香港における自治と市民社会


             岡 部 一 明 (『東邦学誌』第35巻第1号、2006年6月)
 

目  次

はじめに
  I.香港の自治体制度
 II.新界の伝統的自治組織
III.香港のNPOセクター
 IV.NPOと自治体の間
 

はじめに

 「香港は世界で最もデモの多いところだと思う。」

 民主派の莫嘉嫻区議が笑って語る言葉が意外だった。香港は1997年に中国に返還された。50年間「一国二制度」の下で返還前の体制が維持されるはずだが、徐々に中国の体制に組み込まれていく可能性がある。この微妙な状況の中、香港の人々も言動に細心の注意を払うに違いない。そういう危惧を抱いて香港の自治と民主化の調査に来た。しかし、莫嘉嫻区議会議員(九龍城区選出、香港民主民生協進会<民協>)は、小気味よく政府を批判し、区議会の権限強化など民主化の方向を正面から主張した。日本で神経質になられることもあるテープレコーダー使用も問題なくOK。テープの回る前で、とうとうと語ってくれた。

 彼女たちは、このインタビューの日(調査日:2006年1月3日[1])の朝も、電力会社にデモをかけ料金値下げを訴えたという。1ヶ月前(2005年12月4日)には25万人の民主化デモが行われていた。同時期WTO閣僚会議(12月13-18日)中の反WTOデモとはまた別のデモだ。2004年7月には50万人の民主化デモが行われ、最近香港では民主化を求める声が高まっているところだという。

 香港の人口は700万で日本の6%。はるかに大きい日本で10万を越すデモが最後に行われたのは何年前だったか。小規模なデモはさらに頻繁で、莫区議たちだけでも週2、3回は行っていると言う。

 とりあえずは「一国二制度」が機能していることに安堵した。しかし、それ以上だろう。香港は、専制国家の伝統が強い東アジアで例外的であり、レッセフェールの自由経済下で、「小さな政府」と多彩なNPO活動が存在する市民社会であった。オンブズマン/パースンから企業の社会的貢献まで、欧米的な市民社会の思潮が、吹きぬける開放経済と同じように、さしたるカルチャーギャップもなく自然に入り込んでいた。2001年に完成した香港中央図書館は、600台のインターネット無料端末を提供する巨大な電子図書館である(調査日:2006年1月6日[2])。明るく広々とした館内構造と相まって、それはサンフランシスコ中央図書館[3、pp.192-206]などアメリカ最新の電子図書館を想起させるものであった。日本でこのような図書館をまだ見たことがない。

 中国に返還され、難しい民主化課題を担い始めた香港だが、意外とここに「東アジアが生み出す市民社会モデル」のひとつの可能性があるかも知れない。その期待に促され、以下に香港の自治と非営利セクターを検証する。

 なお本稿で、組織名などの日本語訳はできるだけ中国語の漢字表記を生かすことにし、香港のもう一つの公式言語である英語の表記をカッコ内に添えた。ただし、繁体字(香港の漢字字体)をできるかぎり現代日本語の字体に置き換えた。日本語として理解が難しい漢字表記の場合は思い切った日本語訳をし、カッコ内に原語の漢字を示した。例えば「所有者法人(業主立案団、owners' corporation)」などの通りである。
 
 

I.香港の自治体制度

 

一国二制度

 香港の自治体制度を論じる場合、香港自体が中華人民共和国の中において特別な自治権を与えられた「特別行政区」(Hong Kong Special Administrative Region)であることに触れないわけにいかない。香港の中国への返還以来、国際的注視の中で、中国が「一国二制度」と「高度の自治」の約束を守るかどうかが問われ、しばしばその違反も指摘されてきた。しかし、客観的に見るならば、香港(とマカオ)の特別行政区は、単一の近代国家内の制度としては異例に高い自治権を行使しつづけていることを認めないわけにはいかない。何しろ、独自通貨(香港ドル)をもち、独自の出入国管理を行い、独自パスポートを発行し、中央政府の課税権も行使されていないのだ。他に類例を見ないこのような制度が、特異な歴史的事情を考慮するとしても、中央集権性の強い中国国家の中に存在していることは考えてみると意外なことである。中国の歴史には、朝貢により周辺諸国を(ワンクッションおいて)従属させた柵封体制、国内に行われた封建、封国の体制などがあり、伝統中華システムの文脈から解読したい誘惑にもかられる。

 1984年12月の英中共同声明で中国返還が決まった。以後、香港の憲法に相当する「基本法」の策定が進められ、1990年に最終案が中国の第7期全国人民代表大会第3回会議で可決された[4]。1997年7月1日、香港返還が実行され、基本法が発効するとともに人民解放軍が香港に入った。基本法の中で次の2つの規定が重要だろう。

 「第2条 全国人民代表大会は本基本法の諸規定にのっとり、香港独立行政区が高度の自治を行使し、行政的、立法的、そして最終審判権を含む独立した司法的権力を享受することを認める。」(「高度の自治」を認めた規定)
 「第5条 香港独立行政区においては社会主義の体制と政策はとられず、50年間に渡り、既存の資本主義体制と生活様式が変わりなく行われる。」(一国二制度の規定)
 

行政長官

 香港は1842年以来イギリス領となり、イギリスの諸制度がもちこまれたが、代議制民主主義は持たず、英国王に任命される総督の下に、植民地的な「行政国家」(administrative state)の統治機構が維持された[5、p.4]。それが、1980年代からアジア地域の民主化の流れにそって徐々に民主化の動きが高まり、中国返還という日程が後押しとなって選挙制度が拡充していく。現在でも、返還後の微妙な情勢下で民主化運動は続けられているが、完全に民主的な代議制が実現しているとは言い難い[6、p.45]。基本法は「最終的な目的は普通選挙権による公選」(基本法45条、68条)と定めているものの、現在のところ、大統領にあたる行政長官、及び議会にあたる立法会の半数が厳密には公選されていない。

 中国返還時に、総督(Governor)は行政長官(Chief Executive)に代わった。任期5年のこの行政トップは、直接選挙ではなく、800人で構成される選挙委員会(Election Committee)から選出され、それを中央政府が公式に任命する。この選挙委員会は米国の選挙人制度に似たものだが、選挙人が直接選挙に沿って選ばれない点で異なる。産業界諸分野、主要宗教団体、主要社会団体、立法会、全国人民代表大会代表、区議会などに割り当てが定められ、そこから選挙人が出される。地理的選挙区に基づいた普通選挙ではなく、いわゆる職能別選挙区(功能界別選票、Functional Constituency)からの選出と、職権による自動参加(ex officio)で選挙人が決められるわけだ。この選挙委員会800人の中で100名以上から推薦を得た者が候補となる。そこから委員会内の無記名投票で行政長官を決める。選挙委員会の構成により、中国中央寄りの行政長官が選ばれやすくなっていると批判される。この選出方法は、2007年以降、改正することが可能で、改正にあたっては、1)立法会で3分の2以上の多数決、2)行政長官の同意、3)全国人民代表大会常務委員会への報告とそれによる承認、という手続きを経る必要がある。
 現在の行政長官は曾蔭權(Tsang Yam-kuen、通称:ドナルド・ツァン)である。2005年に選挙委員会内で671人の推薦を得た。その他に100人以上の推薦を得た委員が居なかったので、候補者は1人。無投票で選出された。

 行政長官の下に行政会議(Executive Council)がある。これは内閣に相当するが、正確には行政長官の政策諮問機関の位置づけである(基本法第54条、第55条)。通常、週1回開かれ、重要政策の決定について話し合いがもたれる。行政会議のメンバーを任命するのは行政長官である。行政機関の高官、立法会議員、一般有名人などが選ばれる。
 
 

立法会

 国会にあたる立法機関は立法会である。全60議席で、直接選挙により30議席、職能別選挙により30議席が選出される。2004年9月に行われた第3期(2004年10月-2008年9月)の立法会選挙で当選者が多かったのは、民主建港連盟(民建連、12議席)、自由党(10議席)、民主党(9議席)などである。無所属も14名いた。

 これまで基本法下で1998年、2000年、2004年と3回の選挙が行われたが、2004年の選挙だと、普通選挙といえる地理的選挙区で30名、団体ごとの職能別選挙区で30名がそれぞれ選出されている。地理的選挙区では、香港が5つの選挙区に分けられ、それぞれに4人または8人の定員が定められている。職能別選挙区では、労働団体に3名の定員が振られる他、新界の先住民組織から1名、区議会から1名、その他、農漁業、保険、交通、教育、法律、会計、医療、保健、工学、建築測量計画、福祉、不動産建設、旅行業、商業、産業、金融、金融サービス、スポーツ文化、輸出入、繊維衣料、卸小売り、情報技術、ケイタリングなど業界・職業団体からの代表が1名ずつ選出される。

