芭蕉論、てか自分論

     岡部一明


 松尾芭蕉は遠い存在だ。言葉も違い、教科書の中に出てくる偉い存在。しかし、折につけ、私の中に少しずつ彼の言葉が入ってきた。

 よく頭に上ってくるのは、
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という「辞世の句」だ。

 こんな句を辞世の句にしてしまうほど、芭蕉は旅に駆られていたのか、と感心する。この心象風景は、私にも経験がある。旅に病み、こんな気持ちになったことが何度かある。
 病んでなお夢の中で枯野をさまよう・・・死ぬ間際までこんな心を保ち続けたとしたら、芭蕉は本当にすごい。

 いや、こんな句をわざわざ辞世の句になんてできないのではないか。死のずっと前に用意していた句だろう、とも思った。調べてみると、後の人が勝手にこれ を辞世の句にしたらしい。芭蕉はまだまだ旅を続けるつもりでいたのだが、残念ながらたまたまこれが辞世の句になってしまったということらしい。(とすれ ば、これはますます本当の辞世の句で、芭蕉のすごみが増す。)

 「奥の細道」の有名な「序」。予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思いやまず・・・
 人生の折につけ、この下りが頭をかすめる。私も年を追うごとに放浪の気持ちが高まり、片雲に誘われ、旅に出てしまうことが多くなった。

 月日は百代の過客にして、行かう年も又旅人なり。
 年をとるごとに年月を経るのは早くなり、やがて数百年、数千年の歴史と一体化し、さらに何百万年単位の地質時代、何十億年単位の宇宙の歴史と一体化していく時が来るのだろう。その感覚を私の中の物質的自然がかもしはじめていることにおののく。
 会う人々も百代の過客。一期一会。最も親しい友人、家族とも一期一会で、あっという間に過ぎ去る運命にあることを、この言葉から感じ取る。

 「旅をすみかとす」。この感覚わかる。移動する旅の人生の中に、自分の本当の姿があり、時折定住する自分は仮の姿だ。旅の中に住んでいる、という感覚。
 実際の定住地があってもいい。定住しているが、そこでの生活が、実は長い変転流浪の一局面にすぎない・・・そう感じ取れるような所に自分の精神を置くということだろう。そういう意味で、今後、旅に住める人生を送れればすばらしい。

 舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。
 船頭や馬子(馬による貨客運搬職人)は、職業そのものが旅だ。単なる観察を書いたものであろうが、船頭を漁労民、馬子を遊牧民と考え、これら農耕民より長い歴史をもつ人類の存在形態に思いを馳せることができる。人類はそもそも旅人だったのではないか。

 シルクロードの記憶は日本人のDNAに組み込まれている、と喝破した友人がいた。幾多の民族が興亡し、交流を重ねた絹の道に私たちは魅了される。そのテ レビ特集や文学作品のとりこになり、実際にそこへの旅に出かけてしまう。日本人の祖先の少なくともその一派は、この長大な砂漠と山脈の路をたどってきたは ずだ。

 思うのだが、日本人には、生物学的にかなり色濃く放浪の遺伝子が組み込まれているのではないか。アフリカに生まれた人類の中で、我々「極東」の民は、北 米太平洋先住民に次いで最も遠くまで旅してきた民族だ。もちろん意図的にそんな遠くに来ることを選択してきた訳ではないが、十万年以上の歴史の中で、「い や、きっとあの山の向こうに新しい人生があるかも知れない」と少しずつ、少しずつ移動した人の子孫が私たちなのだ。どんな人々にもそうした性質はあるだろ うが、最も(いや、2番目に)遠くまで来た私たちには、比較的に、そうしたDNAが生物学的にもより強く組み込まれてきたに違いない。
 稲作定住生活が始まり、終身雇用制の厳しい企業社会が始まり、そうしたDNAは徐々に摘み取られつつあるかも知れないが、ときどき顔を出し、ここではないどこか別のところにきっと新しい世界が、と旅立つ人々を継続的に生み出す。私もその一人なのだろう。

