ハノイからラオス東北部の旅

     岡部一明 2015年3月11〜15日



 ハノイ在勤中。2日の休みを取って、土日を含め4日間、ラオス東北部の旅に出た。4年前の8月、ラオスを一周りしたが、東北部オドムセイからパテトラオ (ラオス愛国戦線)の根拠地だった深い山中を抜け、ベトナムのディエンビエンフー(対仏独立戦争勝利の地)に抜けるルートを走破しようとしてできなかっ た。雨季で、道路が至るところ寸断される可能性があり、休暇中に帰れなくなることを案じた。

 2年ほど前からベトナム・ハノイに在住。週末旅行でベトナム北部各地をまわった。ディエンビエンフーにも行った。でも、行こうとして行けなかったところ が気にかかる。ラオス方面までずっと行ってみよう。持病の放浪癖が出たというべきか、たまに旅しておかないと腕(足?)が鈍ると思ったか。
ラオス東北部(ノンキアウの夕暮れ)ラオス東北部(ノンキアウの夕暮れ)
日程:
 11日(水)夜、寝台バスでハノイ発
 12日(木)朝、ソンラ着 −>バス乗り継ぎでディエンビエンフーへ
      −>タクシーで国境の村タイチャンへ −>バスでラオス側のムアンクアへ
 13日(金)朝、舟でナムオウ川を5時間下り、ノンキアウへ −>夜、夜行バスでサムヌアへ
 14日(土)朝、サムヌア着。市内見学
 15日(日)朝、サムヌア発 −>国境通過、バス乗り換えながらハノイへ

(ディエンビエンフーへ)

 3月11日(水)夜、仕事が終わってミーディンのバスターミナルへ。案じた通り、ディエンビエンフー(以下DBP)行きのバスは終わっていた。しかたない、途中のソンラまでのバスに乗る。前回(2013年10月)と同じだ。

 で、前回と同じく、未明のうちに、ソンラのどことも知れぬ場所で降ろされる。しかし、前回は、どこに行くのか聞いて、いろいろインストラクションをして くれたぞ。今回はバスが止まり 全員降りても、乗組員たちは何も言わず、寝てる私をほっといて何やら談笑しているだけだ。

 自分で降りて、バスステーションがあるという方向に歩き出す。たどりつけない。結局動き出した市内バスに乗って、バス停へ。そして DBP行きのバスに。

  DBPは深い山の中。そこに向かうバス周囲の景色はもうラオスだ。山、山、山、そして少数民族の高床式住居がときたま顔を出す。

 正午頃、DBP着。DBPと言えば遠隔の地のイメージ。しかし前に来て歩き回っている。細々とした路地までよく思い出され、遠い地に来た感じがしない。「なつかしい」という感じがするのも妙だが。

(国境を目指す)

 限られた4日間の日程。「慣れ親しんだ」場所でゆっくりしていられない。だが、ラオス行きバスはすべて朝5〜7時に出てしまった*。これから1日DBP に滞在か? まずいぞ。あれこれ考えるうち、止まっているタクシーに聞いたら25キロ離れた国境のタイチャンまで2500円だという。とにかくそこまで行 くことにした。国境の街ならホテルくらいあるだろう。

 正しい判断だった。1時間で着いた国境で、出国手続きをすませると、何とそこに、朝7時に出たラオス側ポンサリ行きの小型バスが止まっていた。朝7時か ら午後2時まで何をしていたんだ、このバスは。フランス人の若いカップルに聞くと、途中で荷積みに3時間止まり、あちこちで乗客を乗せ、出入国手続きでは 荷物検査で2時間かかり…と 大変だったという。

 ラッキー。タクシー2500円でまるまる1日分の行程に追いついた気がした。

 それにこの地図にも出ているタイチャンという国境の「街」。民家はほとんどなく、売店兼食堂が1つあるだけ。山の中の国境検問所だけの風情だ。「ホテルがある」と言っていたタクシー運ちゃんが指差したのはこの売店兼食堂。国境を渡る人もほとんどいない。

 乗り込んだ小型バスは人と荷物満載のすし詰め状態だったが、満足だ。ラオス側最初の街らしい街ムアンクアまで700円だという。ラオス側の国境検問所ま で1〜2キロ走って入国手続き。その場でビザ申請をしてスタンプを押してもらう(アライバル・ビザ)。手数料はなぜか3回に分けて取られて計40ドル弱。 写真は1枚。

