トンニャット公園の魔物


 それは、アパート近くのトンニャット(統一)公園に深夜出る。ベトナム・ハノイ街中の公園。大きな池がある。その水の中から出てくるらしい。全 身水浸しで、悲鳴ともうなり声ともつかぬ声をあげてそこら中を徘徊する。暗くてよくわからないが、顔は水疱のようなイボイボに覆われ、そこから水滴が滴り 落ちる。そして人間とは思えない瞬間移動で、今ここに居たと思ったら次の瞬間はるか前方に行っている。
 歩いていると、ひたひたと後ろから追ってくる足音が聞こえる。自転車やオートバイで走っていても後ろから迫ってくる。振り返ると消えている。
 南国ベトナムの魔物らしく、若干ユーモラスな感じもないではない。私もそれを見たい。正体をあばきたい。そんな気持ちもあって、毎晩、この公園にジョッギングに来る。

 もとはと言えば、この公園、ハノイに着いて私が最も気に入った公園なのだ。途上国の街の御多分に漏れず、ハノイも恐ろしい交通地獄で、街はオー トバイと人であふれ返っている。その中で、この公園だけは広い空間があり、落ち着ける。かろうじてジョッギングができそうだ。それで、この近くにアパート を借りた。

猛暑に負けず

 6月にハノイに来てからずっと猛暑だ。いや、それがこの街の通常の気候なのだから「猛暑」と言うのも違和感がある。
  暑さに体がやられそうになったのでさっそくジョッギングをはじめた。過酷な修行だ。日本でも真夏に走れば汗がぽたぽた落ちる。ここハノイでは、それが「ぼ たぼた」落ちる。それだけ湿度が高い。日本の1.5倍の湿度の感じ(あくまで「感じ」だが)。昨年行ったミャンマーのヤンゴンはさらに湿度が高く日本の2 倍くらい。毎日10回夕立が来るという感じ。衣服はもちろん、壁もベッドもじっとりしてくる。洗濯物を干しても乾かない。半乾きのものを干すと、返って 湿ってしまう感じだ。帰国して日本の8月の気候に入ったら、なんて日本の夏は乾燥してすがすがしいのだろう、と感動した。ちょっと勉強したら、小笠原高気 圧というのは地球の大砂漠地帯をつくる「中緯度高圧帯」気団のひとつらしい。

公園は大賑わい

 ハノイには、中心部にホアンキエム公園という有名な公園がある。やはり池があって景色はいいが、その混雑度は尋常でな い。少し中心部から離れるトンニャット公園の方が、それに比べればすいている、ということなのだが、日本の基準から言えばやはり混んでいる。ジョッギング できる環境ではない。無理に走ったら歩行者にとって危険だ。街の歩道を走るハノイのオートバイのようなものになってしまう。

 と私は思うのだが、現地の人は慣れている。けっこうの人が群衆をかきわけて走っている。サッカーしたり、バドミントンしたり、ローラースケートをしたり、おばさん軍団が大きな音楽をかけてエアロビクス体操をしていたり。活発なことだ。
 何と、オートバイまで入ってくる。ここまで来るのか、オートバイよ。公園内はバイク禁止だろう。

若者たちの後につく

 宵の口まで、相当な人出だ。どうやって走ろう。
 すぐ解決法を見つけた。走っている現地の人の後につければよい。彼らが人ごみを掻き分けてくれる。その後を余裕で走ればいいのだ。
 できるだけ屈強な若者を見つけ、その後ろに付く。しかも3、4人で走っている集団。確実にまわりを蹴散らしてくれる。屈強な若者なら、ペースも一定レベル以上で、相手にとって不足はない。

 ベトナムの人は走るのは得意でない、と見た。肩に力が入っている。ドリブルさせればバスケがうまいかどうか一目でわかるが、走るフォームを見れ ば、走り慣れているかどうかすぐわかる。肩に力が入る、つまり肩をいからせて走る人が多い。私も昔、肩に力が入っている、と注意されていた。しかし、何の ことかわらなかった。だから、どう直せばいいもわからなかった。結局、走りに走り、くたくたになるまで走ると自然と肩の力は抜けた。ふらふらになれば肩に 力を入れる余力などなくなるのだ。

 前の若者たちもだいたい肩に力が入っている。1周2キロ程度の公園を1周、2周とやっていくうちに、若者たちが動揺してくる。「おい、後ろ見ろ よ」「何だありゃ」「じいさん、まだ付いてくるぞ」。上半身裸で走る彼らの背に汗が滴り落ちる。さすがに、2、3周すると彼らも上がりだ。その時、間髪を 居れず横をスーと追い抜いて行く。あの快感。彼らの表情は見えない。振り返らない。

