イスラムが世界史に果たした役割

      岡部一明 (『カイロ通信』1981年3月より)


 (1981年2月、世界放浪の途上でアフリカを旅しようと、ヨーロッパ、中東と南下しエジプトのカイロまで来たとき。次のスーダンのビザを取るのに1ヶ月以上かかるという思わぬ障害にぶちあたった。放浪の旅ではよくあることだが、1ヶ月を無駄にするのは惜しいと、直近で旅した中東、イスラム教の歴史を勉強してみることに。持参した日本語の本の他、現地の図書館、アメリカセンター図書館などで基礎的な英文書籍を読みながら、下記をまとめた。)

<目次>

1、イスラムとは何か

2、遊牧民の歴史

3、砂漠商業資本主義としてのイスラム

4、「社会主義革命」としてのイスラム


 イスラム世界は、イスラム教を基礎に7〜13世紀に西アジア、北アフリカ、イベリア半島、果ては中央アジア、南アジア、東南アジアまで含む地域に拡がった文明圏。610年、マホメットがメッカ(現サウジアラビアの西部)でイスラム教を始めたのがはじまりだった。マホメット死後もアラビア人は遊牧民(ベドウィン)を先頭に進撃を続け、ヨーロッパ人から「サラセン帝国」と呼ばれる広大な帝国を形成する。この下には、古くから古代文明をはぐくんできたエジプト、イラン、メソポタミアの諸民族まで支配下に置かれ、多かれ少なかれアラブ化、イスラム化された。このイスラム帝国(アッバース朝)は1231年に滅びるが、その時までにはイスラム化した諸民族が独自にイスラム国家をつくっており、単一帝国に基づかない文明圏(実は経済圏でもあった)としてのイスラム世界が形成された。

 参考文献: 以下、特に明記したところ以外では、次を参照した。上原専禄編『日本国民の世界史』岩波書店、ラ・ブラーシュ『人文地理学原理』岩波文庫、Penguin Atlas of World History, Vol.1; Leonard Brander, ed., The Study of the Middle East, 特に"Chapter 3 History" (Albert Hourani); Ragai and Dorothea Mallakh, "Trade and Commerce", The Genius of Arabic Civilization, Source of Renaissance; Philip K. Hitti, The Arabs; Encyclopaedia Britannicaの特に"Arab, History of", "Islam, History of", "Caliphate, Empire of the", "Islam", "Population, Human", "Asian Peoples and Culture", "Inner Asia, History of", "Central Asian Cultures"の項。

1、イスラムとは何か

近代の序章としてのイスラム

 これまでの歴史書では、近代はポルトガル、イスパニアの「地理上の発見」から書き始められ、イスラムは暗黒中世の一つのエポックとして取り扱われる。アジアの「古代」帝国の一つくらいにとらえられることさえある。歴史的にキリスト教のヨーロッパはイスラム世界に対して偏見をもち、この文明をヨーロッパ文明とはまったく異質な一時代前の文明ととらえてきた。現在でもイラン革命、イラン・イラク戦争を例に「狂信的で野蛮な宗教」「何をやりだすかわからない理解困難な宗教」といったイメージをつくっている。

 しかし、イスラムは実は近代世界の夜明けを告げた文明だったし、ヨーロッパはイスラムから学び、イスラムを踏襲して近代世界に乗り出していった。イスラムはヨーロッパ人が「地理上の発見」に乗り出すずっと前に世界貿易圏をつくりあげていた。内陸では遊牧民の移動性を基礎に、北アフリカのサハラ、アフリカ内部、アラビア半島、中央アジアの乾燥地帯に流通網を巡らしていたし、海上では、地中海貿易の支配をはじめ、紅海、ペルシャ湾からインド亜大陸、アフリカ東岸、さらにジャワから東インド諸島、また北ではカスピ海、ボルガ川を経てバルト海沿岸に至るまで広い国際貿易網を形成していた。その貿易を担ったのはアラビア人であり、あるいはイスラムに改宗した諸民族であり、イスラム教は、こうした世界貿易を円滑に進めるイデオロギー的・文化的同一基盤を提供した。

 ヨーロッパの近代は、スペイン、ポルトガルといったイベリア半島の国家からはじまるが、この2ヶ国はいずれもイスラム(後期ウマイヤ朝)から独立を達成した国であり、様々にイスラムの影響を受けている。その科学技術(例えば化学や遠洋航海術など)の分野における莫大な影響はかなり語られているが、このポルトガル、スペインのやったことがそっくりそのままイスラムの踏襲であることがまたおもしろい。ポルトガル、スペインはイスラムの世界貿易圏をそっくり乗っ取った。アメリカの支配ということのみが、両国の新しい事業であって、アフリカ西岸、東岸での根拠地づくり、インドへの航路、東インド諸島での香辛料の収奪など、それまでイスラムが築きあげてきた世界貿易の広がりとその利益を肩代わりしたにすぎない。

 多くの異民族間の交易を可能にし円滑にする上で、広域にわたるイスラム教化は大きな役割を果たしたが、ポルトガル、スペインが熱心に宣教師を海外に送り、キリスト教化にはげんだのもこれを踏襲している。

 確かに、新大陸の「発見」と市場への組み入れ、そして、アフリカの南端をまわるインド航路の「発見」・開拓はヨーロッパ人独自のものだ。しかしこれはヨーロッパ人がアジアに向かうため必要とされ、試みられたものである。西アジアを中心として地中海にもインド洋にも自由なアクセスをもっていたイスラム商人にとって、アジアへの「新航路」は不必要だった。

世界市場形成者としてのイスラム

 世界市場は「近代」になって(ヨーロッパ人の世界支配によって)突然生み出されたものではない。それは長い年月をかけて世界の諸民族の活動が交差、蓄積される中で生まれた優れて世界史的な産物である。その発端は少なくとも紀元前2世紀頃までにさかのぼれる。この頃、西ではローマ帝国が地中海世界を統一し、地中海を基礎とした海上貿易を発展させた。また東では漢帝国が成立し、西域諸遊牧国家もその支配下に入り、それによって東西交易路に「絹の道」が形成され、活性化される。数千キロの砂漠地帯、草原、山岳地帯を越えて、絹織物はローマまで運ばれた。後漢の崩壊(220年)とともに絹の道も衰えるが、唐帝国の成立(618年)によって再び活性化し、唐の都・長安は国際都市としてゾロアスター教、マニ教、キリスト教ネストリウス派などの宗教の他、ペルシャの織物、絨毯、青銅製品など多様な西方文化が流れ込んでいた。(そしてこれは飛鳥・奈良時代の日本文化にも影響を与えた。)