 「奥の細道」を私も学校で読んでいた。奇遇だが、私の最初の旅らしい旅は、松島へのサイクリングツアーだった。栃木県北部の高校に居た私は、2年生の 時、当時ようやく出回りだしたドロップハンドルの自転車を買って、旅に出た。奥州方面に向かったのは、南の京浜方面は交通が激しくサイクリングなど無理と 思ったからだ。北に向かったらその先に松島があった、というだけに過ぎない。が、芭蕉さんの人生の後を継いだかのようで気分がいい。松島や、ああ松島や、 松島や。

 芭蕉の時代と違ってこの時の旅は危険なものだった。1960年代末、まだ高速道路はなく、国道4号線は大型トラックも含めて交通が激しかった。路肩も整 備されておらず、自転車の走る余地はあまりない。途中、大型犬が頭をカチ割られてコンクリート上に横たわるのを見たりして驚愕した。
 河原に寝たり、松島のお堂の中に寝たりし、帰りは常磐道をまわって、1週間ほどで大田原の下宿先に帰ってきた。

 東京に出てきてからサイクリング車は盗まれた。東京人とはひどいものだ。サイクリングも止めた。もっとも当時の大都市では、危なくて快適なサイクリングなど無理だった。

 1970年7月に韓国の旅。議政府という街で病に伏した。何の病だったか、下痢だったようにも思うが、熱が出て、宿のベッドに横たわっていた。大きく開 け放たれた窓から、空が見えた。日本は梅雨末期の大雨だったが、朝鮮半島中部まで来ると、雲は晴れ、乾いた大陸の空が広がっていた。
 食料を買出しにだけ外に出たが、近くの街路の市場には老婆たちが野菜を売り、そこを行く私に鋭い視線が集まるのを感じた。サングラスをかけて自分を守った。

 病にうなされながら、芭蕉の句を思い出したかどうかは忘れたが、窓の空を見ながら、旅したいという気持ちに強くとらえられた。国境を越えて来ただけで、 空が、空気がこんなに変わってしまう。違う空間が確実にある。あの窓のむこうにあった空に私は永遠を見たのではないか。それに魅せられ以後の人生をずっと 歩いてきた。

 翌年に台湾に行った。韓国も台湾も、当時はまだ戦前の日本式教育を受けた人々が現役で、日本語がある程度通じた。やはり最初は言葉が不安だったのだ。
 そこから思い切って香港に飛んだ。日本語が通じない所で旅できるかどうか。意外とできた。調子に乗ってさらにバンコクに飛んだ。香港・バンコク間には安便がたくさんあった。

 バンコクで、ヨーロッパとオーストラリアを結ぶバックパッカー・ルートにぶつかった。欧州から中東、インド、東南アジアを経てオーストラリア、ニュー ジーランドに至るルートに貧乏旅行をする欧州系、豪州系バックパッカーたちがたくさんいた。私はバンコクのユースホステルでそうした人たちと付き合うこと になった。そして覚醒した。
 そうだ、世界に出よう。こわごわ近場を旅しているのでなく、全世界を走破しよう。世界の国々があるということは知識として知っていたが、そう、確かに世 界がある。これを俺のものにしよう。ピンポン玉ほどの地球儀を上から下から眺め回し、脂ぎった手で握り締めながらそう決意した。

 その後、マレー半島を下り、インドネシアの島々を渡り、オーストリア大陸を一周して、また同じ道を引き返して帰国。この時の旅行記を「南海の細道」と題 して、大学時代の同人誌用にまとめた。そして次は、北米に旅立った。1973年の9月。中野の3畳の破屋を引き払いて、太平洋の関越えんと、そぞろ神の物 につきて心を狂わせ、以後、「奥の細道」第2幕が始まるわけだ。

         (2015.4)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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