 イギリス主権時代から、立法会の選挙権拡大は民主化の中心課題だった[7]。1984年に選出議員ゼロで47名全員が任命または行政役職者で構成されていたのが、1995年には逆に60名全員が選出議員となった(必ずしも地理的選挙区だけでなく前出「職能別選挙区」を含む)。この時には、職能別選挙区の拡大で、実質的な有権者がそれ以前の104,609人から290万人に拡大している[7、p.669]。1989年の天安門事件を契機に100万人デモ、「権利の章典」(Bill of Rights)の策定(1991年発効)など、民主化の高まりが背景にあった。

 返還以後、一時期、選挙枠の後退があったが、徐々に回復し、現在のレベルにまで復帰した。現在さらに、選挙区をすべて地理的選挙区型にして完全な普通選挙を実現しようとする民主化要求がある。選出方法の改正には、前記行政長官の選出方法の改正と同様、1)立法会での3分の2以上の多数決、2)行政長官の同意、3)全国人民代表大会常務委員会への報告とそれによる承認、が必要である。
 
 

司法

 香港の司法制度は、最終審裁判所、高等裁判所、地区裁判所の3層である。基本法は裁判所の独立を規定し、いかなる干渉も受けないとしている(基本法第85条)。最終審裁判所の判決が最終であり(基本法第82条)、中国中央の上級裁判所に上告する形にはなっていない。ただし、基本法についての最終的な解釈権は、全国人民代表大会常務委員会にあるとする(基本法第158条)。諸法律は基本的に返還以前のものが維持され、イギリス風の慣習法が生きている。
 
 

都市評議会

 香港独立行政区の政体は単一(unitary)であり、語の正確な意味での自治体制度は有していない[8]。市(city)、町(town)、村(village)と呼ばれる地域単位はあるが、慣習的な呼称であって、法的に規定された権限ある自治体とは言えない。

 かつて香港の都市部(香港島、九龍地域)には全員が公選される都市評議会(市政局、Urban Council)があり、自治体の役割を果たしていたが[9]、中国返還後の1999年に廃止された。都市評議会は1883年、衛生理事会(潔淨局、Sanitary Board)として発足。1936年に都市評議会の名称になった。実は都市評議会は、香港で最も早くから公選制を導入した行政機関である。1952年の議員13名のうち初めて2名(15%)を公選にし、以後、徐々に拡大して1994年には全員公選となった。ただし、公選されたと言っても1982年以前は、学歴の高い層など選挙権資格が厳しく、選挙権をもつ人は人口の20%以下だった。より完全な普通選挙の形がとられるのは1980年代に入ってからである[7、p.663]。都市評議会は単なる諮問機関ではなく、実働部隊の行政組織をもち、汚水処理、保健、環境保護、文化レクレーション、事業免許などの業務を行なった。

 新界地域の都市化が進むにつれて、こちらにも同様の地方機関の必要が出てきて、1986年に地方評議会(区域市政局、Regional Council)が発足した。ここでも公選枠拡大が徐々に進んだが、中国返還後に都市評議会とともに廃止された。

 都市評議会と地方評議会の行政機能は香港特別行政区政府の食品環境衛生局とレジャー文化サービス局などが引き継いでいる。
 
 

 現在、厳密な意味の自治体がない中で、香港政庁の地方機構として設置されている区(district)がそれに最も近い役割を果たす。1982年に導入され、表1の通り18区ある。区には、香港政庁から任命される区長がおり、行政執行機関である区管理委員会(District Management Committee)と議会にあたる区議会(District Council)がある。区長は香港独立行政区の行政職であり、この区長を中心に地区管理委員会を構成して行政を執行する。区議会正副議長、同委員会議長、区行政の主要部局長なども区管理委員会に参加している。区議会は現在大多数が公選であり、住民と香港政庁との橋渡しの役割を果たしている。
 

 区は「市民参加を促進し、香港住民の間に帰属と互助の感覚を育む」とともに「政府が区のニーズと問題によりよく対処できるようにする」ためのものである[10、p.7]。区の住民向け窓口として香港域内20の市民相談サービスセンター(諮詢服務中心、Public Enquiry Service Center)がある。行政情報の提供や住民の各種手続きをする場であり、多様な相談にのる体制も整えている。コミュニティーセンター的な雰囲気があり、住民が気軽に入ってスタッフと話をできる。区議会会議室も隣接してあることが多い。

 区議会は諮問機関の位置づけであり、法令を定める権限はない。香港政庁から様ざまな施政方針について諮問を受ける。2004-2005年度では、香港全体にかかわる516件、各区にかかわる2,696件が諮問された。区議会は、1982年の設立当初は区理事会(District Board)と言っていたが、返還後の2000年に現在の名称になった。議員数、公選者割合も徐々に拡大されている。2003年11月選挙による2004年1月から4年間の任期では、18区計529名の区議がおり、その内公選された者が400名、任命された者が102名、郷事委員会(後述)会長の兼職が27名であった。各区で週1回程度の区議会が開かれる他、「市民面会」(Meet-the-Public)制度があり、週1日など時間を指定して一般市民が市議に面談する機会をつくる。地域で事務所を開き、独自に市民相談に乗る区議も多い。区議会は実質的な権限を徐々に強化していると言われ、使える予算も拡大している。2004-05年度には区予算として香港政庁から計1億8800万香港ドルが与えられた[10、p.8]。
 
 

分区委員会

 区の下にさらに、人口8万-10万程度ごとに設置される分区委員会(Area Committee)がある。これは1972年に行われた「香港美化キャンペーン」(Keep Hong Kong Clean Campaign)、「凶悪犯罪追放キャンペーン」(Fight Violent Crime Campaign)のため住民を組織する必要から設置された半官半民の住民組織である。各分区委員会のトップは香港政庁の民政局長に任命される[11]。2004年末で計70の分区委員会が存在した[10、p8]。
 
 

所有者法人と互助委員会

 NPOセクターに分類されるような住民自治組織は、2004年のまとまった研究[12]によれば表2の通りである[13、p.112]。

 この表2で見る通り、所有者法人(Owners' Corporation)と互助委員会(Mutual Aid Committee)が圧倒的な数を占める。この2つはいずれも町内会的な地域住民組織であり、住民が居住ビルの自治管理を行うための組織である。香港では、町内会的な組織が住居ビルを単位につくられる。高密度都市の中、多くの人が高層アパートを住居にしている香港の特徴を反映していよう。

 所有者法人(原語の「業主立案団」は分かりにくいのでこう訳す)は、1970年の複数階ビルディング条例によってその設立が規定された。高密度ビルが内部のユニットごとに売られることで様ざまな問題が生れる。これに対処し、共同で店舗・住戸を管理するための組合である[13、pp.113-114]。数字は異なるが、2004年末の統計では7,520の所有者法人が14,625棟のビルを管理している[10、p.8]。

 一方、互助委員会は、ビルごとに借家人も含めてつくられる住民組織で、ビルの維持、管理運営、住民間の親睦活動などを行う。ビルに賃貸部分が多い場合は、所有者法人でビルの管理運営を行うのは難しく、これをカバーする意味があった[13、p.114]。代表は住民から選出される。2004年末の統計では、香港全体で3,067の互助委員会があった[10、p.8]。政庁の民政局が代表選挙の組織化を手伝うなど支援に入る。

 香港民政局は、これら所有者法人、互助委員会を支援するため域内4つのビル管理資源センター(Building Management Resource Center)を設置している。ビル運営、維持、衛生、環境などに関して専門的なアドバイスを提供する。週日なら朝10時から夜10時まで開いているところもあり、住民が気軽に入って相談できる。資料・パンフ類も豊富にそろえている。

 なお、表2の中の「居民聯会」は複数のビルでつくる住民組織であり、1960年代末から政庁華民政務司署の支援でつくられるようになった。宗族組織は戦後、とりわけ難民流入が激しくなった時期、宗族のつながりを通じた支援を行なった組織などである。郷事委員会、街坊福利会はIIを参照のこと。
 
 

住民の声をくみ上げる区議(インタビュー)

