北京の街路から
(岡部一明、2000.10)
北京に行く、というので緊張した。社会主義国の首都。天安門事件、チベット支配、etc。パソコンなど持って行けるだろうか。入国でトラブラないか。
サンフランシスコから日本経由で北京に着くと、広大な空港の入国審査は5分もかからなかった。ほとんどフリーパス。成田で外国人だけ1時間近く待たされるあの悲惨よりはるかに簡単だった。
空港バスの車掌さんの美しい北京語にほれぼれしながら市内の喧噪にたどり着く。停車場の傍らの広場に2人の茶髪青年が居た。こんな所に日本人が居るの
か、とおどろき、ほこりっぽい階段に腰掛けて会話に聞き耳をたてると、中国語をしゃべっている。中国に、茶髪の若者が居るのだ!
初日に街を歩いて2回道を聞かれた。1回目は、旅館近くの下町街(フートン)で。もう1回は広大な目抜き通りの長春街で。「ちょっとお聞きしたいです
が、○○にはどう行けば・・・」てな感じで中国語で話しかけられるので、あわてて英語で「中国人じゃないです」と答える。驚く相手の顔。
ソウルのコンビニでも、韓国語で「何ウォンお返しです、ありがとうございました」のようなことを言われるので思わずサンキューと言ったら、びっくりして
私を凝視した若者の表情と同じだった。昔、サンフランシスコでも、着いた初日にアメリカ人から道を聞かれて驚いたことがある。アジア系の多いサンフランシ
スコだから地元民と思われたのだが、東アジアでは私はもっと直接的に内部者に見られるようだ。
半日も歩くうちに、北京は私にとても近い世界だということが分ってきた。中国は社会主義でもイデオロギーでもなく、何よりもアジアだ。
私はかつて長くアジアを旅していた。ほこりの立つ街路、車の喧騒、負けずに突っ切る歩行者、街全体に漂う生活臭、密集した住宅、街路に繰り出す屋台、散
髪屋、夕涼みの人、人。人間のあらゆる生活が街頭に展開する。北京のこのカオスに満ちた光景は明らかにアジアであってそれ以外の何ものでもない。私はこの
東アジア文化圏の辺境に生まれ、これまでずっとその周辺部分を旅してきた。ついにその中心部分に入ってきたのか、と北京をさまよいながら思う。
1973年2月、香港入国の際「中国に入りたい」と言ったら、別室に連れてかれ尋問された。中国入りを禁じられた上で短い香港滞在許可のスタンプをも
らった。アメリカ、カナダ、イギリスとその後あちこちでイミグレーションとトラブルになる最初の経験だった(こっちは「違法就労」の嫌疑ばかりだった
が)。あれから30年を経て、今、中国に自由に入って来れるようになった。
第三世界の旅はきつい。生活環境がきつい上に、「先進国」からの異人種ということで好奇の目にさらされる。それが北京ではまったくなかった。アフリカ、
中東、南アジアの旅が長かったから何となくそれを覚悟していたのだが、ここで私はしゃべらない限り異邦人だとはわからない。風景の一部に紛れ込める。
そうか、東アジアの旅は皆こうだったかも知れない。(日本で指摘されたが、私のワイシャツと地味なズボンというオーソドックスな「着こなし」が中国の現在的ファッションにマッチした面もあったろう。いずれにしてもいろんな意味で私はアジアに近いことは確かだ。)
国境を越えて人は変わる
中国にはやはりパソコンを持っていくべきだった。その現場で書いておかねばならない。日本、さらにサンフランシスコに戻り、澄んだカリフォルニアの空の下、隣の庭の鮮やかな緑を見ながらこれを書いていると、あの時の自分が戻ってこない。
国境を越えるごとに人は変わるのだ。たとえばサンフランシスコから日本に着くと、頭の黒い人ばかりの光景に最初は強い違和感を覚える。が、そこは私の三
十数年を生きた国だ。あっという間に風景の一部になれる。その時、私は他の外国人とたもとを分かち、排外的な均質集団内部の人間になってしまうのだと思
う。
成層圏を越えてまたサンフランシスコに帰る。すると、そこにまた慣れ親しんだビクトリア調の家並みがある。クレメント街の店の賑わいとそこの群集の中に紛れ込める不思議さ。8時間のジェット機の旅を隔てた別の私。
そして、北京に行って私はもう一人の自分を見い出した。長らく忘れていたが、アジアの街路に繰り出して内部から沸き出るもう一人の自分。かつて第三世界
を放浪した私だ。人波をかき分けてズンズン歩くエネルギー、ほこりと異臭への慣れ、危険と思わず車道を横切る身の軽さ。適当な方向感でバスを選び、乗り継
いで何とか目的地「周辺」まで行く動物的嗅覚。ほこりたつ街路の屋台でガツガツ食う胃力。四回強盗に会ってめげ、腸チフスで1カ月入院し懲り、それでも旅