 一方インドでも南部を中心に西アジアとの交易が盛んで、1世紀に成立したアンドラ王国の頃、季節風を利用してアラビア海を直航する貿易路が開かれ、紅海を経てエジプト・ローマ帝国などとの交易が活発化した。一方、東南アジア方面への貿易・植民も活発化し、インド文明の影響が広がっていく。

 イスラムは世界史的には、こうした東西貿易の十字路に成立し、その貿易を握り、発展させる役割を果たした。イスラムの支配した西アジアの乾燥地帯は絹の道の通路であり、また西方世界とインド・東南アジアとの交易の通路でもあった。

 中国では12世紀に重要な変化が起こる。この頃、南宋の成立(1127年)と相まって江南(揚子江の南)の開発、特に稲作化が進み、江南が中国経済の中心になっていく。それに伴って、近くなった南海方面との貿易も活発化し、東南アジア、インド、西アジアとの海上貿易が発展する。アラビア商人(イスラム教徒)はここでも活躍し、彼らの貿易活動は、例えば現在、宋銭が遠くアフリカ東岸でも発見されるまでに広がった。また、この頃までにこの東西海上交通の要衝にあたるインドネシアには、海上交易帝国シュリービジャヤが勢力を伸ばしており、それは13世紀にマジャパイト王国に継承される。両帝国は元来ヒンズー教国であったが、海上交易に力を振るったイスラム商人との取り引きを円滑化するため、次第にこの地方の土着商人たちもイスラム教に改宗していき、その勢力がマジャパイト王国を滅ぼす(1518年)。

 こうしてイスラムは長い間かかって醸成されてきた交易圏を次第にその単一の腕の中に抱え込み、世界市場の最初の支配勢力となっていく。唐代の中国にもイスラム教が入っていたし、絹の道の交易もイスラム商人が握り、地中海貿易も、後に十字軍を利用してイタリア商人が割り込んでくるまではイスラム商人の独断場だった。サハラの空間は砂漠ではあるが、開けた地形は決して交通を遮断せず、これを通じて西アフリカもイスラム化され、イスラム商人の活躍の場となる。インドにも西北部(現パキスタン)、ベンガル(現バングラディシュ)を中心にイスラム化が進み、インド洋岸も東アフリカからインドネシアに至るまでイスラム化される。

 このような「世界市場」の早い時期の成立はモンゴルの征服によっても立証される。モンゴルは当時(13世紀)の陸上交易路に沿って進撃したのであり、当時の世界市場の形成なしにモンゴルの世界支配はありえない。またこの時、イスラム商人はモンゴルの進撃を支援し、モンゴル帝国もイスラムの東西貿易を積極的に保護した。イスラムはこの頃までにはすでに政治的な権力(帝国)としては機能しなくなっていたが、モンゴルの力を借りて世界市場の交易者として旧世界のほとんどにその商業活動を広げていった。

 ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなど近代ヨーロッパ列強も、少なくとも18世紀頃までは、こうして世界史の進展で醸成され、イスラム、モンゴルによって統合された世界的交易圏を踏襲したのであって、その連続を見落としてはならない。

遊牧民の宗教としてのイスラム

 イスラム帝国は世界史において、遊牧民発展のモニュメントだった(遊牧民の起源については次節参照)。その範囲もサハラから西アジアを経て中央アジアのステップに至る乾燥地帯(遊牧地帯)を中心としている。彼らが通り抜けられないアフリカ中央部の熱帯ジャングル、ヨーロッパの森林地帯などはイスラムにとって障害となり、イスラム文明の拡張もそこで押しとどめられた。これは仏教が主に湿潤森林地帯に、またキリスト教が(ヨーロッパ植民地主義の力で)普遍的に広がったのと好対照を成している。

 イスラムは、その宗教形態のうちにも遊牧民に受け入れやすい特質を様々に示している。例えば偶像崇拝の徹底した禁止。これは砂漠の遊牧民の生活を考えれば一目瞭然だろう。彼らはまさか大きな仏像や十字架をかついで移動するわけにはいかない。神と人との間の仲立ちをする聖職者(したがって教会制度)を認めなかったのも同様の理由からだ。砂漠を移動する民の中にキリスト教にあるような堅固な聖職・教会組織をくまなく確立することは不可能に近い。次第にモスクという礼拝所がつくられていくようになるが、開祖マホメットの時代は単なる大地、何もない地面の上で祈った。モスクがつくられるようになっても、(入ってみればわかるが)モスクの中にはただ広い床があるだけで、人々はここに膝まづいて祈る。大地の上での祈りという原型を残している。

 ラマダンの断食についても、湿潤地帯で昼間だけとは言え1ヶ月も断食するのは難しいが、昼の暑さが激しい砂漠地帯では、昼の活動を止め夜動く(したがって食う)生活は適している面もある。肌の露出を極端に抑えた女性の服装なども、乾燥地帯だからこそ可能だ。

オアシス商業資本(砂漠ブルジョアジー)の宗教

 イスラム教は、遊牧民の宗教であると同時に、オアシス定着民、特にその商業資本の宗教だった。むしろ、その中にこそイスラムの本質はより明確に語られている。

 何よりもまず、イスラム教の開祖マホメットはメッカの商人の出であった。イスラム教とその帝国の拡大は何よりもまずこうしたメッカ商人の交易支配圏の拡大として現れた。遊牧民(ベドウィン)はイスラムに改宗することによってその軍事的先鋒として大きな役割を果たしたが、オアシス商人にとってそれは、交易の障害・略奪者だった遊牧民を交易の保護者に手なずけたことを意味する。そして遠隔の地に至るまで同じ神をあがめる共通のイデオロギーを打ち立て、交易を安全かつ円滑なものにした。

 イスラムは遊牧民に適した宗教形態だったが、より厳密に言えば、同じく乾燥地帯にしても水はあるオアシスの宗教だった。だからイスラム教の中には遊牧民の生活とは矛盾する諸形態も含まれている。

