国内植民地論と「地方」

  岡部一明(1989年)


国内植民地とは

 「国内植民地主義」(Internal Colonialism)という言葉は、一九五〇ー六〇年代にアメリカで生まれた。アフリカの民族解放闘争に力づけられた米国内黒人運動が、自らを米国内植民地人民と規定した。最初は単なるレトリックであったが、一九六二年にハロルド・クルーズが「国内植民地主義」(Domestic Colonialism)という言葉で理論化した1)。六四年にはケネス・クラーク『ゲットーの若者』が、ニューヨークの黒人スラム・ハーレムを植民地として描いた2)。そして黒人運動の画期的な書『ブラック・パワー』3)が、国内植民地理論を縦横に駆使するに及んで、その影響は米国マイノリティ運動内部に定着した4)。また、黒人公民権運動の中心となったSNCC(学生全国調整委員会)の委員長・S・カーマイケルもこうした議論を展開し、運動の中に広めた5)。

 「国内植民地」論は、言葉から明らかなように、国内少数民族への抑圧・差別を、植民地主義が国内に向けられたものだとする見方。「アメリカの人種的マイノリティは、古典的植民地主義と同じような社会経済的構造の中で低開発と従属に陥らされており」「彼らの状況は国内植民地の状況と本質的に同一のものである」6)ということだ。世界資本主義の第三世界諸国支配と同様、ヨーロッパ系の人々が国内(この場合アメリカ内)の支配的立場につき、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ系の人々が国内植民地住民となる。国内植民地は、奴隷制や契約労働制など時に前近代的な隷属の下にも置かれるが、通常、法的には平等で、社会的差別によって実際的な不平等下に置かれる。支配民族の自由な労働と、植民地住民の段階的な不自由労働という二重構造が生まれる。文化的にも支配民族の文化が範型となり、国内植民地住民の文化は劣ったものとされ、同化の力がはたらく。単に制度的な差別だけでなく、それが植民地住民内部のメンタリティーにまで侵入し、文化的抹殺の過程が生じる。

 植民地とは普通、外部(国外)につくられるものである。したがって植民地は、いかに帝国が自国領と主張しても、もともと外部地域であったことは隠しようがない。植民地という言葉がそのような外部性をすでに包含している。ところが今、内部(国内)にある植民地が語られている。「国内植民地」は語の矛盾だ。あるいは国内植民地は、植民地であること、つまりもともと外部地域であったことが忘れ去られた地域・集団である。この言葉を使う人々は、実はその「国内」が実は征服された「外部」であったと主張している。事実を表す語の上に幻想の語を重ね、この言葉は矛盾をはらみ、これまでの論理枠組を破壊する。

古典的植民地との違い

 国内植民地は古典的な外部植民地に近似するが、異なる点もあり、それが国内植民地の解放の戦略に困難をもたらす。まず、古典的な植民地では現地住民がその地域内で圧倒的多数派であるのに対し、国内植民地人民は、多くの場合少数派であり、社会に分散していることが多い。また、国内植民地住民は、移民や外国人労働者、あるいは米大陸におけるアフリカ人奴隷などに見られる通り、自らの土地ではなく別の土地に移動させられ、そこで支配に服している場合がある。これらの条件はいずれも、国内植民地人民が、その地において独立する(独自国家を建設する)という古典的な植民地解放戦略をとりにくくしている。国内植民地論の論客、ロバート・ブラウナーは次のように指摘する。

「伝統的な植民地主義においては、植民地化された“原住民”は通常人口の大多数を占めており、彼らの文化は、白人ヨーロッパ人のものより下位に置かれてはいたが、全土に広がっていた。米国における第三世界成員は人口的に白人より少数化されており、アングロ系アメリカ人の文化的規範が社会を支配している。無論これは、歴史的にメキシコ系アメリカ人が決して真の文化的マイノリティにはならなかった西南部においてはやや真実性を欠くが。アジア・アフリカの被抑圧大衆は、自らの土地で植民地化されるという相対的な“利点”をもっていた。米国においては、より全面的な文化支配と数的な少数性が被植民地人民の集団的一体性と彼らの文化的政治的自決の可能性を弱めた。」7)

なぜ一応の市民権が与えられるか

 また、古典的な植民地住民は本国市民から区別された制限的地位を与えられるが、国内植民地住民は多くの場合その国家の国民であり一応法的な市民権を与えられる。が、むろんこれは、彼らが少数派であり、公的な権利を与えても社会の基本構造を覆す勢力にはならないことを多数側が知っているからだと、ジョン・リウは指摘する。

