木星の大気の下から


 9月初旬、分厚い雲におおわれたサンフランシスコ。寒い寒い。このどんより曇った空間は何だ。白い霧がふきすさぶ街を歩きながら、木星の大気の底にいるような気分だ。

 アメリカ大陸西南部は熱暑。カリフォルニアの大部分も灼熱の太陽にさらされているが、海沿いのサンフランシスコは、太平洋沿岸を流れる寒流からの冷たい霧におおわれている。サンフランシスコ湾のちょっと向こう(大陸側)に行けば晴れているのに、その対岸からサンフランシスコの街を見渡すと分厚い雲(霧)に被われている。メタンやアンモニアが凍るほどではないにせよ、摂氏17−8度は日本で言えば晩秋。寒がりの私はももひきをはき、夜は子どもが暖房のスイッチを入れて困る。

 まるで天然のクーラー。日本的にわかりやすく言えば、那須や軽井沢のような高原の避暑地にきたのと同じだ。あるいは、太平洋岸からの冷たい「ヤナセ」が真夏に吹いている、という感じ。

 木星の大気圏にはしばしば、遠い宇宙空間からシューメイカー・レビーなど彗星が激突しディープ・インパクトを与える。サンフランシスコにも日本からNPO視察の人びとが来て、熱い交流の炎を燃え立たせていく。しかしその炎でも木星の大気は晴れることがなく、雲海の底にわずかな輝きが認められるだけだ。

 ウーン、それでも今年はちょっと異常気象ぎみ。晴れる日がけっこうあった。それと、そろそろ9月の半ばが近付いて、霧が弱くなってきた。すると晴れて結構暑くなる。サンフランシスコで最も暑いのは9月から10月にかけてだ。夏は秋に来るサンフランシスコかな。字余り字足りず。

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 (以上は、1998年9月の、日本の人たちへの夏のあいさつ文だ。サンフランシスコから送る夏季あいさつ文ほど、心躍る楽しい作文はない。酷暑であえいでいるに違いない日本の人たちに、震え上がるほど涼しいサンフランシスコの夏について、手を変え品を変え、描写して送って差し上げる。マーク・ドウェインが「これまで経験した最も寒い冬はサンフランシスコの夏だった」という有名な言葉を残している。19世紀ではさすがに8月に暖房を入れる習慣はなかったのだろう。だからその辺の冬よりずっと寒い思いをする。そして、冬は冬でまた、下記の通り、こんな時候の挨拶を工夫して送る喜びがある。1999年12月の便りから。)
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 いよいよ遅夏も盛りとなってきましたが、皆様お元気ですか。
 毎日快晴。「この分だと2000年まで雨は一滴も降らない!」とメディアが絶叫している。気温は連日20度を超え、きのうの冬至(12月22日)の最高気温は21度だった。今年の夏至(6月21日)の最高気温(18度)を上回ったそうだ。日だまりの玄関は25度まであがった。

 サンフランシスコの緯度は福島県猪苗代湖くらい。太陽はかなり低いが、澄んだカリフォルニアの大気から降り注ぐ光は強烈。露出した顔や腕が焦がされていくようだ。

 だから何なのだ!とお叱りを受けそうですが、一応、年末年始のご挨拶ということで……。来年2000年に私は区切りよく50才になります。やっと人生の半分。これまでも長かったですが、これから同じ年月、何をすればいいのか。「世界放浪冒険の旅」初めやりたいことはあらかたやったし……、ま、子どもを育て、いろいろ社会貢献をやっていこうと思います。

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 (サンフランシスコが夏涼しく冬暖かいのは、大陸西岸の海洋性気候の影響を受けるためだ。1年中、温度変化が少ない。一応、「地中海性気候」で冬は雨が多いのだが、どういうわけかこの年は雨が少なかった。晴れれば冬でも暑いくらい。で、そこで下記にもう1本、日本とサンフランシスコの季節の違いから考えた文化論。)
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 1996年8月中ば、酷暑の日本からサンフランシスコに帰ってきた。家に帰って来るなり暖房を入れ、寒いのでフトンにころがりこんだ。

 古着屋でオーバーを買った。今、特に夜は、このオーバーを着て、モモヒキをはいて霧の街を歩いている。決してオーバーではなく、これがサンフランシスコの、特に海沿いリッチモンド地区の夏だ。

 カリフォルニアはまぎれもなく北半球で、8月は日本と同じく夏。実際ちょっと内陸に入れば40度を超す猛暑の半砂漠地帯が広がる。しかし、沿岸部は、アリューシャン列島付近から下る寒流の影響で涼しく、特に霧が出るといっきょに日本の晩秋の寒さになる。

 かといって冬、特に寒くなるという訳ではない。かえって霧の少ない冬の方が暖かくさえ感じられる。1年中花が咲き、野山は雨の多い冬に緑に被われ、夏は枯れて褐色の山並に変わる。真夏の平均気温16度、真冬の平均気温10度。1年中、ほとんど気温の変化がなく、春か秋のような気候が続く。年間の気温差より1日の内の温度差の方が大きいと言われる。

 一年中、自然の冷暖房が完備しているこの街に帰り、あの耐え切れない酷暑の日本の夏をなつかしがっている。だれがあんな暑さの中に住めるか、と最初は思う。実際、日本に居る間中、サンフランシスコの冷涼な気候に帰ることを夢に描いていた。

 だがこの天然のクーラーの街に帰ってくると、あの、体の汗腺全体が開放される高温多湿が、それなりに豊かな体験でもあったことに気づく。恐らく日本の人びとは、あの夏の暑さの中を川や海で遊び、ランニングシャツと半ズボンで蝉とりにかけまわった子どもの頃の思い出を、原体験として心にしまいこんでいるに違いない。あの暑さがなければ、続いてやってくる秋の感傷を感じることもなく、冬の厳しさを経なければ再生の春の喜びも味わえない。

 日本は単一的な文化・民族を自慢したがる国だが、季節だけは恐ろしく多様な国だった、とこの天然クーラーに震えながら気づく。

 サンフランシスコはアジア系が30パーセントを占め、その他黒人、中南米系、先住民族など「マイノリティー」が半分を超える極めて文化的に多様な街だが、季節は恐ろしく「単一」だ。日本の人びとにとって多民族社会とは「問題」と同義語、できる限り単一の社会の方が優れていると思っている。しかし、多様さは、たとえどれだけその中で「問題」を味わおうとも、それを超える感動と普遍性を与えるのだ。季節の多様性の中に生きる日本人がこのことをよく知っている。

 季節の多様さは人びとに感情体験の豊かさをもたらしてきた。夏の暑さは少年期の原体験を刻み、あるいは、酷暑絶頂期の静寂の中に死へ予兆をかぎとるような感性の鋭さを生む。忍び寄る秋は「目にはさやかに見えねども、風の音にぞおどろかれぬる」と詠ませ、私たちの世代も「今はもう秋、だれもいない海」などという形でこの感情を共有した。そして、冬、春・・・次々に変化する季節の中で農作業を進めた人びとには、ある種の勤勉性、変化に対する旺盛な好奇心がもたらされた。

 酷暑や厳寒は、人間にとって危険でもある。雨期の洪水や台風などは実際に多くの人びとの生命を奪ってきた。だれが好んでこのような所に住んでいるのだろう、と他の人は思う。だが、そこに住んでいる日本人は、その激しい多様性が、ただ単にネガティブでひたすら忌避するものであるとは思っていない。

 社会的・民族的多様性に「問題」しか見ない日本人が、この季節の多様性がもたらす豊饒さを、体験の中で十二分に感得している。

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