 検問所を出ると、山はいよいよ深く、天空を走る山道になっていった。これも前と同じのラオスだ。
バスが途中でエンコバスが途中でエンコ

  ところでこのフランス人カップル、女性の方が日本人とのハーフだと言う。日本語は話せないが、お母さんの出身が「アオモリケン」、とアクセントのない 発音で言った(県西部。津波の被害はまぬがれたそうだ)。道中いろいろお二人と話ができておもしろかった。日本に何度も言ったが、最近行ったとき、台風で 宇都宮に足止めを食ったという。私はその近くの出身だよ。亭主は仕事を1年休みで、2人で世界旅行中。シベリア鉄道経由で来て、すでに7カ月、モンゴルか らインドネシアまでかなりの国を回ってきたという。
 1年仕事を休んでまた同じ仕事に就ける制度がフランスにはあるそうだ。すばらしい。働きすぎの日本にも必要な制度だね。

(メコン支流の村、ムアンクア)

 ムアンクアは、山ばかりのこの辺りで本当に唯一街といえる街。といっても、わが故郷、栃木県東部の小川町(現那珂川町)くらいだが。ホテルやATMもあるのがありがたい。

 この辺は、メコン川の支流ナムオウ川が流れている。支流の、しかもかなり上流で、かつ乾季の終わりの時期だというのに、満々と水をたたえ、那珂川の下流のようだ。ムアンクアは、道路だけでなく、この川の交通にとっての要衝としても発達したようだ。
ムアンクアの街(波止場付近)ムアンクアの街(波止場付近)

 ホテルはシングル1000円で舟着き場の近く。暑いところなのに、ちゃんと電気温水機があってお湯シャワーが浴びられるのに感心した。

 ネットでこれからのラオス北東部まわりの戦略を練っているうちに、川を舟で下るという方法があることに気がついた。ここからオドムセイ経由でラオス最東 部のサムヌア(そこから別の国境検問所を経てベトナムに帰れる)に行くのはかなり遠回り。ここを流れる川を舟で下ってノンキアウに出た方が近道だ。オドム セイは前に行っている。いい街だが、同じところに2回行きたくない。料金は若干高くなり、舟はバスより遅いが、時間的にはほぼ同じになる。

 人が集まらないと舟が出ない、というのがちょっとリスキーで、出なかったらもう朝だけのバス便は出てしまっている。行程が1日遅れる。賭けだ。舟で行くことにしよう。人生も旅も常に賭けじゃないか。

 翌13日、金曜日。乾季は観光ハイシーズンらしい。1隻分10人がすぐ集まり、10時近くに舟は出港。約50キロを5時間かけて、1600円。私以外は欧米人ばかりだ。ほんとアジア人、日本人はバックパッカーやってる人が少ない。
ナムオウ川(ムアンクアの波止場付近)ナムオウ川(ムアンクアの波止場付近)

(舟の旅)

 ラオスに来たらやはり舟の旅は1回はしなければならない。山深いこの国では、支流も含めて比較的ゆったり流れるメコン水系は恰好の交通路になっている。 細長い小舟が強力エンジンを積んで、へたにオンボロ道を行くより、ずっと早く行ける。雨季に崖崩れがあっても、河川交通は遮断されない。

 両側に山が迫り、熱帯の森林と青い空。民家はほとんど見ない。ゆったりした水面を行く旅は爽快の一語に尽きる。前回はルアンパバンからフアイサイまで、 メコン本流を遡った。屋根のない小舟だったので、スコールが来るたびずぶ濡れになって大変だった。今回は屋根のある舟。縦2列に10人程度が乗れる。乾季 で雨は降らなかったが、水位が下がり、浅瀬の急流で、ときたま舟は水しぶきを上げた。

 水しぶきは何ら苦痛ではないが、斜め横のドイツ人のおじさんとその前のフランス人のおばさんがヘビースモーカーなのには困った。後ろで煙をまともに受け るアメリカ人若者男女3人が「川でスモークかよ、信じられねえ」と盛んに愚痴るが、英語は通じないようだ。まあ、野外だし禁煙の場所でもないのだが。5時 間の舟旅が終わり、ノンキアウで降りたとき、若者たちは「ああ、これでやっとフレッシュエアが吸える」と聞こえよがしに言っていた。ご苦労なことであっ た。