 「古典的植民地主義の状況においては、被支配者は数的に多数派であることから、彼らに対して植民者は公式な市民的権利を付与しない。植民地化された集団の大きさが形式的な平等の付与を妨げる一方、それは独立国家を建設する基礎を築いている。しかし国内植民地的状況においては、被植民地人民は形式的権利を付与される。しかし、彼らが数的に少数派であり植民者の政治システムを彼らのために有効に活用できないため、これらの権利は実質的な法的権利とはならない。その法的平等は、決して被植民地人民の植民者に対する経済的政治的従属を変更することはなく、かえって植民者の権力独占を被い隠しがちである。被植民集団の規模はまた、古典的植民地主義と場合に比して、独立と国家建設の達成をより困難なものとする。」8)

 国内植民地住民が少数派だから公的権利が付与される、ということは、彼らが多数であれば、徹底した権利剥奪の体制が取られるということでもある。ブラウナーは、ローデシアや米国西南諸州を例に出して次のように言う。

 「国内植民地状況においてなぜ植民者は被植民者に形式的な平等を付与し得るのか、についての主要な理由は、単に後者は植民者の政治的経済的ヘゲモニーに対する数的な脅威にはならないという事実によっている。古典的な植民地においてそのような平等を与えることは追放させられることに等しい。これが、まさに、ローデシアが黒人多数派の統治を許さない理由である。米国においては、ガダループ・ヒダルゴ条約の一項目が、西南領土への速やかな州地位の付与をうたっていたにもかかわらず、その後六〇年を経るまでニューメキシコとアリゾナは州に昇格させられなかった。この遅滞の明らかな原因は、ニューメキシコだけでも、米墨戦争の終結時に、すぐ市民権の取れる五万人以上のメキシコ人居住者(訳注:絶対多数)が居たことである。」9)

米国は国内植民地に気づきやすい

 国内植民地論は、国内マイノリティを植民地とのアナロジーでとらえる理論だ。それによって、マイノリティ問題をより広い視野から位置付けるのを可能にした。米国内マイノリティがこのような理論が生みだせた背景には、米国特有の歴史地理事情も存在する。

 米国は国家建設が新しいため、その国家領域内の地域・人民が植民地であった事実を比較的把握し易い。例えばフランスのブルターニュや日本の東北を中枢部の植民地と認識することは難しく抵抗も伴うが、一〇〇年ちょっと前に米国に併合された米国西南部諸州がメキシコ領への植民地拡大だったことを知るのは容易だ。その植民地住民たちが徐々に内国化され、ヒスパニック、ラティノなどとして米国内マイノリティになった。先住民族のインディアンたちが征服された植民地人民であるのも明確だ。外部から導入された黒人は、ヨーロッパ列強のアフリカへの植民地主義で捕らえられた人々が奴隷貿易を経てアメリカに連れてこられた。植民地主義の残酷な被害者であることは明瞭だろう。アジア人など他の移民者たちはある程度自分の意志で移住してきており、植民地主義との関係は必ずしも明確ではない。しかし、彼らも他のマイノリティからのインスピレーションを受け、自らを国内植民地ととらえるようになってきた。

 長沼秀世は、「国内植民地」の観点から一八八〇年当時の米国の植民地の大きさを計算し、「本国」が面積四五六平方キロ、人口四四二六万人、「植民地」が面積四六二万平方キロ、人口六二五万人という数字まで出し、米国が「本国に匹敵する植民地をもった帝国だった」ことを明かにしている10)。そのような帝国が外部植民地を徐々に内国化し、その植民地人民を国内マイノリティに変えていった。

国内植民地論から見た「地方」

 米国では植民地主義から国内植民地が生まれる経緯が明瞭だが、旧世界ではその記憶があいまいになっている。しかし、ここでも「地方」は多かれ少なかれ国内植民地であり、その周辺を明らかにすることにより、旧世界でも、マイノリティ分析視覚としての国内植民地論を鍛えていくことが可能だ。

