この活力ある経済圏が生まれる20世紀初頭揺籃期について、東邦学園大学中部産業史研究会で学ばせて頂いた。門外漢ではあるが、そこでの議論は興味深く、多くの知的刺激を受けた。とりわけ、名古屋経済が明治・大正期にかけて近代化する背景に、しっかりとした伝統産業の下地があったことが印象的であった。これまで日本の産業近代化は、欧米技術の導入と国家主導の大規模近代産業の育成によってなされたと教えられてきたが、別の側面があるのではないか、という問題意識が生まれた。
本章は名古屋経済の形成期を基点に、日本の近代化・産業化が伝統的な在来産業を基盤にして生まれたことをあとづける試みである。特に江戸時代の小農経済やそこから生まれた副業や農村工業の意味を考える。産業化において小農、自営業、小企業など小規模経済活動が重要な役割を果たすという意味において「地域ビジネス」の普遍性を検証する試みでもあるが、歴史的叙述が中心となるので、以下では、近年の用語である「地域ビジネス」は使わずに論じることをお断りしておきたい。
日本を代表するもう一つの世界的企業ソニーの創設者、盛田昭夫(1921〜1999)は知多半島の常滑の出身である。家は酒、醤油、たまりなどを生産する1665年以来の醸造業ビジネスを行っていた。長男の昭夫は家を継がず東京に出てソニーの祖を築くが、弟の和昭は家業を継ぎながら、後年、食品配送企業(イズミック)やコンビニチェーン(ココストア)などを創業している。同じく常滑で五代に渡り酒造業を行ってきた盛田分家の盛田善平(1862〜1937)は、明治になってビール、マカロニ、小麦粉などの事業を起こした後、1919年に敷島製パン株式会社を起こしている。隣接する半田市の中埜家は江戸時代から酢の醸造業を行っており、その伝統が現在のミツカングループ(本社・半田市)に受け継がれている。
また、愛知県は瀬戸焼や常滑焼など伝統的な陶器産業でも名高い。その伝統から、現在世界的な陶器メーカーとなっているノリタケが生まれた。創業者の森村市左衛門(1839〜1919)が1904年に名古屋にノリタケ工場を建てた一つの理由は、この地域に人材として陶器関係職人が多数存在することだった(9)。森村グループは、衛生陶器のTOTO(東陶機器)、INAXなどの企業も生み、後者は現在でも常滑市に本社を置く。
「名古屋の渋沢栄一」(10)と言われた奥田正香(1847〜1921)は尾張藩士出身で、明治になって味噌、醤油商で財を成してから名古屋商業会議所会頭就任など名古屋財界で活躍している。日本で最初のバイオリン製造企業を起こした鈴木政吉(1859〜1944)の家が琴・三味線づくりをしていたことも興味深い。政吉の父が武士の内職で行っていた琴・三味線づくりが明治になって廃業。政吉は明治近代化の刺激を受けて1900年にバイオリン製造を始めた。1910年までには年産6万台以上のバイオリンを製造するまでになった。また、名古屋経済圏を拡張して浜松など静岡県西部も含めると(11)、そこにはホンダ、スズキ、ヤマハ、カワイなどさらに多くの有力企業が名を連ねることになる。ホンダが、伝統的な鍛冶屋の家に生まれた本田宗一郎(1906〜1991)によってつくられ、スズキは当初、鈴木式織機製作所として設立されているなど、ここにも近代産業につながるさまざまな伝統産業の姿が見られる。
その他、尾張藩における鉄砲や時計の生産、豊富な林業資源を背景にした木工技術、祭などに使われたからくり人形の技術など、多様な伝統産業・技術が名古屋経済の基底に受け継がれていることが指摘される(12)。
たとえば、日本でいわゆる産業革命が終了した後の1909年において、職工5人以上の全国3万2,000の工場のうち蒸気機関など機械的動力を装備した工場は23%に過ぎなかった(13)。他は人力のみ(72%)、あるいは水車(5%)を利用した作業所であった。労働力の側面から見ても石井寛治が次のように言うとおりである。
「通説で産業革命終了時点とされる1907年前後の鉱工業の資本制企業で働く賃金労働者の数はせいぜい100万人であり、総人口5,000万人の半ばと推定される有業人口の僅か4%に過ぎなかった。交通・通信部門の資本制企業で働く賃金労働者を加算しても比率の低さ自体は変わりなかろう。日本経済は、近世社会以来の膨大な数の小経営を含んだ形で産業革命を遂行することになるのであり、そうした小経営の独自な展開のメカニズムを明らかにすることが、改めて重要な研究課題となっている。」(14)
近代日本の工業に、相当規模のこうした小経営と「在来産業」が残存し、かつ発展していたことを最初に指摘したのは中村隆英であった。彼は「在来産業」を次のように定義する。
「在来産業とは、原則として、広義には農林水産業を含み、狭義には農林水産業を除いた、近世以来の伝統的な商品の生産流通ないしサービスの提供にたずさわる産業であって、主として家族労働、ときには少数の雇用労働に依存する小経営によってなりたっている産業をいう。」(15)