 私の座ったイスは横すわりの板で前向きの体位を維持していくのが若干つらかった。休憩が少なく、おしっこをガマンするが辛いときもあった。
 が、あとは雄大な風景を満喫。ヨセミテ渓谷のように絶壁が迫る箇所もあり、荘厳な風景に皆沈黙する瞬間があった。
 子どもたちがすっぱだかで泳いでいた。水牛も水に浸って涼んでいた。荷物や人を積んだ小舟と頻繁にすれ違った。川が人々の重要な交通路になっているのだ。
ナムオウ川ナムオウ川

(ノンキアウ)

 午後3時近くにノンキアウ着。ムアンクアと同規模の小村で、やはり道路と水路の要衝として発達した村らしい。そういえばこのメコン支流にかかる橋はムア ンクアに一本。そこからずっとなくて、ここに来てようやくまた1本がかかっていた(建設途上のものが1本)。それ以外に道路は通じていないということだろ う。

 街を歩き回って情報収集。すぐ、次のサムヌア行きのバスが午後8〜9時くらいに来るという情報をつかんだ。いいぞ、明朝には東部のサムヌアまで行けてしまう。

 ここに泊まる必要がなくなった、ということで、夜までノンキアウの村を歩きまわった。こういう時に荷物を持ったまま自由に歩けるのはいい。バックパック半詰めの軽装備は正解だ。

 川の両岸を30分も歩くだけで全部見れてしまう小村。人が居なくなった波止場にたたずむと、山と川の立体空間が眼前に広がる。シンとして物音さえ聞こえ ない。いや、かなり離れた対岸で吠える犬の声、かすかな金づちの音まで聞こえる。川辺の恋人たちがささやく声はさすがに聞こえないが、子供がはしゃぐ声は 聞こえる。その静寂の空間に徐々に夕闇が迫る。
ノンキアウの街と橋ノンキアウの街と橋

(再び夜行バスに)

 食堂で食事をし、無料WiFiでネットを調べ、夜8時になったので、バスの止まるらしい橋たもとのT字路へ。8時から9時の間、もしかしたら11時にな るかもしれない、と聞いていた。いつ来るとも知れぬバスを、ずっと待つあの途上国のバス待ち苦闘がはじまる、、、と思う間もなく、大型バスがしずしずと現 れ道路の傍らに止まるではないか。

 行き先はラオス文字で書いてあるのでわからない。サムヌア行きか。−そうだ。まじかよ、こんなに早く来るのか。まだ8時10分。待ちの忍耐どころか、ちょっと遅れたらあぶないところだった。乗り込むと結構すいていて、2人掛け座席に1人で座れる。

 今回の旅はついている、と思った。DBPからわずかの運賃でタクシーに乗り国境で朝出たバスに追いついたこと。きょうの舟の旅も、舟が出るか賭けだったが、ちゃんと出てくれたこと。そしてこのノンキアウでのバスつかまえ。

(星空が見える)

 ビエンチャンからルアンパバンを経由してきたバスのようであった。サムヌアまで10時間の旅で2000円。安心してもう寝るだけだ。

 外は相変わらず山、山、山のようだ。民家の明かりも街灯もなく真っ暗。上を見ると星が見える。前回、ラオスを回ったとき、夜行バスの窓から星空を眺め、人とは、宇宙とは、存在とは、と思索をめぐらした。今回はそこには行かない。ひたすら寝よう。

 が、この音楽はどうだ。眠らせるものか!とばかり大音響がバス中に響き渡る。乗客より運転手が優先。眠気をふっとばすため、大音響を流しているのだ。

 もちろん、それで結構です。谷底に突き落とされてしまったら大変だ。大音響、甘受します。いや、そう割り切って聞けば、この音楽、わりといいよ。ラオス の人々はタイ語族。タイ語がある程度わかる。田舎に東京の文化がわんさとおしかけてきたように、ラオスにはタイの文化がありったけ押し寄せる。中進国に なってきたタイは、歌も昔風の歌謡曲の段階を過ぎて、われらが青春70年代前後のフォーク、ポップの感覚に近くなってきている。甘い音色を聞いていると癒 される。

(アジアが生んだ偉大な発明)

 寝台バス(スリーパーバス)はアジアが生んだ素晴らしい発明だと思う。疲れずに眠れる。ホテル節約のバス安旅が可能になる。これを毛嫌いしている日本は バカだ(安全上問題があるというのは偏見だと思うし、シーツのない寝台イスに寝るなんて、という日本人の絶海孤島型感覚には、勝手にせよと言いたい)。

