モンゴルの旅
       岡部一明、2015年10月

stupa

内モンゴルの夜

 「ワダヤ・ミーデム」
 大きな声がして目が覚めた。農場のようなところでバイトをしていた。訪れた観光客の相手をしろ(Would you meet them?)、と上司らしき男がどなったようだった。

 しかし、違う。目覚めたのは簡易ベッドの中。ここはどこなのだ。少しずつ記憶をたぐりだしていくと、そうだ、ここは夜行寝台バスの中で、私は北京から内モンゴル方向を目指していた。

 外は暗闇。バスはどこかに停車して いる。エンジンも止め、他の乗客も寝ていて異様に静かだ。その静寂を破るように周囲の男が何か叫んだので目が覚めたらしい。英語を話す者がここに居るわけ がない。中国語かモンゴル語で怒鳴ったのを、私が夢の文脈で英語に解釈したのだろう。

 外に出た。バスの停車時にトイレに行っておかないと面倒なことになる。北京からどのくらい離れたのか。星がよく見える。まわりは草原のようだ。寒い。強い風が吹いている。つい数日前まで居たハノイの湿った熱暑とは何という違いだ。

 バスは、重機が林立する機械置き場のようなところに停まっていた。クレーンの腕が不気味に暗闇にそそり立つ。すべて廃車のように動かず、沈黙し、風だけがビュオービュオーと吹いていた。

(夜行バスが故障し、草原の修理工場で1夜を明かした。翌日、約7時間遅れて、10月2日、国境の町エレンホトに着いた。)

内モンゴルの風車内モンゴルでは風力発電が盛ん。

国境越え

 国慶節で国境が閉鎖されているという事情を理解するまでに相当時間がかかった。

 国境の町エレンホト。旅行者をモンゴル側ザミンウードまで送り届ける「ジープ」が町中にたむろしている、とガイドブックにあるが、1台も見ない。タク シーに乗って「ザミンウードまで」と言うが、通じないのか、街の特産品街に下ろされた。(通常ならこの辺で国境越えをする多数の客待ちジープが居るらしいことを後で知る。)

 駅で、ザミンウード、またはウランバートルまでの切符を買おうとしたら、窓口の女性はだめだだめだと手を振る。何度もお願いすると、そのうち唐突に後ろ の部屋に引っ込んでしまった。言葉が通じないからそうする以外なかったのだが、何て荒っぽい対応なのだ、と思い、途方に暮れた。

 街中の「旅社」という看板は旅館のことらしい。「航空售票」だったか、航空券を売っているらしい店に入ったら、どうやらここが旅行社だった。 スタッフの一人がかろうじて英語を話した。そして、きょう、あしたと祭日で国境が閉鎖されていることを知った。国慶節の最も大きな影響がここで 発生。休日なら一段と旅行者が増えると思うのだが、国境が閉鎖されるとは。

 中国はベトナムにも増して英語が通じない。しかし、街中に漢字の看板があり、いざとなれば漢字で筆談という手を使える。状況は比較的恵まれているというのに、コミュニケーション不通でこの体たらくだ。

 未知の土地に向かうときは常に不安がつきまとう。特に、この中国・モンゴル国境越えは比較的難度の高い関門だろう。北京から飛行機や国際列車でいっきょにウラン バー トルに向かえば簡単だが、高い。国境の街エレンホトまでバスで行き、乗り合いジープなどで国境を越え、モンゴル側のザミンウードから国内列車で ウランバー トルに行けば、料金が3分の1から5分の1程度になる。しかし、慣れないと要領がつかめず、右往左往する。

 結局、さらに1日を国境の町でつぶし、翌々日に国境を越えた。何とか夕方、ザミンウード発ウランバートル行きの長距離列車に乗れた。(国境の越え方の実際的ノウハウについては後述)

中国側から見たモンゴルとの国境中国側から見たモンゴルとの国境(中国国境検問所のアーチ)。

モンゴルの乳製品

 モンゴル側に入りさっそく液状ヨーグルトを飲んだ。うん、これは本物だ。凝固剤で固めたような偽者じゃない。舌に染み渡る酸味が違う。さすが牧畜文化の国モンゴルのことだけある。

 ところが、列車に乗ってから、強い便意が襲い、出るものが思い切り出た。列車に比較的きれいなトイレがあってよかった。大腸の壁に付いていたカスも全部はがれたと思われるような激しい便通。決して下痢ではない。中が空っぽになったらもう出ない。

 トイレから出てしばらく放心状態。これほど激しい便通をこれまで経験しなかったのではないか。しかも、こんな夕方の時間に。しばらく「心的外傷後ストレス」に襲われ、呆然としていた。
 