戦前の経済を分析するなかで中村は、1930年代前半に至ってなお近代産業部門は全有業者の12.1%を占めるに過ぎなかったことを明らかにする。他は、(狭義の)在来産業41.5%、農林業54%であった。しかも重要なことは、産業化の進展につれて近代部門が伝統部門を駆逐するはず、という「常識」に反して、在来産業は1880年代前半の27.5%から50年後の1930年代41.5%まで14%も拡大しているのである。つまり、日本の産業化は、単なる近代産業の発展だけでなく、在来産業の発展にもかなりの程度支えられて遂行された。
その理由はある意味で自明であった。近代産業は西洋から来たが、人々の生活は依然として伝統的なものであり、拡大する民衆の消費需要に対応するのは主要には在来産業である他なかったからである。中村は言う。
「日本のように欧米と異なる文化をもつ国では、伝統的な消費類型が近代文明を受容してのちも久しきにわたって存続する。GNPの中に占める消費の比率は80%程度と高い以上、生産財、投資財が移植された近代産業の生産物に変化しても、消費財生産を担当する在来産業の地位はゆるがなかった。」(16)
日本人の衣食住が大きく変わるのは戦後、特に高度成長期以降であり、戦前まで一般庶民の生活は明治以前とさほど変化していなかった。たとえば中村は、今和次郎の調査(17)に拠りながら、1929年段階で、東京・銀座日本橋で見る男子の約3分の1、女子の99%が和服を着ていたという例を紹介している。日本最先端の目抜き通りでこれだから農村での様子は容易に想像される。
具体的には、食料、衣料、燃料、身の回り品、家具建具、文房具などの生活用品は「その生産から流通のすべてが在来産業の手中」にあり、洋服、パン、マッチ、ブリキ製品などの洋風消費財でも一旦技術を導入した後、在来産業が生産と流通を担当したとする。これに対して、生産財、投資財、軍需品などは近代産業が担当した(18)。
産業化(産業革命)の前提に農村手工業の発展があったことを明らかにした理論として、1972年メンデルス論文(19)から始まる「プロト工業化」理論がある。また日本でも大塚久雄が、資本主義の自生的発展にとって農村工業と局地的市場圏の形成が重要な役割を果たしたことを明らかにしていた(20)。これらの理論と並んで、工業化が始まってからもその内部で重要な役割を果たす「在来産業」の分析も、伝統経済からの内発的発展を探るうえで重要な意味を持つだろう。後述のとおり「全部雇用」論、「インフォーマル・セクター」論なども示唆するところが大きく、本テーマにせまるうえですでに多くの理論的枠組が存在していることを確認しておきたい。
以下ではまず、明治以降近代化の直接の土台となった江戸近世の経済について、その形成過程にさかのぼって考察してみよう。
「太閤検地の特徴は現実の耕作者が年貢納入責任者とされたことにより、農民相互の間でのその耕地に対する権利を保障されたことにあった。農民間の「作あい」(=小作料)は否定され、旧来の荘園年貢分と加地子=小作料分がともに年貢として収取されることになった。その結果、上昇し侍化しつつあった名主上層は、自営地を除く土地への権利を失い、大名家臣として年貢収取を行なう領主階級に属することになった者以外は、被支配階級たる百姓として扱われることになった(下克上の喪失!)。」(21)
下克上は、各地の名主上層が地侍化・小領主化する動きから生まれていたが、検地は、この中間層台頭の基盤を奪った。彼らの取っていた中間搾取年貢である加持子などが否定され、実際の耕作農民をその土地の年貢名請人として検地帳に明記した(一地一作人の原則)。それは、領主=大名による農民の直接掌握を可能にすると同時に、独立性の強い小農を生み出す契機ともなった。
さらに刀狩(1588年)によって兵農分離を徹底させ、武士の城下町への集住も始められた。これは徳川幕府によってさらに徹底される制度であるが、検地と同様、土地に基礎をおく地侍層の台頭を防ぐ意味があった。彼らを、年貢を取る領主から、大名家臣として録を得る俸給者の身分に変えたのである。
1603年に江戸に幕府を開いた徳川家康は、秀吉が始めたこの体制を完成させた。参勤交代や巧妙な大名配置、さらに頻繁な改易や転封などを通じて大名が勢力伸張する基盤を弱め、同時に藩内にあっては一国一城令(1615年)により中心の城下町へ武士を集住させた。下からの新興武士団の台頭を周到に牽制したわけだが、この政策によって、農民の住む村から領主層が消えることになった。農民は領主による直接支配から大名による間接支配を受けるかたちに変わったのである。名主、組頭、百姓代など村方三役を中心とした一定の自治が可能になった。年貢の徴収は村に任され(村請負制)、個々の農民よりも村全体として責任を持つかたちとなった。大名=領主にとっては確実な年貢徴収法であるが、同時に、支配が個々の農民にまで及ばず、農村に生産余剰が生まれる余地を残した。