 で、残念ながらこのバスは寝台バスではなかった。リクライニングの比較的高級なバスだが、しかしイスを平らには倒せない。長伸びになるとか、腕で体を支 えるとか、2人分のイスに横に寝るとかいろいろ「体位」を試すが、どれも安眠には不向きで長続きしない。のたうちまわりながら、やはり寝台バスは偉大な発 明だ、と思ったわけだ。


(パテトラオの首都サムヌア)

 3月14日(土)。サムヌアには朝6時頃着いた。朝もやにつつまれて何も見えないが、バス・ターミナルに市内地図が掲示してあり、作戦を立てやすい。ターミナルは丘の上にあり、敷地内にホテル(ゲストハウス)があったり、おもしろいバス停だ。

 サムヌアでは、バス乗り継ぎできるかどうかギリギリくらいと思っていたのに、思いの他、丸1日空いた。明朝のバスでハノイに向かえばいい。バス停事務所 はまだ開いてないが、ハノイ行き30万キップ(約4000円)と料金が表示されている。バスが出ていることは間違いなかろう。

 市内を一回り見てから、行き当たりばったりホテルに入る。漢字が出ていたので中国人経営か。1500円と、ちと高いが部屋は立派。珍しくホテルらしいホテルに泊まってしまった。

 サムヌアはホアファン県の県都。これまでの村のような街とは違い、「市」と言っていい。メイン通りが広く、県庁舎の立派な建物がある。

 ここまで来ると、もはやメコン水系を外れる。川はベトナム側(太平洋側)に向かって流れる。ラオスでメコン水系を外れるのは、このホアファン県と南隣シンコアン県東半分くらいだけだ。

 そのせいか、風景もラオスというよりベトナムという感じがする。山がさほど高くなく、平地が広がる。
(と思ったが、これは誤解であることが翌日わかった。ベトナム入りしてから、バスが急峻な山をこれでもかこれでもかと降りるので、サムヌアがどれだけ山の上だったかとっぷり理解した。サムヌアの標高は1200メートル。あくまでも高原にできた平地だったのだ。)
 
 ホテルで一息入れてから丘の上のバス停再訪。営業を始めた窓口で聞くと、ハノイ行きの切符は、あす朝7時に来て買えと言う。午前8時にバスが来るとのこ と。英語を話す若い係員。「そう、あなたは日本人。日本の援助でヒノキの植林事業で働いたことあるよ。私の日本人ボスより、あなたの英語はわかりやす い」。

 さらに街を探訪。サムヌアはかつて革命勢力パテトラオ(ラオス愛国戦線)の首都と目されたところ。戦争記念館はぜひ見たかったが、閉鎖されているようだ。代わりに丘の上の戦争記念碑や寺院を見た。何かお祭りのようなものをもやっていた。街全体が見え眺望がよかった。
サムヌアの街並みサムヌアの街並み

(商売っ気がない)

 ラオス人は穏やかで商売っ気がない。バスから降りて客引きに囲まれることもなく好印象だ。バイクタクシーの運ちゃんが、ほんとは乗ってほしいんだけ ど、、、といった風ながら思い切って言い出せないような気の優しさがある。みやげ物店さえない。骨董品店みたいなのはあったが、俗に言う、ほら簡単に買え るギフトショップが見当たらない。

 今回行ったのは北東部の辺鄙なところだが、それでも観光には力を入れているのだからみやげ物店くらいあってもいい。買いたいと思っている人は確実に居るんだよ。

 いや、そもそも店にラオス産の製品がない。私はよく、現地産パーム油脂石鹸をおみやげに買うのだが、ここではそれもすべてタイ製だ。お菓子から、お茶か ら、麺類までことごとくタイ製か中国製。こうなると経済的支配・従属の問題にもつながってくる。ラオスは民族的にタイに近いそうで、タイ語をかなりの程度 理解する。宿のロビーでも皆タイのテレビを見ていた。

 少し大きめの雑貨屋で聞いた。どれでもいい、ラオス製はないか。店員さんは、お菓子からお茶、ヌードル、日用品まで全部の棚をチェックしてくれた。「こ れはタイ、これもタイ、これはチン(中国?)」。最後に「ラオはない!」のご宣託。悲鳴のようにも聞こえたが、それはちょっとまずいんでは。問題は深刻 だ。

