なぜネーダーに入れたか  
(2000年11月)

 開票速報のテレビは見ないことにしていたが、何かの拍子にひょいとテレビをつけたのが運の尽き。ゴア優勢、一転してブッシュ優勢、フロリダ危うし、さらに各州での息を呑むつばぜり合い。空前の接戦にテレビの前に釘付けになるはめに。

 夜半過ぎ、ブッシュ勝利、というニュースが流れた時、私は、思いもかけず激しく動揺した。信じられない。まさか、ブッシュのアメリカがはじまるのか。その時私はなぜか息子と将棋をしていたのだが、負けたことがない長男に無残な初黒星をくったことで、自分の動揺を確認した。

 ゴアもブッシュも、民主党も共和党も同じであって、どちらが勝とうとアメリカは変わらない。そう思っていた。思っていたはずだ。しかし、実際ブッシュが勝つと(すぐ取り消されたのだが)、そのニュースは容易には受け入れられなかった。「ブッシュのアメリカ」には生きられない。「亡命したい」とも思った。
 たぶん、当然ゴアが勝つと思っていたのだ。ブッシュ優勢の報道も確かにあったが、カリフォルニア、特に「レフトコーストの首都」サンフランシスコに居るとゴアが負ける気などしない。だから安心してネーダーにも入れたのだろう。全米的には接戦でも、サンフランシスコではゴア76%、ネーダー8%で、ブッシュは16%の得票。

 なぜカリフォルニアが、シリコンバレーがブッシュのアメリカに服さねばならないのか。インターネット起業経済も終わりだ。カリフォルニアは独立すべきだ。北カリフォルニアに共和国を。エコトピア?
 よそ事ではない。大袈裟にも、私はライターの政治生命が絶たれるとも思った。私は草の根アメリカを書いてきたのであって、大統領にだれがなろうと関係ないはずだ。だが「ブッシュのアメリカ」など書けないと思った。全米死刑の半分を執行するテキサスの記録が頭をかすめる(ブッシュが現州知事)。

 そうか、私がこれまで夢中で書いてきた8年間はすべて「クリントン(とゴア)のアメリカ」だったのか、とも思う。
 私たち家族は1992年10月にサンフランシスコに来た。来るなり、翌月にクリントンが「地滑り的勝利」をし、12年続いた共和党政権が終わった。ついでにその冬は大雨で、6年続いたカリフォルニアの干ばつにも終止符が打たれた。私が来て新しい時代がはじまるという劇的な展開に密かにニンマリした。

 これにはさらに前史があって、私が二〇代にアメリカに居た頃はカーター民主党政権だった。74年に私が北米に行く直前、ウォーターゲート事件でニクソンが失脚した(8月)。翌75年にベトナム戦争が終結し、76年にカーターが選出された。そして80年11月、私がアメリカを去る直後、今度は共和党のレーガンが政権をとった。
 俳優が大統領に選ばれたというニュースを私は世界放浪に旅立つ最初の訪問地、カリブ海のバハマで聞いた。以後のレーガン、ブッシュと続く長い冬の時代、私は完全にこの国から離れており、戻るなりいきなりクリントンの8年政権が続いたのだ。

 ご覧の通り、あの後ブッシュ勝利の報が取り消され、フロリダ再集計のドタバタがはじまった。確かにネーダー票はこの接戦の中で確実にゴア票を食っていた。しかしネーダーに入れることの作戦上の善悪などより、ゴア票があまりに伸びなかったのが根本的な問題だったろう。この国はやはり、ゴアのような(堅物に見える)まじめな人より、素行上多少の問題があっても庶民的で気さくさなブッシュに投票する。クリントンもそうだったし、俳優の大統領もそうだった。(同じ理由で堅物のブッシュ父親は選挙に勝てなかった。)
 少なくともカリフォルニアでは、ネーダー票はゴア選出に影響がなかったことで一応、私は安心できた(ゴア54%、ブッシュ41%、ネーダー4%)。

 実は投票の直前までゴアにするかネーダーにするか迷っていた。第三勢力への支持を表明するため、ネーダーに入れたいと思った。しかし、一緒に投票に連れて行く次男の岳史(中一)が抵抗するようだったらゴアに入れてもいいと思った。訳もわからぬ悪童連が学校で「ゴーア、ゴーア」と叫んで楽しんでいるようなのだ。ったく、サンフランシスコだ。前の晩「ネーダーに入れる」と言うと、「エー、何でえ?」と岳史は抵抗する。私もそれなりに真剣に、二大政党が同じようなものであること、消費者運動家ネーダーの偉業、ゴアよりももっとプログレッシブであること、などを説明した。

 子どもを投票に連れていくのは民主主義の絶好の教育の場だ。日本で投票ブースまで子どもを連れていくことは許されるだろうか。隣の小さい教会が投票所。英語のよく話せないロシア系のおばさんが四苦八苦して選挙人管理簿と格闘する中、子どもの注意をされることはまるでなかった。
 投票ブースに行ってまで私は迷った。その私を横で見て岳史が「お父さん、ネーダーでしょ」と言う。それで決心した。抵抗すると思っていたのに、夕べの話で彼はそれなりに理解してくれたようだ。2000年11月、子どもといっしょにネーダーに入れた清き一票である。

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