16、17世紀は大開墾の時代で、農業技術の発展と大規模な灌漑工事により農業が谷あいの洪積平野から広大な沖積平野(大河川の下流、湿地帯、三角州など)にも広がっていった。17世紀には干拓事業も積極的に進められた。速水融・宮本又郎の推計によれば近世初期(1600年)の全国耕地面積は207万町歩。100年後の1700年には284万町歩であった(22)。徳川260余年の耕地面積増加の7割がこの時期に集中した。農業生産の進展により小農経営も拡大した。とりわけ17世紀までの大開墾の時代が収束するに伴い、大規模工事に照応した大家族制度も必要なくなり、単系の2世代または3世代の小家族が支配的となる。小家族が実質的に土地を所有する小農経済が確立し、経済インセンティブに駆られた江戸期農業の「勤勉革命」(industrious revolution)(23)が進行する。
後述するように、年貢は農民の全収入の20%程度で、今日の所得税とさほどの違いはなかった。江戸時代の年貢はその土地に規定された「石高」に応じて取られるものであって、この石高は特に江戸後期、相当長い期間にわたり一定にすえられた。したがって農民が生産意欲を高めて収穫を増やせば農民余剰も増える。また年貢は米作に対応するものが基本であった。畑作、商品作物や副業産物への年貢は限定的であり、したがって、この分野での農民の生産インセンティブを高めた。17世紀の幕藩体制の確立期には戦役や土木工事の夫役など農民負担は大きかったが、18世紀ごろには小農経済も安定し、農村を中心に市場経済に向けた動きが活発化する。
「(江戸時代において)人口の80〜90%を占めるとされた『百姓=農民』は日本人の常識となり、歴史研究者の研究もそこに集中し、実態として百姓の中に約40%ほど含まれている農業以外の多様な生業に携わる人々についての研究は、ほとんど空白にしたまま、例えば『瑞穂国日本』のような偏った日本社会像が『実像』として世の前面に押し出されつづけてきた。『虚像』の部分を明らかにすることによって、できうる限り正確な日本列島の社会像を描くためには、未開拓のままにされてきたこの40%の分野に鍬を入れ、可能な範囲で実態を明らかにしたうえで、あらためて穀物生産の農業を位置づけ直す必要がある。」(24)
網野は、この「百姓」と言われた人々の多様な姿を、その多数の著書で、史料を駆使して実証した。百姓のなかには富裕な商人・廻船人さえ居た。水呑と呼ばれた人々が実は米作をせず、漁業、塩業、薪炭業、林業、鉱山業その他多様な生業に着く人々であった。「士農工商」という分け方は明治になってつくられたものであり、1872年に作成された壬申戸籍は、それまでの「百姓」を機械的に農民にしたため他の多くの生業が無視された。その他興味深い指摘が数多くなされている。百姓のなかに含まれる非農民を40%とする根拠は、この分野の史料では最も整ったものの一つである『防長風土注進案』(荻=長州藩編纂、1842年)の解析による。同史料中の周防国大島郡(30ヶ村)の記載を整理すると、百姓4,161軒の内農人は3,483軒、門男(水呑)6,949軒のうち農人は5,029軒だった。計1万1,110人中8,512人、つまり76.6%が農人だった。この統計には当時の他の多くの統計と同様、武士、町人、僧侶・神官・医師、被差別民などが除かれているので、それら通常20%の人口を加えると農人の比率は60%(非農民40%)という結論が導かれる。さらに言うとこの農人の間でも活発な副業「農間稼ぎ」が行われており、これを仕事の20%と見積もると、農業の社会全体における比重は約40%にまで縮小する(25)。
村によっては農業40%を大きく切る事例も多い。たとえば周防国南端で海に面した上関では百姓・門男437軒のうち農人は129軒と、29.5%を占めるに過ぎない。これに対して商人・船持が41.6%を占めた。その他、鍛冶、船大工、漁人、紺屋、茶屋、客屋、豆腐屋、桶屋、左官、石組、石工、髪結、提灯貼り、張物小細工、畳刺など多様な生業があった。武士など統計に含まれない人口、農人の副業などを加味すれば農業の比重はさらに下がることになる。
