シルクロードの旅(カシュガルー西安)

    岡部一明  2004年8月
      

 8月6日、中国・西安(シーアン)に来た。3000年前の周の時代から漢、隋、唐など歴代王朝の首都(長安)となった街。最高気温38度の中、街を歩き回っている。日10時間の競歩だ。750円の宿に泊まり、市内15円のバスに乗り、5円のまんじゅうをかじり。

 途上国の生活はきつい。衛生状態に感性と胃袋が慣れるまで数日かかる。これからずっと西のタクラマカン砂漠方面へ行く。青年は荒野を目指せ・・・。

クロマニヨン人

 「ンガー、ンガ?」
 トイレのドアを指差してうめくと、外に立っていた人がコックリうなずく。通じた。「だれか入っているか?」「入っている」という会話が成立している。日本で「クロマニヨン人」として売り出しているタレントが居るが、私もクロマニヨン人か。

 「ンガ?」
 バスに乗り、箱に金を入れるしぐさをすると、運転手がコックリ。「金はここに入れるのか?」「そうだ」という会話の成立だ。タクシーに乗れば「駅まで」 と言うかわりに、いきなり「シュッシュッポッポ」と汽車のまねをする自分がおかしい。(しかし、どういうわけか、このシュッシュッポッポは中国では通じな い。日本独自の表現らしい)。

 確かに中国ほど英語の通じない国はない。まるで日本並だ。が、人類は言葉以前に動作や状況判断でコミュニケーションする能力を数百万年かけて身につけて きた。老婆が赤ちゃんに一生懸命話しかけていれば、言葉がわからなくとも、かわいくてあやしているんだということがわかる。「こっちの饅頭はひとつずつ売 るが、こっちの饅頭は皿全体でしか売らない」などいうかなり高度な論理でも慣れるとわかるようになる。状況を判断する能力、同じ人として相手と交われる感 性があれば通じる。

ウルムチで「ど真ん中祭り」はない

 25年前、1年ほど世界放浪をしたとき、シルクロードを西から旅してパキスタンのぺシャワールまで来たが、当時、中国に入るのが不可能で、シルクロード東半分の旅はやめせざるを得なかった(代わりにインド、ネパール方面へ行った)。その続きを今から始めようとしている。まず、中国西端、新彊ウィグル自治区のカシュガルに飛び、そこから東に西安まで陸路を走破する。

 カシュガルに飛ぶ途中、ウルムチを経由した。新彊ウィグル自治区の省都で、カザフスタン(旧ソ連領)にも近いシルクロードの中継基地。世界で一番海から遠い街だと言われる。つまりユーラシア大陸のど真ん中。

 今頃、名古屋では恒例の「日本ど真ん中祭り」が行われているかも知れない。ウルムチでも「ユーラシアど真ん中」が行われて・・・いるわけない。

 日本にいるとウルムチがどんな街か想像もつかないが、人口160万の大都市だ。マグドナルドもケンタッキーFCもある。高層ビルは名古屋より多い。街の つくりはソ連風?にだだっ広い。道路が広い分、車もスピードを出し、道路を渡るのが命がけ。歩道が広いのでそこを走る車もある。

 漢民族が大挙して住むようになったが、もともと西洋系顔立ちのウィグル族の街。バザーの熱気はすごい。人も衣装も音楽も飲み物も、売っている商品も漢民 族世界とは違う。ここから西アジア文化圏が始まる。中東から(私の感じでは)ギリシャあたりまで続く。モスクからの哀愁を帯びた祈りの声がなつかしい。

 乾燥地帯でありながら、5000メートル級の天山(テンシャン)山脈からの雪解け水が豊富。宿のすぐそばにも勢いのよい運河が走る。西安と違い空気が澄 んで、すがすがしい。朝目覚めると(時差の関係で)まだ夜。窓から星空が美しい。宿の電灯が暗くて老眼にはつらいが、星はよく見える。

シルクロードはネット先進地

 中国のネットカフェはパチンコ屋のようだ。その辺至るところにある。場末の荒れた建物の中にもある。パソコンが数百台 並ぶ。若者たちがゲームに興じている。中国のネットカフェは何よりも「ゲーセン」だ。本格的なゲーム機を入れるよりパソコンとADSLでも入れた方が初期 投資が安いのかも知れない。

 そこでインターネットも1時間30円程度で使える。ホットメールなどでメールが使える。日本語も表示される。Windows XPが走っていればGlobal IMEの設定を日本語に換え、日本語入力もできる。世界を貧乏旅行してもネット環境に不自由はない。

