ヨーロッパの外国人支援組織を訪ねて

ーブリュッセル、ベルリン、パリ


  岡部一明(1990年12月)

 1990年末、仕事でブリュセッセル、ベルリン、パリを訪れる機会があった。限られたスケジュールの中、ひまをみつけて同地の外国人支援団体を訪問した。不充分な取材であったが、後続の参考に資するため、以下に報告しておく。

ブリュッセルのトルコ人街へ

 ベルギーの首都ブリュッセルには、多くの国際機関の本部がひしめき、ヨーロッパ共同体(EC)の本部もある。92年に本格的な統一市場に移行するECの「首都」となるべき街だ。街の人口の25パーセントが外国人。その中には国際機関で働くエリート外国人もいるが、第三世界から貧しさをのがれて入ってきた人々も多い。ベルギー全体では外国人人口は約10パーセント。

上記:古い街並みが残るブリュッセル中心街。ヨーロッパの街はどこでも中心部に広場があり、その周りに市庁や大聖堂がある。下記は住宅街。

 私は、12月6日の午後と7日の午前に時間が空き、二団体を訪問することができた。前もって連絡する余裕がなかったのでいきなり押しかけ「実は日本で外国人労働者支援運動をやっているモノだが・・」とやる。むちゃなやり方ではあったが、何とか道は開けた。

 知り合いの現地活動家から直前に入手した運動団体リストによると、ブリュッセルには、移民労働者支援の団体が約30リストアップされていた。その中で特にすすめられた「人種差別、反ユダヤ主義、外国人排斥に反対する運動センター」(MRAX、ムラックス)にまず出向く。市の中心部・北駅の東側一体の外国人(トルコ人)街にその団体はあった。古びた石づくりの建物の中に入ると、若い外国人らしい5−6人の人たちが教室のようなところで遊んでいる。「実は日本で・・・」と切り出すと、相手は英語がわからない(ブリュッセルの人々はフランス語を話す)。ようやくその中のベトナム人らしい青年が片言の英語で「モニックと話せばよい。でも彼女は今日はいない」「でも待てよ、マヌエルが居る」などと右往左往してくれる。2階の事務所に案内され、マヌアル・アバモヴィッチさんに会う。「実は日本から来たんだが・・・」。彼も突然の来客に右往左往するが、そこに突然モニック・デ・ヨングさんが帰ってきた。彼女は英語を話す。「実は私は・・・」とまたもや仁義を切ってインタヴューを申し込む。

 「あしたではだめの?」

 「あしたの午後にはもうこの国を出ちゃいます。簡単な質問ですから。」

 滅茶苦茶である。が、彼女は親切に答えてくれた。

 「MRAXは、人種差別・ユダヤ主義に反対する運動として第二次大戦直後に生まれました。当時は、『人種・ユダヤ人差別反対平和運動』といっていました。レジスタンス活動家の手によってつくられました。最初は、再び戦争を起こさないため人種差別に反対するという問題意識が強かったのです。しかし、戦後、トルコ人などの移民労働者が増大してきました。彼らはひどい労働・生活条件のもとで労働させられたのです。そこで68年に現在のMRAXに改組し、移民労働者の権利を守る闘いに中心をおくようになったのです。」

 ブリュッセルには外国人支援組織は多いが、MRAXはその中でも一番歴史の古い団体だという。サービス対象はベルギー人も含めてあらゆる人々に対して開かれているが、事務所がトルコ人街の中にある関係上、彼らへの生活・労働支援活動が中心となる。

 「法律的な相談、仕事やアパートの紹介からはじまり、子供の学校での問題、お年寄りのかかえる問題、その他あらゆる社会的問題を扱います。1階には人の集まるたまり場があり、簡単な職業訓練など行ないます。2階のこの事務所には、人種差別に関する様々な資料情報、雑誌、出版物、記事などを集めています。私たちの機関誌『MRAXインフォーメーション』もおいてあります。これは年4回発行しています。」

 機関誌は、50ページはある印刷された立派なものである。フランス語なので読めないが、外国人や人種問題について広くあつかっているようであった。ソ連の民族問題などの記事もあり、短信で日本の外国人差別などについても触れている。モニックさんが、この機関誌を編集しているという。