水冷式

 熱暑の中を走る時は、頭から水をぶっかけて走る。水冷式だ。日本でも、夏運動する時、自転車に乗る時、水浸しになって走ってい た。どうせ汗でTシャツがびしょびしょになるのだ。最初からびしょびしょにしておけば早い。汗をそれだけ節約でき、体への負担を減らせる。Tシャツを完全 に水に浸して濡らせば、部分的な濡れによる「まだら」はない。均等に湿り、色も均一になり、濡れているのか濡れていないのかわからなくなる。

 トンニャット公園に水飲み場がないのは困った。水をかけられない。トイレも夜は閉まる。昼は料金を取られるのでお金の持ち合わせがなかったりする。しかたない。家で濡らして最初から水冷式でいく。走り出しの時点ではちと冷たい。
 雨は歓迎だ。わざわざ濡らす必要がない。自然に濡れる。濡れながら走っても、雨だから当然だとまわりも奇異に思わない。

 ハノイでは時々、猛烈な夕立が来る。日本で言えば集中豪雨だ。地響きをたてて滝が天から落ちる。こういう時こそ絶好のチャンスだ。外に出る。び しょびしょになって涼しい。走らないと寒いくらいだ。公園まで行かなくても、通常の道路から人が消える。オートバイも消える。そう、車と違って、オートバ イは雨に弱いのだ。

 靴は水がたまり、道路は河のようになって走りにくい。しかし、道路はまったいらというわけではなく、微妙に傾斜している。高めのところを選んで走れば、水流はかわせる。
 頭から水浸しになり顔を水が流れる。水が目に入り見えなくなる。水泳用のゴーグルをかけることにした。これも日本で、集中豪雨の中を自転車こぐ時の秘術だった。プールを泳ぐように、豪雨の中をゴーグル付けて走る。
 あまりに雨が強く呼吸さえできなくなるように感じることもあるが、これはあくまで感じだ。人間の鼻の穴は下向きなので、溺れることはない。カミナリがなることもあるが、ハノイの街路は大木の街路樹に覆われているので、人間を直撃することはない。ないだろう、と信じる。

空冷式

 ハノイの男は、走ったり運動をしたりするとき、かなりの人が上半身裸になっている。日本ではあまり多くない。私もやってなかっ た。大学の体育館では、男子学生に上半身裸にならないように注意した。女子学生から苦情が来るし、スポーツマンは何よりもジェントルマンでなければならな い。

 でも、涼しそうだ。私も脱いで走ってみることにした。

 なるほど、涼しい。風が体に直接あたる感じだ。そして、この湿気を多量に含んだ熱帯の空気を泳いでいくような感覚。ぬめっとした大気の感触が肌 から伝わる。Tシャツより抵抗が少なく、するりするりと前に進める感じもする。ちょうど抵抗の少ない水着を着た水泳選手が早く泳げるように、ぬめぬめした 大気を滑りぬけていく感じ。

夜の公園

 トンニャット公園が比較的すいているのは入場料を取るからでもある。入り口で4000ドン(20円)を払う。公園は夜9時に閉まる。入場者から20円を取っていたおばさんも居なくなる。ゲートも閉まり鍵がかけられる。

 が、これがベトナムの面白いところだ。公式には閉まったはずなのだが開いている。6ヶ所あるゲートのうち、正門がまず閉まる。が、別のゲートは 開いている。そこから無賃入場で入れる。次第にそっちも閉じられてくるが、必ずどこかは開いているものだ。全部閉めたら、万が一出たい人が居ても出られな いから? 意外に正門が遅くまで開いている時もある。その日のゲート門番の気分で決まるようだ。

 いいかげんといえばいいかげんだが、柔軟で素晴らしい。特に正門から見て左側のグエンディエンチェウ通りのゲートは、真夜中になっても閉まらな い。だんだん気が付いてきたが、このゲートは昼間でも料金を取っていない。狭い通りに面し、地元民がたくさん入ってくる「近隣公園ゲート」という感じなの で特別待遇なのか。

 私は夜9時を過ぎて、料金徴集が終わった頃に行くことが多い。20円をケチりたい、と思うほど、私もまだ落ちぶれていない。この頃になれば、さすがに人が少なくなるのだ。ジョッギングしやすくなる。

 人が少ない夜の公園。怖くはないのか。怖い気はしない。ベトナムでは、客引きがしつこかったり、料金をぼられたりというあこぎさとは日々闘されるが、暴力的な犯罪を受ける危険はほとんど感じない。これはよいことだ。アメリカも含めて夜怖い国はたくさんある。
 意外にも子どもといっしょの家族連れが遅くまで遊んでいる。カップルがいっぱい居る。そこをばたばたと走り回る私の方こそ不気味な存在だろう。