 高めのホテルに行けば自分のパソコンをLAN接続できる。そうするともう自宅でパソコンを使う感覚。設定なしですぐ自分のネット環境が立ちあがり、 (サーバーの設定によるが)いつも使うアドレスからメールが打てる。高級ホテルのビジネスセンターを利用するので料金は高くつくが、それでも10分で 300円程度だ。

 泊まってなくともかまわない。ついでにロビーのソファーでくつろいだり、音楽を聴いたり。今もそうやってロビーでこれを書いている。美しいバイオリンの演奏の調べが流れてくる。

(新彊ウィグル自治区ではウルムチ以外、Windows XPを使っているネットカフェ、ホテルがほとんどなく苦労した。Windows 98では日本語入力が難しい。LAN直接接続もうまくいかなかった。持っていった自分のパソコンで文章を書きアップロードするという方法も可能だが、 USBの外部メモリではドライバなどの関係でうまくつながらなかった(XPなら大体うまくいく)。フロッピードライブを持ってくればよかったと思った。)

カシュガルにて

 私は灼熱の砂漠地帯に来たはずだ。しかも真夏の。ところがタクラマカン砂漠西端のカシュガルに着いたのに、肌寒い。朝 だったが20℃で、しかも小雨が降っている。砂漠の街で傘を捜すはめに。ウルムチも涼しかったがあそこは緯度も高い(北海道程度)。カシュガルもこうだと は予想外。今までで西安が一番暑かった。いや日本(名古屋)が一番暑かった。

 取り壊し寸前のような宿に入る。華僑飯店とあるが、働く人も客もウイグル系の人ばかり。料金は何と1泊450円。部屋の鍵はこわれ、南京錠がつけてあ る。大丈夫か。テレビはあるが全チャネル写らない。電話はあるが信号音がない。イスはあるが汚くて座れない。それでも電気は来ている。水も出る。トイレ・ シャワー付きで、西安の750円宿よりずっとましだ。

 カシュガルはほぼ中国西端で、パキスタンに近い。中国はよくこんな所まで領土を拡大したものだ。ウルムチはまだ漢族主体だったが、ここは西洋(中東)系の人々が圧倒的だ。

 幸い雨はすぐ上がった。ぬかるみの街を歩く。清浄なモスクも、土の家も、汚い街路も、丸いナン(中東パン)も、肉料理も、流れる中東系音楽も、無気力に車を引くロバも、25年前の西アジアと同じだ。ケータイとインターネット以外何も変わっていない。

 でも待て、彼らは箸を器用に使っている。街の真中には巨大な毛沢東の銅像がある。中国文化圏が確実に始まっている。

快適なホテル生活

 450円の宿は快適だ。入ってすぐ、水洗トイレの水が出ないのに気付いたが、宿の主人に言うと、タンクの水溜めに手を入れて金具をひっぱる方法を教えてくれた(水溜めのふたはない)。

 2日目、このトイレ水溜めから突然水が噴きだした。小さい穴をおさえると止まることを確認。フラッシュする時おさえればよい。そして、お湯が出ないこと にも気付く。そもそもシャワーがこわれていて使えない。備えつけのタライに水を汲んで行水をするらしい。あいにく昼でも屋内は涼しい。山からの雪解け水な のだろう、水道の水は意外に冷たい。腕立て伏せを思い切りして体をあたためから水をかぶる。

 同じく2日目の夜、突然電灯が消えた。近所一体の停電だ(翌朝まで続いた)。あわてない。ちゃんと懐中電灯がある。懐中電灯をテーブルに逆さに立てれば 天井が照らされて部屋全体が明るくなる、というワザを体得している。3日目、今度は水が出ない。そうか、タライはこういう時のために水を入れておくための ものでもあったのだ。

 こうして私のホテル生活は極めて快適だ。世界には宿も電気も水もなく、野宿を強いられる地域もある。

文明を生んだ砂漠地域

 砂漠は木影と水さえあれば快適なところだ。乾燥してさわやか。天山山脈、崑崙(クンルン)山脈、カラコルム山脈、パミール高原など、4000-8000m級の山々から流れる雪解け水は四季を通じて山麓をうるおし、広大なオアシス帯をつくる。

 世界第二のタクラマカン砂漠の周辺で、人々は普通に農業して暮らしていた。元々土地は平らだ。北海道どころではない広大な農地が地平線まで続く。新疆ウィグル自治区の耕地面積は650万ヘクタールで、日本の1.3倍という。