大草原を行く列車

モンゴル縦断鉄道は25両編成。モンゴル縦断鉄道は25両編成。先が見えない。

 ウランバートル行きの列車は、トイレだけでなく、全体的にもきれいだった。シベリア鉄道にもつながるモンゴル基幹路線。車内は広いし(新幹線よりも広いロシ ア式の 「広軌」線路)、2等寝台でも、各車両2人の「スチュワーデス」がおり、シーツ、枕カバー、タオル、お茶が付く。700キロ走る寝台車が1500円では赤 字ではないか。いや25両もの編成で1500人は乗っているだろうから、1日1本の運行でも十分モトは取れてるかも知れない。

 薄明るくなる頃、起きて窓の外を眺めていた。

 列車は何もないモンゴル草原を走っている。
 朝もやの中で、10頭ほどの馬の群れが走っているのを見た。
 朝の体操か。

 人間は居ない。自主的に走っているようだ。
 柵もない。しかし、野生の馬ではあるまい。

 広大な放牧地帯に逃げる空間などない。
 地平線まで全体が逃げる空間で、かつ人間の目が届く空間。
 人はどこかに居て、いざというとき、世話しにやってくるのだろう。

 10月。
 最低気温が零下を切るが、少なくとも馬を厩舎に入れるほどではない。

 馬を見たのはそれだけで、後は牛と羊だった。

大草原を行く列車。大草原を行くモンゴル鉄道。列車の後ろの方から、カーブして進む先頭車両方向を撮っている。

ウランバートル着 

 ウランバートル駅の近くで投宿。2500円で私としては贅沢だが、そのあたりが相場のようだ。いいホテルで清潔。もちろん暖房性能は抜群(でないとモンゴルでは死ぬ)。翌日には、モンゴル西部アルタイに向けて出発する予定だ。

 実は先を急いでいる。モンゴルは10月下旬になると一挙に寒くなると聞いている。できるだけ早いうちに最北部の旅をやり遂げておかねばならない。ウランバートルを一日中歩き回って情報収集し、翌6日火曜の11時にアルタイ行きバスが出るという情報をつかんだ。

 モンゴルの旅は難易度が高い。中国と同じで英語がほとんど通じない。そして文字がロシア文字で、ほとんど読めない。中国は漢字があるのでそのぶん楽だ。前にミャンマーでもまったく読めない民族文字で苦労したが、あそこは皆英語を話すので逆に楽だった。

 ロシアの影響が強いのだろう。ロシア語を話す人は多いようだ。街もどことなくヨーロッパ風を感じさせるところもあるが、おそらくそのせいだろう。

ウランバートルの街にはヨーロッパ的雰囲気もあるウランバートルの街にはヨーロッパ的雰囲気もある。
 
 ここ数日暖かいせいもあるが、寒さはまだたいしたことない。早朝で0度くらい。日中は15度程度だが、日差しが強いので外を歩く ともっと暑く感じる。Tシャツでいいくらいだ。10月のモンゴルで暑さで難儀するとはおもっていなかった。もっとも、平年だと、今の季節でも最低マイナス 10度になるらしいので油断はできない。

アルタイに向かうバス

 6日午前11時、ウランバートルからバスに乗る。アルタイまで18時間の旅。ジープみたいな車になるのか、と思っていたら、意外と普通のバスだった。

 街を出ると、バスは草原の中を走る。内モンゴルから続く草原。最初は興奮して写真を とりまくっていたが、こう同じ風景が続くとだんだん慣れてくる。モン ゴルの人にとって風景というものはこういうものであって、何も珍しいものではないのだろう。桂林やハロン湾などアジア東南部のタワーカルスト地形が、最初 は珍しいが、長く住んでいると当たり前になってくるのと同じだ。今回私は、そんなカルスト地形の光景を「脱出」する感じで、華中・華南の大平原、モンゴルの 砂漠・大平原と繰り出してきた。

 バスの中のビデオ映像が印象的だった。中国のバス・ビデオは、中国、香港、ハリウッ ド製のボッガーン、バキ、ブギャーという活劇ばかりで閉口したが、モン ゴルのはMTV中心。朝青龍のような恰幅のいいおじさん(若者?)が蒙古服を着て、大草原を吹き渡るような朗々とした歌声を響かせていた。
長距離バスの中ではMTVモンゴル歌手が朗々と長距離バスの中ではMTVでモンゴルの歌が。

 バスは保温が悪いようで、夜かなり寒くなった。ジャンパー、セーター、ももひき、手袋、厚手くつした、その他持参しているものをすべて着込んで対応。普通、軽装備の旅をしているが、今回は「厳寒のモンゴル」に備えて物量作戦を展開していて対応できた。