 「ビザ関係、あるいは難民申請などの難しい法律相談に関しては別の専門機関に委ねることもあります。私たちは、社会的な運動にも力を入れています。例えば、学校などに出向き、人種差別について話をし教育活動を行ないます。アニメーションなどの教材もつくります。3月21日の人権デーなどに集会を開き人権問題について語りあいます。その他、様々な人種差別に関する啓蒙活動を展開します。」

 「ベルギーには、移民労働者自身がつくっている自助組織もたくさんあります。そういう中でMRAXはベルギー人のレジスタンス活動からつくられたという特色があります。単なる援助活動に終わらず、社会的政治的な視点ももつようにしています。」

 彼女が再び出かけた後はマヌエルさんが相手してくれた。彼は、兵役につく代わりにここでの奉仕活動をやっている(期間20カ月)。彼自身はベルギー人だが、お母さんはスペイン人、お父さんはポーランド人だと言う。「それじゃ、両親は移民?」「いや、祖父母が移民でした。珍しいことではないですよ。さっきのモニックはオランダからの移民ですし、MRAXの古参の一人はルーマニアのレジスタンス活動家でした。」

 ぜひ「移民社会文化センター」に行ったらよいと言う。ブリュッセルの外国人支援活動のセンターになっていて、市も後押ししているところだそうだ。そこのスタッフに長電話をかけて会う予約を取り付けてくれた。「残念ながらきょうはもう5時近いから、あしたにしてくれということだ。」

 当然だろう。明日10時の約束を取り付けてもらい、マヌエルさんと事務所を出た。市民団体だってスタッフは5時には家に帰るのだ。強行スケジュールで殴り込みをかけてくるのは日本人活動家くらいだ。

 事務所のまわりで、トルコ人らしい少年たちが5−6人群れて遊んでいた。石畳の街路は、少し暗くなりはじめたせいかあまり人通りはない。0度近い寒気が肌を刺す。マヌエルさんと別れて駅の方へ歩いていくと突然、眼前の窓に肌をあらわにした女性が現れた。見ると、まわりのいくつかの窓に怪しげな光がともり、女性が街路を向いて座っている。なるほど、彼らの事務所はこういうところにあったのか、と思う。

 Mouvement Contre Le Racisme,

  L'Antisemitisme et la Xenophobie
    rue de la poste, 37 - 1210 bruxelles
    Tel.: 02/217.54.95

ブリュッセルの日曜フリーマーケット。


外国人のための地域センター

 翌朝訪問したブリュッセル移民社会文化センターは政府の資金援助でつくられた「融合」社会の建設のための地域センターである。各地にこのようなセンターがつくられているが、ブリュッセル移民社会文化センターは30人の職員を抱え、最も大きい。市の中心近く古風な街並の中に目立たない看板を出していた。建物の1階から3階を借り、事務所、資料センター(図書室)、小ホールなどがある。

 このセンターでは、かなりまとまった話が聞けた。スタッフのフランソワー・ベルワルトさんとアメル・プイソーンさんが質問に答えてくれた。

(ベルギーの外国人について)

・ベルギー人口の10%が外国人であり、特にブリュッセルと、フランス語を話す南部地域に外国人が多い。受け入れ停止(74年)以前から来ている人が多く、2世、3世が成長している。一番多いのは、イタリア人、次いでモロッコ、スペイン、トルコからの人々で、これがベルギーにおける四大外国人集団だ。

・ブリュッセルでは人口の25%が外国人であり、若年層ではさらに多い。14才までの子供の間では50パーセント、25才までだと30−40パーセントが外国人である。内60パーセントはイタリア、スペインなどヨーロッパから人々である。ブリュッセルの場合、元の植民地ザイールからの黒人も多い。

・外国人に対しては差別があるが、ヨーロッパ人への差別の程度は弱い。それ以外の外国人、例えばモロッコ人などに対しては差別が強い。イタリア人、スペイン人などは宗教が同じで、人種的に近く、かつ比較的早い時期(1940−50年代)に来ているからと思われる。

・74年に受け入れが停止され、家族などが来るだけとなった。現在は難民として来る人々、「不法」外国人などが多くなった。

・74年以前、政府は、1年、2年といった短期雇用のため外国人労働者を受け入れたが、結局彼らの多くは留まることになった。このため、例えば子供の教育などのことはまったく考えられておらず、今になって様々な「融合」のための政策がとりざたされている。現在、外国人一般委員会など諮問機関が政府への提言を行っている。外国人オンブズマンなどの制度も含め様々な「融合」政策が提言されている。MRAXなど市民団体も様々な提言をしているが、政府はあまり聞こうとしない。