 思い返せば、ロサンゼルス(米国・南カリフォルニア)も同じだった。半砂漠地帯にコロラド川の水を引いてできた街。天気のよい快適な街は人を寄せ、全米 第2の都市に発達した。エジプト、メソポタミアをはじめ四大文明はいずれも乾燥地帯で水のある地域に生まれた。大雨がなく御しやすい自然。湿気と疫病が少 なく街も快適に保たれやすい。砂漠地域は水さえあれば意外と天国なのだ。

 涼しいタクラマカン砂漠地方に、「暑い暑い」と湿潤な海洋民族からの悲鳴のメールが届く中でそう考えた。

タクラマカン砂漠を行く宇宙船

 広大なタクラマカン砂漠を列車が走る。岩と砂ばかりの死の世界。時々、巨大な山塊が迫る。月か火星の表面のようだ。荒涼とした自然は、人を否応なく哲学的世界に誘う。これが地球の元の姿だったろう。生物はよくこれを緑の大地に変えてきたものだ。

 現代のシルクロードの旅はモダンな鉄道の旅だった。2階建て特急。かなり巨大でスピードも時速150キロは出ている。カシュガル・トルファン間(西域北 道)1500キロを20時間で走る。1等寝台は冷房が効き、清潔なベッドの壁には額入りの絵も飾ってある。さながら走るホテル。宇宙船が火星を探検するよ うに、人の住めない世界をなめるように滑空していく。

 見渡す限り砂漠、という光景を日本人は見たことがないだろう。タリム盆地は平坦で、かつ日本の国土面積より広い。列車2階の高みから世界一面が地平線まで砂漠なのだ。水平線まで青い海、という海の光景なら私達も知っている。あれがすべて茶色の砂漠になったと思えばいい。

西遊記の舞台・火焔山

 ついに来た灼熱の砂漠地帯。オアシス都市トルファン。駅を降りると街まで砂漠を超えて行かねばならない(何てところに ある駅だ)。気温45℃。砂漠の地表温度80℃。バスの窓から入る風が熱い。日本の湿った暑さとは違う。炎からの乾いた熱気のよう。風にあたっているうち 体が熱されてくる。初めて体験する感覚。地元の人がバスの窓を閉めはじめた。確かに熱風に危険を感じる。

 入った宿は、その名も火州旅館。シャワー・トイレは共用だが、冷房付きで一応清潔。今回は奮発して一泊750円だ。

 夜11時になっても焼けるような熱気が止まない。トルファンは西遊記の舞台でもある。玄奘(三蔵法師)が長期逗留した高昌国があった(7世紀)。玄奘や 孫悟空たちの行く手を阻んだ炎の山「火焔山」が近くにある。灼熱の岩山に熱気が立ち昇り、さながら燃えるように見える。真夏にこの山(800m)に登るギ ネス的スポーツに世界から人が来るという。ムムー、私はやめておく。

かつてのハミ王国の首都

 トルファンから敦煌まで直通バスがないので、やむなく一泊するだけだった。しかし、このハミの街はなかなか素敵だ。天山山脈のふもと。空気が清浄でトルファンほどは暑くなく、街路が広く人々がゆったり暮らしている。ウルムチと感じが似てようか。

 今度こそはガイドブックに出ている(きちんとした)宿に泊まるぞ、と念じながらも、バスを降りると、フラフラと安宿を探し始めてしまう。習性というのは こわい。「住宿」という看板につられ、工場裏のような荒れた路地裏に入ると、矢印に沿って錆びた鉄の階段があった。俺も懲りんやつだな、と思いながら強い 日差しの中、階段をのぼる。

 すると、きれいなタイルのロビー。大きなツインルームが750円。シャワー、トイレは別だが、とても清潔だ。部屋に新型のテレビもあってちゃんと映る。 日本的基準としても十分及第点。これが750円とは。だから安宿探しは止められない。(経験では通常だと、最低限の快適さを確保するには2つ星で2000 円程度(120元以上)の宿が必要、といったところ。)

 ハミにはかつて清朝に服属したイスラム系のハミ王国の首都があった。立派な墓地が残されている。強大な中華帝国周辺で生き延びるための西域諸国の戦略 だったのだろう、同王国が「各地の反乱を抑え祖国の統合を維持する上で大きな貢献を行った」と、社会主義中国の案内板(英文)に記されていた。「祖国」と はもちろん中華帝国のことだ。