同じく『防長風土注進案』を基にした西川俊作の研究では、1840年代の長州藩で、非農業生産は農業生産にほぼ匹敵した。農業部門出来高6万4,000貫(石高換算80万石)に対して非農業出来高は5万8,000貫(同72万5,000石)である(26)。長州藩が特別だったというわけではない。むしろ長州藩は、先進的な近畿、後進的な東北諸藩のほぼ中間の発展段階にあり、当時の日本の標準的な経済状態を示していると見られる。他藩の事例ではデータ量は限られるが、たとえば1820年代の広島藩では、酒、鉄、塩、木綿、紙、扱芋、畳表の出来高54万7,900石だけで領地の石高48万7,600石を上回っていた(27)。江戸時代には国勢調査があったわけではないので、村々に拡散する古文書を丹念に解きほぐして全体像に迫る作業が必要となる。多くの個別研究がなされるようになった。すべてを紹介する余裕はないが、もう一つ例を出せば、網野同様、江戸時代農村像を大きく書き換えるに貢献のあった田中圭一の諸研究がある。佐渡や越後の村々の史料を丹念に解読し、江戸時代の百姓たちの活発な経済活動を明らかにした。たとえば、上州との国境に近い塩沢村では、1623年から60年ほどの間に家数が128軒から165件に増えているが、その多くが他所から移住してきて田畑を持たない家族であった。また同村内では、農業以外の仕事をするものが多いとして、代官所が1689年にその実態調査を命じている。その調査結果によると、40人もの男たちが塩、茶、紙、塩鯖、塩鰯、たばこ、飴などの商いに従事していることがわかった(28)。
「徳川時代における農間余業という言葉は、じつに広い内容を含むものであった」と新保博・斎藤修が言う。「第一のタイプは家業としての副業で、村内の上層農家が営む造り酒屋や古手屋であっても、これらは必ずその余業として書き上げられていた。第二は内職的な副業で、婦女子が織りだす木綿はその典型である。しかし、これらの他にも、本来なら農業に含められるべき干柿づくりにはじまって本格的な商業的農業である養蚕すらも余業として考えられていた。これが第三タイプで、最後に第四のタイプは雇用労働で、農閑期の出稼ぎ日雇稼もまた農家兼業の一形態であった。いいかえれば石高の算定に組み入れられていない農家の経済活動は一括して『農間余業』とされていたのである。」(31)
越後の柏崎・直江津間にある柿崎宿という宿場町(村高850石)では、1859年に全戸数560軒の内159軒から関東など他国への出稼ぎ人が出ている。しかし、この「出稼ぎ」を詳細に調べると今日のような季節労働者ではなく、酒屋に長期にわたり奉公し、杜氏となり、それなりの地位も得、のれん分けして独立することを目指す起業的な移動であった(32)。江戸時代の農民が移動を禁じられ土地に縛られていたという「常識」への反証でもあり、また江戸時代の活発な起業活動の一端を示す事例でもある。藩はこのような「出稼ぎ」に帰国を命じるのではなく、自藩へ店役(税金)を収めるよう画策している。
実のところ、農業は常に余業を含む農工一体型の経済活動だった、と農業観の変革を提起するのは守田志郎である(33)。つまり、農業は本質的に兼業であり、専業の方こそ特異な形態というわけだ。こうした認識を踏まえて、深谷克巳・川鍋定男は、近世における農業形態を「諸稼ぎ」という視点から分析した(34)。彼らは農業を専業と兼業に分けたのは明治政府であって、日本の農業はそれ以前から「農業者が何か他の仕事に従事することによって収入を得るあり方」(35)を構造的特徴としていたとする。「余業」を一体化した農民たちの活動が、やがて「小商品生産といわれる経済発達段階」をつくりだし、結局「江戸時代の小商品生産は諸稼ぎの延長線上実現されてきたもの」だとする(36)。
「実際には、土地面積当たりの生産量は、耕地面積の増大、肥料の投与、深耕、労働集約度の増大によって、全国どこでもかなり上昇した。……この上昇分を誰が取るかが、江戸時代における、静かだが最大の「闘争」だったのである。上昇分を領主が取るか、生産者である農民が取るか、商人や他の農民である第三者が取るか、によってその社会の構造は大きく違ってくるだろう。結果は、領主は闘争から完全に脱落し、農民と商人の手に帰したのである。」(37)
いつの時代にも、庶民は税金が高い高いと言う。たとえ安くなっても安いとはなかなか公式に言うものではない。江戸時代でも同じだろう。また、借金したり、田畑を売らなければならないときの証文にも「年貢が払えないから」と書くのが常套文句だったという(38)。こうした文書を見てそのまま「農民を没落させるまでに過重な年貢」と結論づけてはいけない。歴史の実像に迫るには常に適切な史料批判の手法が必要だ。特に建て前と本音の乖離が激しかった江戸社会の分析にはそうである。また、これはあらゆる国・時代の政権交代に言えることだが、明治維新を経た近代日本の統治者たちが、自らの体制を正当化するためにその前の徳川社会を必要以上に暗黒に描いた事情も考えなければならない(39)。
江戸時代の支配構造を解明するため、年貢ほど基本的な研究対象はない。しかし、この年貢問題が「なぜか最も立ち遅れた研究分野のひとつになっている」と佐藤常雄と大石慎三郎は嘆いている(40)。彼らは、1716年以降の幕領400万石の名目年貢率が30〜40%だったと算出している(41)。信濃国更級郡中氷鉋村について詳細な分析をしており、1628年から1870年まで、名目上の年貢が最高で56%、最低で29%だった。享保期(1716〜1736年)以降は定免法が施行されたため44%の定率となった。しかし、この年貢率は、検地帳に記載された米の石高に対する形式的なものに過ぎない。明治初年時の統計から算出して、米以外の主要農産物を加えると年貢率は20%に下がる。さらに、繭、生糸、実綿その他の農産物、農産加工業(酒造業など)、農閑稼ぎ、出稼ぎなども加えると、「村民所得」全体に対する実質税率は10%以下にまで下がってしまう。現代の税率より低い。近江国膳所藩領の村々でも同様な計算をして実質租税率十数%から20%という数字を出している(42)。