 「今朝も、電気料金値下げのデモをやったのよ。」

 事務所を訪ねるなり莫嘉嫻(モク・カハン)区議は元気よく切り出した。現在、香港の電力会社は30%の利益が確保できる料金体系をとっているが、デフレの今、これを8%に下げるべきだと言う。莫区議の所属する政党・香港民主民生協進会(民協)が組織し、電力会社前でピケットをはった。「週2回は何かのデモをやっている」と莫区議。

 香港には18の区があるが、莫氏は、九龍地域の東部「九龍城区」の区議会議員だ。九龍城区は人口40万で面積約10平方キロ。有名な清の砦、九龍城塞跡一帯の住宅街が九龍城地域であるが、選挙区としての「九龍城区」はそこだけでなく、東部は旧啓徳空港の跡地、西は日本人も多く住むフンホム地域、北は山手の高級住宅街・九龍塘地域など広い地域を含む。区議のうち22名が公選、5名が政庁による任命。九龍城区が22の選挙区(選区)に分かれ、それぞれ1人の議員を選出する。

 莫区議は、巨大な公共団地「馬頭圍」(Ma Tau Wai Estate、高層5棟2075戸)周辺の選挙区(G01)から選出された公選議員である。事務所も同団地の1階にある。2室だけの小さい事務所。住民が次々相談にやってきてにぎやかだ。電話も頻繁にかかり、1人だけの秘書が忙しく対応する。

 「政府に任命される区議も居るが、非民主的で政府寄りの人が多い。私は民主派で、彼らとはいっしょにやらない。私たちも政府支援を受けて任命議員になる道をとることもできるが、そうしない。市民に投票で選んでもらうことが重要だと思っている。」と莫区議。

 彼女は大学を出てすぐ立法会議員の秘書になった。香港では多くの若者が政治に関心をもち、議員秘書の道に入る。そこで経験を積み、議員の仕事を学び、やがて自ら立候補する。彼女も2000年の区議選に出て当選した。「初当選の時、私は香港で一番若い区議だった」と彼女は誇る。区議選は4年に1回。2004年の選挙に再び立候補し再選された。「投票率は40%程度と低かった。私は3,000票でトップだった。」と莫区議。

 九龍城区議会には5つの委員会がある。交通運輸委員会、コミュニティー建設委員会、食物環境保健委員会、住居インフラ建設委員会、文化リクリエーション・スポーツ委員会だ。彼女は全委員会に入っており、交通運輸委員会では議長をつとめる。本会議も含め会議は毎週木曜の午後に開かれる。だれでも傍聴できる。

 1週間に1度「市民面会」(Meet-the-Public)の時間を設ける。彼女の場合、火曜日に朝10時から夜9時まで事務所をあけ、やってくる住民の相談にのる。相談は必ずしも政治的なものだけでなく、アパート修理その他生活上の苦情、相談も多い。生活保護の申請を手伝ってほしい、町内会(所有者法人、互助委員会)のため政府助成の申請を手伝ってほしい、などの要望にも対応する。

 「区議会の最も重要な機能は住民と政府の間の掛け橋になることだ。普通、住民は直接に政府に苦情をぶつけるより、区議のところに来る。そのため市民面接の時間も設けられている。住民からの要求を聞き、それを手紙などで政府諸機関に出す。改まってミーティングを持つ場合もある。私の場合、ここに事務所を構えているので、周辺の住民が住居問題などの相談によくやってくる。生活保護を受ける手伝いもする。ある意味でソーシャル・ワーカーの役割も果たしている。地域リクレーション活動のチケットをもらいに来る住民もいる。」

 小さな政府の香港でも、超過密の住宅問題だけは深刻で、政府が大々的に低家賃アパート建設に乗り出している。香港の住宅の約半分がこうした公共住宅だ。ほとんどが高層高密のアパートで、最近の公共住宅は40階を越す。この馬頭圍は1962年とやや古い建築だが、それでも20階程度はある。前述の通り5棟の団地で、計2,075戸が入る。住戸の床面積は27-54平米と狭い。

 公共住宅を建てるのは政府独立機関の香港住宅公団(香港房屋委員会、Hong Kong Housing Authority)だが、管理は非営利団体の香港住宅協会(香港房屋協会、Hong Kong Housing Society)が行う。馬頭圍にも1階部分、莫区議事務所近くに住宅協会の管理事務所があった。1948年設立の純然たるNPOだが、自ら住宅建設も行う巨大組織で、住民にとっては「政府機関」と映っているようだ。

 また、馬頭圍には棟ごとに住民の互助委員会もつくられていた。委員長は公選で、3年に1度の選挙。2ヶ月に1回程度の住民会議がある。活発でない互助委員会も多いが、馬頭圍の委員会は活発な方だという。事務所を訪れると「カラオケ会」の最中で、高齢者たち10人程度がバンド楽器類のまわりに集まっていた。「中国オペラ・カラオケを毎日うたっている」とのこと。互助委員会はこうしたリクリエーションが中心で、管理運営上の問題は住宅協会に任せたり、難しい問題が出てくると莫区議のところに来たりするという。

 その他、青少年向けのNPO、高齢者介護のNPOなど、多様な住民団体が団地の1階部分に集まっていた。

 「NPO/NGOと私たち(区議会)の違いは、私たちがパワー(権力)をもっているということだ」と莫区議は言う。「NPOは基本的にサービスを提供する。私たちは問題を解決するためのパワーを与えられている。交通を改善して欲しい、ここに横断歩道をつくって欲しいという時、住民はNGOでなく、私たち区議に言ってくる。実際に物事を改善する手段をもっているからだ。行政は区議の言う事を聞かなければならない。私たちから手紙が来れば必ず返事を出さなければならない。」

 議長をしている交通運輸委員会での最大の課題は、この地域の交通アクセスの改善だという。香港は地下鉄、九広鉄路など鉄道交通が発達しているが、九龍城地域は通っておらず、バス便も不便でアクセスが悪いと言う。確かに筆者も彼女たちの事務所に公共交通機関で行くのに苦労した。もう15年も鉄道を通す案を出しているが実現していない。特に今、地下鉄(香港地鉄公司)と九広鉄路公司の合併問題が浮上してすべてがペンディング状態だと言う。バス便改善の要求も多く、山手の裕福な地域住民からは、同地域から直接、香港島東部に渡れるバス便が欲しいとの要求が出ている。

 区議会の現在の仕事から見て何が課題か、という質問に対し、莫区議は、区議会の権限を強め自治権を強めるべき、という明快な展望を語ってくれた。「区議会はもっとパワーをもつ必要がある。かつてあった都市評議会、地方評議会を返還後廃止する時、政府は、かわりに区議会がもっと力をもつようにするから、ということを言った。確かに都市評議会は文化リクリエーションなどが中心だった。それに対し区議会は、今後より広い政策分野で諮問的役割を果たすと言われていた。現在、地域レベルの問題を地域で解決していくことの支援はできる。しかし、法律や制度をつくることはできない。生活費の問題ですね、じゃあ福祉局を紹介しましょう。アパートの修理ですか、じゃあ、管理事務所に連絡しましょう、というレベル以上の仕事を区議会はする必要がある。政治・立法にかかわれるパワーが必要だ。」
 

II.新界の伝統的自治組織

 

「先住民」の地域自治

 香港は、19世紀のイギリス植民地化の後急速に発展した街である。しかし、それ以前からこの地には中国の伝統的村落が存在していた。現在の香港でも、都市化している香港島、九龍半島の北には新界(New Territories)と呼ばれる農村地帯が広がっている。ここに伝統村落の痕跡が残り、それなりの自治が保障されている。

 基本法は「新界の先住民の適法的な伝統的権益は擁護される」と規定している(第40条)。「先住民」というのはやや大げさだが、こうした村民の伝統的自治が、近代的統治体制の枠外に維持されている。

 1959年の「郷議局法」(Heung Yee Kuk Ordinance)により、新界地域の諮問機関の役割をもった郷議局(Heung Yee Kuk)が設置された。香港政庁によれば、現在、香港には伝統的村落(indigenous villages)が584村あり、他に新興集落との混合村(composite indigenous villages)が15村ある[14]。これら各村から1-5名(多くの場合1名)の住民代表が選ばれ、この代表が郷事委員会(Rural Committee)を構成している。郷事委員会は現在、香港全体で27ある[15]。さらにこの27郷事委員会の代表によって構成されるのが郷議局である。郷議局は、新界地域における伝統的自治機関の性格をもち、慈善活動にも活発な役割を果たす。郷議局は、香港の最高立法機関である立法会に1名の選出枠が認められている。(IVでその歴史に触れる。)
 