シルクロードの夢

  ハミに一泊した夜、夢を見て目覚めた。イチローが出てきて、実は彼は私と「異母兄弟の弟」だと言うのだ。「今更弟だ と出てこられても困る。まあ友人として付き合おう」などと話す。目覚めて苦笑。シルクロードで私が毎日ネットをチェックするのは大リーグの結果を見るため か。昨日(8月18日)のイチローは4打数4安打打点5。

 世界で挑戦する、という意気込みを彼は日本の若者に示してくれている。野球でも旅でも留学でもラーメン屋でも赤ミソ輸出でも何でもいい、世界に挑戦しよう、とゼミの学生にメールを送った。

バスと鉄道3000キロ

 もうどれくらい同じ景色を見続けてきたのか。8月19日に敦煌に着いたが、カシュガルからここまで列車とバスで約 3000キロ来たことになる。日本列島を南北縦断してまだおつりが来る。広大な砂漠地帯だ。アメリカも広かったが、砂漠地帯はこんなには続かなかった。基 本的には右に砂漠、左に天山山脈という構図が続いた。(西域北道の天山南路ルートをとれば当然そうなる)。

 地図で見れば4000−5000m級の山が迫る街道だが、実際は広大な平原で、はるかかなたに小さく山並みが見える程度。この圧倒的な広さは来てみなければわからない。

 日本で敦煌と言えば、シルクロードのシンボルのような存在だが、西から来るともはや完全な漢民族世界で、シルクロードの終わりように感じる。確かに地図を見ればこれからまたゴビ砂漠を超えていかなければ長安にはたどり着かないのだが。

 この広さの中にいると人間の空間感覚もくるってくるのだろうか。鉄道の敦煌駅は何と街から120キロも離れていて、市街地まで行くにはバスで2時間も広 大な砂漠を飛ばさなくてはならない。名古屋・京都間くらいだ。明らかに別の街だが、駅には確かに「敦煌駅」と大きく書いてある。

 トルファンからハミまでのバスは近代的で冷房もテレビも付いていた。快適に天山山脈を眺めながら悠久のシルクロードに思いをはせる・・・はずが、テレビ は大ボリュームでアメリカ映画をやっており、バンバン・ズギューン(銃声)、ギャー・ウォー(人が倒れる声)の連続だ。中国は外国映画の検閲が厳しいと聞 いていたが、なるほどアメリカ映画には検閲をくぐれる映画が多いのだろう。

 ハミから敦煌まではおんぼろバスで、冷房もないかわりにテレビもなかったのでよかった。窓からの乾燥した風が心地よい。悪いクッションで尻が耐えられな くなる頃、敦煌に着いた。それにしてもこちらの人は休憩をほとんどとらない。10分ほどのトイレ休憩を1回とっただけで7時間ぶっ続けで走った。乾燥して いると確かに体に水分もたまらないのだろう。私もトイレに行きたいとあまり思わなかった。

客引きの効用

 敦煌では客引きに引っかかることにした。バス停に居た安宿客引きがとても控えめで誠実そうなので、この人なら儲けさせ ていいか、と思った。「看、看(かん、かん)」と「看るだけだぞ」と言って(言ったたつもりで)付いて行く。あくまで情報収集。悪ければ断ればいい。する と何と4200円(280元)の部屋が1200円(80元)に大まけ。中を見せてもらうとバス・トイレ付きでなるほど280元でおかしくない立派な部屋 だ。即決。空き部屋にするよりは確かに80元でも金が入った方がいいのだろう。6畳ほどもある豪勢なバス・トイレ室でシャワーを浴びながら、”ワシの旅も 終わりに近づくにつれて豪勢になってくるなあ・・・”。

市場経済は中国に学べ

 市内バスの運転手と車掌がどうも夫婦のようだ。女(車掌)の連れた5才くらいの娘がずっと男(運転手)にまとわりついているのを見て、この推理に確信をもった。家族でこのマイクロバスを運営しているのだろう。
 ある時、終点で止まったマイクロバスで聞いた。
 「家族?」
 「私的所有汽車(バス)?」

 込み入ったことを聞く時に、中国語だと筆記という方法があるから便利だ。「家族ですか」「家族で運営しているんですか」とブロークン中国語で聞いたつもりだが、通じた。答はいずれもイエス。