「アルタイ語族」の祖地

 7日(水)未明アルタイ着。朝暗いうちに着いたが、すぐそばにホテルがあって助かる。ホテルはなく、ゲル(遊牧民の丸いテント)泊まりになるのか、と案じていたが、立派なホテル。床もバストイレもぴかぴかに輝いている。2500円で料金もウランバートルと同じだ。

 アルタイ市はゴビ・アルタイ州の州都で、人口約1万5000人、標高2200メートル。3000〜4000メートルのアルタイ山脈に囲まれている。と言っても、来てみると広い草原の中で、その支脈が見えるだけだ。モンゴル西端まで600キロ続く山塊の全貌は見えない。

アルタイ市付近のアルタイ山脈

アルタイ市付近のアルタイ山脈。

 アルタ イ・・・そうあの「ウラル・アルタイ語族」のアルタイだ。最近はウラル語族との関連が切れて「アルタイ語族」ともされるこの言語系統には、モンゴル語、ツ ングース語、 満州語、朝鮮語、日本語などが属す。動詞が最後に来るなど語順が同じで、「てにをは」の助詞がある。日本人の祖先の一派も、こ の辺を通って移動してきたと思われる。東アジアを走破する旅を、まずこのアルタイからはじめてみようと思っ ていた。

草原を歩く

 着いてすぐ周囲の草原を歩き回りはじめた。町は小さく、少し歩けば草原に出る。そこから雪をいただいたアルタイの山々まで枯れた草原がなだらかに続いている。

 草原を歩いていると、ザックザックという自分の歩く足音以外何も聞こえない。だが、静寂だと本当に 「シーン」という音がする。単に夜行バスでの寝不足による耳鳴りかも知れないが、普段雑音に慣れて聞こえなく なっている宇宙に満ちる電子音なのか、などと思う。

 ホテルは午後から断水で、きょうはシャワーを浴びられないかも知れない。まあ、よい。買ってきたミネラルウォーターで歯を磨こう。
アルタイも特に昼は強い日光で意外と暖かく、安堵した。しかし、湿潤ハノイに慣れた身にはこの乾燥がきつ い。早速のどをやられ、喉かぜ状態。

アルタイ市にはゲルの住居も多い。アルタイ市にはゲルの住居も多い

 翌日も、まわりの草原を歩き回った。ウランバートルへの帰りのバスは次の日になるという。昨日とは逆の南方向の丘に登ると町全体がよく見えた。360度、大草原と大山脈と青い空と。

 こんな光景を一人で満喫しているのは本当にもったいない。しかも、さほど感動もせず、普通に見ている私が許せない。「ああ、確か(前に居た米カリフォルニアの)ヨセミテのむこう側もこんな感じだったな」などと。

アルタイの街

大気汚染

 写真は人を欺く。きたないところを避けて美しいところだけ撮れば、その土地のイメージは美しさ一色になる。
 確かにアルタイは美しいところだが、眉をひそめたくなる光景もあった。

 例えば、美しい山並みが見えるところで、レンズをちょっとずらすと、下記写真のような光景が目に入る。真っ青な空に黒々とした煙が立ち上っている。アルタイ の町からは、工場や家屋、商業施設などに煙突が立ち、これでもかというほど煙が立ち上っているのだ。汚染削減処理をせずそのまま排出しているような煙だ。

 透明な空と白銀の山々に感動するからこそ、この真っ黒な煙が痛々しかった。こんなところに煙を排出するのは犯罪ではないか、とも思った。

煙突から黒煙。煙突から黒煙。アルタイ市郊外。

私が泊まったホテルからも黒煙が。アルタイ市内でも。

 確かに、広大なモンゴルの自然の中では、多少の人工ばい煙が排出されても、すぐに環境に薄められてしまうかも知れない。まだ貧しいモンゴルの人た ちの暮らしを、そう考えて「理解」しようともした。でも、理解しきれない。何よりも、汚染は、広大な自然にまぎれるよりも、限られた人口集住地に堆積し、 人間を直撃する。

 高いところから町を見ると、それがよくわかる。清浄な草原と山脈が広がる中に、人間の町があり、そこだけうっすらと煙がたなびいている。逆転 層だろう。特に朝、その汚染層が地上付近にはりつく。夜の冷気で地上付近が冷やされ、上空の空気より温度が低くなる。すると、地上付近の空気 は上昇せず、大気の循環がはばまれる。内陸の盆地や広い平原などでこういった現象が見られる。ロサンゼルスのスモッグも中国華北平原の大気汚染も、この現 象がからんでいるだろう。