江戸時代経済の第一級史料である前出『防長風土注進案』(荻藩編纂、1842年)を詳しく分析した穐本洋哉によれば、周防、長門17宰判(郡)の天保期(1840年代)における実際の租税率は21.6%であった(43)。農業(米、麦、雑穀、林産物、野菜、果実、商品作物など)への賦課率が28.6%であるのに対して、非農業(商業、木綿織、製塩、職人、製紙など)への課税はわずか1.3%という内訳である。三田尻宰判の租税を詳しく分析しているが、その田高3万6,742石に対する名目上の年貢は41.3%だったが、それは80年前の宝暦検地高に対する課税で、実際の米出来高4万6,509石に対する税率を計算すると32.7%となる。さらに裏作の麦出来高への課税がないので、この出来高も計算に含めると田租率は25.3%に低下する。また畠地出来高への税率は3%であり、酒場銀、地料銀、山立銀、運上銀など商業・サービス業課税を含めた非農出来高税率は2%以下であった。すべてを計算に含めると三田尻宰判の実際の税率は12.3%になってしまう(44)。同宰判は、非農経済が比較的進んでいたところなので全体の平均税率21.6%を下まわった。宰判(郡)別税率は地域の非農化率に応じて1割程度から4割程度まで広く分布している。
江戸時代の徴税が甘かった理由として、百姓一揆からの圧力、商人資本の圧力、毎年の米収穫量を測定すること(検見法)の困難さ、売り上げや産業所得を正確に算定することの困難さなど、さまざまな要因が指摘されている。しかし、基本的には当時の賦課が封建地代であり、経済的に厳密に税を取るという観念そのものが欠落していたことがより根本的であったと穐本は言う。
「領主が人格もしくは身分支配にもとづいて領民から地代の徴収を行なうという封建地代の特性を重視するならば、上納は不定期で恣意、多様な側面を多分に有していたとしてもいっこうにおかしくはなく……商人による運上、冥加、御用金はまさしくこうした類の上納であった……組織的、画一的な徴収でなければならない必然性はない。ましてそれをときどきの経済量(=石高)の変動に応じて収公=制度化するなどという発想はもとよりなく、本来の封建地代の徴収に徹するのであれば、たとえ経済の産業化の動向を熟知していたにせよ、封建権力者として商人からの上納を課税制度化することなど思いもよらぬことであった、との推測をうむ。その点からすると、封建地代としてむしろ異例であったのは農業課税=石高制のほうであったというべきであろう。」(45)
「この10年間は徳川時代にとってよいものだった。それは今、封建的停滞の深みから持ち上げられ、文化的覚醒と知的バイタリティーの時代として評価されるようになった。その経済は、同時代後半の生活水準上昇の明確な証拠を見つけ出した歴史家、人口学者の努力により、一貫して素晴らしいものに見える。この『修正主義』――もうそんな言葉は不適当にさえ思われるが――は明治維新にいたる1世紀間に1人当たり所得が成長し続けたことを明らかにした。そしてこの所得成長は、商業的な農業、農村の副業と工業などにより農民の貨幣所得アクセスが高まると同時に人口増が止まったときに実現したのである。」(46)
確かに最近、江戸研究のルネッサンスと言える動きが活発化しているだろう。明治以降の為政者によっても、戦後のマルクス主義歴史学によっても、江戸時代は抑圧と収奪の暗黒の時代と描かれてきた。適切な位置におさえなおす必要があろう。それなしには、日本の近代化の本質も的確にとらえることができない。
もう一度、以上の議論をまとめ確認しておくと、まず、太閤検地により土地の農民所有が明確になり、小農独立の基盤が整備された。江戸時代初期にかけての大規模開墾の時代にもうながされて小農経済が確立した。中世までの大家族制が分解し、直系三代までの小家族制度が広がった。武士は城下町に集住し、村に一定の自治が可能となる余地が生まれた。年貢は検見法から定免法に移行し、農民が生産を増大させるインセンティブがついた。米作以外の農業や非農業生産にはほとんど賦課がなされなかった。
小農社会では農業それ自体が私的インセンティブに支えられた自営ビジネスであり、活発に副業ビジネスも行い、家業としての商工、サービス業も増え、次第に商品経済と資本主義の芽が村から育っていった。田中の表現によれば「明治時代の日本を支えた人たち、つまり土地資本家も銀行家も醸造資本家も織物企業家も、みんな日本の村からおどり出た人々である。新しい資本主義のエネルギーは、すべて村から育っている」(47)というような事態が進行したのである。