 例えばすでに触れたが、イスラムの宗教生活の中心であるモスク建築。1日5回、(できれば)そこに出向いて祈る。そして金曜の昼にはコミュニティーの人々が全員そこに集まって大祈祷を行う。イスラム教がオアシス都市(メッカ、そしてメディナ)で成長したことを考えれば、それは自然な宗教形態ではあるが、遊牧民にとってこれほど困ることはない。移動する生活の中に永続的な建築物は建てられないし、ましてやモスクのような大建築物を建てるのは問題外だった。加えてたいていの場合、モスクには井戸があり(現在は水道)、祈りの前には水で身を清めるから砂漠の遊牧民にはお手上げであったろう。

 またイスラムの教えの中にははっきりと都市生活の賛美と遊牧民への蔑視が言及されている(Albert Hourani, "History," Leonard Brander ed., The Study of the Middle East. p.446.)。例えばコーランにも「砂漠のアラブは不信心と偽善において最も堅固である」(『コーラン』9の98)などという言葉が出てくるという。これだけばかにされながら遊牧民はよく忠実に付いてきたと感心するが、実を言うと、遊牧民はイスラム帝国の軍事的拡大には華々しい役割を果たしたものの、宗教的にはオアシス都市住民ほどは熱心ではなく、現在でも遊牧民の忠誠は普遍的なイスラムの神よりも、その部族に注がれる傾向が強いと言われる(Philip K. Hitti, The Arabs, p.13.)

 イスラム教の中でもうひとつ重要なことはメッカへの巡礼だ。これも都市への巡礼を求めているところなど、オアシス都市中心の側面を示すが、経済的に見ると、このメッカ巡礼はメッカ商業資本の経済的繁栄の確固たる保証となった。まず巡礼者のための宿、食事などでメッカ経済(ツーリスト産業!)は潤う。現在でもサウジアラビア以外のイスラム国は、この巡礼によって外貨が失われていくのを恐れ、年間巡礼者を厳しく制限している(やや古い統計だが、1965年の全巡礼者150万人のうちアラビア以外からの巡礼者は60万人。"Islam", Encyclopaedia Britannica.)。また、巡礼者が集まることによってメッカを中心とした交易活動が活発化するという効果もある。巡礼が結果的に物産の交易を兼ねることも多いと思われる。


2、遊牧民の歴史

 先に進む前に、ここで遊牧民の歴史を素描しておく。

植物に対する農業、動物に対する牧畜・遊牧

 中央ユーラシアは氷河期が終わってから次第に乾燥し始め、多くの民族がここから四方八方に出ていく。特に紀元前800年頃にウクライナのキンメル人が騎馬技術を身につけ騎馬遊牧民が出現してから、彼らによる周辺農耕民への武力的征服が活発化する。

 騎馬がはじまる以前から遊牧民は存在した。特にこの乾燥した中央ユーラシアに多く存在した。遊牧は原始的な狩猟・採取生活とは異なる。人類は最初、狩猟・採取経済の中で動物や植物をいわば乱獲していた。やがて植物に対しては栽培という取得形態、つまり農業をはじめていく。植物は大地に根を張って動かぬものだから、農耕民は当然定着民となる。そして農耕民は多かれ少なかれ、同時に動物の飼育、つまり牧畜も行う。農業ができる土地では牧草も豊富で、定住地での放牧が可能だ。しかし、乾燥した草原地帯(ステップ)、半砂漠地帯などでは農業は不可能であり、また牧畜(定位置での動物飼育)も難しい。可能なのは遊牧、広い範囲を移動しながら動物を育てる生産形態だった。

 植物とは異なり、動物は動く。植物に依拠する者(農耕民)は定住しなければならないが、動物に依拠する者は必ずしも定住する必要はない。動物は移動するので、貧弱な植生地でも広い範囲をカバーすれば一定量の栄養を人間に供給することができる。この生態的条件から、乾燥地帯で可能な人間の第一次産業形態として遊牧が生まれる。湿潤地帯の農業に比すべき文明の新しい発展段階だ。

騎馬が遊牧の産業革命

 騎馬、つまり人が馬に乗ること、は遊牧経済を飛躍的に拡大する。人間の徒歩によって管理できる家畜頭数、遊牧範囲は限られるが、馬の速力と耐久力があればこれが大幅に拡大される。騎馬こそは遊牧経済における「産業革命」であり、騎馬民族の出現により世界史は遊牧民の時代に突入する。

 中央ユーラシアで馬の家畜化が始まるのは紀元前3000年頃とされる。紀元前2000年頃から、現ソ連南部のキルギス草原(アラル海の北)に居た原インド・ヨーロッパ語族(アーリア人)の西進が始まるが、彼らの活躍もこの馬の力で可能となった。しかし彼らは直接馬にまたがったのではなく、馬に軽快な二輪戦車を引かせて進攻した。それまで馬のなかったオリエントでもこれ以後馬の使用が活発になり、例えばヒッタイトやミタンニなどで、紀元前1500年頃から徐々に乗馬が始まった(以下、謝世輝『新しい世界史の見方』講談社現代新書を参照。特にU章4)。

 しかし、単なる乗馬と騎馬は区別される。騎馬の第一の要件は馬の口に轡(くつわ)を付けて手綱でコントロールすることだ。単純なことのようだが、これが騎馬技術にとって決定的な「発明」だった。それに加えて鞍(くら)と鐙(あぶみ)の採用とズボンの着用をもって騎馬技術は完成する。また、馬の蹄に鉄製の馬蹄を付けることも馬の走行持続能力を高めた。

 このように騎馬といっても、人類文化の各種発展を基礎にようやく実現したものである。騎馬技術はオリエントで発達したとも言われるが、少なくともそれを最終的に完成し、最初の強力な騎馬民族として登場するのは、前述の通りウクライナのキンメル人だった(紀元前800年頃)。

遊牧騎馬民族の発展

 キンメル人は青銅器文化に属し、彼らはやがて鉄器文化をもったアーリア系のスキタイ(スキチア人)の支配に取って代わられる(紀元前6世紀)。スキチア人は、馬上から放てる直進する弓矢も武器として持つようになった(それまでの矢は弧を描いて飛びかつ地上からしか放てなかった)。スキタイの武器、馬具、装身具は非常に立派で、芸術的にもそれ以後の遊牧民に勝っていたという。