アルタイを覆う逆転層。アルタイを覆う逆転層。

 アルタイの町を歩くと、空気の汚れでむせるように感じることもある。私の泊まったホテルからも、一般の民家からも容赦なく煙があがっている。10月でこれだ。冬になってストーブをたくようになったらどれほどの大気汚染が生じるのか。

ゴミ投棄

 ゴミも問題だ。広い平原の中にあるアルタイは、もちろんある程度まで町を離れると、すばらしい自然環境になるのだが、町の近くの草原はゴミでいっぱい。広いのをいいことに、そこら中に捨てているのだろう。

 牛や羊の糞も大量に見るが、それはいい。自然に返るものだ。ビニール袋やペットボトル、ガラス、金属片なども捨てられていることが問題だ。色とりどりのビニール袋が風に吹かれて草原を飛んでいく。

ビニール袋が散らかる草原。ビニール袋が散らかる草原。
 
 自然に甘えているではないか!と独り言を言い始めた。自然があまりに広大で人が少ない。人にとって環境が無限大のようにも感じられる。だから と言ってそれに甘えて、排出しまくりでいいのか。自分たちの住む恵まれた自然環境を、きちんと責任をもって維持管理できているのか!とだんだん怒りだしてきた。

ウランバートルの大気汚染は「世界最悪」

 2011年の世界保健機関(WHO)の調査によると、モンゴルの首都ウランバートルが大気汚染“世界最悪”との結果が出たという。石炭を使う一般家庭の暖房が汚染原因の6割を占めたのことだ。

 前後するが、私はウランバートルに帰って、便利だからと、バスターミナルの近くに3日間、宿をとった。泊まってから気がついたが、窓の外に火力発電所の冷 却タワーや煙突、その他工場の煙突が複数目に入った。いずれも大量の灰色の噴煙を上げている。周囲を歩くと煙たい。「大気が汚染されている」というより「煙た い」レベルだ。

 市の東部地区や、ちょっと郊外の新都市化地帯に行くと、きれいな空気になる。しかし、特に西部地区を中心に街中では大気汚染がひどい。中国の大気汚染が有名だが、その向こうのモンゴルの汚染も相当なものだと理解した。

ウランバートルの大気汚染ウランバートルの大気汚染。

草原全体、これ道路なり

 アルタイを出たバスは、1時間ほど草原の舗装道路を走っていたが、突然、草原に乗り入れ、道なき道を走り出した。
 「なぜだ。なぜ道路を走らない?」と近くに座っていた少し英語を話す女性に聞いてしまった。返答はしどろもどろでよくわからない。しかし、こういう「道」がこれから200キロは続くという。

 10月9日、アルタイからウランバートルへの帰りのバス。アルタイ方向に近い約200キロは草原をつっきる道だった。来るときは、この部分は夜でよく わからなかった。「ちょっと揺れが激しいな」と思っただけ。帰りは昼11時アルタイ発。来る時見えなかった道周辺がよく見えた。

草原全体が道路。草原全体が道路。

 地図上に道が描いてあっても、道らしい道はない。草原を、車が走ってできたタイヤの跡を走る。道路としての整備は何もしていないようだ。けもの道な らぬタイヤ道。別にその跡を律儀に守る必要もないので、ちょっと荒れていれば別のタイヤ跡に移動する。こうして草原には何本ものタイヤ跡道がつく。草原といえども、今は枯れて半砂漠状態。車が通ると後方にすさまじい砂煙が立つ。

 何だかバスの横数キロのところに、別の砂塵が平行に動いているぞ。おお、そちらにもジープかRVが疾走しているのか! という具合で、この広い草原いたるところにタイヤ跡があり、すべて道路なのだ。

 バスが疾走できるほど、この草原が平らなのに驚く。舗装道路を走っていたときと同じ、おそらく80キロ程度でバスは走る。ときどき、雨季に水が流れるわ ずかな窪地でスピードを落とす。ドライバーはそんな窪地を敏感に察知できるようだ。高速のままだったら大きくバウンスして事故に なる。

 ドライバーは、夜になってもバスを疾走させ続ける。馬を駆ってきた彼らだ。狭い道路を走るより、こういう広い平原の方が走りやすいのかも知れない。性にあっているのかも知れない。

 走っているルートがどうも地図上の道路から外れている。ウランバートルか らアルタイに行く道は、いやしくもモンゴルを東西に結ぶ幹線道路。地図ではそれは中央部のハンガイ山脈南麓を走る。しかし、実際に走っているのはどう見ても南部アルタイ山脈に近い平原部分だ。 美しいアルタイの山々が右手に見え続けている。