 私は、「好、好(ハオ、ハオ)」(「なかなかグッドじゃない」のつもり)と言いながら、恥ずかしがる女の子を含めて3人の家族の写真をとらせてもらった。

 中国で市内地図を買うと必ずバス路線も書き込んである。バス賃1元(15円)程度で終点まで行ける。頻繁に来るし、慣れると便利な足だ。ワンマンバスも あるが、普通は中に車掌が居て金を集めに来る。売上げを束にしてわしづかみで持っている。釣り銭もそこから出す。制服を着ておらず客と同じ座席に座ってい たりするので見分けにくい。手に持つ札束を見て車掌だとわかる。ずいぶん不用心だが、それが中国の安全事情を語っているのだろう。

 大型バスは公共のバスだが、それと並行して走っているマイクロバスの方が私有の家族経営らしい。公営バスと同じ路線を同じ路線番号をかかげて走っている。

 車掌はたいていお母さんで、子どもをいっしょに乗せている。子守りしながら働ける便利な労働の場だ(あるいは未来の職業教育をしている?)。運転手と車 掌が大声で怒鳴りあう時もある。夫婦ゲンカか。カシュガルで乗ったあるマイクロバスでは、女が泣き崩れて料金を集めようともしなかった。別れ話でも出た か。

 日本やアメリカで、市バス路線に民間企業が参入する、というのは聞いたことがない。「無駄な」競争が起こらないように、というありがた迷惑な規制も撤廃 したのだろう。昔は中国の市バスはものすごい混雑だったと聞くが、今はそれほどでもない。私営のマイクロバスが次々に来て客を呼び込むからだ。客が少なけ ればゆっくり止まって客が来るのを待つ。時刻表通りに走らねばならないなどという規制もないのだろう。

 サンフランシスコの市バスにこの中国の市内バスを教えてやりたい、と思う。なかなか来ないバス、来れば満員、時に団子状に複数台並んで運行、威張る運転手、というサンフランシスコの市バス。市場経済は中国に学んでほしい。

されど規制

 「ない。ないと言ったらない!」
 といった剣幕で窓口の若い女性におこられた。

 甘粛省蘭州の駅で西安行きの列車の切符を買おうとしたが、今晩の切符はもちろん翌日の切符もない、と言う。何回も並び、「この列車は?」「あの列車は?」と聞くのでとうとう係の女性が怒り出したのだ。

 中国で列車の切符は3、4日前でないと買えないというから私の要求の方が常識はずれだったのだろう。しかし、翌日の切符だよ。しかも蘭州と西安という大都市間の、中国的スケールから言えば近距離の切符だ。鉄道では市場が機能していないらしい。

 長距離バスターミナルに言ってバス便を探すが、こちらも「ない、ない」のオンパレード。明日の切符は明日買え、とも。その上、甘粛省では長距離バスに乗 るには省政府指定の保険に入ってなければならず、それに50ドルかかるとも言う。鉄道の権益を守るためのバス事業規制か。扱っている旅行会社はすでに閉 まっており明日にならなければ保険も入れない。

 しかたなく宿を探したが、そこでも「外国人はだめ」と言われ続ける。確かに昔は外国人用の宿が指定される仕組みだった。しかし最近ではそんなことを言われたことはなかった。甘粛省は規制がうるさい所らしい。

 私が日本人なのに米国のパスポートを持っているということでもつまづいた。これまで華僑の国、中国でそれが問題になることはなかった。さすが中国だと 思っていたが、ここの街は例外。アメリカ国籍である以上、アメリカの住所を書かねばならないと言う。しかたなく、うろ覚えになったかつてのアメリカの住所 を書き込む。

 入ってみればおんぼろ部屋で、これなら内国人用の宿と変わらない、と思われたのが救いだった。「内外人平等」だ。

バスケの効用

 人ごみを分け、交通渋滞をかいくぐり、バスケのディフェンスをかき分けるように進む。

 飛び出してくる人を避け、突然吐かれるツバや痰や手鼻にパッと身をかわし、街路に落ちている糞やネズミのひしゃげたものを瞬時に避け、路上のどこを通れ ば汚れないかルートを次々に判断し、信号青の横断歩道に突入してくるタクシーを見定め、歩道で後から走ってくる車の警笛に瞬時に反応し、迫るトラックの巨 躯を恐れず敏捷にランニング・パスを決め、バス車体間にはさまれながら、痩躯をわずかな間隙に泳がせ、町全体からわきでる臭気は我らの汗まみれの運動着と さして違わぬと思い・・・・

