アフリカ・飢餓の大地 −南スーダン、ケニアの旅 1981年

岡部一明『南スーダン、ケニア、1981年』( アマゾン電子出版、2016年)より

暗闇からの人々

 トラック・キャラバン隊一同の夕食が終わると、ひたひた忍び寄る人影に気づいた。最初は暗くてよくわからなかったが、それは人の群れだった。キャンプのように野外炊飯して食べた「食膳」のまわりに現地住民が音もなく近寄ってきた。そして、地面に落ちた残飯をついばみ始めた。

 「かまど」あたりでは、炊事でこぼれたウガリ(とうもろこし粉でつくったマッシュポテト料理)をやはり地面からついばんでいる。カラになった鍋の底をさらう者もいる。

 トラック乗組員たちが気づき追い払う。「この野郎!」というような大声を出し、棒を持って追う。現地住民はどどっと暗闇の中に引く。しかし、すぐ寄せ返してくる。私たちの目を盗み、忍び寄っては地面のものをついばむ。

 乗組員は、今度はかまどから火のついたまきを取り上げ、「立ち去れえ」とばかりに恫喝すした。闇深くまで追いかけ、火を振り回す。現地住民は逃げ散るが、やがてまたひたひた寄ってくる。繰り返しだ。

 身震いした。いったい何だ、これは。ここの住民たちはこんなにも飢えていたのか。そういえば昼間見た彼らの中には骨と皮のように痩せ細った人々も居た。

 1981年4月、スーダンン南部の街ジュバからケニアのナイロビまで、約1500キロを6日かけトラックで走破した時(地図参照)。国境を越え、ケニアのトルカナ地方(タラク付近)を進んでいる時のできごとだった。

 鉄道もバス便もない。道さえあってないようなもの。サバンナの大地を貨物トラック2台に便乗して人も移動する。外国人バックパッカーもそこに入る。ホテルもレストランもない。きれいな飲料水もない。皆食料・水持参で商隊を組み、一日に1回か2回、野外炊飯で食事をとる。

 ショックだ、などというのも白々しい。モノを食っている私らと、食えないで地面の残飯をあさる彼ら。私などは、日1食や2食というだけで衰弱していたが、彼らはおそらく何日も食べていないのだ。さっきまで「星空が美しい」「アフリカの空は大きい」などと旅仲間と語り合っていた感慨がひどくうつろなものになる。同じ空間に存在しながら何と異なる世界に生きているのか。少なくとも、今、自分がどんなところを「旅」しているのかを痛切に悟らされた。

飢餓地帯を旅してよいのか

 前知識はあまりなかった。「世界旅行」をするからにはアフリカにも行かねば、と来ただけだった。マラリアの薬は持ってきたが、飲料水が手に入りにくいことには考え至らず、水の浄化剤は持ってこなかった。後で調べると、確かに遊牧民の住むトルカナ地方は、過剰遊牧や日照りにより頻繁に飢餓が発生するところだった。1980年から81年にかけても干ばつによる飢饉がおこり、死者が出ていた。

 トラック乗客の黒人たちと話した。娘を連れて旅しているナイロビの警察官、教会の仕事で途中まで行くという若い男。二人とも南スーダン出身で背が高い。が、警察官はがっしりし、教会関係の男はひょろ長タイプだ。

 感情的に問い詰める。「なぜ彼らは飢えているのだ。なぜこんなに貧しいのだ。こんなに広い土地があるではないか。乾燥気味だと言ったってちゃんと木も草もたくさん生えているじゃないか。」

 陽気な「がっしりおじさん」が説明する。
 「この辺の部族は遊牧生活をしていて農業を知らない。土を耕すということを知らないのだ。」「土地はあるが、見たとおり岩石が多くて使い物にならない。」

 教会関係の青年は、普通自分からはしゃべらないが、人が話していると突然割り込んでしゃべりだす、というところがある。学者調に話す。
 「いろいろな要素がある。ひとつには不十分な栄養、もうひとつは充分であってもバランスの取れていない栄養。さらに、適切(プロパー)な農法を知らないこと。」
 だれかの言を暗唱しているような調子である。

 私は、このアフリカ旅行で感じた思いを次々にぶつけた。「なぜアフリカは貧しいのか」「北に比べて南スーダンの開発が遅れているのはなぜなのか。」
 ある程度頭の中では答えが出ている問いである。しかし、この問いをもう一度だれかにぶつけなければ気が済まない思いに駆られていた。それにしてもどうしてこんなにひどいのか、教えてほしい、と。

 「北のアラブ人が南を差別し、発展を抑えているからだ」とがっしりおじさん。「トランスポーテーション(交通)がネックになっている。一生懸命働いて農作物をつくっても、街まで運んで売ることができず、腐らせてしまう。だから皆、働いてもしょうがない、となってしまう。」
 ひょろ長青年は「我々はプロパーな生活様式を知らない」を繰り返す。「プロパー」がこの人の口ぐせらしい。それを自分たちを卑下する否定文の中で使う。

 旅行者仲間では、こんな地域を「旅する」ことが許されるのか、という議論もした。答の出ない難しい問いだ。あるいはそうだったかも知れない。が、知らずに来てしまった、ということでそれ以上の思考を回避する。

  (『南スーダン、ケニア、1981年』(8)トルカナ:飢餓地帯を行く、より)


 まだインターネットもないし、「地球の歩き方」も出たばかりで、少なくともアフリカ関連は何もなかった。エジプトから北部スーダンまでの旅も結構きつかったが、それでも一応、途上国の厳しい旅の一般的範疇に収まる。首都カルツームから4日4晩の鉄道の旅で南部の終着地点ワウに着き、そこから本当のアフリカの旅がはじまった。

 ワウから現在の南スーダン首都ジュバへ、さらに国境を越えてケニア北部からナイロビまで。あの時の体験があるから、その後、たいがいの旅が平気になった。どんなに暑くても、不衛生な食事しかなくとも、ぎゅう詰めのバスに乗せられても、揺れても、ほこり、泥をかぶっても、普通の旅なら、とにかくじっと耐えていれば目的地に着くのだ。

 アフリカでは、トラック荷台に80人乗せられ、道とは言えないようなサバンナの道を走行。揺れるたびに鉄板などに体がこすられ痛い。拷問に近いレベルだった。止めてくれと叫びたいが、前に進めなくなるのはもっと怖い(実際、故障や小川の増水で進めなくなる時が頻繁にあった)。ホテルはなく野宿。食堂はなくキャラバン隊(トラック乗員・乗客一同)の自炊。マラリアの薬は飲み続けたが、飲料水がないとは予測していなかった。何日も透明の水を見ることがない。ドラム缶に入った濁り水にヨーチンを垂らして飲んだ。

 35年前の旅行記だが、南スーダンやケニヤ北部は、今でも変わらない貧しさだろう。特に南スーダンは、私が旅した後に残酷な内戦がはじまり、250万人が死んだという。2011年に南スーダン共和国が独立したが、その後も政情不安が続き、状況は当時よりも悪くなっているはず。旅行などとても無理。かつての記録をまとめる気になった。

(詳しくは岡部一明『南スーダン、ケニア、1981年』)

エジプト、スーダン、ケニアの地図


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