 タイヤ跡が道路になるなら、別にそこをきちんと守って通る必要はないわけだ。広い平原のより平らな走りやすいところを選んで突っ切ればいい。

 モンゴルで道路をつくるなら、かなりの高速性能をもった高速道路をつくらねばならないだろう。ちまちました道路では、「めんどくせえ」とばかりに草原を走られてしまう。

 しかし、どうなんだ、こんな風にあたりかまわず草原を疾走していたら、草原は荒れる。車は馬じゃない。環境が破壊される。モンゴルのあちこちで自然 破壊を見て心を痛めてきたが、「平原全体、これ道路なり」は、その破壊の最たるものではないか。草原破壊と砂漠化が進行し、砂嵐、黄砂が起こる。

遊牧民の世界

遊牧民の世界

 モンゴルは人口280万人、面積156万平方キロ。人口密度は平方キロ当たり2人で日本の150分の1だ。茨城県の人口が日本の4倍の国土面積に住んでい る計算だ。しかもその3分の1はウランバートル市に集中している。そんな国土の過疎状態は、実際に見るまで想像するのは難しい。

 しかし、モンゴルをバス旅行すればその過疎を否応なく理解させられる。半砂漠的な草原が果てしなく続き、町がほとんどない。時々、ゲル(遊牧民の丸いテ ント家屋)が1つ2つ。互いに十数キロは離れているだろう、地平線まで続く平原に点のように人間居住の痕跡が認められる。アルタイ地方などより奥地 では、隣のゲルまで数十キロは離れていたのではないか。あたり一面にまったくゲルを見ないこともあった。

 これが遊牧民の世界というものか・・・。
 この光景を見てまず思うのは、セキュリティー(安全保障)だ。こんな広い空間に単独世帯で暮らしていたら、盗賊にいっぺんにやられないか。農耕社会な ら、ある程度の集落が形成され、互いが互いをよく知る中で、だれかがだれかを襲うような犯罪は抑止される。しかし、ここでは襲われても、だれも助けてくれ ない。襲われているのさえ気づかれない。

 同じような過疎に住むアメリカ中西部の農牧民たちが銃で武装し、「自分の安全は自分で守る」という銃社会型の安全保障を生み出したことも想起される。

地平線まで続く草原

 
 あらゆる時代を通じて、安全保障こそ社会を構成させる最も基本的な誘引のひとつだった。国家や帝国の起源を、暴力団と重ね合わせてみる見方がある。

 ゲルの遊牧民たちはより大きな統治組織、あるいは強力な暴力団勢 力に恭順し、その威光をかざして暮らしたのではないか。「うちはY組頭領のだれだれさん直系の世帯なのだ」。そう示すことで盗賊の襲撃を回避した。それで も襲う盗賊がいたらY組からの徹底した制裁を受ける。そうした秩序で遊牧民の安全保障は確保されたのではないか。依拠する暴力団はさらに広域で強大な暴 力団の傘下に入る。拮抗した暴力団が互いに抗争する状況では安全は確保されないから、社会はおのずと圧倒的勢力の広域暴力団を求めたろう。個々 の遊牧民は一定のみかじめ料(税)を払いながらその庇護を受ける。モンゴルから中央アジアの広大なステップには、こうした広域の暴力団連合=遊牧国家が 比較 的容易に生まれていったのではないか。

 風景を眺めるだけで正確な歴史認識ができるほど甘くはない。しかし、この夕日の下にある広大な草原と散在するゲルの光景がいろんな思索を生む。

 ゲルを近くで見ると、そこには太陽光発電パネルが掲げられ、中では電気も使っているようだ。オートバイ、時には自家用車までそばに置かれている(むし ろ、そうしたゲルの方が多い)。昔は馬、今は自動車なのか。車は草原を移動するのに向いているが、しかし、やはり、草原の破壊は進行するだろう。

ゲルと車ゲルと車。

カラコルム故地

 10月12日、モンゴル帝国の首都カラコルム跡があるハラホリン村に着いた。ウランバートルから西へバス5時間。

 何もない。チンギスカンの三男、オゴタイ・カーンが1235年に建設した首都だ。その宮殿の発掘現場があるだけ。モンゴル帝国と直接関係のない16世紀以降 の仏教寺院などがあり、それらが一応世界遺産になっている(「オルホン渓谷の文化的景観」)。 「つわものどもの夢の跡」どころか、跡もない(地中に埋 没)。モンゴルに典型的な広大な草原が広がるのみ。

 周辺の丘に登った。ハラホリン村とオルホン渓谷の全体がよく見渡せる。この広大な光 景を見れただけでもここに来た価値があった。モンゴル帝国はここから世界を支配した。モンゴル高原、中央 アジア、中国全土はもちろん西は東欧、南はインド北部、ビルマまで支配。失敗したが、日本、ベトナム、ジャワにも攻めてきた。