中国伝統農村の研究

 第二次大戦後、中国社会の研究は、政治的事情で内からも外からも困難になった。日本の戦後の中国研究も、戦前・戦中に行なわれた満鉄調査部の華北農村慣行調査(1940-1944年)などの遺産の上に築かれてきた部分が大きい[16][17]。欧米諸国の研究者にとっても事情は同じで、中国大陸での現地調査はほぼ不可能になり、中国社会の研究と言えば、台湾・香港、そして東南アジアの華僑社会などに限定された。香港の中国社会研究で貴重な成果を残したワトソンらも次のように言う。

 「私たちの民族誌学的調査のあらゆる試みは、中国本土の他の地域で行えないのは明らかだった。当時のアメリカの人類学者には3つの選択肢だけがあった。台湾、香港、海外の東南アジアの華僑社会である。」[18、p.9]

 実は、これら3地域の中で、香港だけは中国本土につながっている。よく間違われるが、香港は単に香港島だけではなく、対岸の大陸部分である九龍地域がかなりの人口密集地域となり、さらにその外(北)に農村地帯である新界が広がっている。広東省(深セン)側から香港との境界(かつての国境)を渡るとよく分かるが、繁栄する香港に向けて広東省側から境界までびっしりと都市化が迫っている。この都市化は広東省側の方こそ圧倒的な広がりをもっている。香港側に入ると突然、新界ののどかな農村地帯が広がる。列車で行けば数十分で再び香港中枢の過密域に入るが、この香港中枢と深センの間に、奇跡的に牧歌的な農村地域が残っているのだ。

 戦後、この香港領内の新界は、西側に開かれた唯一の大陸部中国伝統社会として、活発な研究の対象となった。ワトソンらの中国農村社会研究はその代表的なものである。彼らは、1969-1970年、1977-1978年を中心に現地に住み込み、中国農村社会を内部から詳細に観察・研究した。その代表作『香港の農村社会』[18]は、宗族組織を中心とした村の自治を生き生きと描き出し、中国伝統社会の貴重な記録となった。その最初の方で彼らは次のように言う。

 「1949年の人民共和国建国以前は、中国皇帝国家の公的装置は、めったに県以下には伸びてこなかった。実質的に『地方自治』が存在し、これは地方によっては強力で地域化された血族集団の支配を意味した。小さく政治的に弱い父系氏族もあったが、小国家に類似するまで発達するものもあった。これら大規模な宗族組織(私は支配的宗族dominant lineagesと呼びたい)は、周囲を従属させ、市場センターを統括し、自らの民兵や自衛組織を維持した。」[18、p.19]

 武装力まで備えた地域社会には「自治」という概念以上のものを感じるが、いずれにしても、「アジア的専制」に完全に被われた中国社会、というイメージをかなり打ち破る認識である。ワトソンらは、こうした農村社会について、宗族制度、各種儀式、祭、死者への観念、民話、地主制度、男女の分離された生活、自衛組織などについて詳細な分析を行なった。
 
 

村の自衛組織

 例えば村の自衛組織の分析については、ワトソンらは次のように言う。

 「清朝末期、地域レベルにおける効果的な国家のコントロールがなくなったところで、中国農村社会はしばしば自ら安全保障と防衛を編み出さざるを得なくなった。皇帝の軍隊は地域の問題にめったに介入せず、ほとんどの地域行政長官は、駆使できる確実な警察力をもたなかった。したがって絶頂期においても、皇帝政府は遠隔から支配するだけだった。広東の多くの地域において、この空白は、自衛隊(zi wei dui)や巡丁(xun ding)と呼ばれる地域自衛組織によって埋められた。これらの住民組織は、少なくとも17世紀もしくはその前から地域レベルの政治に主導的な役割を果たしていた。中国北部では、至るところにある作物監視組織が同様の地域防衛インフラを提供した。」[18、p.251]

 中国南部の村々は、外敵(盗賊、海賊、反乱集団など)の他、村と村の対立もあり、それぞれが自衛して身を守った。ワトソンらは新界の2つの郷(新田 San Tin、廈村 Ha Tsuen)で、「自衛隊」「巡丁」の詳細を調査した。それによるとこれら自衛組織の主要な目的は、支配的宗族の統制力を維持するためのものであった。「泥棒を捕まえ財産を守ったりするのは副次的に重要」なだけで、「主要な任務は、ライバル集団が宗族領域を侵さず、周辺の村々が従属的な地位に留まるようにすることだった」[18、p.252]。自衛組織の規模は、郷、時代、及びリーダーの野心によって異なるが、1920年代、30年代の新田郷では最大42人(フルタイム)にまで拡大したという。廈村郷では12-16人の規模だった。貧しい農家の独身の三男、四男、五男などが雇われる場合が多く、年齢は18歳程度から51歳(定年)までだが、平均すると25歳程度だった。支配的宗族に属し、その村で生れたなどの資格条件の他、郷内のあらゆる集落から1人(大きな村落の場合は2人)のメンバーを出すなどの決まりがあった。1950年代初期まで自衛組織の事務所があった。そこが若者たちのコミュニティーセンターの機能を果たし、武道の練習などに使われた。銃器や伝統的な携帯武器もそこに保管され、自衛組織リーダーと宗族の長がその鍵をもった。

 自衛組織のリーダーは毎年、入札によって決められる。リーダーになりたい者は、年1度の宗族会議で、宗族に払う額を入札し、最も高い額だった者がリーダーに選ばれる。リーダーになれば各種料金(税金)を村人に課せる。そうした特権を前金で購入するとも言えるし、あるいは以後に徴収する税の一部を前払いで宗族に上納するという形とも言える。

 自衛組織リーダーを決める宗族会議は旧暦8月1日に行われる。族長が式を取り仕切り、長老が多数参加する。翌年元旦から新リーダーとその隊員が正式に職務につく。その数日前に盛大な宴会を開く。新リーダー、隊員たちがそこで宣誓し、長老たちが宣誓書に印鑑を押す。

 こうしたプロセスで、自衛組織は宗族の村組織からお墨付きを得るが、活動自体は自律性を保つ。リーダーが隊員を雇い、給料を払う。個々の自衛活動について宗族組織から意見されることはない。
 

城壁村

 この強力な村の自治を視覚的・建築的に示すのは、香港域内に70ヶ所以上残る「城壁村」である。村全体が堅固な城壁に囲まれ、規模は小さいがリューベックなどヨーロッパ中世自治都市を彷彿させる。この城壁村の起源をイップは次のように語る。

 「中国東南部に広く見られる城壁村は、主に海賊、盗賊、敵対的隣村に対する防衛のため建設された。沿海部はかつて国家の統治と防備から遠く離れ、香港地域はとりわけ海賊・盗賊の攻撃を受けやすかった。香港には元代から海賊の公的記録が残っており、盗賊は、第二次大戦直後でも散発的な襲撃が報告されている。これらの賊を抑えることを目的に(清による)沿岸地域からの住民退去政策(1662-1669年)が取られたが、うまく行かなかった。東南部沿岸は、1850年に最後の強力な海賊が降伏するまで、ほとんど2世紀に渡り被害を受けつづけた。この激化した海賊活動に対処するため、清初期、とりわけ沿岸部退去期の直後から、多くの村が城壁で囲われるようになった。今日にまで残る城壁村のほとんどが建設されたのもこの頃である。」[19、p.25]

 現存する香港領域内の城壁村の数には諸説あり、イップによればシウが48ヶ所[20、pp.222-223]、ルイが26ヶ所[21、pp.36-37]、ヒューゴ?ブラントが約50ヶ所[22、p.442]、カニが25ヶ所[23、pp.111-115]などの数字を出しているが、イップ自身は徹底した調査で71ヶ所を特定した。物理的な劣化とともに、周辺での都市化の進行が、城壁の存在をかき消そうとしている。イップは城壁村を次のように定義している。

 「周囲の環境から明確に囲われた地域を構成する防護され核化された集落であって、この囲いは、物理的かつ社会的なものであり、規則的な集落構造に反映されている。」[19、p.57]

 筆者もこうした城壁村のいくつか視察したが、現存する城壁村の多くは、人の暮らす現実の集落であることが印象的だ。城壁内の密集した街路や住居の中に人々の生活がある。長方形の城壁の一辺に見張り台のような構造物が立ち、その下に小さな門がある。まっすぐ続く主要路の奥に、宗族の祠堂がある。堅固な城壁に守られ寄り添って暮らす人々のコミュニティーに、中国農村自治の真髄を見る思いがした。
 