・首都ブリュッセルでは、今年、19の地区自治体に1億ベルギーフランの援助を出した。この多額の援助金は、地区自治体を通じて、様々なプログラムを計画・申請した市民団体にも供与されている。

・ベルギー国民の間には、残念ながらまだ外国人に対する偏見が強い。実際は外国人は人口の10%しかいないのに、ものすごい数の外国人がいるかのように言われるし、国は外国人に金を出しすぎる、外国人のために職が奪われる、などということが言われる。犯罪なども、外国人の犯罪だと大きく新聞にのる。


(ブリュッセル移民社会文化センターについて)

・市からの援助を得、10年前に設立された。地域社会のセンターの機能を果たし、新しい融合文化をもった地域社会の建設をめざす。ソーシャル・サービスの機関ではない。そういう団体はすでに他にたくさんある。文化、教育・情報活動をはじめ総合的な活動を行う。ベルギー人向け、学校向けの教育活動に力を入れる。資料センターを設置して、情報の普及につとめる。月刊のニュースレター、その他様々な小冊子なども出す。

・ベルギー人に外国人と交流する機会、異なる文化・生活に関して知る機会を与えることが重要だ。そういう機会が少ないため、偏見が生まれている。

・文化活動では、例えばミクサールというお祭りを組織し、その他、音楽、ダンス、劇、展覧会、写真コンテスト、映画フェスティバルなど様々な企画を行う。外国人の青少年のグループを組織したり、外国人向け団体でボランティア的な仕事ができるよう照会活動を行う。イスラムなど宗教関係での支援、多文化的な教育を公立学校の中ですすめる活動なども行う。

・現在、ブリュセルの公立学校では、外国人の子供のためのこうした多文化教育が試験的に行われている。うまく行けば拡大されていく予定だ。移民の子供たちは自分の国の文化や歴史に学ぶべきで、例えばベルギーではベルギーの国王についてしか教えられないが、移民の子供たちは彼らの国王についても教えられるべきだということになる。

・このセンターの資金はすべて各種政府援助でまかなわれる。30人の有給職員がいる。通常の労働契約・賃金ではなく、社会福祉プログラムの一環としての仕事だ。普通の街の移民社会文化センターは1−2人のスタッフだから、30人というのはかなりの規模であり、国内最大である。

・設立当初から、多くの国籍の人々が一緒に活動に関われるよう配慮した。移民一世も職員として働いている。例えばセンターのディレクターはイタリア人1世であり、スペイン人職員が2人、モロッコ人、ポーランド人職員が1人ずつ居る。その他はベルギー人だ。外国人だけでなく、ベルギー人もいっしょに活動するという理念が当初からあった。

・このセンターはMRAXのような運動団体ではない。政府からの援助で運営されている以上、特定の政治的立場にたった活動はできない。いろいろな意見・思想をもった人がいるプルーラリスト(複数主義者)の団体だ。ただし、政府に援助されて政府に統制されているわけではない。MRAXなどの活動と協力することも多い。MRAXだって少しは政府の援助を得ているが、政府に統制されてはいない。

 いくつかつっこんだ質問もしてみた。

 −日本の外国人労働者はまだ来たばかりで、日本人の「支援活動」という色彩が濃い。しかし、一定程度根をはったヨーロッパの外国人労働者は、自ら組織する活動が活発化しているのではないか。

 「外国人自身の団体がたくさんあり独自に活動しています。しかし、彼らの運動は、70年代にはもっと強力でした。現在では、逆に運動が下火になっています。当時活動の中心になった1世の多くは、政府機関、その他機関に入っていき、指導者がいなくなってしまいました。だから私たちは今、若い新しい世代の指導者を育てようとしています。2世、3世は、1世に比べて、この社会で生きていく上での運動を求める傾向が強い。1世の運動体はそのような要求に充分応えられておらず、新しい形の運動が求められています。」

 −日本では、外国人労働者を合法化していくべきだという意見があり、私たちもそういう運動を行っている。ベルギーの人、特に運動側にいる人は、このことにどういう考えをもっているのか。もっと外国人労働者を受け入れるべきだと思っているのか。