「小農社会とは、農業社会において、自ら土地を所有するか他人の土地を借り入れるかを問わず、基本的には自己および家族労働力のみをもって独立した農業経営を行なう小農が、支配的な存在であるような社会である。自己および家族員以外の労働力を用いることはあっても、それはあくまで副次的な役割を果たすにとどまる。このような小農社会は、一見したところ時代を問わず、地域を問わず、きわめて普遍的な存在であると思われるかも知れないが、ある時期以降の東アジアにおいてほど、小農が圧倒的比重を占めつづけた社会はむしろ例外的である。」(49)
前節で詳述したとおり、日本では16、17世紀に小農社会が成立するが、朝鮮でも同じころ、また中国では15、16世紀の明時代に小農社会が形成された。中国では、唐宋時代に華北の畑作農業から江南の稲作農業へ農業の中心が移行するが、宮崎らは最近の研究にもとづいて(50)、明代前半(14世紀後半、15世紀)にこの江南稲作が支谷平野から太湖周辺のデルタ地域に移ったことを明らかにする。つまりここでも、日本の大開墾時代同様、農業の中心が洪積平野から河川下流部の沖積平野に移行していたのだ。
中国では士大夫層、朝鮮では両班層、日本では武士層がこの時代の耕地開発を推進した。しかし、一旦開発が終了して集約的な稲作の発展が追求されるようになると、こうした上層農民・領主層は次第に農業経営から分離していった。武士が城下町に集住して農民の直接支配から分離されたように、両班層や士大夫層も、科挙に合格して政治的支配層入りを果たしても領地を与えられることはなかった。「集約化を実現するためには、従属的な労働力を用いて大規模な直営地経営を行なうよりは、小借地人に土地を与えて彼に経営をまかせ、そこから地代を取り立てるほうがはるかに生産性が向上する」(51)ためである。
同じく東アジアの小農社会を論じる中村哲は、そこに特定の地理的気候的条件も見いだす。つまり、「東北アジア、とくにそのモンスーン地帯は夏に高温多雨であり、作物の生育も旺盛であるが雑草も繁茂する。雑草を駆除しないと作物は雑草との競争に負けて収穫が激減してしまうが、除草をよくすると作物の収穫は飛躍的に増加する。作物が生育している耕地で除草しなければならない。つまり中耕除草であるために、除草は人間が直接(家畜などを使用するのでなく)行なわなければならないことが多い。そのために極めて労働集約的となり、家族労働による経営面積は小さくなるが、土地生産性は極めて高い。」(52)
宮崎は朝鮮における小農社会の成立を詳細に分析するなかで、呉希文が著した『瑣尾録』という16世紀末の日記を紹介している。呉は、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)で南部地方に避難生活を余儀なくされた。そこで土地を所有する両班として奴婢たちを監督し、彼らの怠惰な農作業を繰り返し繰り返し嘆いている。奴婢による農業労働がいかに非効率的であったかわかる。実際、この朝鮮では17世紀に奴婢による直営地経営が衰退して小農社会が確立していく(53)。日本の事例でも、たとえば深谷克巳・川鍋定男が紹介する19世紀前半上州前橋藩の「藩直営農業」の試みが興味深い。江戸時代としては珍しく、「御雇い人」(農業労働者)を雇って水田耕作をさせた。結果は散々な失敗で大赤字。藩はあらためて小農を入植させてそこから年貢を取る方式に切り替えた(54)。
東アジア近代化の基礎にある「儒教的文化圏」のそのまた基礎に小農社会の存在があったという説はかなりの説得性を持つように思われる。中村によれば、東アジアは「アジア、アフリカ、ラテンアメリカのなかで小農民経営の発展段階が最も高く、近代においても(植民地期も含めて)その発展が他のアジアやアフリカ、ラテンアメリカとくらべて相対的に顕著であったことが、東アジア資本主義の歴史的基礎条件であった」(55)という。小農社会は農民の活力と勤勉革命を生み、多彩な副業と起業家活動を生んだ。それが近代において強靭な在来産業と小企業セクターに受け継がれ、この地域の急速な産業化を可能にした。そのような流れが推定できる。
「所得が低くとも、労働条件が厳しくとも、生きてゆくためには現在の仕事に甘んじるほかはない人口は多かった。失業の自由がなく、不利な条件下でも働かなければ食べてゆけないために擬似完全雇用が成立しているのは、日本を含むアジア諸国に広く見られた状況であって、『全部雇用』と呼ばれる。こうした人口を吸収するさまざまな職業が形成され定着していったのである。在来産業は、その底辺に、失業して無収入のまま過ごすことのできない人口を抱え、家内工業者や諸職人や小商人を中間にもち、少数の大商人や地主・家持などを頂点とする社会層をなしていたと考えてよいであろう。」(56)