 

村の自治と国家

 前出ワトソンらは、村に残る神話・伝承の分析で、自治と国家との関係についても興味深い分析をしている[18、pp.423-441]。

 新界の村人たちの伝統的な観念では、国家というものは非常に遠い存在で、たまに見る代官、徴税官、兵隊などから想像されるあいまいな概念にすぎなかったという。例えば「文氏、氏の長老たちの証言によると、彼らの祖先は国家の役人から何の支援、助力も得ずに、その宗族領土に対し効果的な政治的・経済的コントロールを行っていたという」[18、p.436]。

 国家は通常は眠っている龍のようで、放っておけばいいものを、間違ってそれを起こしてしまうと大暴れする危険な存在、といったイメージで見られている。こうしたトーンの神話・伝承がこの地域の村々にはバリエーションを変えて多様に存在するという。

 このような村人の国家に対する観念は、人類学的に様々に説明される。強力な宗族は中央集権化された支配機構下では発展していくことはないという見方[24、p.17-41]もあるが、皇帝権力の支配が県より下まで浸透しないとするならそれも可能との見解[25]もある。また、こうした強力な地方権力は、広東など皇帝権力から遠く離れたところだからこそ成立したという認識も広く共有されている。

 ワトソンらの見解は、これらはいずれも事態の一側面であって、やはり宗族の村は国家の存在を前提にて成立したと見るべきであり、それとの複雑な相互関係の中で発展することを全体的に見なければならない、というものである。

 「国家は、珠江デルタ(訳注:広州を中心とする珠江下流一帯)の主要河川路とその関連諸施設を守ることに主な責任をもち、(17世紀の)沿岸退去令解除後の洗練された市場経済の台頭を支えた。近代的な宗族組織が完全な形で形成され、デルタ地域の最良の土地を支配するようになったのは、まさにこの経済ブームの時期(17世紀半ばから18世紀初め)であった。いくつかの宗族(例えば廈村の氏など)は、広州の外国貿易への開放 ?まさに国家権力によって下された決定だが? で生まれた経済機会を利用するため住民を組織化する装置だった。また、デルタ地域の多くの宗族は、塩田、カキ養殖、交通手段などの国家独占から利益を得ていた。…これらすべては、南部沿海地域に帝国コントロールが徐々に拡大することから来る間接的な恩恵であった。珠江デルタの河川路は完全に平定されることはなかったが、清朝中ばに商業と地域産業は興隆していた。文氏、?氏の情報提供者たちの清代の祖先は、国の役人とほとんどコンタクトがなく、モーリス・フリードマンによれば、しばしば宗族は村民に課税し、独自の裁判制度を有し、あらゆる形で国家に準ずる支配を身近で実現しようとしたという。遠隔からの支配は、こうした状況下で可能になった戦略であり、同様のことは、多くの清朝史学者たちが記録している。」[18、pp.436-437]

 なかなか複雑な言い回しであるが、要するに国家が基本をおさえ遠方から支配したが、それに乗じて宗族も発展し、もちつもたれつの複雑な関係の中で自治が成立したという中国伝統社会の力学を論じている。国家の力が及ばないところで自治が成立するのでなく、国家が徐々に浸透するところに、ローカルな自治が相互補完的に台頭するのである。
 
 

III.香港のNPOセクター

 

小さな政府・大きな民間セクター

 表3は、主要国についてGDPに対する政府支出の割合を示したものである。香港の約2割という数字は明らかに低い。ヨーロッパ諸国の半分、特に北欧諸国の3分の1程度であり、低い方のアメリカや日本と比べてもさらに低い。よく言われるように香港は「レッセフェール」的な自由市場経済を旗印に、政府の役割を限定してきた。「小さな政府」下で、公共サービスも非営利セクターに担われる部分が大きかった。

 香港の非営利セクターについては、政庁の政策研究機関(中央政策組、Central Policy Unit)から出されたレポート[12][26]が優れた概説書となる。サラモンらの非営利セクター国際比較プロジェクト[27]を基本におき、諸外国の既存研究をきちんと踏まえる。さすがに経済のグローバルシティでは、非営利セクターの研究も「グローバルスタンダード」にのっとるのか、と感心する。

 香港の非営利団体(NPO)は、税控除資格を得ている団体(Charitable Institutions and Trusts of a Public Character)だけで3,896団体がリストアップされている[28]。その他の団体を含めると、例えば前記[12]の独自調査は計16,662団体を数え、これを調査の母集団としている。人口700万の地域に1万6000のNPOというのはかなりの数と言えるだろう。例えば人口的に同規模の愛知県のNPO法人数は2006年1月段階で806団体、法人化されていない任意団体を含めた県のNPO調査[29]では、計約3,700団体を数える。

 また、香港のNPO有給職員はフルタイム換算で推計約258,300人おり、労働力人口3,267,000人の7.9%を占める[12]。これは、表4の通り、国際的にかなりの高率である。
 
 

小中学も私立

 香港のNPOセクターの規模をよく示すのは教育である。高校、大学はともかく、小中学校の教育はどこの国でも国や自治体が運営するのが普通だ。日本でも、明治5年(1872年)の学制以来、国家が教育に深く関与し、国民国家の形成に重要な役割を果たしてきた。ところが香港では、政府が本格的に教育に関与するのは1970年代以降である。1971年に初めて小学6年までの義務教育制度を導入し、1978年にそれを9年間に延ばした[12、p.9]。政府がお金を出し学校も新設するようになったが、特徴的なのは、資金は出すものの、運営は基本的に非営利セクターにまかせる方針をとったことである。2001-2002年度において、政府が出資し非営利セクターが運営する学校の割合は、小学校で82.6%、中学校で68.3%にのぼる[30、p.46, p.68]。他に政府援助なしの私立学校もあり、公立の学校は小学校で5.0%、中学校で6.9%にすぎない。日本でも非営利セクター(つまり私立)の高校、大学は多いが、小学校、中学はほとんどが公立である(国公立は小学校で92.2%、中学で93.5%[31])。香港政庁の教育費支出は565億香港ドル(2003-2004年度)で政府総支出の21%にあたり、決して少ない額ではない(日本の国、地方を合わせた学校教育支出は一般政府総支出の10.5%)。しかしこの金で政府が直接教育サービスを提供するのでなくて、非営利セクターを通して提供する。前述、公共住宅のところでも、政府機関の住宅公団が建てて民間の住宅協会が管理運営するというパターンを見た。NPOセクターをできる限り前に出すという姿勢は一貫している。
 
 

政府サービスの不備を埋める

 香港NPOセクターの歴史について、前記報告書[26]は次のように述べている。

 「いくつかの香港フィランスロピー活動の研究が示したように、香港では慈善的組織が1世紀以上にわたり“政府が置き去りにした空間を埋めるため”発展してきた。イギリスの香港植民地支配に特徴的な“慈悲深い無視”のシステムは、地域の福祉ニーズを満たすため地域非政府組織を動員するというもので、植民地時代初期から政庁は慈善的団体に重要な役割を与えていた。植民地政府は、宗族的・民族的・宗教的団体など伝統的地域組織の領域で慈善活動活発化を促した。その結果、保良局、東華病院グループ、カリタス、街坊会、地域宗族グループなどの組織が、1世紀以上にわたり活発に活動し、影響力を行使してきた。今日、内国歳入法88条により内国歳入局に認められた3,400の慈善的組織・信託の15%がこのような伝統組織である。」[26、p.11]

 イギリス風の放任的植民地主義の下で、昔からあった中国の伝統的村落自治機構やNPO的組織がむしろ動員され、近代的支配の中に生かされてきた。例えば、前出報告書[12]もまず、古くから中国の儒教的教育習慣により子どもたちが民間の教育を受けてきた伝統を語り、植民地化(1842年)と前後してキリスト教組織が学校や病院を設立する動きに触れ、さらに西洋医学に馴染まない中国人社会のための医療設備設立の動きなどを記す。1851年に、中国各地からやってきた人々のため死者を祀る「廣福義祀」が香港島西部に建立された。これは、すぐに臨時の遺体安置所に変わり、さらに死に至る人々の横たわる凄惨な場となった。中国人社会のための医療機関が強く求められるようになり、1870年、東華医院設立の法律が通った。翌年、裕福な中国系商人などの篤志により同医院が開設される[32]。香港近代史に大きな足跡を残す東華医院(現在の「東華病院グループ」Tung Wah Group of Hospitals)の発足である。
 