ハラホリンの街とオルホン川ハラホリンの街とオルホン川。

 オルホン川は、バイカル湖、レナ川を通じて北極海にそそぐ。そう、もうここは北極海 側の河川流域だ。ウランバートルを流れるセルベ川も同じ。同市手前に、太平洋側と北極海側の分水嶺があり、それを越えるまでの河川はアムール川を通じオ ホーツク海に流れていた。もっと西のアルタイあた りの川もちゃんと流れればバイカル湖、北極海に向かうのだが、乾燥のため、盆地の中で消えている。

 アルタイで、草原歩きのノウハウを身に着けた。町周辺全体が草原なので、どこから出 てもいいが、犬とゴミに注意する。町はずれの住宅街を通ると犬にねらわれる。かまれて痛いのはもちろん、狂犬病対策が面倒になる。大通り、でき れば舗装道路を通って草原に出る。犬は舗装路もうろつくが、さすがにそこまでは自分の守る領域とは思わず、通行人を吠えたりしない。

 それと、町周辺の草原はゴミ捨て場だ。遠くからは美しい草原に見えるが近づくとビニール袋、ガラス片、その他あらゆるゴミが落ちている。そういう一帯を通過するまで道路を歩く。

 きれいな草原に出たら、自由に歩く。近くに山があれば、登ると、360度の大草原が見渡せる。ただ、「近くの山」と思っても遠いので注意する。距離感覚が麻痺する。すぐ登れると思っても十数キロ先だったりする。

重装備

 モンゴルの寒さに備えて重装備を用意してきたのだが、10月のモンゴルは比較的暖かく、丘に登るときはTシャツだ。外で重装備になることはなかったが、皮肉にも屋内で重装備が役立った。

 ハルホリンの安宿(1000円)は暖房がなく、ジャンパー、ももひき、ずぼん、厚手 靴下など重装備で布団にもぐりこんでちょうどよかった。前述のとおり、アルタイ往復の夜行バスも夜冷えて重装備が役立った。せっかく重い荷物をかかえてき たのだ。それなりの使いでを発揮してもらわないともったいない。

 ハルホリン安宿は、トイレ・シャワー共有だが、シーズンオフで客がほとんどおらず、ほぼ自分専用に使えた。トイレの鍵もなかったが問題ない。

 アジアの安旅にはトイレットペーパーが不可欠。この安宿は紙が置いてなかった。置い ていているホテルでも厚めの紙が多く、お尻に悪い。スーパーで柔らかいトイ レットペーパーを買っておくと役立つ。この宿にはタオルもないので、手拭いにも使える。今、喉かぜの治りかけでタンも出るが、それを吐き出すにも使 える。一巻きのペーパーがすぐなくなる。
 
 水洗トイレの構造を理解しておく必要。結構なホテルでも水洗がうまく働かないことがある。蓋を開けて水の中に手を入れて流すなどの「機械通」が求められる。

東アジア社会主義の民主化

 再びウランバートルに帰り(10月10日)、街を見て歩く。民族歴史博物館に行った。2階建ての小さい博物館。特に派手な展示があったわけではないが、館内から強烈なパワーが出ていた。

 いろんな国でいろんな博物館に行ったが、この博物館は訴えかけるものが違う。モンゴルの歴史が並大抵のものではないのだ。かの中華帝国さえ上回る世界帝国の歴史など、他ではまずお目にかかれない。

 もうひとつの発見。モンゴルはアジアの旧社会主義圏で唯一民主化を達成した国だった。市場経済化にまい進する中国も、比較的柔軟なあのベトナムも、社会 主義を維持し、一党独裁を継続している。北朝鮮の場合は、社会主義の負の遺産を、これでもかというほど惜しげもなく世界に垂れ流してくれている。(アジアの社会主義は 「真の社会主義」ではない、という意見もあるが、そう言うには、社会主義はあらゆる国であまりにも多くの負の記録を刻んでしまったと思う。)

 しかし、モンゴルは1990年に無血革命を行い、一党独裁を廃し、複数政党制で普通選挙を行い、民主主義による議会を選出した。このことに私たちはあま り気がついて ないのではないか。民族歴史博物館に、民主化の歩みを展示するコーナーもあった。自由を勝ち取ったモンゴルを尊敬するというブッシュ米大統領のメッセージ が大きく飾られていた。

 東アジアが依然として社会主義の負の遺産(独裁、国有企業経済、汚職、人権無視)を抱え込むの中で、モンゴルが例外として新しい歩みを始めたとするならば、私たちは真剣にこの国を支援する理由がある。


