ポートランドの謎 パットナムの分析から

なぜポートランドだけが


 ポートランドはアメリカで最も市民活動の盛んな都市と言われる。ソーシャル・キャピタル論の大家、ロバート・パットナムは、最近著[1]の事例分析最終章でこのポートランドを取り上げ、「ポートランド:市民参加のポジティブな疫病」(Portland:a Positive Epidemic of Civic Engagement)と題して詳論している。彼は言う。

 「私たちが、ポートランド及び他都市からの二〇年に渡る膨大な調査結果の集積を分析して明らかにしたところでは、一九七四年のポートランドの市民活動は、他の同規模の大都市地域のそれと実質的に同じレベルであった。一九七〇年代のポートランド市民は他のアメリカ人に比して取り立て市民活動を活発にしていたとか不活発だったということはない。しかしその後二〇年で溝は次第に広がり、他都市が次第に隔離された受動性に落ち込んでいくのに対して、ポートランドは目を見張る市民的ルネサンスを経験したのである。」[ 2]

 例えば、一九七四年には二一パーセントのポートランド市民が街や学校についての行政会議に参加していたが、一九九〇年代には、これが三〇?三五パーセントにまで上昇した。他の同規模都市は、同時期、二二パーセントから一一パーセントに減ったのにである。新聞などへの投書も、七四年にポートランドも他都市も住民の六パーセントが行ったにすぎないが、九四年にはポートランド一七パーセント、他都市四パーセントと格差がでていた。署名活動にサインする人の割合は、七〇年代でもポートランド五ー六〇パーセント、他都市四〇パーセントと差があったが、一九九〇年代半ばでは七五パーセントと二五パーセントという大差に拡大している。一年間のうち地域団体・機関の役員になった人の割合も、七〇年代初めに一五?六パーセントで同じだったものが、九〇年代には二八パーセントと七パーセントの差になっている。ポートランドと他都市の間に明瞭な差が出てきているのを明らかに見てとれるだろう。

 「そこで出てくる疑問がこれだ」とパットナムは問う。「一九七四年以降の二〇年間でいったいどういう魔術的妙薬がポートランドの市民参加とソーシャル・キャピタルをこのように圧倒的に増大させたのか。」
 

市民参加の疫病


 だれもが興味をそそられる謎である。多くの研究者がこの謎の解明に挑んだ。パットナムも、まず七〇年代以前の「前史」をたどることから試みる。

 一九六〇年年代は、公民権運動、学生運動、ベトナム反戦運動、カウンターカルチャーの時代であった。他都市と同様にポートランドでも多くの運動が起こったが、特に一九六九年、ポートランドの中心を流れるウィラメット川沿いの高速道路を撤去させた住民運動が重要だった。高速道路建設の全盛時代にこの運動は成功し、四車線の自動車道は撤去され、川沿約一・五キロにわたり緑の公園がつくられた。その後全米に(そして日本にも)広がる「ウォーターフロント公園」の先駆けとなった。

 数年間続いたこの高速道路撤去の運動が、ポートランドの市民活動を活性化させ、一九七二年の選挙で三二歳の革新派市長ニール・ゴールドシュミットを誕生させた(在任七三年?七九年。後、州知事、連邦交通省長官もつとめる)。

 それ以降の市民活動の活性化をパットナムは時代順にあとづけるが、「なぜポートランドだけが」の答は容易に出てこない。他の多くの研究者の説、証言から次のような要因をあげる。まずだれもがあげる点だが、ポートランドのネイバーフッド協会制度による市民参加支援体制の存在、市民の声に対応するポートランド行政の柔軟性などを出す。さらに、より基本的な要因として、あまり大きすぎない中規模都市という条件、比較的ゆっくり進んだ同地域の成長、人種的・所得階層的に比較的均一で住民が一体性を持ちやすかったことを示す。しかしこれはポートランドの昔からの特徴で、ならばなぜ七〇年代にポートランドは他都市と同じ市民参加状態だったのか逆に説明がつかない。七〇年代の都市再開発がコミュニティーを破壊し人々の反対運動に火をつけたこと、この時期増大した連邦政府の開発補助金が市民参加を要件としていたこと、などの説も検討している。しかし、これは他都市も同じ状況だった。革新的な人が他からやってきたから革新化したという単純な説も紹介している。ポートランドの革新性と環境重視の街づくりを伝え聞いて、そこに同じような理想をもつ人々が集まってきた、と。荒唐無稽に聞こえるが、いろいろな証言がそれを支持している。理想を追い求めてやってきた彼らは、ポートランドが必ずしも理想ではないことを知ると市民活動に向かった、という説もパットナムは真面目に検討している。

 産業革命がなぜイギリスに起こったか、シリコンバレーになぜ活発な起業家経済が起こったか、などと同じで、この種の問いにはなかなか確定的・客観的な答を出すことができない。結局、パットナムは「市民の臨界質量が参加することにより参加がこの地域で常識となった」として「ポートランドにおける市民活動のポジティブな意味での疫病」[ 3]が発生したというという苦肉の結論にたどり着く。ここで「臨界質量」とは、それ以上の質量が集まると核連鎖反応が起こる臨界点の質量のことである。ポートランドでは市民活動の集積がついにこの臨界質量に達し、以後、疫病のように市民活動の連鎖反応が続いた、ということである。隣近所の人たちと世間話をすると何かの市民活動に関わっているという話が出てくる。喫茶店に入れば隣のグループが市政について議論している。近くの公園でしょっちゅう集会が行われる。新聞にイベントの案内が毎日のように出る。実際に運動を起こして成功した人たちが身近に居る。そうした空気の中で、人々は連鎖反応的に活動に参加し、活動することが常識になり、その常識が人々をさらに行動に動員する。