 「あくまで個人的な意見ですが、政府はまず、すでにここに居る外国人労働者の問題にきちんと対処すべきです。モロッコ人、トルコ人などのことです。それが先決です。むろん、政治的難民は別で、これは受け入れるべきです。不法外国人の増大については、すでにここにいる外国人労働者に悪い影響もあり、好ましくありません。また、今、東側からの外国人流入が増えていますが、モロッコ人やトルコ人などより彼らを優先して雇用するような傾向があり、新しい問題となっています。」

 ブリュッセルで環境運動など他の分野の活動家などとも話す機会があったが、「外国人の権利は守らなければならないが、外国人のこれ以上受け入れはちょっと・・・」というニュアンスがあった。外国人にこの質問をぶつけた時とはあきらかな違いが感じられる。日本でもそうだが、さらなる受け入れをめぐっては、運動側も含めて、本国人と外国人の間に微妙な意識のずれがあるようだ。もっとも、すでに人口の10%まで外国人を受け入れている所と、ほとんど受け入れていない所では、同じ「これ以上の受け入れ」といってもレベルはまったく違っているが。

 プイソーンさんが、念を押すように付け加えた。「むろん、現在の第三世界からの移住には先進諸国は責任があります。先進諸国は第三世界の開発に協力してこなかったし、私たちが第三世界の貧困を生み出したのです。」

 Centre Socio-Culturel des Immigres
  de Bruxelles
    Avenue de Stalingrad, 24, 1000 Bruxeles
    Tel.: 513 96 02 - 513 95 76

東西がつながったベルリン

 ベルリンでは土曜日一日だけがあいた。短い北国の一日を有効に使うため朝暗いうちから街を歩く。12月初旬にもかかわらず、気温は零下5度程度には下がっている。宿舎近くは、かつての東ドイツ政府機関建物の「残骸」。非能率な建築工事と壁崩壊後の混乱のため多くの建物が建設中か修理中に放ってある。使っていない建物も随分あるようで、不気味に静まりかえっている。

 地下鉄や地上電車(Uバーン)を利用して街の様子を見る。昨年壁がくずれたばかりだというのに、もう交通はかなりの部分で東西がつながっている。気づかないうちに東から西、西から東に入り込んでいる。東西の結合ルートがこんなにも早く復旧するものなのだろうか。

 壁に沿って南北に走るUバーンに乗った。壁は影も形もなく、跡地に広い芝生帯が延々と続く。東側深くに入る別のUバーンに乗ると、前の座席にアジア系らしい若者が座っていた。思わず声をかける。英語はわからないようだ。「ベトナム?」と単語だけで聞いてみるとそうだと言う。「ファミリー、ここ?」というようなことを手振り身振りで聞くと、やはりそうだと言う。東ドイツはベトナムから約6万人の外国人労働者を受け入れたが、今は、じゃまもの扱いされて、暴力事件なども頻発している。彼も家族とともに東ベルリンで働いているのだろう(現在東ベルリンに4、600人のベトナム人が居住していると言われる)。言葉が通じないので私たちはしばらく黙り込む。やがて電車が東ベルリンの郊外にさしかかる頃、彼は降りた。「アウフビーダーゼーン」(さよなら)。降りぎわににわか覚えのドイツ語を発すると、彼はわずかに微笑んでくれた。

 ベルリンの外国人労働者関係の団体については、西ベルリン滞在の長かったYさんから、いくつか紹介していただき、前もって手紙も書いておいた。しかし、土曜日なので、人に会えるかどうかはわからないと言われていた。案の上、緑の党(ベルリンではアルタナティブ・リストと呼んでいる)の事務所は何度電話しても人が出ない。ヨーロッパの街では土日になると会社も商店も運動体の事務所も一斉に閉まる。その上、緑の党は、先週行なわれた総選挙で大敗し、連邦議会への代表権を失ったところでもあったので、それ以上、接触を試みるのは止めた。日本くんだりからの客人に笑顔で相手していられるような時ではあるまい。


外国人自身の運動

 もう一人紹介されていたのは、セビム・セレビさん。トルコ人の女性で、外国人としては初めて西ベルリン市議会議員(緑の党、1987−89年)をつとめた人だ。外国人女性のための健康センターを組織し、そこで職員として働いている。現在、外国人の政治的な運動体をつくろうとして活動しているという。