 

東華の歴史

 東華医院を単なる病院と思ってはいけない。今日、東華は香港における最古・最大のNPO組織であり、医療サービスはもちろん、教育、福祉から地域パソコンセンターまで総合的な地域サービス活動を展開している。2006年現在、香港全域約200の施設を運営し、1万人以上の有給スタッフを擁する。内訳は病院5、漢方外来診療所2、漢方外来診療研究教育施設4、女性クリニック2、男性クリニック1、高齢者在宅介護サービス1、高齢者歯科1、地域大学1(香港中文大学東華三院社区書院)、中学18、小学校17、幼稚園15、特別学校2、地域サービスセンター(福祉)130、高齢者サービスセンター40、青少年家族サービスセンター38、リハビリセンター35、伝統的サービスセンター17、博物館1(東華博物館)、地域パソコンセンター1(TWGHs Cyber World)である。2004-2005年度の総収入は49億香港ドルで、日本円にして約730億円。日本の人口数十万中都市の予算規模だ。NPOというより、日本の県庁所在地程度の自治体と考えた方がよい。収入源は政府から80.2%、料金収入11.5%、家賃収入4.3%、寄付3.7%、利息0.3%である。

 1871年の設立当初、漢方医学を中心とした中国人向けの医療活動を展開したが、中国人社会を代表する組織がない植民地香港で、東華医院は急速に「影の自治体」のような団体に変わっていった。この興味深い東華の歴史をエリザベス・シンの力作『力と慈善』[33]が克明に分析している。彼女は東華の並々ならぬ社会的地位を次のように何度も強調する。
 

 「東華は19世紀において、単に一医療機関であるに留まらず、香港及び海外の中国人に多彩なサービスを提供した。それらは多くの社会的・文化的意義をもつサービスであり、病院の理事たちを地域リーダーにのし上げるものであった。植民地政府に認知された最初の高度に組織化された中国系商人エリート組織として、病院理事会は植民地香港で決定的な政治的役割を果たした。一般の中国人社会と植民地政府との間を取り持ち、社会的な管理とコントロールの道具として、植民地政府の政策実施になくてはならないものとなった。」[33、p.ix]

 「公的な場で中国王朝礼服をまとう理事たちは中国人社会で大きな力を持ち、その理事会は、植民地政府に対するもうひとつの政府ではないかとまで恐れられた。ロンドン、広東、北京の行政もこの東華の活動にからみ、一度ならず中英外交上の懸案問題ともなった。その事業は社会の多方面に関連し、地域のもめごと、誘拐事件、移民詐欺、暴動、伝染病等、最も世俗的な事件にも、最もセンセーショナルな事件にも不可避的に巻き込まれた。」[33、p.1]

 「中国社会の地域リーダーのもうひとつ期待される役割は、篤志活動を組織し寄付を行う力である。東華は19世紀香港において、まぎれもなく最も包括的で価値ある福祉サービスを提供する機関であった。その香港を越えた慈善活動と基金集めの成功は伝説的となり、病院理事会の名声は地域内ばかりか中国政府から見ても高まり、相当の政治的社会的影響力があった。」[33、pp.98-99]

 「20世紀になってもその議長職は羨望されるポストであり、理事会は野心ある中国人の香港における社会的政治的上昇の道であり続けた。1933年段階でも、1929年議長の羅文錦卿が、その議長職を“中国人社会の非公式市長”にたとえる発言をしている。中国人商工会議所、保良局とともに東華は中国人社会を代表して語り行動し続けた。香港政庁は東華に敬意を払い、それを、社会を安定させる主要勢力と見続けた。」[33、p.209]
 

伝統的自治の潮流

 東華という非営利組織は、植民地の社会条件の中で、香港中国人社会の事実上の自治体のような組織になっていったわけだが、その機能の前身には伝統的な中国社会の自治組織があったことをシンは分析している。地方的な連携組織である「會館」、反清の秘密結社であり犯罪組織にもなった「天地会」、度量衡を定め商犯罪・紛争の裁定も行なったギルド組織、「文武廟」など地域社会の求心力となった寺院組織、町内会的な組織である「街坊」、地域の集会所である「公所」、そして東華医院の直接の起源になった「義祀」などを取り上げている[33、pp.12-22]。

 いくつかに解説を加えると、香港の文武廟は1847年に盧阿貴、譚阿才によって設立された。この2人は海賊組織とも関係があったらしいが香港で財を成した実業家であった。科挙の制度が普及した中国国内では文人が地域社会の尊敬を集める。村組織、宗族のリーダーなどが地域で指導的役割を果たす。しかし、そうした制度の及ばない植民地や海外の中国人移民社会では、財力がその社会における人間の地位を決定した。盧、譚らは財力により尊敬を集め、文武廟を背景に地域リーダーとなった。文武廟指導部は各地域の街坊組織にも浸透して、そのいくつかを影響下においた。東華病院の設立も積極的に支援した。

 街坊(Kaifong)も、呼称は様ざまだが中国南部に広く見られた地域組織で、町内会、自治会的な組織である。香港植民地にも一貫して存在し、第二次大戦後、香港政庁が街坊を「街坊福利会」に再編する方針をとって強化された。この辺の動きについては[34][35][36] などが詳しい。

 街坊は「公所」で地域問題を話し合った。公所も中国伝統社会に広く見られる集会所で、香港の場合、文武廟の隣にあった。地域内各種紛争の裁定といった裁判的な機能も公所で行使された。

 こうした様ざまな地域自治の機能が、1871年設立の東華医院に徐々に集約されていったとシンは言う。

 香港政庁は、なぜこのような中国人自治的組織の台頭を認めたのだろうか。これに関しシンは、ペイパーバック版(2003年)の序文で、初版(1989年)の論点を強化し、統治するイギリスにとっても仲介組織の存在は好都合だった、という論点を示している。

 クリストファー・マンの研究[37]に触れ、シンは、イギリスの初期の香港支配が、よく言われるように決して「小さな政府」でも「間接支配」でもなく、肥大政府による強権支配だったことを知る。香港の植民地政府は「大英帝国の中で最大規模の警察をもった最も肥大した政府のひとつ」であり、「民間ヨーロッパ人住民の2倍の数の軍隊」を有し、しばしばそれを政策実行のため用いた。とりわけイギリス支配の最初の30年間が、むき出しの植民地支配と、それに伴う多くの混乱に満ちた時代だった。こうした初期植民地経営の分析から、シンは、マンに同意する形で、東華医院を次のように位置づける。

 「簡単に言えば、東華医院の設立までは直接的・抑圧的な支配が一般的であったが、それ以降は、東華医院の存在により、政府の支配手段をより説得的な社会的運営と倫理的介入でおぎなうことが可能になった。その結果、直接・間接両方の支配形態が混在するようになった。」[33、p.xii]

 自治的組織をもつことは中国人社会にもよいことであったが、同時に統治側にも都合がよかった。自治組織が決定的な抵抗組織にならない限り、支配と住民の間が有効に仲介されるし、効果的で安上がりの統治が可能になる。住民自治のこの両面的な性格は、見落とされがちだが、改めて確認しておく必要があろう。
 

民間団体の擬似政府機関化

 レッセフェール型香港社会では、民間市民団体と政府的自治的機関の間を揺れ動く組織は他にも多い。例えば「ボランタリーな団体が、その中国人社会における影響力と指導的役割にかんがみ、法に準拠した公式の機関に変えられることがしばしばある。」とリー・ミングクアンは言う。「そのことが当該団体にさらなる地位と権力を与えるとともに、植民地支配の軌道に組み込んでいく契機ともなった。東華医院、保良局、地区警邏隊などがよく知られた例である。このシナリオの異様な例外は郷議局である。政府は1957年にこれを一旦非合法化し、次いで条例(1959年郷議局条例)で公式に郷議局を認定した。そして、今ではよく知られる農村の声を代表させる階層型制度の頂点に郷議局を位置づけた。」[38、p.596]

 ここに出てくる例でまず保良局(Po Leung Kuk)は、1878年に設立された青少年保護のためのNPOである。当時大きな問題だった女性、青少年の誘拐、人身売買の問題に取り組むため中国人社会からの要求で条例により設立された。保良局は、現在でも青少年保護、サービスの老舗として香港域内に20の施設をもち、青少年サービスセンターから小中高校、地域短大まで多様な地域教育的活動を展開している[39]。