 みやげ物店があるとしたら空港だろう、と出かけた。地図では空港も街から数キロ先のところにある。
 が、みやげ物店どころか、個人住宅ほどのサムヌア空港ビルは鍵がかかって閉じていた。ビエンチャンからの小型機が週数回来るとき以外使わないらしい。滑走路の周りでは農民が畑を耕していた。

 結局、職場の同僚に土産を買えなかった。あやまることにしよう。

(ベトナムの悪路)

 3月15日(日)。言われた通り朝7時前に丘の上のバス停に行く。ハノイ行きの切符を買い、朝飯を食べ、8時に来たバスに乗り込む。ハノイ南方海岸部都市タインホア経由で15時間の旅。

 やって来た小型バスは、ホコリまみれ。イスに座るとズボンが白くなる。窓のホコリはともかく、イスのほこりくらい払っておけよ、と思ったが、どうせ帰ったらシャワーを浴びる、服も全部洗濯する、と考えて例のごとくに適応プロセス始動。

 ホコリはこれから行く悪路の予兆だった。1時間半ほどで国境に着き、順調に手続きを済ませてベトナム側に入ると、急に道路が悪くなった。全面改修の工事 のようだ。しかもこれが延々と何十キロも続く。車掌が全部窓を閉めさせる。暑くてたまらない。しかし、確かに、工事中の路面からはホコリがもうもうと上が るので閉めないわけにはいかない。窓を閉めてもホコリが入る。毎日こんな道を走っていたら確かに掃除する気もなくなる。

ラオスとベトナムの国境検問所ラオスとベトナムの国境検問所

 4年前の夏にラオスとベトナムに来たときは雨季で、道は泥だらけ。崖崩れもたくさんあった。今回は乾季。乾けば乾いたで今度はもうホコリ攻めだ。こんな ところに暮らす人は大変だ。「夏をむねとする」この辺のあけっぴろげの民家はホコリをかぶり火山灰被害にあったかのようだ。

 ハノイなど海岸部は、今の季節、深い霧が出て、霧雨になるときもある。しかし、ベトナム西部やラオスはカラカラの雲ひとつない快晴。こんなにも違うのかと思うほど。
 その乾燥のラオスからベトナム西部に入り、徐々に山道を降り下っている。だんだん空気に湿り気が出てくるのを感じる。そのうちに空も、霧がかかったような曇天に。ハノイのあの冬の暗い天気に近くなる。

 道路のホコリが収まってきたのはありがたい、と思うまもなく、カインナング近くでバスが立ち往生した。多数の大型トラックがドロから出られず停まってい る。夕立でも来たのだろう、道路のドロの状況がひどい。両方向からの車両がびっしり連なって止まっているので、小型バスなど進入できる余地はない。
 乾燥によるホコリも大敵だが、湿潤によるドロはもっと大敵。交通を遮断してしまう。ついに一貫の終わりか。明日の仕事に間に合わないぞ。どうするか。歩いてこの場所を渡り、向こう側でバイクタクシーを拾いハノイ行きバスが走るところまで行くか。

(「近代都市」ハノイへ)

 いろいろ考えているうちに、バスの運転手らはひとつの決断をしたようで、Uターンして、来た道を引き返しはじめた。そうか迂回路を通るのか、しかし、こ んな山間に迂回路などあるのか。そこはルートに詳しい現地運転手たち、少し戻るとタインホアに向かう別の道路(15号線)が南方向に分岐していた。やや狭 く勾配もきついので大型トラックには無理だが、小型バスなら何とかなる。舗装され工事もしていないからホコリは出ない。
 高床式住宅の少数民族集落をたくさん通った。田植えをしたばかりの見事な棚田も見られた。こっちのルートの方が返ってよかったかも知れない。

棚田のある少数民族の村(ベトナム側)棚田のある少数民族の村(ベトナム側)

 1時間くらい走り、ゴックラックの街に着くころに山道は終わった。平地と田んぼ。安全圏だ。
 しかも、ここで南北縦断ホーチミン・ハイウェイにぶつかり、ちょうど止まっていたハノイ行き高速バスに、ハノイ行きの乗客を乗り換えさせてくれた。何と また最後の最後までラッキーなのか。タインホアまで連れていかれるよりかなりの近道になる。これで迂回時間ロスを帳消しにした上、15時間の行程が12時 間程度に短縮された。いろいろあったが結果オーライ。終わりよければすべてよし。
 暗くなって着いたハノイの街が、まばゆいばかりの近代都市に見えた。
          (2015.3)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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