 前夜、空港から自宅に電話したら、土曜日でも快く自宅で会ってくれることになった。初めての土地で、地図を頼りにようやく「コットブッサー・トール駅」(地下鉄駅)までたどりつく。クロイツベルクというトルコ人街の中心だ。駅を出るとトルコ語らしい看板が目につき、広場ではトルコ人たちが八百屋などの屋台店を出している。街を歩く人の中に、トルコ人に混じって東アジア系の顔立ちが混じるのは、ベトナム人であろうか。東側から流れてきたか、あるいは西ドイツへの難民の人たちか。肉の塊をじっくり焼くシシカバブのお店があり、中に入った。外の寒さと対象的にあったかい。哀愁を帯びたトルコの音楽が流れ、黒髪と剃り髭の濃い男たちが狭い食卓に群がる。私は昔トルコを放浪したことがあるが、ヨーロッパからアジアに入ってまず目に入る未来建築のようなミナレット(モスクの尖塔)、そしてあの何とも言えぬ人のあったかさが思い出される。

 セビムさんの家は、繁華街のはずれ、川に面したアパートの中にあった。小学生の娘さん(名前を聞くのを忘れた)と共にきさくに迎えてくれる。一息ついてさっそくインタヴゥー。ぼくとつな口調で彼女が話しはじめる。

 彼女たちのやっている外国人女性のための健康センター(AKARSU)は、やはりこのクロイツベルグ地区にあり、1983年にできた。医療・看護分野で働こうとする外国人女性のための職業訓練、すでに仕事についている女性のためのカウセリング、水泳や自転車教室、マッサージ、指圧コースなどを行っている。保育施設もあり、女性が例えば水泳をしている間子供の面倒をみてくれる。外国人・女性という二重の差別や精神的負担から体を悪くする女性が多く、そういう問題に自ら対処していこうということでこの健康センターはつくられた。外国人が自ら運営する女性センターはベルリンではここだけだという(このセンターについては、山本知佳子「ベルリン発まじマジ通信」、『婦人民主新聞』89年11月10日号、参照)。

 彼女は市議会議員になったことがあるが、西ドイツでも外国人の参政権はまだほとんど認められていない。西ドイツに帰化したのかどうか聞いてみた。

 「私は、1970年にドイツにやってきたトルコ人移民ですが、83年に西ドイツ市民権をとり、現在二重国籍です。西ドイツ政府は二重国籍を認めていません。しかしトルコ政府は認めています。それで私は一旦トルコ国籍を捨てて西ドイツ国籍を取り、その後またトルコ国籍を取って二重国籍になったのです。」

 彼女は「今は緑の党の活動家ではない」と言う。緑の党は、彼女を市議会に出して外国人を大切にしているという所を見せただけだと批判した。外国人の主導権をなかなか認めてくれないと言う。「私は今、党外で、外国人の女性たちといっしょに外国人のための政治組織をつくる活動をしています。」

 しかし、これは難しい作業のようである。「まだ議論の段階です。いろいろな民族の人が一緒にやるというのは難しい。お金もロビー団体もありません。それに何よりもこうした政治的活動の経験がないのです。ドイツ語がかなりしゃべれてこちらの政治に入り込めるという人が限られています。一世は母国の政治にばかり目を奪われています。ある程度長く住めばこちらで何かやることにも関心をもつようになりますが。私は2年間議員をしていろいろな経験を積みました。しかし、多くの人はこういう経験がなく、こちらの政治の中でどのように動いたらよいのかよくわからないのです。」

 彼女たちは現在、移民労働サークル(Immigrantinnen Arbeitskreis)という女性だけのグループで議論しながら、新しい政治グループの結成をめざしている。南アメリカ人、ベトナム人、ユダヤ人、インド人など様々な国出身の女性が参加している。なぜ女性だけなのか、とたずねると、彼女は笑いながらこう答えた。

 「私たちは男たちとはあまりいい経験をしてきませんでした。彼らといっしょに活動するのはとても難しいのです。少し前まで移民政治フォーラムという名前で新しい政治組織をつくろうとしてきましたが、この中には男性も加わっていました。しかし彼らは女性を平等に扱わないのです。女性が活発に活動して主導権を取られるのいやなのです。決して女性が指導者だったわけではありません。しかし、会議ごとに彼らは、例えば議員の経験がある私などにことごとく対立してくるのです。」