ウランバートルの高層ビル街。ウランバートルの中心部。

ナランツール市場

 モンゴル最大の市場と言われるナランツール市場に行った。またの名を「ブラック・マーケット」。衣類、家具、革製品からゲル(住居用テント)まで何でも ある。モンゴルの市場は、寒さを防ぐため、密封された屋内につくられているのではないか、という予想を裏切り、他のアジアの市場と同じく屋外に広大に広がっていた。

ナランツール市場の入り口ナランツール市場の入り口。

 でかい。荷物搬入の場所や駐車場も含めると後楽園球場の何個分もある感じだ。アジア、世界の各地で活気のある市場をいろいろ見てきたが、これほど大きな市場を見たことはない。
 夕暮れ迫る市場にて詠める。

ニセモノはあるわけがなし
皮革の
臭い充ちて
モンゴルの市場

そこここで札を数える
夕暮れの
ナランツール市場で
店じまう人の群れ

モンゴル人のたくましさ

 ホテルの食堂で隣に座った男に「ヘイ、ユー、どこから来た?」と英語で聞かれた。「おい、おまえ」のニュアンスだが、英語が未熟ということで許容すると して、はてどう答えるべきか。旅先でのこの種の質問にへきへきしているから「地球から」などというとぼけた答を出すこともあるが、そんなことを言うとぶん殴られるかな、と思わせる風貌が彼にあった。
 「日本から」とまじめに答えた。

 ごめんなさい。ちょっと引いちゃうんだよね、似てるから。モンゴル人は食べる物が違うからか肉付きがいい。体格も立派だし、顔も太い。おまけに髪を短く 刈って いる場合もあり、日本ならそれ系の人。細身のベトナム人とは大違い。それで私のリアクションが微妙に変化するのだと思う。

 ウランバートルの街中で画家の青年に出会い、彼の描いたモンゴル的な絵を見せられた。個性的ないい絵だ。しかし、売りたいというのは明白なので、「買え ない。金がない」と早々と言った。彼の顔が一瞬引きつる。画家は傷つきやすい繊細な青年だったのだろう。しかし、私はちょっと緊張して、次に何が起こるか かまえた。彼もやはり典型的なモンゴル人の顔をしていた。

 友人から、なぜモンゴル人は相撲が強いか調べて来いと言われた。率直な印象は、やはりこの体つき、顔つきだ。素質がある。体型的に基礎がしっ かりしている。食い物でDNAは変化しないが、こういう頑強な男たちを尊ぶ文化によって、DNAも選定されてきたのだろう、と結論づけた。遊牧文化で 育った肉食系モンゴロイド。モンゴル相撲や厳しい牧畜労働で鍛えられた体。その基礎があってことだと思う。

 モンゴル人は基本的には朝青龍のような顔の人が多いんだが、微妙に西洋系の顔立ちも混じっている。カザフスタンでも同じだったが、シルクロードの民はみ んな混血の印象。薄い肌の色の人がいる。髪の毛も、染めてなくても茶髪に近い人がいる。くしゃくしゃ顔のおばちゃんも「茶 髪」にしている。特に子どもなど、びっくりするくらい髪の色が薄い子がいる。

 モンゴル相撲が日本の相撲と一番違うのは、手の平を地面につけてもいいことだそうだ。手でも甲やヒジその他の部分をつけたら負けだけど、手の平だったらいい。確かにそういうルールだと、地面に手を当てていろいろ軽妙な技がかけられそうだ。

モンゴル高原を行く列車

 11月14日、午後5時20分ウランバートル発の寝台列車にぎりぎりセーフで乗り込んだ。西日が進行方向の後ろ側にかげる。
 同じルートで中国側に帰ることになるがやむを得ない。ウランバートルから内モンゴルのフフホトまで飛行機だと3万円近い。列車だと国境まで1500円、そこからバスで1800円。国境越えタクシー800円を含めて計4000円程度で行ける。

 列車は定刻に発車。あくせく歩き回ったウランバートルの街が、ゴトンゴトンという列車の音とともに後ろに去っていく。後ろの席の若者はギターをかきならしはじめた。おお、草原の山々が見えてきた。ゲルの遊牧テントも。チベット仏教の石の卒塔婆が丘の上に立つ。

 同じルートを引き返すのは気安い。未知のルートに乗り出すときは、不安と緊張が入り混じるが、勝手知ったるところに帰るのは気楽だ。ゆっくりと夕 暮れの山々を見つめていられる。贅沢な時間じゃないか。列車の窓を独占し、暗くなる山々を見つめ、後ろでは若者たちがギターを弾き、歌を口ずさんでいる。