 日本の地方経済をみてきた安東誠一は、中央による地方支配を第三世界支配とのアナロジーでとらえ、次のように言う。
 「日本の大企業を頂点とする生産体系は、東京などの大都市にその中枢機能を置き、周辺的、限界的な生産力として地方があり、そのまた外側にアジアがあるという、一点集中型の構造をつくってきた。いいかえれば、アジアは日本の企業にとって地方の延長にすぎなかった。」「日本の企業は、日本の国内に財政の働きによって維持される低開発国をもっている、といっても的はずれとはいえないであろう。この“国内低開発国”は、国外の低開発国に比べて賃金水準が高く、公害対策費用もいくぶんかさむが、地方では国民経済間の種々の障壁もなく(自治体に保護財政の権限はない)、輸送コストも政治的リスクも小さく、また言語・文化のギャップも極小で労働慣習も同一であり、社会的摩擦の小さな安定した存在なのである。しかも、投下された財政資金や賃金の効率よい還流をとおして、それ自体が豊かな市場である。」11)

 近代民族国家はその形成時点で、すでに内部に、屈伏させられた周辺文化と周辺民族をもっていた。近代日本国家の形成時において、沖縄とアイヌモシリ(北海道)が領土内に取り込まれていたし、和人圏においても東北をはじめ、首都圏と異なる地域性をもつ文化圏は東京の支配下に入っていた12)。以後の近代日本の資本主義化は、さらなる外部への植民地進出とともに、こうした国内植民地の収奪の歴史であり、この過程で地方は、産業をつぶされ、労働力を引き抜かれ、気まぐれに立地された石油・鉄鋼などの装置産業も、産業構造転換の波の中で簡単に統廃合されていった。

 産業は東京に一極集中し、例えば東京圏(東京、神奈川、千葉、埼玉)と地方圏(それ以外)の取り引きを「貿易」という形でみると、一九八六年現在、東京圏が八兆六七八〇億円もの出超であり13)、これは、日本国のアジア全域(中東を除く)に対する貿易黒字の四ー五倍にあたる。「地方の時代」のかけ声にもかかわらず、地方と大都市、特に東京との経済格差は拡大している。一人あたりの県民所得では、東京圏を一〇〇とした場合、地方圏(東京、大阪、名古屋圏以外)の値は、一九八〇年の七六から八五年の七二に落ちた14)。一九八六年度の一人あたりの県民所得は、一位の東京と最下位の沖縄で二・一〇倍の格差があり、同一方式で統計を取りはじめた七五年以降最大となった15)。こうして地方は資本主義中枢部の発展の後背地となり、アジア諸国などと企業誘致を競いながら16)、国内植民地としての地位に甘んじる。

 工業化・資本主義化を進める制度としての民族国家は、通常その最大の工業都市を首都とし、政治・経済の中心とする。国民経済の形成を任務とする民族国家は、この首都を中心とした全国の同化政策を進める。異なる人が共生することを学習していない社会にとって、経済活動効率化には、共通の言語、行動様式・価値観をもつ均質な市民社会をつくることが不可欠の条件となる。首都の文化・言語が範型とされ、それが全国に押し付けられる。日本の場合はいわゆる首都圏、つまり和人圏のうちの東京地方、フランスにおいては北部のオイル語(現在のフランス語)圏、特にパリを中心としたイル=ド=フランス地方、英国(UK)であればイングランド、米国であれば(この場合は地域性ではなく)白人ーアングロサクソンープロテスタント(WASP)の文化が範型となって全土を支配する。公教育が言語・文化の中央への一体化を進め、新聞・テレビなどのマスコミがこれを補完する。中央のものでない文化と民族性は抑圧・同化され、同化しきれなければ国内第三世界として差別される。

地方の自立

 地方という国内植民地の解放は、国外植民地の解放と同じく、政治的独立か、あるいはそれが非現実的なところでは、自治権の拡大といった戦略がとられる。そこでは、例えば自治体が国家にかわって主導性を発揮し、自立経済建設の役割を担える。例えば安東は、地域の自立経済強化のため自治体の役割が極めて重要とし、大規模自治体と小規模自治体に分けて次のような方向を提示している17)。

 まず大都市、中都市や産業都市では民間の活力にある程度期待できるので、「民間の経済主体の活動を自治体の戦略にもとづいて誘導あるいは必要な規制を行うコーディネーターとしての役割、あるいは資金、情報等で側面から支援していくサポーターとしての役割」を果たす。そして小都市、農山漁村では、これだけでは不充分なので、「人材、資金、情報の最大集積拠点である自治体(そして農協、漁協、森林組合)」が自ら新しい生産活動の創出を行なう必要があるとする。この過程で、特に分権的財政の確立が不可欠だとする。「国に権限、財源が集中した現行の行財政システムの下では、自治体がその条件と意志に応じた戦略的な政策に腰を入れて取り組むことはできない。自治体の潜在的な活力を引きだし、地方経済の発展の機会を拡大していくためには、行財政の分権化が不可欠である。行財政の自主権の確立のためには、産業政策をはじめ、地域の発展にかかわる政策の権限の大幅な移譲と、補助金の一般財源化など自主的な財源の強化が必要である。」18)

