人類普遍語

     岡部一明



(ハノイの食堂で)

焼きうどんを食べ終え、オーうまかった、と
テーブルの爪楊枝をつまみ出すと、

食堂を忙しく回る少年が、「皿下げていいですか」と聞いてくるので、
おお、いいよ、と返すと、

手早く皿を下げて、路上の洗い場に持っていく。

外は灼熱の直射日光。ここはベトナムのハノイ。
行きつけの大衆食堂は、昼時の繁盛で、ごったがえしている。

今しがた、どういうコミュニケーションが成立したのだろうか。

まわりから見たら、普通のコミュニケーションで、
私はベトナム人で、問いの意味を理解して指示を出した、
と映るだろうな。

いや、私はベトナム語はわからない。

もしかしたら彼は「食べ終えたんですか」と聞いたのかも知れない。
しかし、「皿下げていいですか」でも、「食べ終えたんですか」でも、うんとうなずけば正しい返答になる。
そもそも、給仕の少年が忙しく回ってきて、空の皿を指せば、
何を言ったのかくらいわかる。

そうやって私は「会話」し、この言語不通の外国で生き延びている。
これが人間語という人類普遍語だ。
私の行動と彼の行動と、その間のシチュエーション(状況)の判断で意思を通わせる。
音声言語があると、確かに通じやすいが、
しかし、それがなくても「状況」と「行為」で、人は分かり合える。

日本語を使うコミュニケーションでも意外と、この人間語レベルで意思を通じ合わせている部分が大きいかも知れない。音声的言語はあればなお便利。おまけだ。

私のこれからの長ーい余生は、世界各国を股にかけて歩き回る人生になる。
世界共通語を身につけなければならない。
英語、というわけでもない。
人類間で普遍的に通じる人としてのコミュニケーション、
状況の中で判断するコミュニケーション、
体当たり的で体験的な「場」のコミュニケーション。
造語で「人間語」、だ。

まあ、この歳になって、外国語を一から覚えるのは大変だろう、という寂しい判断もなくはないが。

まだ若かった頃、オーストリアに半年居て、ドイツ語を習おうとしたことがあった。
まったく上達しなかった。
まわりのオーストリア人が普通に英語を話し、ドイツ語を習わなければならない切迫感が高まらなかった。
英語圏の人が外国語を覚えられないのも無理ない。

広い意味でジェスチャー、ボディーランゲージだが、ちょっと違う。
「いいね」の意味で親指を立てるのが国によって卑猥な意味になるとか、
日本のおいでおいでのしぐさが、国によってバイバイの意味になるとか、
指で丸をつくる「お金」の意味が、国によって侮蔑の意味になるとか、
そういう「高度な」レベルのジェスチャーではない。

そうしたジェスチャー言語は、意味論的な位置づけが明確で、音声言語に近い。
それ以前の人としての原初的なコミュニケーション。
極端に言えば「笑顔」だ。
すてきな笑顔さえあれば世界どこに言っても心が通じ関係がつくれる。
笑顔は意味論的な規定を受けなくても、ナマのままで全人類に通じる。
コミュニケーション手段、というより、コミュニケーションそのもの。


(どうやって食うか)

 人間、食うことが基本だ。これができればどこに行ってもだいたい生きていける。

 新しい国、街に着く。
 何を食べるか。
 食堂に入る。街路に小さいテーブルと椅子が置いてあって、屋台と変わらない食堂がある。
 何を食べているか皆さんの食卓をじろじろ見回していく。
 うむ、あのラーメン(みたいなの)がうまそうだ。「これ、これ、これを1個」と店の人に言う。

 料理の名前はわからなくていい。指差して、英語で「ワン、ワン」と言い、1本指を立てれば、だいたい通じる。
 黙って指差してもいいのだが、ちょっと不気味だろう。
 相手に気づかせるためにも声を出すのは大切。
 日本語でもいいが、英語なら、片言をわかってくれる可能性が高いから、大きな声で「ワン、ワン(One, one)」と言う。

 だいたいそれでオーダーができる。
 時に、何か言い返されることがある。「あれはランチメニューでもう終わってしまった」「牛肉はもうなくなった。ポークでいいか?」「麺は硬めか柔らかめか?」などと聞いているのかも知れない。
 やっぱり言葉がわからないとだめか、と、そこでいじけてしまってはだめだ。

 ええい、何を言うか、「ワンだ、わん!」と叫び続ける。
 向こうも必死で言い返してくるが、「わんだ!」でふんばる。
 すると、そのうちあきらめてくれる。

 「おい、いいから、何か出してやれよ」とボスらしい人がアドバイスする(のだと思う)。
 何か出てくる。思ったのとちょっと違う場合もあるが、大きな誤差はない。
 いずれにしても新しい食べ物に挑戦しているのだ。隣の人の料理と完全に同じである必要はまったくない。


