ボランタリーの失敗

岡部一明「アメリカのボランティア活動」(内海成治、入江幸男、水野義之編『ボランティア学を学ぶ人のために』(世界思想社、1999年、IV2)より


 アメリカ的な社会風土の中で生まれた極めてアメリカ的なボランティア理論にレスター・サラモンの「ボランタリーの失敗」論がある。通常、ボランティアや非営利団体(NPO)活動は、「市場の失敗」や「政府の失敗」理論で語られる。利益のみを追及する市場が市民社会を破壊し、ピラミッド型の融通の効かない政府が有効な公共サービス提供に失敗し、したがってそこで分権的で自由な市民のボランティア活動とNPOが必要になってきている、と主張される。だが、サラモンは、あくまでボランタリー・セクターを中心に考える。連綿と続いてきた市民の自主的非営利活動こそが基礎であって、それが限界につきあたったところに初めて政府が出てきたと言う。

 「議論を転倒し、ボランタリー・セクターが単に政府と市場の失敗に対する副次的対応であるといった見方を退けることが可能である。そうではなく、ボランタリー・セクターこそが共同的財を提供するためにより好ましいメカニズムであると見る。この論からすれば、ボランタリー・セクターの一定の欠点のゆえに必要とされるに至った政府の方が副次的機関と言える。」(Lester M. Salamon, "Partners in Public Service: the Scope and Theory of Government-Nonprofit Relations", Walter W. Powell, ed., *The Nonprofit Sector*, 1987.)

 ボランタリー・セクターの失敗をサラモンは「フィランソロピーの不充分性」、「フィランソロピーの偏重性」、「フィランソロピーの家父長的尊大性」、「フィランソロピーのアマチュア性」などに分類し、詳細に分析している。例えば寄付に頼るボランティア活動では、充分な資金が集めにくい。自分は拠出せず便益だけ受けようとする「フリーライダー」が生ずる。篤志家の存在する地域と、援助を必要とする地域がかけはなれている。恐慌時のように、問題が起こった時に篤志家側も打撃を受けてしまう場合がある。特定の層や問題に強い関心を寄せられるのが自主的市民組織の長所だが、同時にそれは重要な層や問題をなおざりにする危険もはらむ。サービスの不必要な重複も生む。資金源が特定の裕福者に片寄ることから、サービスがその個人的な好み左右される危険もある。権利でなく恩恵として援助が与えられることで返って依存が強まる危険もある。社会福祉におけるプロフェッショナル性の不足は、例えば貧困の問題を精神的訓告や宗教的教示だけで解決しようとする傾向も生む、などなど。

 こうした「ボランタリーの失敗」に対して、確かに政府はある種のオルタナティブを創出しているだろう。税金という平等かつ強権的な方法による資金の徴集、選挙など民主的手法による資金運用(行政)のチェック、社会全体を見渡しての資金の重点的投入、権利としての福祉やプロフェッショナリズムの導入などなど「ボランティアを補完する」政府の特質が容易に浮かんでくる。政府をボランティアの補完機構と規定することにより、サラモンはボランティアを市民社会の本質の地位に押し上げた。

 「地域諸問題への共同行動に必要な社会的責務感覚を創出するためには、個人が隣人とともに選択の自由を犠牲にすることなく参加できるボランタリー・ベース、地域又はグループのレベルでの活動が最も適切である。社会的責務感覚の育成がこのレベルから遠ざかれば遠ざかるほど、それは希薄なものとならざるを得ない。経済理論では、政府、とりわけ全国的政府を共同財提供の主要手段として扱うが、これはボランタリーな活動に比してはるかに不安定な基盤を生み出す。これに対する代替理論では、政府行動は“ボランタリーの失敗”、つまりボランタリー・セクターの内包する欠点、を修正するためだけに適切なものとなる。」(同書)
 


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