 地域警邏隊(District Watch Committee)は、中国人社会にあった私設警察または自警団的な組織を1866年ビクトリア登録条例により半ば公的な機関として制度化したものである。地域住民の推薦により総督が地域警邏員(Chief Watchman and Watchmen)を任命できるとした。19世紀の植民地香港では、警察がイギリス人、インド人を中心に編成され、中国人社会の治安対策は不充分だった。この不備をおぎなうため、裕福な中国系商人を背景に別系統の警察が組織化されたのである[40]。

 そして最後に、異色な歴史を歩んだ郷議局である。リーが同論文[38]で主要に扱うのもこの郷議局だ。郷議局は、新界地域の伝統的自治機構をモデルに植民地体制の中につくられた先住民自治組織であった。
 
 

郷議局

 郷議局(Heung Yee Kuk)の起源についてリーは次のように言う。

 「新界地域を(訳注:1898年に)統治しはじめたイギリス政府の当初のアプローチは、『できる限り介入せず、現存している自治手法を見込みある限りにおいて新しい条件の中に適合させていく』というものだった。そこでイギリス政府は、自らの新界統治機関に並行して、羅・洞・郷(lo-tung-heung)階層制をモデルにした先住民自治システムを設置しようとした。全域が、地域長老集団によって代表される48の小区に分割された。これら48小区の上に8つの区がつくられ、それぞれに簡単な事件を扱う裁判機能が与えられた。」[38、p.598]

 この制度はあまりよく機能しなかった。そこで新しくつくられたのが郷議局だ。だから郷議局は「羅・洞・郷」システムとは別もの、というのがリーの主張だが、郷議局がこうした伝統的自治機構からの何らかの影響を受けていることは否定できない。実際、郷議局を、「羅・洞・郷」システムの頂点にあった東平局(Tung P'ing Kuk)の近代版だと思う人が多いという。

 1924年8月に、新界102人の長老が大埔墟の文武廟に集まり、郷議局の前身となるCommittee for the Keeping of the People's Property in the Leased Territory of Kowloonを設立した。「新界住民の土地を守る会」といった意味で、実態は「プレッシャーグループ」(圧力団体)だったが、同年11月には、より穏健なNew Territories Agriculture, Industry and Commerce Research Association(新界農工商研究協会)という名称で政庁に登録している。設立会議では、新界住民に課される予定の住居税に全会一致で反対し、政庁に抗議していくことなどが決められた。会の憲章で、慈善活動を行うこと、地域の利益を守ること、悪習の除去、地域問題の改善などを行うことをうたった。教育にも参入し崇徳小学校を設立した。しかし、やはり「土地を守る会」という名称が、共産主義者ではないかとの誤解を招き、学校を視察した総督からの助言もあって、1926年「郷議局」と改称した。

 「だから郷議局は、プレッシャーグループから出発してボランタリーな団体に組織変えしていったのだ」とリーは言う。「それは、多くの海外華人社会のコミュニティー組織と多くの点で似た構造的特徴をもつようになった。それらと同じように郷議局は、コミュニティーが外部の政治的権力と関係しはじめるところから生れた団体である。そして、形成の過程で組織の性格を少しずつ変え、政治的に政府に受け入れやすいものになり、コミュニティー成員にも役立つものになっていった。」[38、pp.600-601]
 

政府との対立

 しかし、第二次大戦後、郷議局は政庁側と対立し、一旦は非合法化されるという道を歩む。

 戦後、新界にも開発の手が伸び、住民の意識も変わっていった。政庁は、新しい時代の農村部世論集約機関として地域ごとの郷事委員会(Rural Committee)の制度を1950年代初めにつくる。新界約600の村が代表(Village Representative)を選び、彼らを核とした選挙人集団が27(現行)の郷事委員会の委員(各十数名程度)を選ぶ。郷事委員会は必ずしも法的に厳密に規定されておらず、あいまいな組織だったが、一旦これが導入されると、次第にかつての長老農村政治の舞台として利用されるようになった。

 こうした郷事委員会の台頭に郷議局も敏感に対応し、1955年の規約改正で、各郷事委員会議長が職権で郷議局指導部に加わる規定を入れた。これにより郷議局は郷事委員会や村代表との競合・対立を回避し、むしろその上位的組織としての立場を確保する。「この絶妙な措置により郷議局は、農村の声を集約する制度内で、良くも悪くも最も高い地位を占める組織になっていった」[38、p.606]のである。

 しかし、郷議局と政庁の間の土地政策をめぐるわだかまりは完全に消えたわけではなかった。1956年の九龍暴動を受け、政庁は団体取締り強化を目的に協会条例(Societies' Ordinance (Amendment) 1957)を制定するが、1957年6月末、郷議局にも同法に従い団体登録することを命じた。確かに民間組織ではあるが、新界の伝統村落をまとめる位置に居た郷議局が一般団体扱いされたわけである。郷議局は登録を拒否し、郷議局の統制を目的とした措置だと政庁を非難する。このため政庁は8月、郷議局の認定を取り消し非合法化する。1958年、郷議局は政庁に訴訟を起こす。

 伝統的自治組織が近代的支配と対決したのである。しかし、内部分裂もあった。政庁批判に動いたのは伝統的農村部の代表たち(伝統派)で、ツェン湾など開発の進んだ地域の代表(ツェン湾派)はすでに郷議局を脱退していた。各郷事委員会にも協会条例による登録命令が来たが、伝統派の郷事委員会は拒否し、ツェン湾派は登録した。政庁はこの一連の内紛をとらえ、混乱した郷議局はもはや新界住民の声を代表してないと主張し、それが認定取り消しの理由ともなった。その後政庁は、ツェン湾派を中心に建て直しを図り、1959年、新しい郷議局条例を制定して郷議局を再興した。

 一般にこの時の混乱は、“郷議局の醜い内紛に政庁が仲裁に入り、組織を復旧させてあげた一件”といった風に理解されている。実はそうではなく、政庁は、開発に好意的な近代派に肩入れし、伝統派を追いやったのだ、というのがリー論文の主張である。郷議局を非合法化すると同時に、政庁はツェン湾派郷事委員会の連携組織づくりにゴーサインを出した。伝統派の土地政策批判姿勢を政庁が問題視していたことを示す史料もいろいろ出ている。だから「郷議局のケースを調べると、政府は‥‥本当に受動的で中立的な立場だったのか、と疑問に思う。」とリーは温和に指摘している。さらに彼は組織内力学にも触れ「政府がツェン湾派を用いて郷議局をつぶしたとすれば、ツェン湾派も、政府を利用して権力に復帰したと言える。1959年から10年間、郷議局議長は、おそらく一人の例外を除いて、すべてツェン湾派の中心人物だった」[38、p.606]とも言っている。

 事態はかなり複雑だったというわけだが、私たちはその点を深く追求する必要はないだろう。少なくともここで明らかなことは、伝統的自治は近代的統治に直面して、対立しながらも自己を変え近代の中に生き延びること。近代的統治は伝統的自治を徐々に取り込み統治を効果的なものにしていく。その興味深い過程がこの事例でも進行したのである。
 
 

IV.NPOと自治体の間

 

行政を取り込む

 レッセフェール的な香港では、政府の役割が小さく、民間非営利団体(NPO)の果たす役割が大きい。その中で、かなりの程度自治体的役割を担う民間団体事例もあったことを見て来た。住民自治が強いアメリカやヨーロッパの自治体制度で、しばしば自治体が市民団体的様相を帯び、両者の境界が曖昧になる様を別のところ[41][42]で分析したが、そのような境界領域は、日本[43]を含め東アジア世界でも起こりえる。特に香港のような所に特徴的に現れることを本稿で示し得たかと思う。

 一般に日本では、自由な市民活動が行政に「取り込まれる」ことへの懸念が強い。むろんそれには当然の背景があり、かつて自警団が外国人排斥の先頭に立ったり(例:関東大震災時の朝鮮人虐殺)、町内会・部落会が戦時の動員体制に組織されてしまったことなどが、苦い記憶として人々の脳裏に残っている。占領軍は町内会を禁止したし、新憲法の第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」は戦争中までの行政による民間団体抱え込みをけん制する条項である。

