アフリカの旅(1)
 入エジプト記
岡部一明、1981.2

アフリカ旅地図 ある日、ナイロビの街を歩いて宿に戻ると荷物がリュックごとない。見れば入口のドア・ロックが壊されている。パスポートやトラベラーズチェックを含めほとんど持って行かれた。部屋に散らかした小物と書きかけの旅行記が残った。室内に干した寝袋がゆーらゆーらしている。

  翌日、残ったドル両替のためブラックマーケットに手を出して、200ドルをひったくられた。街で両替を売り込む男について行ったら、寂しい建物の中で多人数の男に取り囲まれカネを奪われる、という手口。2日続きのご難でさすがに滅入った。カリブ海の島でやはり2日続いて強盗にあったときの記憶がよみがえる。そのうちの1件は白昼路上の強盗で、わき腹に突き付けられた刃物のキラキラした光沢が頭に残る。

 街でドル両替を持ちかけていたあの男、今度見つけたら捕まえてやろう、と以後数日、私は雨も降っていないのに折りたたみ傘を抱えて街を歩いた・・・

  というすさんだ状況の中で以下の旅行記を書いた。書きつづけていたメモが残されたのが不幸中の幸いだった。1981年10月から82年10月まで、小田実の『何でも見てやろう』をまねて、アメリカ留学後、ヨーロッパから地球を半周して日本に帰るさすらいの旅に出た。そのうち3ヶ月半がアフリカの旅になった(エジプト、スーダン、ケニア。地図参照)。




エジプト入り

 エジプトに入ると本物の砂漠がはじまる。黄色い大地が、波打ちながらどこまでも続く。さっき国境を越えてきたイスラエルも砂漠地帯だが、灌木や枯れ草ははえていたし、灌漑による緑化も進んでいた。アメリカや中東でいろんな砂漠を見てきたが、こんな砂だけの砂漠は初めてだ。

 砂丘が所々押し寄せて道路をふさぐ。そのたびに私たちの乗り合いタクシーは大きく迂回して砂漠を慎重に進む。空に雲ひとつなく、孤独な太陽が輝く。目を遠くに向ければ、大地のうねりはわずかなさざ波に化し、平らな地平線が広大に続く。何時間走っても同じ光景だ。

  シナイ半島など、地図で見れば、アフリカ大陸とアラビア半島にはさまれた見落とすくらいの地角だ。それがこんなに果てしない広がりなのだ。アフリカ大陸はその何十倍あるのだろう。交通機関も満足にないだろうその大陸を、私はこれから走破していくのか。砂漠の地平線を見続けながら、かすかな不安が襲う。

スエズ運河へ

 エジプトの国境検問所でひろった乗り合いタクシーは、スエズ運河まで約700円。客7人のうち外国人は私とフランス系カナダ人のジャッキーの2人だけだ。彼とはエルサレムを出るときに会い、カイロまで一緒に旅することになった。神学の勉強でエルサレムに留学しており、これから宣教師の家を訪ねながらエジプト旅行をするという。

 残りの乗客はアラブ人で、ドライバーと賑やかにたわむれている。ドライバーの運転は荒っぽく、かなりのスピードを出す。集落に入っても一向にスピードを落とさず、けたたましい警笛で歩行者を蹴散らし進む。対向車に道を譲ることもせず、狭い道を強引に突っ込み、対向車は急ハンドルを切って砂丘に突っ込む。その「勇敢さ」を誇るかのように彼は高らかに笑い、乗客を向いて称賛を求める。

 このスピード運転のためだろう、日没前に私たちはスエズ運河にたどり着いた。

 スエズ運河は幅数百メートルの、ただ掘りこんだ水路だった。パナマ運河のような段差ダム式ではなっていないから、単純に海が入りこんで来て、アジア大陸とアフリカ大陸を切断している。十数分に1隻くらいの割で巨大な船舶が砂漠の中を横切っていく。

  一つの発見だが、運河とはこのような巨大船にとっては、陸塊を切り開く自由な交通路なのであるが、陸側で砂漠をはいつくばる人間 ―つまり地元の貧しい住民― にとってはとんでもない交通の障害なのであった。それまで自由に行き来できていた陸路が突然切り裂かれ、巨大船の間を縫うように艀(はしけ)を通し ていかなければならない。

カンタラの街

 カンタラの街はスエズ運河の両側に広がっているらしい(街が運河で分断された?)。私たちはその東側に入ってきたのだが、何と不気味な街だろう。至る所で建物が崩れ、ガレキの山と化す一角も。まるで戦争の後のようだ。いや、実際そうだ。1973年の中東戦争で破壊された街がまだ復興していない。原型をとどめない鉄くずの塊がガレキの中にうずもれていたりする。ニューヨークのスラム街を思い出した。例えばブロンクスの再開発指定地域。あそこにもこんな爆撃されたような街並みが続いていた。本物の第三世界と、アメリカ内の第三世界と。


 対岸でまた乗り合いタクシーを探し、値段の交渉をし、他の乗客が集まるのを座席で辛抱強く待つ。車外で運転手たちが大声で口論を始めている。

 「まったく彼らはすぐケンカだ。いつも口論している。」
 ジャッキーの苦労話がひとしきり始まる。彼はもうイスラエルに半年くらい居るが、中東諸国のラフな生活に慣れないところが多いようだ。これからエジプトの旅をするというが大丈夫だろうか。

 私も共感しないことはないのだが、しかし、どうも私には別の面もあるようだ。この日も私は国境の必ずしもきれいではない屋台で正体不明のサンドイッチ?を食べたが、ジャッキーは食べなかった。私の持ってきた非常食のような食パンを少々かじっただけ。

 たぶん私の中にも第三世界がある。生まれたのは昭和25年。戦後間もない当時の日本には、第三世界の光景と重ね合わされるところがあったと思う。例えば私の生まれた田舎町は舗装がなかった。ほこりの立つ道端でカギザキ(死語か)の入った半ズボンをはいて屋台のおでんを食べたり、怪しげなアイスキャンディーをしゃぶっていたのは私ではなかったか。アジアを旅した時、太陽が照りつける田舎町で、ほこりをかぶりながら道端の売店でくつろぐ人々の姿に、遠い過去の記憶がよみがえるのを感じていた。

 30分くらい車の中で待ったろうか。ふと近くの「倉庫」に列車らしきものが入ってきたのに気づいた。あれは倉庫でなく駅だったのだ。確認してきたジャッキーが叫ぶ。「カイロ行きの汽車だ。たった55ピアスタ(約150円)だ。」

 それってんで、車のトランクから荷物を取りだし、肩にかついで駅に走りだす。
「お客さん、お待ちなせえ。それは困るよ!」
 ドライバーの叫び声を後ろに聞きながら、私たちは息をはずませて満員列車に飛び乗った。

 
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