植民地の5類型

 植民地は、その生成プロセスから5類型に分類できる。まず、最も一般的な植民地の形、つまりこれまで通常考えられてきた古典的植民地は、少数の征服集団が侵略によって多数の被征服集団を支配する形態である。イギリスのインド支配、日本の朝鮮・台湾・満州支配など、近代帝国主義のアジア・アフリカ植民地支配のほとんどがこの形態に属する。これらはいわゆる「国外植民地」になるわけだが、完全な併合と法的地位の同一化が行われれば国内植民地化する。「地方」はこの典型である。この中には、ソ連内部の非ロシア系共和国、中国の少数民族自治区、スペインのバスク、トルコのアルメニア人地域その他、現実に独立をめざす覚醒された植民地もあれば、日本の多くの地方のように、征服の記憶が消え同化が進み、独立が非現実的になっている植民地もある。

 第二の型は、第一の型とは逆に、多数の征服集団が少数の被征服集団を支配する形態である。これは大量の植民活動を伴い、原住集団を少数民族化する形態であり、「先住民問題」を現出させる。ヨーロッパから米国への植民と先住民の囲い込み、和人のアイヌモシリ(北海道)植民とアイヌの少数民族化、米国のハワイやグアムへの進出と先住民(ハワイ人やチャモロ人)の支配、ヨーロッパ人のオーストラリア・アボリジニー、アオテアロア(ニュージーランド)・マオリへの侵略・支配などの事例がこれにあたる。先住民の土地は征服集団国家の領域となり、先住民は「国内」植民地化される。

 植民地の第三の型は、少数の被征服集団が多数の征服集団の内部に取り込まれ支配される形態である。今度は動かされるのは被支配集団の方である。例えば米国南部に移入されたアフリカ人奴隷、そして資本主義中枢諸国内部に導入される外国人労働者などがその例である。彼らもまた国内植民地化される。その上、多くの場合、明確な土地(領土)への関連性を奪われ、民族独立=国家建設という形での自決権行使の可能性を最初から奪われる。

 論理的には第四の型、つまり、多数の被支配集団が少数の支配集団の中に移動するという形態が考えられるが、これは現実には存在しない。支配集団は厳格な国境管理を行なって被支配集団の多数民族化を阻止するからである。ある国家が多数の被支配集団に国境を侵され、それまでの支配的集団が少数民族化される時は、もはや力関係は逆転しており、支配集団は被支配集団に転落している。

 植民地の型にはさらに、支配集団・被支配集団の双方が移動して第三国・地域に新たな植民地をつくる第五の類型がある。イギリス植民者が、マレー半島にインド人を大量移住させてそこでの植民地建設、プランテーション労働に使役するなどの形態がそれだ。「新大陸」の植民地創出事業も多くの場合、この類型の内部で行なわれた。「新大陸」という「第三国」に、イギリス人植民者とともに、アフリカ人奴隷、アジア人、あるいはアイルランド、南欧、東欧などのヨーロッパ系被抑圧民族が導入され、新たな植民地構造がつくられていった。

 いずれの場合においても、植民地として支配される地域・人民は、近代市民社会の理念から疎外され、自由と平等が剥奪される。古典的な植民地においては土着の前近代的な隷属関係の利用・補強により、国内植民地化で「国民」化された少数民族は公然・隠然たる人種差別と同化政策により、同じく国内植民地化された先住民はさらに土地取り上げや時に虐殺により、そして外国人労働者は国境によってつくられる「不法外国人」奴隷制により、「自由と平等」の枠外におかれる。

政治的独立、少数民族の権利

 第三世界の解放には二つの方向がある。一つは政治的独立による資本主義中枢からの離脱と独自の国民経済形成の道。もう一つは、そうした領土的国家の形成が不可能か困難な国内植民地で、少数民族としての自決と市民的権利を確立する方向である。多文化・多民族社会の中で自らの権利を確立する方向とも言える。両者は、世界経済の中で周辺化される第三世界諸民族の取る二方向であり、互いに連動している。一方で、独自の政治的拠点(主権国家)を形成して世界を多元構造化し、他方で、中枢国内部に多元構造を形成して民族国家を相対化する。