「全部雇用」は、戦後混乱期の日本経済分析の中で東畑精一が提唱し(57)、その後長らく忘れ去られていたが、梅村又次(58)、野村正寶(59)らによって発掘され磨かれた概念である。日本では戦後の混乱期にあっても失業率が2%以下だった。人々は貧困のなかで日雇労働から行商までどんな仕事にもついて必至に稼いだ。これで「完全雇用」が実現しているなどとはとても言えない、ということはどんな経済学者、政策担当者もわかっていた。そこに出てきたのが「全部雇用」の概念である。賃金に満足しているわけではない。高い生産性を上げているわけでもない。しかし、とにかくほぼすべての人が仕事をし、何とか生活している。日本の経済にはこのような「全部雇用」を可能にする構造がずっとあり、それは現代においても、欧米諸国に比して日本の失業率を低いレベルにとどめている。
「全部雇用論」を受け継いだ梅村は、その成立を「縁辺労働者」の存在から説き起こした。主婦など「縁辺労働者」は好況時には安い賃金で働くが、不況になると家庭に帰り非労働者化する。つまり、実際は失業するのだが、求職活動を行わない(労働者でなくなる)ので「失業者」の統計から外れる。縁辺労働者の境界移動によって可能となる全部雇用は、こうして労働市場の効果的な自己調整メカニズムともなってきた、とする。梅林は女性労働力を中心に論を展開するが、失業すると田舎の農家に帰り、労働市場から消えた次男、三男も同じような縁辺労働力として理解することが可能だろう。
その後死語となっていた「全部雇用」概念を1990年代に甦らせた野村は、全部雇用の巧みなメカニズムを、さらに「大企業モデル」「中小企業モデル」「自営業モデル」ごとに詳細に分析し、これまで社会のセイフティネットとして機能してきた全部雇用が、今、規制緩和その他諸条件の中で衰退していることを示す。全部雇用による「日本型社会福祉社会」と「社会安定化メカニズム」が消滅することが、日本の直面するより根本的な構造的転換だとする。野村は結論的には「全部雇用を維持しながら公正な社会」をつくっていく方向を提言している。
小農経営が長く続き、在来産業を中心とした厚い自営業・中小企業層を持ってきた日本は、全部雇用的な必死の就労形態が広がる条件下にあった。江戸時代の農民の副業や「無高の百姓」の活発な非農業活動なども、こうした全部雇用論の対象になるような労働形態だったかもしれない。
全部雇用の根底にあるのは家族である。家族こそが、農家の次、三男、主婦、若年労働者、フリーターなど「縁辺労働力」を供給し受け入れる。家族・家計の支えがあるからこれらの労働者は低賃金の縁辺労働者として存在できる。仮説だが、たとえば制度経済学者ロナルド・コースが市場経済のなかに企業という組織経済(「命令経済の島」)を発見し、企業が市場に対する生産側の戦略であることを明らかにしたように(60)、家族(家計)は、市場に対する消費側の戦略と言えるだろう。市場経済において、生産者も消費者も独立した個人として経済行動を行うのではない。実際には市場の不確かさに対抗するため生産者は企業という組織をつくりこれに対抗している(企業の中は「命令経済」であって、もはや自由な市場とは異なる世界である)。それと同じように、消費者は家族(家計)という組織をつくり組織防御のなかで市場を泳いでいる。家族は小農や自営業など生産者としても行動してきたが、その際にはたとえば副業、出稼ぎ他多様な複合経営戦略をとって市場に対抗する。家族が生産の場でなくなり、消費の場に限定されるようになってからも、消費を家族協同で行い、賃金を分け合い、パート主婦やフリーターの縁辺的労働を支え、全部雇用を確保する。
長い小農経済の伝統下にある東アジアでは、家族倫理を強調する儒教文化の存在とも相まって、こうした「市場に対する家族的戦略」が強い力を持った。欧米文化と異なり、成人しても子どもを家庭内で支える日本的家族を基礎に「フリーター」の存在が可能になる。おそらくアジアの途上国などでは、こうした家族的支援装置の外に、共同体的な助け合いのメカニズムも強固に存在し、それがさらに徹底した全部雇用のサバイバル労働を可能にしているのではなかろうか。
インフォーマル・セクターの中心に存在するのは自営業である。ありとあらゆるビジネスニッチを探し、わずかでも金になる事業をビジネス化して身銭を稼ぐ。
「多くの途上国諸都市における起業活動があまりにも拡大しているので、人は路上であらゆる物を買えるのではないか、小起業家は絶え間なく稼ぎのチャンスを狙っているのではないか、という印象をもつかもしれない」とハーゲン・コーは言う。
「途上国の『個人』及び『家族企業』のセクターが都市労働人口の半分以上を雇用するという推計もある。それに関する学問的研究も、人びとが途上国でもつ印象を確証しているようだ。途上国において、小規模な都市部起業活動は、産業的・官僚的職業の成長を量的に圧倒している。」(61)