 どこでも男というのは運動のさまたげになるものらしい。

 2世たちは期待できるか、より活動的か、という問いには、「どっちが活動的かというよりも、2世は“異なっている”ということですね。」という答えであった。演劇とか、新しい文化活動を起こしている等のこともあるが、心配も多い。2世仲間で「ギャング」をつくることも多く、右翼的なドイツ人たちとの間にしょっちゅう暴力ざたを起こすと嘆いた。2週間前も、Uバーンの駅で、差別的な言葉を浴びせられてけんかになり、トルコ人2世青年がドイツ人青年を刺し殺してしまう事件があったと言う。

 「2世はトルコ語を忘れつつあります。私の娘も、私はトルコ語をしゃべるようにしているのですが、ドイツ語で応えるようになってきました。移民たちは自分たちの言葉を学ぶことができなければなりません。スェーデンでは121の異なる言葉が学校の中で教えられています。西ドイツでも10年にわたり、このような民族教育の運動が行われてきました。でも今やっと(西ベルリン内では)4−5の学校でトルコ語が教えるようになっただけです。しかも、今度の選挙で新しくなった市政は保守的で、壁崩壊後、ドイツはドイツ人のものというような風潮も強まり、先行きが心配です。またもとの振りだしにもどってしまいました。」

 どこでも聞いてみる例の質問をする。「西ドイツは74年に外国人労働者の受け入れを止めたわけですが、セビムさんは、これを受け入れるよう政府に対し主張していますか。」

 「もちろんです。市議会議員の時にもそれを主張しました。新しい移民受け入れは、確かに多くの問題を抱えています。チェコスロバキアやハンガリーなど東欧諸国からの移民が増えています。東欧に住むドイツ人、ユダヤ人なども来ます。今、ソ連から多くの移民が来るのではないかとドイツ人は恐れています。92年のEC市場統合が進めば西ヨーロッパ人の移動も自由になります。そういう中で、人々の間に階層ができようとしています。頂点にドイツ人がおり、次に西、そして東のヨーロッパ人、その下に南からの移民、難民、さらにシンティ・ロマが続きます。しかし、これは新しい移民を受け入れるなということではありません。先進諸国は貧しい国にひどい扱いをし、武器を売り、戦争を起こしてきました。南の人たちはここに来れるべきすし、他のヨーロッパ人と同じ権利をもつべきです。しかし、統一後、ドイツでは全てに“ドイツ、ドイツ”というナショナリズが高まり、外国人は出ていけという論調も強まって、私は大変心配しています。」

 日本の状況の話になった。日本には外国人労働者を受け入れようという声はないのか、と聞くので、一部に低賃金労働者として入れたがっている傾向もあるが、全体としては閉めだし政策をとっている、約20万人の「不法」外国人労働者が居るなどと答える。セビムさんは、日本の人口はどれくらいかと聞いた。1億2000万人だと答えると、「1億人? 日本人、1億人!」と驚きの声を上げ、しばらくして「彼らは、人間よりロボットの方が好きなんでしょう」と言った。

  AKRSU (外国人女性のための健康センター)
 Oranien Str. 25, 1000 Berlin 36
  Tel.: 030-6147031, 030-6142085

2世の文化運動

 セビムさんが、いろいろ近くのトルコ人の団体を紹介してくれた。臆面もなくさっそく行く。まず、「イスラミック・センター」。イスラムの教えを子供たちに教えるいわば民族的宗教学校のような所だ。やはりクロイツベルグの街の中にある。普通の石の建物の門を入り、やや奥まった所に教室や事務所がある。狭い中庭で白いスカーフをかぶった少女たちが遊んでいる。

 ここの訪問は失敗した。突然ドアを開けて「やあ。私は日本で・・・」とやっては無理もない。ここはいやしくも聖なる宗教の学校。2−3語軽く応対されて、体よくお引き取り願われされた。教訓。飛び込み訪問は時と場所と相手を考えるべきこと。

 次はトルコ人の若者がやっているという演劇活動の場に行く。セビムさん推薦のプログラムで、劇団の名前は「ベルリン・トルコ文化劇団」という。劇はすでにはじまっていた。蔵のような大きな建物の中に200人ほどの観衆が集まり、暗闇の中に浮かび上がる舞台で4人のトルコ人青年が喜劇・寸劇風の一幕を演じている。