移民の国

 アメリカのマイノリティ、特に移民マイノリティが多元構造の中で権利を確立していく過程で「移民の国」がひとつの媒介項となった。アメリカは移民の国であり、すべての国民が他からやってきた移民とその子孫だと認識する。そうした国の多様な文化・民族はすべて平等であり、自身も「アメリカ」の正統な一部だ、主張する。国内植民地たるマイノリティが自決を目指す際、「新大陸」「移民マイノリティ」という条件がそろったところで援用された特徴的な論理構造と言える。

 ある意味ですべての国は移民の国だ。日本にも太古の昔、縄文人が来たし、弥生人も来て列島社会が形成された。アメリカの先住民インディアンたちも1万年前にアジアから移動してきた。ニュージーランドの先住民マオリがこの「アオテアロア」島に到達したのはさらに最近の9〜10世紀だった。ヨーロッパでも、ゲルマン民族大移動やブリテン島の「ノルマン征服」などが簡単に想起され、移動の歴史は奥が深い。

 しかし、もちろん旧世界ではこれら「移民」の記憶は多くの場合忘れられ、土着民のみの社会だと観念されている。そうした中で「新世界」たる南北アメリカ、大洋州では記憶が今だ鮮明で、それが国家理念にもある程度反映されている。米国の移民マイノリティたちはここに食い込んだ。アメリカが多様な移民によりつくられ、ただただ「自由」の理念でのみつくられた国家であるなら、移民外国人にとってもアメリカはまごう事なき祖国であり、自由を求める彼らの夢もそこに投影されている、と見る。

 フィリピン系移民カーロス・バロサンの「心の中のアメリカ」(Carlos Bulosan, America is in the Heart, 1943)がその古典だった。移民一世として差別とたたかったバロサンは「アメリカ」を単なる一つの民族国家でなく、万人にとっての自由と平等の祖国、「新しい社会の預言」とまで言い、そのアメリカに希望を寄せる生き方を求めた。この「アメリカ」をマイノリティ側からとらえ返す国家論を背景に、一九六〇年代以降の権利獲得運動が築かれた。特にアジア系など移民マイノリティの覚醒には、国内植民地論とともに、この「移民の国」を基盤にした複合文化社会論が大きな支柱になった。

<出典・注>

1 Harold Cruse, *Rebellion or Revolution* (New York: Morrow, 1968).
2 Kenneth Clark, *Youth in the Ghetto* (New York: Haryou Associates, 1964).
3 Stokely Carmichael and Charles Hamilton, *Black Power* (New York: Random House, 1967).
4 Robert Blauner, *Racial Oppression in America* (New York: Harper & Row, 1972), p.82.
5 長沼秀世「「アメリカ帝国主義」の一理解」、『アメリカ史研究』第一一号、一九八八年、六〇頁。
6 John Liu, "Towards an Understanding of the Internal Colonial Model", *Counterpoint -Perspectives on Asian America*, (Los Angeles: 1976), p.160.
7 Robert Blauner, *op. cit.*, p.74.
8 John Liu, *op. cit.*, p.166.
9 Robert Blauner, *op. cit*., p.165.
10 長沼秀世、前掲論文、六一ー六二頁。
11 安東誠一『地方の経済学』日本経済新聞社、一九八六年、一九二頁、四六ー四七頁。
12 東北は、もともと稲作文化地帯ではなかったが、稲作文化をもった中央国家(ヤマト)に支配され、領主の石高をあげるためなどで無理に稲作が強要された。独自の発展を抑えられてきたことの帰結が近代以降の東北の低開発である。例えば岩本由輝「憶説・『東北』論ー辺境が自己主張する条件」、『エコノミスト』一九八五年、四月一六日号。
13 茂木敏充「一極分散か多極集積か」、『朝日新聞』一九八八年一〇月一六日、一四頁。
14 『朝日新聞』一九八八年一〇月五日。
15 『日本経済新聞』一九八九年五月一一日。
16 「地方とアジアが代替的な関係にあるということは、地方の人にとっては現実そのものであった。一九七五年当時に筆者が会った東北のある県の企画担当者は、工場誘致について「まごまごしていると工場は韓国や台湾に行ってしまう。うちの競争相手は今や隣の県よりも韓国や台湾なんだ」と、その焦りを表明していた。」(安東誠一、前掲書、一九二頁)。
17 安東誠一、前掲書、一四八ー一五〇頁。
18 同書、一五〇頁。


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