 スキタイの騎馬民族文化はやがて東方に伝わり、モンゴル高原から匈奴の遊牧騎馬民族国家が出現する(紀元前3世紀)。漢帝国を北方から脅かした一大遊牧勢力だ。ヨーロッパでゲルマン民族大移動を引き起こしたフン族の侵入も、この匈奴の一派だったとの説がある。この時期の活発な民族移動には、内陸ユーラシアの乾燥化など、気候変化が影響していると言われる(The Penguin Atlas of World History, Vol.I, p.115)。

 2世紀に匈奴が衰弱すると、南満州から出た鮮卑(せんぴ)が活発化し、いくつかに分裂しつつも、他の遊牧民とともに華北をも荒らしまわり、五胡十六国の時代(304年〜439年)をつくる。遊牧民族である匈奴、鮮卑、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)の「五胡」が次々に華北になだれ込み、漢民族の国家・晋を滅ぼした(316年)。その後、6世紀まで華北ではこうした北方異民族の国家が次々に興亡する(十六国)。華北ばかりでなく、朝鮮半島にも騎馬文化は浸透し、高句麗、扶余なども騎馬民族化する。4世紀以降の日本の古墳文化にもスキタイ系の騎馬文化の要素が濃厚に見られ、北方騎馬民族が日本建国に関係したとする「騎馬民族征服王朝説」の有力な論拠ともされている(江上波夫『騎馬民族国家』中公新書)。匈奴説もあるフン族がヨーロッパでゲルマン民族大移動を引き起こしたことも含め、この時期、北方遊牧民は壮大なスケールで活動している。

 ただし、騎馬民族は必ずしも遊牧民とは限らない。遊牧民からの影響で定着民、特に乾燥地帯と農耕地帯の接触地域で牧畜、農耕、狩猟に従事していた民族の間にも騎馬が広範に広がった。満州から朝鮮半島にかけての東北アジア諸民族がそうである。日本を征服したとされる騎馬民族もこうした非遊牧系騎馬民族の一つだったとされる。

イスラム、モンゴル、そして海の時代

 遊牧騎馬民族はイスラム帝国(7世紀成立)、さらにモンゴル帝国(13世紀成立)に至り絶頂期を迎える。改めて言うまでもなくモンゴルは世界史上最大の帝国であり、イスラムも(帝国滅亡後もイスラム文化・経済圏として残り)、世界市場の大半を支配する。また、6世紀頃から中央アジアで頭角をあらわすトルコ系遊牧民も大きな活躍をし、その最も西に進んだものはイスラム化してセルジュク・トルコ(1037年〜1157年)、オスマン・トルコ(1299年〜1922年)などの大帝国を築く。オスマン・トルコは現トルコの前身である。

 16世紀頃から次第に交易と軍事の主力は海上勢力に移っていき、そのための地理的条件に恵まれた西ヨーロッパの海洋・農耕民族が歴史の中心として登場してくる。遊牧民の時代は終わった。彼らは次第にヨーロッパ勢力の一つであるロシアに征服されていく。かつて幾度となく遊牧民に征服・支配されてきたロシアに。

 海の技術が歴史の決定的要因になる前、かなり長く騎馬の技術がその地位を占めた時代があった。遊牧民はその時代に歴史の前面で活躍し、それ以後は後景に隠れる。近代においては工業社会が経済的にも軍事的にも支配的な力をもつ。しかし、前近代にあっては農耕社会が経済力を握り、遊牧社会が軍事力を握っていた。権力が二つに分かれていた。だから遊牧民は常に農耕民を征服することが可能だったし、また彼らが農耕民を支配すれば易々と同化されてしまっていた。

3、砂漠商業資本主義としてのイスラム

アラビア半島交易の重要性

 再びイスラムに戻る。まず、7世紀にアラビアの地からイスラムが出現してくる要因と過程を詳しく見る。

 当時の西アジアに有力な帝国が二つあった。一つは4世紀末に分裂したローマ帝国の片側、東ローマ帝国。もう一つは3世紀に出現したササン朝ペルシャである。この2帝国は次第に領土を広げ、シリアからコーカサス山脈にかけて国境を接するようになる。数世紀にわたって熾烈な戦いが繰り返された。このため、この地域を横断していた「絹の道」の交易路が次第にさびれた。

 それに代わって、アラビア半島、または紅海を南下する交易路が脚光を浴びてくる。「北」の代わりに「南」を通じてインド方面との交易が求められた(図参照)。一方、それまでこの地方の交易活動の中心であった南アラビアのアゼルヤマン(イエメン)王国は次第に衰え、その属国であったアビシニア(エチオピア)の侵入を受けるようになった。したがって中央部のメッカの重要性が相対的に高まっていた。こうした条件の中でメッカ商人の拡張運動として出現するのがイスラム教である(以下、特に史実に関してはEncyclopedia Britannicaの諸項目など参照)。

 マホメットはイスラム教をまったくの無からつくりだしてのではなくて、当時アラビアにも入りつつあったキリスト教、ユダヤ教の一神教の影響を受けながら、とりわけメッカにおけるカーバ神殿の信仰を土台にこのアラビア的宗教を生み出した。マホメットが生まれた頃(570年)にはすでにメッカはアラビアの隊商(キャラバン)交易の中心であり、クライシ一族を中心にメッカ商業資本が繁栄していた。マホメットはこのクライシ族の名門の一つハッシム家に生まれた。幼くして孤児となり、その境遇が彼をして有能な宗教家に育てたが、経済的には、名門の出として恵まれていたようだ。

 ハッシム家は必ずしもクライシ族の中で最高の地位に居たわけではない。ウマイヤ家、マクズム家などがメッカ経済を牛耳る中、ハッシム家はそれに反抗を行ったこともある立場だ。見方によっては、モハメットはそのような家に生まれた者として、生涯、メッカ経済の奪取を目指し、それに成功し、かつそれを西アジア一帯に拡大したととらえることもできる。