(どうやって旅するか)

 旅するのにもほとんど言葉は要らない。目的地の地名だけ言えればいい。

 この間、「ベトナム最後の秘境」と言われる北部ハザン省ドンバン高原に行ってきた。まず、ハノイのバスターミナルで省都ハザン市行きの夜行バスを探す。たくさん停まっているが、金曜夜なので予約満杯のバスも多い。

 「ハザン?」「ハザン?」と聞いてまわる。
 バスの行き先には「ハザン」と書いてあるのだからハザン行きには決まっている。しかし、入り口から乗り込もうとしながら運転手に「ハザン?」と聞けば、「もう満員だ」「乗る席はない」と首を振られる。つまり、「席はあるか」と聞いていることにもなっている。

 何台も聞いてまわるうち、そのうち首を縦に振る運転手が出てくる。そこで、堂々と乗り込む。それでもう、間違いなくハザン市までは行ける。(その後小型バスに乗り換えて山奥のドンバン高原に向かう予定)

 車中、車掌が回ってくるから「ハザン」と答えればいい。○○ドンだ、と車掌が言うが、それはわからなくていい。適当な札を出せば釣りをくれる。だいたいの相場は、まわりの乗客が払っている額を見てれば想像がつく。

 その後も、まわりの乗客や別の車掌からいろいろ質問を受ける。「ハザン」と答えればいい。
 だいたい行き先を聞いている。時に違うを聞いて、しつこく質問が続く場合がある。そういう時は「ニャッパン(日本)」と答える。
 だいたい「どっから来たんだ」と聞いていることが多い。もしかして違うことを聞いているのかも知れないが、「ニャッパン」と言えば、「何だこいつは日本人か。言葉通じねえな」とあきらめてくれる。

 ハザンの街に着く。バスは街中をまわっていろんな所で乗客を下ろす。私にも聞いてくる。どこで降りるんだ、と。「終点まで」「バスターミナルまで」と答 えたいが、それには高度な?言葉が必要になる。だまって最後まで乗って行けばバスターミナルまで行くこともあるが、行かない場合もある(個人バス業者の自 宅前車庫など)。

 今度は「ドンバン」「ドンバン!」と叫びだす。つまり、こっからバスを乗り換えてドンバン高原、あるいはドンバンの街に行くのだ、と叫ぶわけだ。それで 完璧に意思は通じる。「この市場で降りて待ってろ」「この道路でバスが来るのを待ってろ」「ほらあのバスに乗るんだ」などと適当な指示を出してくれ、下ろ してくれる。

 ドンバン行きのバスに乗ったら、また同じことの繰り返し。今度は何を聞かれても「ドンバン」「ドンバン」と言いつづける。途中までしか行かないバスもあ るが、その場合でも「ドンバン」「ドンバン」と言い続ければ、また同じことの繰り返しで、結局はドンバン行きのバスに乗れる。

 これで、中国国境に近いドンバンの街に着き、少数民族の多い街を歩き回り、近くの丘に登ってドンバン高原の絶景も満喫できた。帰りももちろん同じ方式で、「ハザン」と「ハノイ」を連呼しながら、帰ってきた。

(ネアンデルタール人は笑ったか)

 最近、ネアンデルタール人は笑ったかということが気になる。現生人類は、人種、民族にかかわらず皆笑う。すてきな笑顔があれば、どんな山奥でも、どんな 生活の人々の村でも、気持ちが通じ、コミュニケーションが成立する。クロマニヨン人やネアンデルタール人にも笑顔のコミュニケーションは通じるのか。サル など霊長類も笑うというが、ちょっと笑顔のコミュニケーションが通じるようには思えない。

 笑顔は、別にきつい訓練をしなくても、だれでもできる。しかし、簡単ではない。うその笑顔か本物の笑顔かはすぐに悟られる。毎日何時間学習すれば上達する、というようなものでもない。自分の精神、心の根幹が問われるコミュニケーション形態だ。

 普遍的人類愛にまで自分を磨けば、ネアンデルタール人とも気持ちを通わせることができるのではないか。だから彼らが笑ったかどうか気になる。人類はいつの時点で笑いを獲得したのか。

 たぶん、ホモサピエンスがアフリカを出る前だったろう。
 サインランゲージの中でも、どこでも共通する原初的なものがあるようだ。イエスは首を縦に振る、ノーは横に振る、はだいたいどこでも通じる。日本式の 45度お辞儀はともかく、軽い会釈はある程度どこでもあいさつになるようだ。現生人類が全世界に散らばる前、アフリカに誕生して他の大陸に拡散する前に生 まれたサインランゲージだったのではないか。そして笑顔も間違いなく、アフリカで人類共通の祖先が獲得した活動形態だったろう。