途上国での起業活動の理解には注意が必要である。多くの場合、それは先進諸国に比べて圧倒的に貧困な社会に見出されるため、先進諸国の起業活動とはまったく異なる現象ととらえられがちだ。しかし、バラ色で後光がさしてなければベンチャーや起業家経済ではないと思うのはおごりであろう。先進国のベンチャー、SOHOでも基本には生きんがための必死の民衆的ビジネスの側面がある。安定した大企業労働に代わってそうした不安定な自営型就労が増大していことを現代における貧困化、搾取の形態ととらえる見方も根強いことを想起しておきたい。
途上国インフォーマル・セクター、インフォーマル経済については、国際労働機関(ILO)が活発な調査、提言活動を行ってきた。スタンスとしては、劣悪な労働条件などインフォーマル経済の負の部分を改善しながら、これを途上国発展に結びつける方途を模索する、というものである。単に労働条件の改善だけでなく、下記のように「起業」の持つ可能性に関しても積極的提言をしていることが評価される。
「インフォーマル経済の労働者や事業体は、起業の大きな可能性をもつことができるし、蓄積された技能も持っている。ビジネスに対する真の眼識や、創造力、ダイナミズム、進取の気質などももっており、直面する障害を取り除くことができれば、こうした可能性を開花させることができるのである。インフォーマル経済はまた、ビジネスの機会を育て、働きながら技能を身につける場を提供する役割を果たすこともできる。この意味において、有効な対策が実施されれば、インフォーマル経済は、フォーマルな経済に近づき移行するための足場となることも可能であるといえる。」(62)
研究方向を展望する意味から仮説的に言えば、このようなインフォーマルなサバイバルビジネスはどこの社会にも生起するものである。日本の江戸時代から明治にかけての経済がそうであった。これを基盤にその活力をいかに本格的な産業化に結びつけるか、そこに問題の核心があろう。日本や東アジアの新興工業諸国はこのプロセスをある程度成功裏に進むことができた。それはなぜなのか。小農経済の保護、寺子屋など民衆教育の普及から幕府の非農業課税の失敗まで、意図的か否かを問わず、幕藩体制下の諸条件を、評価しなおす必要があろう。
愛知県(尾張、三河)は、戦国の世を収拾し近世的秩序を生み出した3人のリーダー(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の出身地域である。日本地図を広げればわかるとおり、尾張は日本有数の沖積平野たる濃尾平野をかかえ、かつ(関東平野などに比べると)京にも近い地の利を持っている。この地政学的位置が天下取りに幸いしたというが戦国史の定説だ。言葉をかえると、農業の中心が16、17世紀「大開墾の時代」を経て洪積平野から沖積平野に移る時期、その経済力を背景に、新しい秩序を形成しようとする勢力が京に近い大規模沖積平野から台頭した、ということであろう。
太閤検地を行い小農経済の端緒を開いた秀吉は濃尾平野の中中村の出身であり、同平野の交通と物流の中心都市・津島の経済と結びついて台頭したとの説がある(63)。当時、津島は海に面した良港で、異形の神・牛頭天王を祭る津島神社の信仰と相まって、この地域の中心的都市的機能を果たしていた。当時、尾張第一の都市は織田氏の城下町・清洲で、津島が第二の街だった。織田氏は信長の祖父、信定の時代に津島を領土化した。信長はここに経済基盤をおくとともに戦力でも津島衆に多くを依拠した。秀吉もその商人的な才覚をこの津島との関係で育んだとされる。
幕藩体制を確立する徳川家康は江戸に本拠をおき、名古屋は政治的支配の中心からは外れる。しかし、名古屋周辺では江戸初期に大規模な干拓が行われ(64)、沖積平野型農業は拡大した。小農経済が発展し、副業と商品生産が活発化した。東海(美濃・尾張・三河・駿河)は山陽と並んで小農が最も早く順調に自立してきた地域だった(65)。19世紀に入ると、尾西地方で先進的な木綿縞織のマニュファクチャーが成立し、農村的局地市場圏が形成される(66)。1830年代から幕末にかけて、同じく先進地域だった畿内が落ち込み、国内市場形成の主導権は東海と瀬戸内方面に移り始めた(67)。
自生的発展の道を典型的に進んだのがこの名古屋地域だったと言えよう。明治になってからもそれは継続し、東京と大阪が国家による殖産興業政策で潤うなかで愛知県は取り残される。現岡崎の官営愛知紡績所以外、官営工場はなく、鉄道の敷設や貿易港の指定も遅れた(68)。在来の中小企業を中心とした愛知県産業の特質ができあがる(69)。しかし、最初に見たように、そこから在来の技術・産業を基礎として強力な名古屋経済発展の途が開かれた。日本における自生的発展の道を典型的に歩んできたこの地域の、それゆえの「創意に生きる」(70)身の処し方であり、その結果としての今日の強力な経済形成であった。