一神教の経済的基礎

 当時メッカの宗教の中心になっていたカーバ(黒い石)神殿はアラビア人諸部族の様々な神をすべて集めて、いわば「神々の神殿」的な役割を果たしていた。これへのアラビア各地からの巡礼も盛んで、後のイスラム教の原型はすでにここに現れていた。人々は交易や市(バザー)のためにメッカに集まり、同時にそこであらゆる神の殿堂で祈りをささげた。(そこにキリスト教の偶像さえあった。)

 このカーバ神殿を取り仕切ったのがクライシ族であり、すでにここに砂漠の宗教と経済の結びつきが明確に読み取れる。メッカに諸部族の信仰の殿堂があることは人々をそこに引き寄せ、また交易でそこに集まる人々は、その交易の守り神としての共通神殿への信仰を深めた。カーバ神殿は誠に交易の神であり、交易振興のためメッカ商人が知ってか知らずか(あるいは天才的な着想からか)生み出したイデオロギー=制度である。

 マホメットの教えは、このカーバ神殿の信仰を普遍的に純化する形で生み出された。各部族ばらばらな神を一つの(唯一の)神・アッラーにまとめ上げ、同じく各個ばらばらであった偶像をいっさい禁止して普遍的な神をつくりだそうとした。すべての人はアッラーの前に平等であり、教会や聖職者や、現世のまぎらわしい「神への中継者」をいっさい排して、あらゆる人が神に直接つながる。人はアッラーの前に完全にひれ伏さねばならない。この極めて普遍的で徹底した一神教は、神々を一本化しようとしたカーバ神殿信仰の延長上、しかも徹底して突き進められた延長線上にあったろう。そして唯一の普遍的な神の創造は、普遍的な交易の拡大と、一体化した(唯一の)市場圏をつくる現世的要請に対応していた。

 一つの神の前でのあらゆる人の平等、同一の神へのあらゆる人々の屈伏(イスラムの原意はsurrender降参であるという)は、現世的には、当時アラビアに広く見られた部族間の対立、あるいはその極端な形である遊牧民の定着民や商隊への襲撃の停止を意味する。交易の全面的な拡大のためにこれらの対立が排除さなければならない。狭い部族ごとの忠誠、つまりそれぞれの部族の神への忠誠は捨てられねばならない。今やアッラーだけが唯一の神としてアラビアの大地に君臨しはじめた。

 マホメットはメッカにおいては弾圧された。彼の教えは、それまでの古いカーバ神殿への信仰と対立するものであったからだ。彼のはたらきかけもあって、200キロメートル北のメディナの商人たちがマホメットを呼び寄せる。その招聘の理由がおもしろい。メディナのアラブ系二大門閥、Aws族とKhazraj族が対立を起こしており、その調停者としてマホメットが求められたのだ。部族を越えた普遍的な神の教えとしてのイスラムが当時のアラビアにおいて現世的にも求められていたことを示す象徴的事例だ。アラビア商人の交易経済が発展するためには、彼ら自身の古く狭い部族的社会・文化が打破されなければならなくなっていた。

メディナへ

 622年、マホメットはメディナに移る。これをヘジラといい、イスラム紀元のはじまりとなる。

 メディナでマホメットは、宗教的・政治的権威を獲得し、ここにイスラムの現世的政治・軍事・法制度の形成がはじまる。(メッカで彼はあくまで一宗教者にすぎなかったから、モラル的な権威にとどまっていた)。当初はマホメット一派も、他の8門閥と同等の「閥族」として扱われていただけだが、彼の宗教的権威、調停者としての立場、加えて軍事的才覚やベドウィンたちとの交渉能力などが、次第に彼をメディナの最高権力者にのしあげていく。メディナには3つの有力なユダヤ系商人閥があり、ユダヤ教を信奉していた。マホメットの教えは当時ユダヤ教ともつながっており、彼をユダヤ教の預言者としても認めさせようとしたが、うまくいかず、このユダヤ系閥族を追放、または虐殺する(624年)。

 こうして彼はメディナにおいて宗教的権力者としてのみならず、政治的な権力者になっていくのであるが、このことは重要な意味をもつ。これ以後、イスラムの拡大は宗教の伝播としてだけでなく、政治的な支配としても広がっていくのだ。何よりその「政」「教」の完全な一致がイスラムの性格を特異なものとしていく。

 例えばキリスト教は、ローマ帝国内で、それへの(特に東方民族の)抵抗という形ではじまっており、弾圧の中で「シーザーのものはシーザーに、神のものは神へ」という完全な政教分離の方向に歩んでいく。教団・教会組織がつくられ、それは現世的な政治体制と併存するものとなる。イスラムの場合には、国家が教会であり、そうした二重構造は異端者の出現時以外現れない。キリスト教の場合は現世的な秩序となりえなかったが、ゆえにそれに代わる代替物として疑似的な現世秩序=教団・教会がつくられたのであろう。もっとも、キリスト教の場合でも4世紀末にはそれがローマ帝国の国教となり「政教一致」が実現する。しかし、それまでにはですでに400年近い年月が流れており、キリスト教の原型はできあがってしまっていた。だから国教になった後でも帝国と教会、皇帝と教皇は形式的には分裂し、後には皇帝権と教皇権が対立するようにもなっていく。近代になってヨーロッパにおいては宗教から離れたセキュラー(俗権的)な国家ができていくが、これにはキリスト教のあり方自体が関係していると思われる。

 歴史において非常に多くの場合、宗教的イデオロギー的権威と世俗的権力の「双頭的」構造が見られる。例えばヨーロッパにおいては教皇と皇帝、近代立憲君主国家においては国王と政府、日本の前近代においては天皇と将軍、「社会主義」国においては党と政府。これらはある時期には世俗的権力が中心となってイデオロギー的権威は飾り物に、ある時期にはイデオロギー的権威が力を握り、世俗的権力が単にその執行機関になる。(社会主義国における党(共産党)の政府に対する関係はこの後者に属する。)

 イスラムにおいては、この2つの権力が完全に一致してモハメットの手に握られたわけだ。これは彼の死後も変わることなく、彼の後継者であるカリフが世俗権力と宗教権力を兼ねた。(ただし、イスラム世界でもこれが永遠に続いたわけでなく、イスラム帝国(アッバース朝)に進攻したセルジュク・トルコは、カリフにスルタンの称号を認めさせ(1055年)、これ以後、イスラム国家の王はスルタンを称するようになる。スルタンは天皇に対する将軍のようなもので、宗教のお墨付きを得て世俗権を掌握する地位である。)

