、3)イギリスは分権的な経済が強かったため商工業者の発展も早く、したがって市民革命も早い時期に行われ(1649年と1688年)、産業発展が速やかであった、などに求めることができる。

産業革命

 インドにおける英仏間抗争であるプラッシーの戦い(1757年)を契機に、フランスに対するイギリスの優勢が決まる。以後、「大英帝国」に向かって植民地の拡大が進められる。植民地貿易の利益がイギリス商業資本を富まし、その資本による問屋制家内工業が広がる。拡大した市場は生産の急速な増大を命じ、マニュファクチャー(工場制手工業)も現れる。分業が顕著になるとともに、その単純化された工程を機械化していく発明が可能になる。一人の人間が品物の全体をつくる非分業生産では機械化は可能でないし、その動機も起らない。「分業が発展し、人々が単一の生産物や単一の工程に全力を集中しうるようになってはじめて、発明はその実を結ぶことができる」(T.S.アシュトン『産業革命』(岩波文庫)、p.24)。

 こうして18世紀後半のイギリスに産業革命が起こった。産業革命はあらゆる分野での技術革新だったが、とりわけ蒸気機関の発明・使用にその画期的本質が認められる。すなわち、人類初の火力(化学エネルギー)の動力(物理エネルギー)への転換である。

 この蒸気機関の燃料は木材でも石油でも天然ガスでもなく石炭であった。産業革命が石炭埋蔵の豊富なイギリスで起こったからこそ、最初の近代技術は石炭火力と強く結びつけられた。かつては暖房用その他燃料として木材(薪)が広く使われていたが、この頃のイギリスは幸か不幸か、森林の枯渇という生態系現象に直面していた。一方で、開墾が限界まで進み、他方で、製鉄業その他で増大する工業用燃料の需要が森林の乱獲をもたらしていた。

 そこで、すでに採掘の始まっていた石炭が増々多く掘り出されるようになった。蒸気機関は他でもなくこの石炭採鉱業の中で発達する。すなわち、坑内廃水を地上に出すための蒸気的揚水機関(1698年、トマス・サファリ―による発明)が、蒸気を動力として使う技術の第一歩だった。これ以後、蒸気機関は石炭と密接に関連しながら改良を加えられ、あらゆる分野の動力に用いられるようになった。技術的に見ても、蒸気機関は、蒸気揚水の技術から発展したことがよく読み取れる構造を本質的に内包していると言われる。

 資本主義の芽生えが産業革命を起こしたが、それが一旦始まると、資本主義は増々強化され、もはや後戻りできない確固たる歴史的過程となった。イギリスは世界の工場となり、植民地はイギリスを頂点とする生産体系に抱え込まれ、農産物・原料供給国として固定される。第三世界の貧困を構造的に抱え込む現代資本主義体制の原型がこうしてできあがる。

まとめ

 ヨーロッパで最初の近代化が成功した根源的な理由は、本稿の最初(「ヨーロッパは海の支配に適していた」)で述べたように、地球上で、「温帯で複雑な海岸線をもった地域」という条件を最もよく満たすのはヨーロッパだった、ということだ。この要因を、今まで論じたところからさらに膨らませると、次のようになる。

1)ヨーロッパは湿潤地帯であり、乾燥地帯から伝播していった農業がここにおいて高い生産性をもち得た。
2)入り組んだ海岸線、とりわけ地中海という内海をもつことにより、この地域では古くから海上交易が活発化し、造船・航海技術が発達するとともに富の集積が進んだ。
3)地理上の発見により、西北ヨーロッパはさらなる地理的優位性を得、蓄積されていた海の技術、海軍・海運力を動員して新大陸その他から富をもたらすことができた。
4)寒冷な冬をもつ温帯地域として、勤勉に働き蓄積する文化・生活様式を備えていた。
5)灌漑を用いない雨水畑作地帯として、分権的な共同体をもっており、それが資本主義の発生に適合していた。