 このような歴史的文脈の中で、NPOが行政からまったく独立し、もしくは対抗し、行政による取り込みを極力排除しようとすることは根拠のないことではない。しかし、行政とNPOとの間には多くの可能性がはらまれていることも忘れてはならない。とりわけ、NPOの側が「行政を取り込む」ベクトルの可能性に注目する必要がある。自治体・行政は決して市民から離れて市民に対立した組織というものではない。自治体、少なくとも民主主義社会の自治体とは、市民の意志を代表する組織であり、市民の最大多数の意志の表出そのものでなければならない。その意味で自治体はまさに市民団体なのであり、NPOと自治体の違いが曖昧になり、この境界線上で実験的活動が多様に展開するのはむしろ当然のことと言わねばならない。自治体と市民がまず完全に切れていて、その上で「協働」を考えるという発想も、そもそもの出発点が間違っているかも知れないということを考える必要がある。
 
 

市民運動から自治体機関

 実は、市民=NPOが自治体機構を形成するという「下から上」のベクトルは、現在、市民社会論の先端で活発に議論されている問題でもある。パットナムの「ソーシャル・キャピタル」論をめぐる議論でもそれが論点になり、 パットナムの言うとおり第二次大戦後のアメリカで伝統的市民組織は確かに衰退してきたが、それに変わってアドボカシー型の新しい市民運動が生れ、それが公的自治体機構を構成してより高いレベルの市民社会を形成するというモデルが主張されている。

 例えばスティーブ・ジョンソン[44]は、アメリカの都市として街づくり、環境保護などの点で例外的に著しい成果を収めたオレゴン州ポートランド市を対象に過去40年にさかのぼって市民活動の内容を分析し、新しい市民運動、したがってまた新しいソーシャルキャピタルの創出モデルが生れていると主張する。

 「ポートランドにおいて1960年から記録された500のコミッション(commission)、理事会(board)、市民諮問委員会(civic advisory committee)、実施委員会(task force)は市民的生活の欠かせない部分である。ポートランドの自転車運動の事例研究で示された通り、挑戦的なグループは市民セクターから消える時もある。しかしそれは、目的を達成できなかったり受け入れられなかったからではなく、まさに成功したから消えた。非営利・非私有の団体の浮沈だけを対象にした調査は、こうした機関化(institutionalization)プロセスを見落としている。そして、団体がひとつ減少することを市民インフラの衰退ととらえてしまう。しかし、ポートランドの新しい交通政策を積極的に機関化していった団体「自転車ロビー」は、自転車活動家たちが自転車道タスクフォース(実施委員会)の設置に成功した時消えたのである。」[44、p.308]

 アメリカには、市民参加の機関としてこうした「コミッション、理事会、市民諮問委員会、実施委員会」がある。日本の「審議会」とは違って完全に公開であり、それどころか会議の中で市民が自由に発言できる。関連部局の実質的な政策決定の場になっていることも多く、行政に大きな影響力を与えることができる[45]。担当部局長の任免権まで行使できるコミッション、理事会もあり、その場合、そうした組織は部局の指導部・本体であって、部局の官僚機構はコミッションや理事会の事務局の位置づけとなる。

 ジョンソンはこうした市民参加機関(civic body)をポートランドの過去40年間の歴史に跡づけ、活発な市民運動団体がその目的の達成により、こうした市民参加機関に発展的解消していく事例を多く見出した。つまり市民団体が公的自治体機関に姿を変えていく。NPOが民間市民団体として自由に活動するのも大切だが、それが制度として実現し現行行政機構の中にしっかり組み込まれるのはもっと重要である。上の事例で言えば、自転車交通の唱導を訴えて活動した「自転車ロビー」という団体が、自転車道実施委員会に公的機関化し、恒常的に自転車道の整備や自転車通勤支援を組織するようになる。それは運動目的の実現である。世直しと社会変革の実現の中身である。

 こうした「機関化」を含む活発な市民活動を生んだポートランドを、パットナムも評価している。彼の最近著[46]で、事例分析の終章を「ポートランド:市民参加のポジティブな疫病」(Portland: a Positive Epidemic of Civic Engagement)と題して詳論している。ポートランド都市圏は1970年代にはアメリカの他都市圏と変りなかったのに、20年後のポートランド郊外は(パットナムの基準で)2倍から3倍、ポートランド市プロパーは3倍から4倍、より市民的(Civic)になっていた。例えば1974年に21%のポートランド市民が街や学校についての公的会議に参加していたが、1990年代には、これが30-35%にまで上昇していた。他の同規模の都市は、同時期、22%から11%に減っていたのである。

 ジョンソン自身も積極的にかかわったジョンソンクリーク水系の環境保護運動では、もともと政府機関の一部であった流域監視機構を、市民主導の監視組織に変えた事例が出てくる。

 「ジョンソンクリーク流域評議会(Johnson Creek Watershed Council)は行政機関によって設立されている。したがって、長年それは市民社会の一部でなく政府の一部と見なされていた。初期の評議会が苦労したのは、その擬似政府機関的な起源と、流域の汚染状態を監視・改善するという部外者的挑戦者的団体のミッションの間で危ういバランスをとることだった。しばしば評議会は、それを設立した政府諸機関の役割又は仕事内容に対決することを強いられた。それは長年、非営利法人資格がなく、15の政府機関、NPOの代表から構成された組織であった。その理事会は、流域住民ボランティアに加えて、政府機関、非営利環境団体の有給スタッフで構成されていた。それは混成的な団体であり、実質的には政府につくられたボランティア会員制団体であった。これは、組織タイプを分類する際の混沌を示しているというだけでなく、典型的な機関化プロセスを示しているとも言える。自由な共同活動が、地域社会における市民的事業の進め方として機関化されていくプロセスである。」[44、pp.308-309]
 

ソーシャル・キャピタル論

 ジョンソンは、パットナムの「ソーシャル・キャピタル」論を批判してもいる。代表作『一人でボウリング』[47]でパットナムは、アメリカの社会的関係性が急速に瓦解し、例えば1970年代初期から90年代の間に、社会インフラ(ソーシャル・キャピタル)のまるまる3分の1が失われたと主張する。しかしジョンソンによれば、パットナムは市民団体を見る際、同好会・同窓会的な過去の団体を中心においており、現在急増しているアドボカシー団体や特定層の権利擁護団体などは、社会の関係性を弱める否定的な存在にとらえている。確かにそれらは専門化が過ぎソーシャルキャピタルづくりの障害のように見える。しかし、それは市民を政治に参加させる力をもち、市民諮問委員会など自治的機関に転化していく中で、別次元で広い社会関係性をつくりだす、とジョンソンは主張している。

 「私が主張したいのは、今日、市民のより広い層が市民活動、少なくとも政治的参加という意味での市民活動にかかわっているし、挑戦的なグループ、社会運動組織、分野別・層別グループがより多くの人々に活動への参加を広げてきたということだ。離れ離れに活動している分野別グループは確かに市民生活に過度の複数主義的混迷を生み出すかも知れないが、それは、政府をバックにした市民諮問委員会など、多分野間の市民的対話を生む新しい市民機構によって対抗的バランスがはかられるのである。…ポートランド自転車運動やジョンソンクリーク流域に関する事例は、アドボカー団体の社会的ネットワークのつくり方も示している。ジョンソンクリーク流域で水域修復に参加した過去10年間6000人の市民は、手をたずさえ木を植え、休憩時、あるいは仕事中額の汗をぬぐいながら、流域管理の政治の仕組みなどについて議論した。こうした市民事業プロジェクトは、パットナムが伝統的市民団体によって効果的に提供されるとした効果的市民参加や豊かなソーシャルキャピタル環境と同じものを提供する。」[44、p.315]

 ジョンソンの「機関化モデル」は、市民が自治体を取り込むひとつの例である。コミッション、理事会、市民諮問委員会、実行委員会などの形態をとり、アドボカシー志向をもった市民団体が市民的自治機関に転化していく。むろんコミッション、理事会などについては、つくり過ぎによる弊害(行政機構の無駄)も指摘されている[48]。何事も、ひとつのモデルが万事解決、という一面的発想は控えるべきだろう。しかしこれは、アメリカの街づくり先進都市が生み出した新しい市民の自治機構形成の一モデルであることに間違いはない。私たちに必要なことは、こうした世界各地で試みられている市民的自治機関の試みをできる限り広く収集して学び、自治体と市民の境界をさらに「あいまい」にし、溶解し、市民的でかつ自治体的な混成活動モデルを一貫してつくり出していくことだろう。そのために、特に東アジアの文脈から見るならば、レッセフェール香港は極めて興味深い諸事例を提供している、というのが本稿の結論である。
 
 

参考文献

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