を続ける根性。アメリカや日本では耐えられない生活を平然と生きられる私。それは、あの懐かしいアジアの街に居ないと決して出てこないもう一人の私だ。
若い頃、計2年間、世界を放浪した。30歳以降あまり出なくなった。が、最近、日本に行くたびにまたアジアに行く。その方が安いのだ。この9月の例で
は、サンフランシスコから成田往復が630ドル。北京まで足を伸ばすと600ドル(帰路、日本に寄れる)。私は日本出張のたびに泣く泣く?香港、ソウル、
台北、北京とアジア探訪の旅に出るようになった。
街頭考
道にツバを吐く人びとを見て、なんて下品な、とあなたは思うかも知れない。しかし、ほこりの多い街路を歩き回ると口の中も汚れる。時々唾液で口中を浄化し吐き出すことが合理的な衛生慣行だ。
交通法規があってないような車同士の先争い。それを擦り抜けて横断する人間。はらはらさせられることの連続だが、よく見ていると事故は起こらない。そこに摂理が働き、先に出た車は先に、次来た者は次にそれなりの順番でことが進む。
全体として交通の速度が遅い。これが人と車の「共生」の秘密。混在してもスピードが遅いので危険が回避されている。日本や欧米では、歩道と車道が厳格に分化されるが、その分車のスピードが早くなり、ある意味もっと危険だ。
日本の街路は舗装され掃除され、アジア的な喧騒とホコリがない。が、アジアと同じく道が狭く、特に歩道が狭い。おそらく狭いからだろう、日本の道路では車の排気ガスをもろにかがされる。ホコリと他の臭いがない分、日本の街の臭いはひたすら排気ガスに「純化」される。
北京の雑踏を歩きながら思う。例えば「三鷹人としてのアイデンティティ」というのがあるだろうか。「小金井人の起源」は問題になるだろうか。
新宿から高尾まで中央線で行くと、街が次々に変わる。そして新宿と高尾は生活環境も気性もかなり違ってくる。だが、その間で、三鷹人や小金井人としての
アイデンティティを考えるのはどれだけ意味があるだろうか。世界的に見れば、日本も北京もその程度の違いだ。「日本人としてのアイデンティティ」「日本人
の起源」を考えるのが無意味とは言わないが、だいたいその程度の漸次的変異の2地点と位置づければこと足りる。
街の公衆便所で、溜め置き式トイレの臭いをかいで卒倒しそうになった。やはり数日の滞在では昔の自分は完全には戻らない。……だが、私が育った1950年代の日本にも、汲み取り式便所がどこにでもあった。
室町時代からの古都
北京は明初期(1402年)から清末(1912年)まで中国の首都となった街だ。紀元前1世紀頃から随、唐の黄金時代
を経て907年まで千年首都となった長安(西安)が京都だとすると、北京は江戸だ。それでも室町時代からの首都なのだから日本の感覚からは十分「古都」な
のだが。
天安門広場、故宮(紫禁城)、人民大会堂、革命博物館、国家図書館、慕田長城、八達峰長城、明十三陵、中国人民抗日戦争記念館、蘆溝橋、と片端から歩く。
天安門広場にホームレスは1人も居なかった。日本の霞ヶ関、永田町にもホームレスは1人もいない。ワシントンのホワイトハウスのまわりにはホームレスの
人がたくさん居る。政治的影響を考えて排除できないのだが、ホームレスの数と民主主義にはある種の相関関係があると思う。
天安門広場ではじめて車イスの通れる階段スロープを見た。私の知る限り北京の街中でここだけだった。
街が至るところで壊され新しい建築がつくられていた。東西に伸びる長安街はそうしてできた広大な通り。まわりはガラスばりの高層建築が立つ。ここだけ見
れば巨大な欧米都市だ。奈良、平安時代の日本も遣随使、遣唐使を送り、中国の先進文明を熱心に学んだが、現在の中国は欧米的文明を懸命に取り入れる。
故宮
やはり故宮(紫禁城)が第一級の遺跡建築物である。明・清朝の王宮だったところ。南北961メートル、東西753メー
トルの敷地に60以上の建物がたち、7800室の部屋(4本の柱で囲まれた空間)が現存する。中国全土、さらに冊封体制により東アジア世界に君臨した最高
権力の内部がそっくり残されている。
何よりも、この宮殿が公開され、膨大な数の「人民」が見物に繰り出しているのがいい。日本の皇居は一般人が入れないし、京都御所さえ入場に面倒な手続き
が必要だ。それが、この本家・中国皇帝権力の中枢が完全に公開されている。やはりこの国は革命をやった。革命はやがて別の権力になり、すぐ前の天安門広場
で大弾圧も行なったが、アジア的専制を内部から打ち倒した事実は消えない。