 さて、メディナのモハメットは、まずその小さな都市国家の中で「神の国」、すなわち宗教的理念の現世的実現をはかる。イスラムの法は同時にメディナの法となり、宗教的寄付金(Zakat)は要するに税金であった。イスラムの祭りは国家の祭りであり、1日5回(かつては3回)の祈祷その他の宗教的習慣は社会の習慣となり、人々の日常生活のあらゆる局面を支配していく。毎週金曜日の大礼拝は、コミュニティー全体の政治的集会であった。

 こうしてメディナで生成し始めた宗教の政治的体制は、当時のアラビアにおける経済史的課題をやりとげる任務を負っていた。つまり「オアシス商業資本」を中心とした広範かつ普遍的な交易活動の実現、それを保証する文化的・宗教的・政治的一体性の創出、拡大(社会の細分化の阻止)といった任務である。

メッカの奪還

 やがてイスラムはメディナを基地として外部に向かう。繰り返すが、宗教の伝道のためだけでなく、政治的支配のため。イスラム教において宗教の移植は、社会体制総体の移植でもある。ちょうど、「社会主義」という政教一致の宗教がそうであったように。

 イスラムはどこに進出していっただろうか。当時、宗教的な求心力をもっていたのはエルサレムであった。イスラムにおいても、旧約聖書、新約聖書は聖典と見なされ、ユダヤ教徒、キリスト教徒は「聖典の民」(People of the Book)として「異教徒」(Pagans)とは区別されていた。イスラムは意外とキリスト教、ユダヤ教に近く、ある意味でその一派、あるいはその一つの発展として形成されつつあった。したがってイスラム教徒の多くも、まずエルサレムの方に心が向いたのである。

 しかし、マホメットは何よりもまずメッカを目指す。ここで我々は、彼が何よりも「アラビアの宗教」を目指していることを知る。彼の教えは、ユダヤ教、キリスト教の教えを多分に受けながらも、やはりカーバの神殿を中心とした土着のアラビアの宗教を母体としていた。また、交易の中心・メッカに向かったことは彼の宗教が何よりも「交易の宗教」として発展しようとしていたことを物語る。

 メッカのキャラバン(隊商)に対する略奪がはじめられ、メッカは報復のため625年と627年にメディナに攻め入るが、撃退される。そしてマホメットの率いるメディナ軍(イスラム軍)が630年メッカを陥れる。

 マホメットは、メッカ商業資本の中の新興勢力として新宗教の形成に向かったが、弾圧により追放された。しかしメディナに新しい根拠地をつくりながら、逆にメッカを征服することに成功した。この時からイスラムはメッカ商業資本を頂点とした砂漠商業資本主義の性格を明確にもつようになる。メッカがマホメットにより攻略された時、メッカの大商人・ウマイヤ家は速やかに和平を結びマホメットの傘下に入る。このウマイヤ家がマホメットの死後、ウマイヤ朝を開いていく(661年)。また、この時から、カーバ神殿信仰から受け継いだメッカ巡礼がイスラム教徒の義務に定められている。

イスラム帝国の拡大

 イスラムが交易の中心・メッカを支配してから、イスラム教とマホメットの力は全アラビアに及ぶようになる。諸部族はマホメットに忠誠を誓い、ここでイスラムは単なる一都市(メディナ)の宗教=政治体制から国家の宗教=政治体制に転化する。部族を越えた広域連合(統一市場でもある)の目的が実現される。

 しかしイスラムはここでとどまらない。イスラムは部族はもちろん、国家・民族をも越えた普遍的な性格をもっている(「あらゆる人が神の前に平等である」)。そしてこれは、当時、現実としてかなり広がり始めていた国際貿易、世界市場と、それを担い得るアラビア砂漠商業資本の可能性とも照応している。アラビア半島北部のビザンチン帝国(東ローマ帝国)領への進撃がはじまる。イスラム教徒にとってはこれはイスラムの教えを広める「聖戦」(ジハッド)であり、イスラム形成により宗教的情熱の充満していたアラビア社会は、格好のはけ口を与えられた。また、ベトウィンたちは必ずしも「普遍的な宗教」を受け入れず、部族とその神への忠誠を保ち続けていたが、領土の拡大は彼ら遊牧社会の利益とも一致し、「聖戦」の先頭に立って戦った。

 遊牧民の農耕民に対する略奪は、普通、飢餓時の食料調達など小規模のものだが、砂漠資本主義の利益と結びついた場合は強大なものとなる。その略奪能力を駆使してアラビア半島全体、さらにサハラやイランの砂漠を含め広大な地域を縦横無尽に侵していく。(また、アラビア半島の地理的辺境性により馬の「純血性」が進み、サラブレッド(thoroughbred、純血種の意)という優秀な馬の原型をもったことも彼らの力を強大化させたとされる)。

 642年にモハメットが死に、またこの時からスンニー派とシーア派の分裂(の原型)が生じるが、イスラムの帝国は破竹の勢いで拡大する。東ローマ帝国からパレスチナ、シリア、エジプトを奪い、642年には当時の西アジアの大国、ササン朝ペルシャ(イラン)を滅ぼした。661年にはすでに述べたウマイヤ朝が成立し、イスラム帝国の首都は「中東」のほぼ中央ダマスカスに移る。北アフリカが次々と落ち、711年にはイベリア半島(スペイン)の西ゴート王国を滅ぼし、フランク王国のカール・マルテルの軍に敗れるまでヨーロッパの奥深く侵入する。一方、東では唐と国境を接し、751年、タラスの戦いでこれを大敗させた。こうしてイスラム帝国は8世紀の中頃までに、西アジアの大部分と地中海世界を含む広い地域を支配。当時の世界貿易の要衝を完全に抑えた。

 750年に内紛からアッバース家が権力を握り、ウマイヤ朝に代わってアッバース朝(750〜1258年)を開く。、新都となったバグダードは東西貿易の中心として栄え、一時は人口200万に達した。

イスラム教圏の成立

 その後もイスラム圏は拡大するが、実はイスラム帝国自体は衰弱していく。当初、アラビア人が各地に駐屯し帝国支配を行ったが、次第にイスラム化した他民族がこれに代わっていく。諸民族はさらにこの「イスラム世界」内での独立していく。政治的にはバラバラになるが、熱心なイスラム国家であることには変わりなく、周辺民族へのイスラム伝播が続く。