 市民社会の活性度は、単に客観条件だけで自動的に決定されるものではない。ある一定レベルに達すれば連鎖反応的になる。つまり人々が躍動し、人間的共感と意思の力が質的に新しい状況を生み出していく。何かが起こる時の、その辺の人間の側の芸術的働きを、パットナムの「市民活動のポジティブな疫病」という言葉が言い表している、と私は解釈した。
 
 

ネイバーフッド協会支援制度


 煙にまかれた感がないではないパットナムの所論の中に、やや「これが最有力かな」と感じさせる一要因が叙述されている。彼は言う。

 「この(なぜポートランドが特別だったかの)問いに答えるには、不可避的にゴールドシュミット市長の時代にはじまる制度的な革新に至らざるを得ない。出来事のクロノロジーは、これらの(ネイバーフッド協会局に要約される)諸制度が、一九六〇年代にポートランドで(他と同様に)草の根から湧き出しユニークに展開したた市民活動を維持・促進する役割を果たした、ということを強く示唆する。ゴールドシュミットや市政府における彼の後継者たちは、活動家たちと協働(そして闘争)することに事の他たけており、創意的なアクセスチャネルと新たな公開の気質を生み、地域が今までにないレベルの市民参加に到達することを可能にした。」[ 4]

 いろいろ市民間の連鎖反応で活動が活発化していったとしても、一九七四年にネイバーフッド協会支援制度が全市的に導入され、それが市民参加の手段・制度的枠組みを以後も一貫して提供した、ということがそれら連鎖反応を長期にわたって保証する大きな要因になったのではなかろうか。


近隣連合事務所サウスイースト・アップリフト

近隣団体を通じた直接民主主義


 一九七〇年代以降のポートランドの市民活動の活性化を詳細にあとづけ、パットナムの議論の下地を提供したスティーブ・ジョンソンも、この近隣団体制度の重要性を次のように指摘する。

 「一九七〇年代におけるポートランドの近隣システムの制度化は、かつてなかった数の団体や市民を自治体の動きに直接関わらせることになった。ネイバーフッド協会で活動する市民は公式に任命されているわけではないが(役員は年次総会で選挙されている)、彼らは公共政策の議論において自身の近隣を代表している。近隣システムは、直接的な、顔を付き合わせた、民主主義のイノベーションであり、市の市民諮問委員会構造を通じて進化しつつあった任命型・代議型の市民参加を補完していた」[ 5]

 六〇年代末からの「近隣に権力を」の活発な近隣団体運動を受けて、ポートランド市は一九七四年に条例により近隣団体を明確に規定すると同時にこれを市への参加機関として半ば公的に認知する。その条例で近隣団体は次のように規定された。

 「いかなる近隣団体も、市及びいかなる市の機関に対しても、近隣の居住性に関わるいかなる案件についても、行動、政策又は包括的計画を勧告することができる。その案件には、土地利用、ゾーニング、住宅、地域施設、人的資源、ソーシャル及びリクリエーション的行事、交通量と交通体制、環境の質、オープンスペース、公園などを含む(これらに限るものでない)。」[ 6]

 単なる地域の身近な日常活動をまかせたというのではなくて、市に地域を代表して物申す参加機関としての役割を明確に付与した。自治体と同じように、会議の公開、地域境界の確定、役員の選挙などが規定されると同時にそれらが満たされれば公式の市認定団体として、一定の公的発言権が付与された。それと自治体をつなぐものとして近隣団体局(ONA)が市の機関としてつくられた(現ONI)。近隣団体はこのONAを通じて市から一定の資金助成も受ける。さらに近隣団体とONAを仲介する中間組織として一定数の近隣団体ごとに近隣連合事務所(Coalition Office)がつくられ、その理事会は各近隣団体の代表で構成されることになった。

 ジョンソンが言う通り、この近隣団体制度は直接民主主義的である。当初、市が公式に認定するのは中間の近隣連合事務所までで、ここには任命型の役員をおく案もあった。しかし近隣団体の人々がこれに強硬に反対し、市が直接近隣団体を認定する形が実現した。近隣連合事務所の権限は大幅に弱められ、市の職員も配属されるがその団体自体は独立した非営利団体(NPO)であり、その執行部である理事会は近隣団体の代表で構成されることになった[7]。ここで、近隣連合事務所は最初はいわば市役所支所のようなものになる可能性もあったわけである。それがあくまで近隣団体にかしずく住民団体にとどまることになった。近隣団体に結集した住民は、直接に市政府を対象とし、そこに意見を言える。近隣連合事務所はそのサポート機関だ。
 

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 1 - Robert D. Putnam and Lewis M. Feldstein, Better Together: Restoring the American Community, Simon & Schuster, 2003.

 2 - pp.241-242.

 3 - p.255.

 4 - p.252.

 5 - p.99.

 6 - p.102.

 7 - p.101.
 
 




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