故宮には、観光用カセットテープがあり、ヘッドフォンで聞きながら中を歩ける。自分のペースで見てまわれるのでなかなかよかった。気の向くままテープを聞いて歩き、止めては思いに沈み、まわしてはまた歩く。
宮廷に中国皇帝が在位した頃、東の日本にはどんな生活があったのか、と乾燥した空のかなたを望んだ時、ふと時空を超えた数千年の歴史空間を感じた。
中国は歴史上常に周辺「蛮族」から侵略を受けてきた。紀元前からの匈奴の侵入以来、遊牧民侵攻は13、14世紀の元朝支配でピークに達した。以後、侵略
は徐々に東方に移行し、満州からの清の支配、さらに日本という東海蛮族の侵略があった。侵略勢力は、歴史的に徐々に遊牧民から海洋民(西欧列強も含めて)
へ重心を移してきた。海の経済優位性への流れを反映しているだろう。
日本、サンフランシスコ
奈良・平城京跡で、復元された朱雀門を見た。まばゆいばかりの中国建築であった。朱雀大路、内裏、右市、左市……平城京や平安京には、中国の街とまったく同じ古都構造が見られた。
京都で入り組んだ伝統的街並みを見た。これも中国の胡洞(フートン)そのものだった。東京の延々と続く木賃アパート群、山の手密集住宅の「近代的」街並みも明かにアジアの街だ。
京都人が都市的で、個人主義感覚があるというのは当然だろう。あの小さな空間で暮らすためには相手に干渉しないそれなりの生活技術が必要だ。
中国には「フートン」という言葉があること自体が特筆される。フートンとは要するに普遍的なアジアの居住空間だ。それを破壊してつくられる巨大な欧米建築があまりに異なるので、識別的な言語が生まれたのだろう。
原則的な国民、中国人。どのような場合においても必要な時にはノーと言う。それで気分を害させられることもあるが、彼らが人情を解さないわけではない。共感する時にはごく自然な友好の情を表してくる。グローバルに通用する何か普遍的なものをもつ。
若い頃、東アジア、東南アジアを旅して、結局中国人と付き合うことが多かった。旅館、レストラン、旅行社など中国系が多い。彼らとつき合う中で英語を覚えた。お前の英語には中国鈍りがある、とアメリカに来てから言われたことがある。
今またサンフランシスコで中国系の多い街に住む。サンフランシスコ人口の5人に一人は中国人。私のアパートの大家さんも香港出身の中国人。子どもの級友
の親、教師、バスケットクラブのコーチ、皆、中国人だ。「華僑」だなどとは思わない。ホンさん、リーさんなどの個々人。長くお付き合してこれたことを幸せ
に思う。
片雲の風にさそわれ
これと同じ空をかつて見たことがある。
北京で、ホテルの窓から、向かいの進学塾のような建物のかなたに、広い大陸の空がひろがっていた。九月末。北京にも秋の気配が広がってきていた。
28年前、韓国を旅した時。板門店を目指してひたすら北に行くバスに乗ったのだが、義政府という町までしか行けなかった。折りしもカゼをこじらせ、熱を
出し、そこの宿で寝込んだ。近くに青空市場があり、食料を補給して何日か滞在する。警官が宿に来ていろいろ職務質問されたが、あれは怪しまれたというよ
り、珍しい日本人が来ているので見にきたのだろう。
旅に病み夢は枯れ野をかけめぐる、という気分で開け放たれた病床の窓から空を見ていた。7月。日本は梅雨の真っ盛りだったが、朝鮮半島の真中まで来ると晴れ上がる。大陸の乾いた空が、窓の向こうにあった。違う世界に出て行きたい・・・熱にうなされながらそう思った。
韓国がはじめて一人で行く外国の旅。日本で行き詰まっていた私は、転機を求めて関釜連絡船に乗ったのだが、この旅の中で私にはっきりした意志が生まれく
るのを感じた。私の生きる日本という世界以外に確かに別の世界がある。知識としては知っていたが、体験としてそれを自覚したのはこの時がはじめてだった。
あの乾燥した大陸の空に促され、私はその後、本格的に日本を飛び出し、世界を放浪した。アメリカのサンフランシスコに流れつき、一旦日本に帰ったがまたこ
こに移りNPOレポートなどを書いている。
あの大陸の空がまたこの北京にあった。あれ以後、私が歩いてきた人生は間違っていなかった・・・そんなことをいろいろ考えながら、広大に広がる空間がまた私を何かに突き動かしているのを感じた。
詳しくは:
岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年)、2060ページ、写真1380枚、398円
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