 そう、ここではバスケの訓練が効果を表す。あの技術と体力を活用すれば、第三世界の街ですぐ5人抜きダンクシュートを決めることができる。その程度だ、第三世界の雑踏も。

 バスケで大切なことは試合で勝つことではない。こうして現実の世界で活用することだ。だからやっているのだ、バスケを。かな。

雨の西安

 西安に帰ってきた。列車からの風景がしだいに緑を帯びる。潅木がはじまり草が生え、やがて豊かな農業地帯が現れた。西 安では雨さえ降っていた。湿潤地帯にたどり着いた。シルクロードの旅最後の2日間は、しとしと涼しい雨の降る西安で過ごした。(カシュガルで買ったカサが 役立った。)

 駅のそば、前と同じ宿を取る。街に出てタクシーで戻る時、運転手に向かってまたしても「シュッシュッポッポ」とやる私。鉄道を火車(ホーチャ)というこ とは覚えたが、「駅」を何と発音するかわからない。来たばかりなら「体で表現」も誉められるが、3週間たってこれではお粗末だ。

栄光の唐

 西安で最も印象に残ったのは、皮肉にも、何もない大明宮遺跡だった。

 現在の西安の街は唐(618-907)の都の廃墟の上に明(1368-1644)の時代につくられたものだ。周囲14キロの城壁、中央の鼓楼や鐘楼など 西安ハイライトはほとんど明代のもの。西周、秦、漢、隋、唐とそれぞれ(西安近辺で)少しずつ遷都して別の場所に都がつくられたが、明の西安は唐の長安に 被いかぶさるようにつくられた。栄光の唐の長安の遺跡は、だからなかなか見つからない。

 唐の主要な宮殿である大明宮跡はスラム地域の中にあった。バス路線も走っておらず泥道を苦労して歩きやっとたどりつく。まわりに土産物屋もなく、観光バ スも乗りつけない。入場料はわずか3元(45円)。秦始皇帝稜の兵馬俑博物館(西安郊外)が入場料1500円だったのとは大違いだ。

 宮殿建築はあとかたもなく、発掘地に草が生えるのみ。わずかな土の盛り上がりがその遺跡だ。訪問者は私しかいない。史跡周囲はゴミ捨て場になっているの が見渡せた。シルクロードを通ってきた人々もここで中国皇帝に謁見したという。時の流れの栄枯衰勢を深く感じさせてくれる。

 幸い、小さな資料館があった。入場料を徴収した女性がやってきて私のために鍵を開けてくれる。質素だが、基本的な解説があって好感がもてた。まったく観光化しておらず、しかし基本的な遺跡保存が行われ小雨の中に静かに横たわる跡地が心地よかった。

バンポー遺跡

 西安には、おそらく黄河文明とつながりがあると思われる新石器時代の村跡「バンポー遺跡」(6000年前)がある。や やプレイランド化されているのが気になるが、これも印象に残る遺跡だった。黄河の支流の支流・チャンヘ河の河岸段丘上にある。当時の技術では大河川の下流 域(沖積平野)に住むことは難しく、御しやすい上流の洪積平野に住居を構えたようだ。

 大人と子どもの埋葬の仕方が違っているのが興味深い。大人は、おそらく共同体に貢献したからということであろう、村の共同墓地に埋葬される。子どもは家 のそばにカメに入れて埋葬された。かわいそうだから子どもはいつまでも家族のそばにおいてあげたい、という原始人の暖かさを感じた。

名古屋

 8月25日、西安から上海経由で日本(名古屋)に帰ってきた。緑が濃い。空気がきれいだ。大気汚染や街のほこりが圧倒 的に少ない。貧しい木賃住宅など、アジア的貧困の痕跡は見られる。しかし、清潔度がまったく違う。街を歩いていて靴が汚れない。アジア的感覚なら室内、床 の上だ。日本人はディテールにはこだわる人々だと思う。街の基本構造はそれほど立派とは思わないが、きれいに清掃されている。

 中国は巨大な国だった。多くの民族が居る。その巨大な社会をまとめる原理を作り上げてきたことは確かだ。それが人権的に優れていたかどうかは別にして、数千年にわたって社会を継続させる文明があった。少なくともその原理と構造を作り出していた。

 アジア中央部には広大な乾燥地帯がひろがっていた。岩と砂のユーラシア大陸を走破し、やっと湿潤地域に到達する。そして、ここからは海洋がはじまり、同じく広大にひろがっていく。生物に満ちた水の世界。ドラマのようだ。地球って何て美しい。

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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