オートバイとの競争

 毎日毎日、ひたすら走るのは忍耐と強い意志力が要る。走りにも少し変化を付けないと飽きる。いろいろ手はある。ひ とつには、この静かになった公園に入ってくるけしからんオートバイへのいやがらせだ。カモにしてやる。猛烈ダッシュでオートバイの後を追う。あるいはオー トバイが後ろから来たらスピードを上げて、抜かれてたまるかの競争をする。単なる長距離走でなく、ダッシュもしないとバスケやサッカーに耐えられる体力は つくれない。

 「何だこのおっさんは」とオートバイのにいちゃんがけげんな顔をする。そうだよ、変なことするだろ。君が公園をオートバイ乗り回すのが悪いんだよ、嫌がらせだよ、と態度で示す。

 残念ながら、私のダッシュもガソリンの力にはかなわない。やがて抜き去られ、私はまた通常走行に戻る。が、時たま、抜き去らず、いつの間にか消えるオートバイもある。横に向きを変え、わき道を逃げていくのだ。まったく、何を怖がっているのだ。

ベトナムの合体を記念する公園

 1974年、米軍がサイゴンから撤退し、76年、南北が共産勢力によって統一された。それを記念したの がこのトンニャット(統一)公園だ。池の中ほどに小さな島があり、橋がかかっている。そこにホー・チ・ミン主席と、後を継いで統一ベトナム初代主席になっ たトン・ドゥック・タンの像がある。二人が固く握手する統一のシンボルの像だ。

 この「合体」にあやかろうという訳でもないのだろうが、恋人たちがこの島にやってきて、ベンチでささやき合う。色の変わるライトアップが施され てロマンチックだ。そこも私は少しは走る。嫌がらせではない。彼ら彼女らは気にしてないようだ。日本では新宿公園の「覗き」とかいうのが昔有名だったが、 ベトナムの男性は日本人と違ってそんなことはしない(ようだ)。だから覗かれるのを警戒するカップルも居ない。キャンディー屋もプーホーとラッパを鳴らし て周りを練り歩く。

 島に至るアーチ橋で私はダッシュの練習を繰り返す。日本でも夜の名古屋市立八事霊園で丘をかけ上るダッシュ訓練をしていた。ハノイは大平原の真 ん中の街で、坂と言えるものがないので困った。しかし、このアーチ橋は傾斜があり、かけ上るにはちょうどよい。だからこの島に来る。嫌がらせに来るのでは ない。

 おいおい、橋の上で抱擁なんかしてるなよ、邪魔だ邪魔。
 とは言わないけれど、そんな感じで脇をダーと駆け登る。

夜汽車

 公園の西側、道路をはさんですぐのところを鉄道が走っている。ハノイからホーチミンまでをつなぐ南北統一鉄道だ。夜になると、 10両以上の編成で、夜汽車が走っていく。ボーという汽笛が聞こえてから、やや暫らくたたないと列車見えない。ハノイ駅を出たばかりのせいもあるが、自転 車程度の速度でゆっくり走る。

 昼間見ると、こんなところを列車が通るのか、と思うほど生活空間を通る線路だ。家々の軒下が間近に迫り、まるで小田急線や京王線のよう。線路を人が歩き、線路に向かって店を構えているところもある。

 しかし、木々の間から見える長連結のジーゼル列車は、これから南北1630キロを30時間かけて走る。青森−鹿児島間に近い距離で、鉄道独特の旅愁は十分感じさせてくれる。

夜が更けると

 夜はいよいよ更けていく。10時を過ぎるとあまり人影は見なくなる。頭上を覆う巨木から葉っぱのざわめきが聞こえる。ば さばさと突如として巨大な怪鳥がはばたいていく。あんな大きな鳥が昼間居ただろうか。いよいよ魔物が出る時間帯か。地上では、リスが活動を始める。ハノイ の公園にもリスが居るのか、と最初思った。が、よく見るとドブネズミだった。側溝あたりから出てくる。非常に多い。彼らも夜、活動するのだ。

 11時を過ぎるとさらに人は居なくなるが、それでもゼロにはならない。走っているのは私くらいだが、本格派の恋人たちが何組かはベンチに残って いる。そして、この時間帯になって現れるのが、不思議な釣り人たちだ。池の周りに寄ってきて糸を垂らす。夜になると魚が岸辺に近づいて釣りやすくなるらし い。網で取る者も居る。ベトナムはフランスと同じで、カエルなど両生類も食するので、そういうのも取っているかも知れない。

 不思議だ。ハノイの公園にはホームレスの人が居ない。貧しい途上国で、しかも気候的に野宿は問題ないはず。警察がまわって居残り派を追い出すようなこともしていない。だから私も居られるのだし。

 遅くとも、深夜12時が近づく頃には、私も公園を出る。翌日は仕事があるから、それ以上遅くまでは居られない。どこかのゲートは必ず開いているからそこから出る。

 残念ながら、魔物はまだ見ていない。やつが出るのはこの後なのか。夜12時過ぎのトンニャット公園を私はまだ知らない。
         (岡部一明、2013.9.22)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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