 イスラム帝国分裂のはじまりは、皮肉にもイスラム帝国の最盛期を築いたアッバース朝の成立時にはじまる。権力の座を奪われたウマイヤ朝がイベリア半島に逃れて後期ウマイヤ朝(756〜1031年)を開いたのだ。

 9世紀からは北アフフリカにいくつものイスラム小王朝が現れ、特にエジプトにはファーティマ朝(909〜1171年)という強力な王朝が建てられ、独自カリフを擁立するに至った。後期ウマイヤ朝もこれにならってカリフを立てたから、イスラム帝国には「もとじめ」のアッバース朝カリフとともに3カリフが出現したことになる。エジプトではこれ以後もアイユーブ朝(1169〜1250年)、マムルーク朝(1250〜1517年)と独自国家が続く。

 またイランでも、イラン人の独自王朝が次々に出現し、アッバース朝を解体していった。そのうち最も強力なものはサーマーン朝(874〜999年)で、これは中央アジアにも領域を広げたので、この地方のウイグル系トルコ人をイスラム化した。やがてこのウイグル人たちも独自王朝を建てていく。同じころ(10世紀)、他のトルコ人の部族はアフガニスタンにカズニー朝を開き、インドへのイスラム伝播のきっかけとなる。

 そしてついにセルジュク系トルコ人が西アジアに侵入し、カリフにサルタンの称号を認めさせ、アッバース朝を有名無実にしてしまう。彼らはセルジュク帝国(1037〜1157年)を建て西アジアの強大なイスラム国家となる。

 なお、この時期、ヨーロッパからの十字軍がはじまるが、これはヨーロッパ史家には大きく扱われるが、イスラムの歴史にとっては小さな事件だったと思われる。イスラム帝国を次々に解体させていった勢力は決して十字軍などではなく、上記のようにトルコ人やまた次のモンゴル人のように、東からの侵入者であった。十字軍はイタリア商人に一定の利益をもたらしたものの、結局ヨーロッパ側の敗北に終わり、逆にこれ以後、ヨーロッパはトルコ系イスラム国家(オスマン・トルコなど)に深く侵略されていくことになる。

 13世紀のモンゴルの征服でアッバース朝が最終的に滅ぼされ(1258年)、イランとイラクにまたがるイル汗国がつくられる。おもしろいことに、このモンゴルの征服者たちは、この地域への侵入を繰り返したトルコ人同様、イスラム化されている。イスラム帝国は侵入する異民族に次第に解体されるが、イスラム教自体は増々力を得、征服者をもイスラム化し、むしろ広がっていく。イル汗国もイスラムを国教としイスラム文化の発展に寄与したが、その後モンゴル帝国の再興を旗印に勃興したトルコ系のティムール朝(1369〜1500年)も、スルタンの称号を用いるイスラム国家だった。

 イランはこのティムール帝国の支配下に置かれたが、それが衰える中で独自のサファビー朝(1502〜1722年)を開き、かつてのイランの伝統、シーア派イスラム教を復活させた。その後イランは一時期、オスマン・トルコに支配されたのを除き、独自のイスラム王朝を保ち続ける。(これが1979年に打倒され、イスラム革命政権ができる。)

 トルコ系で最も活躍したのはオスマン・トルコで、1299年に小ジア方面で独自の国家を築いてから徐々に発展し、1453年にはコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼした。シリア、エジプト、イラクを征服し、イランに深く侵入し、北アフリカの地中海沿岸も支配し、1529年にはウィーンに進出するなど、ヨーロッパに深く入った。むろん、このオスマン帝国もイスラム国家であり、18世紀にヨーロッパ勢に完全に圧倒されるまで、イスラム世界最後の大帝国として繁栄を極めた。

 少し時代を進み過ぎたが、要するに、イスラム帝国解体の後、イラン人、エジプト人、トルコ人、さらにモンゴル人やインド人(後にはマレー人、インドネシア人も)などが次々と独自のイスラム国家をつくっていくことになった。そこにはイスラムを通してアラビアの文化や社会体制、またほとんどの場合、その言語(アラビア語)までも入り込んだ(西アジアではイランとトルコだけが例外)。同じイスラムということで関税もあまりかけられず、経済的交流が比較的自由に行われた。だが、それはもはや単一のイスラム帝国ではなく、実質的には諸民族の国家が乱立する通常の「国際世界」であったにすぎない。イスラムはその間にゆるい宗教的・文化的同質性の枠組みをつくりだしていた。

「世界市場」を支配したイスラム

 イスラムはその使命を達しつつあった。部族、民族を超えた普遍的な宗教がその通りの世界を形成しつつあった。メッカ商業資本拡張運動としてはじまったイスラムが、次第にこの地域全体の(あるいは当時の「世界」の大半の)商業資本の宗教に転化しつつあった。当時の「世界市場」もまた民族を超えた交易活動を求めており、アラビアの宗教はその要請に合致した。アラビア人の創造は偉大なものであった。が、それゆえに今、その創造物はアラビア人のものではなくなりつつあった。「人類」のものになりつつあった。遅れたヨーロッパとサハラ以南のアフリカと、そして遠い東アジアを除く当時の人類のものになろうとしていた。

 諸民族の文化・習慣をある程度平準化し、すべての人が共通の神にひれ伏し、言語までも一定程度共通化し、国の隅々、世界のあちらこちら、どこに行っても人が人にとって完全な異邦人ではない普遍的な社会 ―それをイスラムは実現した。だからイスラムは迎え入れられ、際限なく広がった。

 当時にあって人々の間に共通の文化・宗教圏をつくることは、世界交易にとって緊要だった。現在なら産業資本がつくりだした「安くて質のよい」製品が、その経済競争力によって伝統産業製品を蹴散らし、世界の隅々まで進出できる。自動車をカイロの街に売り込むのに、トヨタもダットサンも何も神道の伝道から始める必要はない。産業資本は物質(物質文明)を生産するものであるが、商業資本はそれを「媒介」するだけで生産することはない。産業資本が交易の共通項たる同一文化を自ら形成するのに対して、商業資本はそれを経済外の努力(宗教的・文化的・政治的試み)で形成する必要があった。