 私たちにもあったかも知れない、ああいう時代が。歴史は繰り返す。今またモンゴルの若者たちが近くで。
 いやいや、私はまだ当分は「歴史」にはならないぞ。現役の遍歴者として旅を続ける。

 目が覚めると、夜空が白み始めていた。一句読める。

 激辛の即席ラーメン食う
 夜が明けて
 車窓の外はモンゴル大草原

 見え始めた風景は、またもや枯草平原と地平線、時々のゲル。変わらなさに苦笑する。でも、少し起伏がなくなってきたかも知れない。中国との国境の町、ザミンウードに近づく。

国境の渡り方

 中国・モンゴルの国境の渡り方。慣れてなければとまどうだろう。しかし、1回体験してしまえば何ということはない。要するに駅の周りなどに待機している ジープや乗り合いバンの誘いに 乗っかれいけばいいだけだ。中国側からバンに乗った経験では100元(1800円)が相場だった。

ザミン・ウード駅前ザミンウードの駅前。

 モンゴル側には、なるほど各種旅行記にあるように、ソ連製中古ジープが多数待機している。中国側では通常のミニバスなどが中心だった。駅のまわりをうろついて いると、夫婦が自家用乗用車でやっているような運び屋さんから「50元、または15000トゥグでどうだ」と勧誘された。相場を知っていたので、すぐ了解 した。

 モンゴル人3人の客も付いて出発。国境近くまで来ると別の業者らしいジープに乗り換えさせられる。どうも仕組みかわからない。が、とにかく進めればいい ので、なすがままに任せる。現地客3人は国境越えの要領を心得ていて、モンゴル側国境検問所、次いで中国入管と、時に列に割り込んだりしながら迅速にハー ドルをこなしていった。4人がまとまって通過できるよう、私にもいろいろ協力してくれた。

 ジープの運転手も別に出入国手続きをしたようで、中国入管を出ると、再びジープに全員がそろう。数キロ離れた中国側のアレンホトの街まで送り届けてくれ るようだ。

 「おまえはどこ に行くのだ」と聞かれたようなので、「フフホト、バスで」と片言で答える。するとバスターミナルの前で下ろしてくれた。このバスターミナ ルも前に来ており勝手知ったるところ。切符を買ってバスに乗り込むと、すぐ出発。とんとん拍子でフフホト行き旅人となる。

 結局何だったんだ。来るときは、国慶節での国境閉鎖があり、混乱に輪がかかった。しかし、帰りは、とにかくやり方に従い、なるようになるのを待てば計2時間ほどで国境通過できた。

 歩いても越えられる距離だった。中国側の国境検問所前には一乗り20円の市バスも来 ている。自分で歩いて2つの国境検問所を通過すればいいだけのことなのに、そこにわざわざジープやバンやらの運び業者が介在し、手続きを複雑にしている。 料金(運賃)も余分に取られることになる。ウランバートルから国境までの鉄道料金が1200円だったのに、国境通過のためのジープ代が900円、相場なら 1800円だ。地元に金を落とすための仕組みなのか。その金が入管関係者にも何らかの形で・・・なんてことはないだろうが。

内モンゴル

 中国領内の内モンゴル自治区入ると平原が続く。モンゴル側にあったなだらかな丘陵は見当たらなくなった。支配しやすい平地草原部を清が領土化したのか。

 枯れ草ばかりのモンゴルと違い、ここの草原には若干の緑が混じる。ゲルは少ないよう に思う。草原の一軒家はテントでなく、通常建築になっている。草原を貫く高速道路は立派でバスが一定の速度で走行する。草原を荒らすタイヤ痕はほと んど見られず、黒煙を上げる煙突も見られない。

 ベトナムから中国に入るのと同様、モンゴルから中国に入ると国力の差を見せ付けられ る。入管ビルも、街も、道路も、バスもきれいでよく整備されている。漢字が顔を出し始めるのも日本人にはありがたい。外に居ると、スパイ容疑で逮捕される とか反日暴動が起こるとか恐ろしく感じるが、中に入ってしまえば、なじみやすい。

 区都フフホトの駅前は古い中国の町の風情で、その中に宿をとった。1泊1500円。 少しボロいが、駅近くとしては静かで、何よりもネットの速度が速い。若い頃から台湾、香港、東南アジアで中国的な町を歩いてきた。なじみがあり、宿のまわ りを歩くと何かしっくりくるものがあった。周囲の人間も、私を外国人と思わないだろう。

 しかし、気になる統計。モンゴルの人口は270万人だが、中国の内モンゴル自治区のモンゴル族は400万人以上。しかし、それでも内モンゴルの人口の80%は漢族になったという。この数字から何を考えるべきなのか。

 
 (以後、中国編をお楽しみに)

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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