 劇場の端に座る。観衆の中にはトルコ人の若者、やや年の行った一世などの他、彼らの友人であろう、ドイツ人の姿も多く混じっていた。劇を演じるトルコ人青年たちはドイツ語をしゃべっている。3人の男性は2世、若い女性が3世だそうだ。やや眉が濃かったりするが、こうしてドイツ語をしゃべっているトルコ人2・3世たちを見ていると、ドイツ人たちとさほど違わない。アメリカだったら彼らはすぐ「白人」の中に紛れ込んでしまうだろう、などということを考える。例えば消費者運動家のラルフ・ネーダーはレバノン移民の2世だが、誰も彼を中東人などとは思っていない。

 劇が終わる。喝采を受け、花束贈呈が行われた後、若い人たちは地下食堂におりて行って「交流会」をはじめた。ビールやワインなどを立ち飲みして、かなり騒々しい。私は、劇を演じた一人、ミュルタツ・ヨルク君にインタヴューした。ドイツ語から英語への通訳はドイツ人の青年・ダン・ドルステ君がかって出てくれた(彼は医学を勉強している学生で、外国人の友人が多く、きょうも友人たちが劇をするというのでやってきたという)。


−ヨルクさんは2世だということですが、トルコ語も話すのですか。

ヨルク「はい、ドイツ語もトルコ語も話します。バイリンガルです。」

−私はドイツ語がわからないので今日の劇もよくわかりませんでした。どういう劇だったんですか。

 「今日のは、子供向けのおとぎ話といったものです。貧しい者と富める者の関係がテーマで、貧しい農民の息子が、お金持ちの王家の姫君と恋におち、いろいろ苦しみます。しかし、次々に出される課題をやり遂げて最後には結ばれます。」

−トルコが舞台になっているのですね。

 「基本的にはそうですが、テーマとしては普遍的なものです。物語りはこのクロイツベルグを舞台としても成り立つわけで、貧しいトルコ人青年と、お金持ちのドイツ人大学教授の娘の間のお話でもいいわけです。」

−ヨルクさんたちの「ベルリン・トルコ文化劇団」は、2・3世向けの演劇活動をしているのですか。

 「1世と3世を対象にしていると言った方がいいでしょう。2世のかかえている問題についてはまた別の劇団がつっこんで取り組んでいます。1世と3世の間にこそ大きな溝があります。1世はトルコから来て、トルコの文化をもち、故国への郷愁が強いです。3世はそういうものはなく、完全に西洋世界の文化で育っています。私たちの劇団は、その溝を埋めることを目標にしています。3世がこのギャップに対処していこうとする時の力になろうとしています。私は2世ですが、1世と3世をつなぐ立場にいると思っています。」

−こちらで生まれた2世、3世の人たちはどのような生き方をしようとしているのでしょうか。国に帰るのではなく、こちらで新しいドイツ人として生きようとしているのですか。ドイツに生きるトルコ人として新しい生き方を模索しているのですか(と、いきなり難しい質問に入る)。

 「1世はいつも国に帰るということを言います。実際はなかなか実現しませんが。それに対して2世、3世は、ドイツで生きるか、あるいは他のヨーロッパ諸国で生きる方向を考えています。トルコ人だからトルコに帰りトルコ風の生き方をしなければならないというようにはもはや考えません。気持ちよく生きられる所で生きる。おカネが稼げて、あたたく迎えられる所で生きるということです。」

−それは、この新しい社会に同化していくということですか。ドイツ語を話し、ドイツ文化を身につけた人になっていくということですか。

 「どちらかをとるということが問題だとは思いません。両方の文化のよい面を取り入れていくということが必要で、どちらかの民族主義に組みしなければならないということではありません。将来、様々な異なる人たちが互いに学びあって暮らすような複合民族の社会ができると思います。ドイツ人、トルコ人、日本人、だれもがお互いの文化を学びあえるような社会です。私の多くの友人たちも、同じようなことを言っています。私たちはそのような社会に生きたいのです。」

 西ドイツの政府は「この国は移民の国ではない」と言い続けてきた。しかしその中で、確実に、新しい社会を求めその中で生きようとする人々が育っている。ヨルク君のような若者たちが現実に存在するということの確かな手ごたえに触れ、私は、この国の未来をはっきり見たように思った。