 さらにまとめると、1)湿潤農業による高い生産性、2)複雑な海岸線をもつゆえの海上交易の有利性、3)「発見」された新大陸への近さ、4)季節の存在による勤勉性、5)雨水農業の分権性、ということになる。この5条件をコンピューターに入れ、最もよく合致する地域を割り出すとヨーロッパになる。だからヨーロッパで必然的に近代化が達成された。他の地域でも遅かれ早かれ達成されたかも知れないが、近代の論理はあくまで早いもの勝ちだ。いちはやく近代化を達成し世界を支配したものが、そこを頂点とした秩序をつくり、固めてしまう。

日本の近代化
 蛇足になるが、ここでおもしろいのは、上記5条件のうち、3)を除いて他のすべてが日本に当てはまることだ。日本もまた湿潤地帯として高い農業生産力をもち、寒冷な冬(と移り変わりの激しい季節)をもった国民として(ヨーロッパの人々以上に)こつこつ働く文化をもっているし、また複雑な海岸線をもった島国として海上貿易も盛んだった。鎖国は海外貿易を抑制してしまったが、この時期でも国内の交通に(特に米を運ぶのに)海上交通が盛んに使われた。鎖国以前は、日本人の南方進出が見られたし、中国近海における倭寇があった。明治以降、日本が東アジアを侵略していくようになるのも、海軍力の育成が早かったからであり、そしてそれは、島国海洋民族として、それまでの蓄積があったからだ。

 5)の分権性に関しては、日本は雨水畑作農業が中心ではなかったものの、著しく山がちで、各平野が分断されており、大陸平原とは異なる「分権的地理的条件」が存在していた。それだから、中国から取り入れた律令制も早期に崩れ(三世一身法<723年>、墾田永代私有令<743年>など)、16世紀には各地で群雄が割拠する戦国時代になってしまった。日本史上に現れる武士という勢力は、中央から切れた所で発生してくる分権的土地所有豪族であり、例えば濃尾平野の農業地帯を基礎とした織田−豊臣勢力、(三河出身だが)関東平野をバックにした徳川勢力などが次々に権力を握っていくことになる。

 さらに地理的条件に関して言うならば、日本の場合、西北ヨーロッパから遠い所にあるという要因が、独自の近代化を可能にした。他のアジア・アフリカ諸国が植民地化されている時、日本ははるか極東に隠れて西欧資本主義の触手から免れることができた。とりわけ日本が開国(1858年)した前後の最も危なかった時期、インドのセポイの反乱(1857年)、中国の太平天国の乱(1851〜64年)、イランのバーグ教徒の反乱(1848〜52年)など世界各地で反植民地闘争が高まっていた。「近く」でそんなことが起こっている時、遠い「辺境」まで手を出す余裕はなかった。

 日本の地理的位置がヨーロッパ列強からの攻撃を防いだ例として日露戦争がある。この時、日本は海戦の勝利でロシアに勝った。バルチック艦隊は近くのウラジオストクなどから日本海沖に来たのではなく、名称通りバルチック海(バルト海)に基礎をおく艦隊だったから、そこを出航し、アフリカを南下し、喜望峰をまわり、インド洋を横切り、シンガポールから北上してようやく日本近海にたどり着いた。長旅の最後で疲れ切っており、これではいくら当時の日本の海軍力が貧弱でも敗けるわけがない。軍事力を含めて「中心」はヨーロッパ地域にあったから、そこから遠く離れた日本は列強からの侵略を避け、独自の経済力・軍事力を発展させることができた。

 蛇足を付け足し過ぎたが、とにかく前節「まとめ」が結論である。ヨーロッパは、偶然的とも言える5条件に恵まれ、近代化の端緒を迎えることができた。とりわけ強い海運・海軍力が決定的で、それによりヨーロッパは世界を支配し、近代資本主義を生み出した。



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