 また、陸上のキャラバン交易を中心とした世界貿易にとって、その最大の障害であった遊牧民がかなりの程度、イスラムに組み込まれたことが、イスラムの価値を高めた。むろん例外も多かったが、例えばアラビアの遊牧民ベドウィンたちは、キャラバン襲撃から一転してキャラバンの護衛の任務に就いたりした。

4、「社会主義革命」としてのイスラム

 イスラムは当時の社会主義だった。以下、「イスラムは人類初の最も成功した社会主義革命である」ということについて記す。イスラムは歴史的には「砂漠交易世界市場とオアシス商業資本主義の宗教」として機能したが、実は社会主義革命としての質も内包していた。

 あらゆる宗教、特に普遍的な世界宗教になったものは何らかの形で社会主義的な性格を内包している。宗教が拡がるのは決して支配者のプロパガンダと強制だけによるものではない。あるいは麻薬のように人々の逃避としてだけ広まるものでもない。少なくとも普遍的に信者を獲得する宗教は、その内部に人間解放への激しい情熱と論理を含んでいる。例えば「神の前にすべての人が平等だ」「仏の前にあらゆる人が平等だ」という形で、あらゆる宗教が現世的な体制を超えたある解放された世界への啓示を行う。

 「宗教」と「宗教の体制」を区別しなければならない。「革命」と「革命後の体制」を区別しなければならないように、「宗教の生成過程」と「できあがった宗教体制」を区別しなければならない。

 パリの貧民たちは決して「ブルジョア革命」のために立ち上がったのではない。コルチャーギンたちはスターリンの恐怖政治を作り上げるため革命戦争の銃を取ったのではない。あらゆる革命は普遍的である。それは人類の永遠の解放を瞬時に実現しようとする行為(神の啓示が下りた日、神の国が瞬間的に実現する日)である。それが「ブルジョア革命」になり「テクノクラート官僚革命」になるのは、それの「収拾過程」においてである。結局歴史は、その時までに準備されたものしか実現しない。あらゆる時代に人は永遠の時のために蜂起するが、つくりだされるものは常に歴史的なものである。

 イスラムもまた「アッラーによる」あらゆる人々の解放に向けた革命であったが、結果的には砂漠商業資本主義の拡張運動ということで歴史のファイルに収められた。

 この辺はもう少し詳しく展開すべきだと思うが、例えばボブズボームの『反抗の原初形態』に出てくる南欧の「千年王国主義」その他の宗教的かつ無政府主義的な解放へのはげしすぎる希求が、イスラムの中にも見られる。南欧の「反抗の原初形態」がすべて圧殺されたのに対し、イスラムは徹底すぎるくらい成功を収め西アジアに君臨している。

 A.M.Saidは、アラブ社会主義の源流を、イスラムそのものの中に見いだし、イスラムこそマルクス以前の最高の社会主義の形態だったと主張する。

 「社会的解放への衝動はこれらすべての宗教(地中海東部で発達した一神教―ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の中に見いだされる。しかしそれはおそらくイスラムの教えの中で最も高められている。コーランは、宗教が、単に的確な行動とよりよい人間関係の基礎として道徳基準を定めるばかりでなく、貧しき人々に救いをもたらし、民衆の生活水準を改善しなければならないということを明らかにしてくれる」(Abdel Moghny Said, Arab Socialism, p.24)

 彼はこのようなイスラムの「社会的解放」の教えをコーランからの様々な引用で論証している。例えばコーランには次のような言葉があるという。

 「搾取するな。慈善的であれ。無私を実践せよ。」
 「人に与える時は、汝のもつ最良のものを与えよ。」
 「神はあらゆる人が、十全の生を生きることを望む。」
 「あらゆる人が生の恵みに対して平等の権利をもつことを忘れてはならない。」
 「神は神に仕えるものに十分与えつくす。」
 「万人は櫛の各々の歯のように全き平等である。」

 つまり、あらゆる人が平等であり、あらゆる人がまっとうな生を送れる権利がある、ということを神に託して言っている。それゆえ、私的な欲や他の人の搾取が厳しく断罪されている。なるほど社会主義的だ。「平等に憑かれた人々」(そんな書名の本が岩波新書にあった)のうちに入れてもいい。むろん、明確な社会科学の言葉を使って語っているわけではないが、私有財産制も情熱的に拒否されている。

 「人はおのおのの自分の責務があり、他の人から余分の責務を与えられるようなことがあってはならない。そして人は自己の努力で得たもののみを得る。」
 「それ(富)は、限られた人々の間にのみとどめられた財になってはいけない。」
 「金銀をためこみ、かつそれを神の道にそぐわぬ形で使うものには苦役の審判を通告せよ。」(以上、 Ibid., p.25)

 イスラムの寄付金(税)の中には次のような教えが貫かれていた。「神は富めるイスラム教徒に税を課し、貧しき人々に与える。富める者の悪がない限り、貧しき人が飢えに苦しむことはない。」( Ibid., p.28)
 この税は、軍備などにも使わたが、多くは様々な社会事業、福祉事業に使われていたようである。

 また最も重要なことは、イスラムが基本的には現世的な支配者を認めていないことだ。「神に対してのみ祈れ」「地上のどのような為政者に対しても祈るな」「モスクはただ神のものであって他のだれのものでもない」といった思想が至るところに出てくる。したがってモスクの中には神殿もなければ座の高低もなく、あらゆる人がただ平べったい床にひれ伏して祈る。たとえ指導者、為政者が現れるとしても、それは常に神(したがって民衆)の審判に付されるものとしてあった。「汝を地の太守と定め、他の人々の上に置くのは、神が汝に与えたもう責務によって汝を試すためである。」(Ibid., p.28)

 イスラムの初期においては平等主義的な信者のコミューンがつくられ、そのリーダーは選出されていた。血縁、地縁の力は否定された。カリフさえ選出されていたが、しかしこれはやがて世襲制となり、イスラムの原理から外れる。「イスラムの根底に帰れ」というファンダメンタリスト(「根底回帰主義者」とでも訳そうか)たちも、主にイスラムの初期の徹底した民主主義・共産主義が行われた時代に帰ろうとしているようである。(完)



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