第三世界の街・パリ

 ポケットカメラを取り出し、雑踏に向かって素早く写真をとると、男が手をかざして迫ってきた。写真はとるなと言う。しかたがないのでカメラをしまい何くわぬ顔で前に進む。マグレブ(北アフリカ)系の人々でごったがえする衣料品店街を抜けて裏通りに入ると、男たちが路上でばくちをやっていた。なるほど、これでは写真はまずいか。

パリのシャンゼリゼ通り。外国人労働者の街というわけではないが。

 パリでは、北駅の周辺から北一体が外国人街だという話を聞き、バルベ・ロシャショー駅でメトロ(地下鉄)を降りて歩く。なるほど、歩いている人のほとんどが「外国人」で、街の雰囲気も雑然としている。中欧に住む友人が「パリは第三世界の街だ」と言っていたのを思い出す。10年前に来た時も外国人が多いと思ったが、また増えたように感じられる。メトロに乗ると、時間帯にもよるが、車両の中には黒人、アラブ系の人々などが半分を越えている。

 パリでもまた、準備不足と時間不足に追いまくられる。日曜日の夕方着いて翌月曜午前の飛行機に乗って日本に帰るという日程。知り合いの日本人や、ベルリンで会ったドルステ君の知り合いなど八方に連絡して、ようやく「SOSラシズムにコンタクトすればよい」という結論にたどりつく。その正しい住所・電話番号をつかむまでがまた試行錯誤。無駄玉のファックスを送り、ホテルの「ミニテル」なども操作してもらいながらようやく最新の連絡先を入手する。夜10時頃になっていた。ここまでの準備なら日本でできたはずだ、と反省する。

 翌朝のパリは雪。腰痛ぎみの老体に重い荷物をかかえてSOSラシズムの事務所を探す。午前11時発の飛行機に乗る前に、開くか開かないかの事務所に飛び込んで会見して来ようというほとんど賭けに近いスケジュールだ。

 SOSラシズムは、フランスの外国人の権利擁護のため最も積極的な活動をしている団体である。フランス全体で350の支部があり、3万5000人の会員がいる。移民2世、フランス人若者らが1984年に結成した。外国人から「1週約50件」の相談を受け、直接的な救援活動を行うとともに、大衆的なデモ・集会なども組織する。1985年には数万人の反人種差別デモ、87年には30万人の反人種差別コンサートを開いた。

 SOSラシズムの事務所は、道路から奥まった古い建物の2階にあった。1階と3階は空き家で、がらくたが散乱するみすぼらしい建物。案の上、事務所は閉まっている。一旦近くの茶店に退避して電話をかけながら、だれか来るのを待つ。9時半頃、英語を話す職員が電話に出たのでさっそく事務所に引き返す。ところが、ドアは半開きになったものの、いくら大声をはりあげても返事がない。強引に中に入って奥の小部屋を手あたり次第ノックすればその中のどこかに居たのだと後で言われたが、そんなことに思い至るわけがない。やがて黒人の青年が現れた。英語が通じず要領を得ないが、身振り手振りで説明を試みる。日本の外国人労働者の資料を手渡して、足早に事務所を出る。

 空港にはほとんど遅刻だったが、幸い、雪で飛行機の出発が遅れていた。再びSOSラシズム事務所に電話する。英語を話すくだんの職員はずっと事務所で待っていたと知ってガク然。資料を手渡した青年のような職員はおらず、おそらくクライアントだったのだろうとのこと。資料もその人が持っていってしまったようだ。さらに、私はこの英語を話す職員の名前を聞くのを忘れた。SOSラシズム事務所にはかなりの職員が居るらしく(27名とも聞く)、その後電話しても、別の人が出たり英語を解さなかったり、とんと要領をえない。「ほら、あの人を出してくれ」と言っても通じるわけがない。

 こうして私のSOSラシズム訪問はあえなく失敗に終わった。資料は渡らず、コンタクト者名は残らず、私が訪問した事実もほとんど忘れ去られるだろう。しかし、正しい住所と電話番号だけは残った。後続の人の有意義な訪問と交流を期待したい。

  S.O.S. Racisme
  64, rue Folie Mericourt, 75011 Paris
  Tel.: 480640-00

 


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