(体力、気力で)

 人間語を使うには多大な体力と気力が要る。大いに踏ん張って大立ち回りをする覚悟を決めなければならない。
 「めし」
 「ふろ」
 で通じてしまう世界もあると聞くが、人間語の場合は、手振り、動作、大きな声、笑いその他の表情を豊富に交え、全身でコミュニケーションする努力をしなければならない。

 卓球のラケットを買いたければ、「ピンポン、ピンポン」と叫びながら腕を振る動作をする。イヤホンを買いたければ、両手で耳にそれを押し当てる動作をす る。ネズミ捕りを買いたければ、ちゅうちゅうとねずみの這いずり回りを演じて・・・と大変なことになる。もちろん、絵で書くとか、どうしても概念的に伝え なければならないことはグーグル翻訳のプリントアウトをあらかじめ持っていくとか、いろいろ手は打てるが。

 「ないよ」と言われても、じゃあ、どこで売ってる?この辺で売ってる所はないか?と食い下がるにも、クールに外をちょっと指差すだけでは伝わらない。必死にそれを買いたいという表情、動作を見せて外をあちこち指差してやっと伝わる。つまり熱意が入ってやっと伝わるのだ。

 そういうのを続けると、言葉というんがどれほどエネルギーの節約かということを身に染みて感じる。表情もなく「めし」「ふろ」で通じる世界は何と楽なことか。

 つまり、全力・全身で伝えようとするコミュニケーションこそ人間の真のコミュニケーションではないか。下手に言葉なんぞでごまかすより、体当たりで人々とのコミュニケーションに立ち向かっていく姿勢こそが、異文化交流の王道であると思われる。


(日本人の英語力)

 日本人は、他のアジア人に比べても英語が苦手だと言われる。大学2年まで8年間英語を勉強してきても話せない。
 その原因は、人間語ができてないからだと思う。言語自体の学習よりも、それを通じさせるコミュニケーション力の基本。人間のコミュニケーションの8〜9割は言語以外、シチュエーションの判読と人間語で交わされているという現実を理解していない。

 通じさせる、という体力、気力が不足している。体全体で表現して、その一部として英語を使う、あるいはそのように英語を人間語の中で使える実践的能力がついてない。口先だけで正しい英語を使おうとする。文法、発音などが気になり、純言語論理学の中だけで頭を悩ます。

 大きい声を出すだけでも英語は結構通じるものだ。人は言葉がなくても理解できるという信念に裏付けられ、まっすぐ相手の目を見て、大きい声を出せば、多少の間違い英語でも通じる。

(ユニバーサル・ラングエージ)

 日本に帰ったとき、耳が遠くなった90代の親父さんとつきあうことがあった。耳のそばで大声を出さないと通じないのだが、ベトナムで訓練した人間語を使ったら、結構簡単に通じた。近寄って大声を出す労力よりずっと楽に「会話」できる。

 うーむ、なるほどこれは人類普遍語、ユニバーサル・ラングエージだぞ、との認識を深くした。


(自分の社会の延長)

 人間のコミュニケーションの9割は言語以外、と気づくと、周りの景色が異なって見える。特にベトナム(東アジア)のように外見的には日本人とほとんど変 わらない人たちがいる社会だと、ここが「異国」だと思えなくなる。日本とあまり変わらない、そことつながった社会の一部のように感じられる。言葉は通じな いが、あとの9割で通じる。国内のちょっと違う文化の地域に来たような感覚。

 確かに、街の汚れ具合、交通の乱雑さ、細かく見れば他にもいろいろ違いはあるが、大した違いではない。建物は空方向に向かって立ち、道路は地面と平行に広がる。そこを人や車が動いている。ということでは何も変わりはない。
 そうやって私は緊張を解いて、ボーと街の中をさまよい出すと、生粋のハノイ人のおじいちゃんと間違われて、道行く人が、私にベトナム語で道を聞いてくることになるのだ。

 かつて、アメリカ・サンフランシスコに居る頃、朝ぶらっと外に出ると、そこにいろんな顔立ちをした多民族の人々が居ることを当たり前のように暮らしてい た。そういう日々をずっと繰り返すことが大切なんだ、と思った。特に何か新しい発見や認識をするわけでもなく、そういう異文化の日常を普通に重ねることで 変わっていく私の中の何かが重要だ、と。

 それと同じように、今私は、ハノイの街で、日々、自分の属する社会の延長としての日常をただただ繰り返し、積み重ねていくことに大切な意味を見出している。
      (2014.9)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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