サマルカンドの熱い人々
                     (岡部一明、2008.1

 2007年12月、厳寒の中、ウズベキスタンを旅した。旧ソ連から独立した中央アジアの新興国。サマルカンドやブハラといったシルクロードのメジャー都市も抱える。首都タシケントの空港に着き、数日後にサマルカンドに向かう。

  早朝、サマルカンド行きの列車に乗る。バスで行こうとしたが、ホテルの若いマネジャーに、列車の方がずっと快適だし、道路は雪で危険だ、と助言された。朝 7時発の列車に乗るため、15分前にタクシーで駅に着く。切符も買ってないのに、タクシーの運ちゃんが交渉してくれて、難なく乗れてしまう。後で車掌から 現ナマ20ドルを陰で請求された。正規運賃なのか車掌たちの内職なのか。

 ウズベキスタン人は、基本的には中東系と東アジア系のミック ス。しかしそれだけではなく、別の血筋も混じっている気がする。ジャイアント馬場のような顔立ちの血統を感じる。身長も高い。日本から来たせいか。基本的 にテュルク(トルコ)系というが、サマルカンド付近ではイラン系の伝統も強いという。

 ウズベキスタンでは急速なインフレが進んでいるよ うだ。一番大きい紙幣が1000ムス(約100円)。3万円を両替したら分厚い札束が4つくらい来た。こんなに札束を持つのは初めて。大金持ちになった気 分。札束が荷物になってしょうがない。地元の人は慣れているようで、店のカウンターなどに分厚い札束が何個か平気で置いてある。カネを数えるのが大変だ。 札束数え機が必需品。札束を入れてガーと一挙に数えている。出かける時も注意が必要だ。たくさんカネを持っていったつもりで、すぐなくなってしまい窮す る。十分持っていこうとすると今度は財布に入らない。毎日リュックに札束を詰めて外出、という形になる。

 ウズベキスタン人は情が熱い。 パキスタンに行った時と同じで、プライバシーなど気にせず、どんどん話し込んでくる。タシケントで地下鉄の隣に座った学生が話しかけてきて、ホテルまで見 送り、電話番号まで教えてくれたのが思えば最初だった。長距離列車など、プライバシーをぶち破られるにはうってつけの場だった。静かに孤独に風景を見てい たい私に、おかまいなく人々が話しかけてくる。まず、タシケントからサマルカンドの友人の誕生パーティに行くというカップル。「お前もいっしょに出ない か」とさそう。そして、サマルカンドから10キロの田舎の実家に帰るタシケント大学の学生。「うちに泊まれ。父さんが外国人好きだ」。さらに英語を少し しゃべる車掌が「サマルカンドに友人が居る。今、電話をかけて迎えに来させる。どうだ」。次々とひっぱりだこで断るのに困るくらいだ

  思えば中国の旅は楽だった。外国人だと気づかれない。群集の中にまぎれ込んで、空気のように存在しながらその土地を体験できる。新疆ウイグル自治区まで来 てもそうだった(漢民族が多いから)。が、ウズベキスタンではそれが通用しない。私は簡単に日本人と割れてしまう。客引きにすぐ声をかけられる。しかも最 初から日本語で。けっこう日本人似のウズベク人も見かけるのだが。朝鮮系ウズベク人もいる。

 頭の上の丸い防寒帽から革ジャン、厚いズボン、防水加工してあるような靴まで、黒系統。それがウズベク の男たちのいでたちらしい。「黒づくめ男」(「名探偵コナン」参照)の集団か。私は茶色っぽいジャンパーとズボン。帽子は青い毛糸で、靴は白っぽいバスケ シューズ。けっこう地味にしたつもりだが、目立つのかも知れない。

 列車の外は雪に覆われ冬景色だが、車内の国際交流は熱い。ゆっくり休 む間もなく、いろんな人と話す。ただ、パキスタンのように皆英語を話すわけでないことで、やや救われる。ここでは、英語を話すのはインテリに限られるか ら、知識層と話すことが多くなる。友人の誕生パーティに誘ってきたのは、旅行業関係のビジネスマンとタシケント大学法学部の講師をやっているという女性の カップル。実家に泊まれと言ってきた若い男は、この講師の教え子の学生だった。いろいろ誘われ全部断るわけに行かないので、最初に誘われた誕生パーティに 行くことにした。

ウズベク流誕生パーティー

サマルカンドの誕生パーティ サマルカンドの駅で親戚、友人一同が迎えに来る。何とニューヨークで4年間、出稼ぎ労働をやっていたという親戚の男もこの日ちょうどサマルカンドに帰ってきたところだという。サマルカンドにはアメリカ移住組が多いという。市内のウズベク風レストランで旅行会社社長アリ
ジョンさんの誕生パーティ。56才。そのビジネス上の関係者なども多いらしい。料理が出て、飲めや食えやのにぎやかなパーティ。時々、人が立ってお祝いの言葉を述べては乾杯。

 やがて中央アジアの音楽が鳴り、踊りが始まる。お前も踊れと言われて引っ張り出される。こうなればもうやけくそだ。適当に見よう見真似で踊りだす。踊れば結構楽しいじゃないか。なんや知らん。わしは何をやっているのだ、こんなところで。苦笑、爆笑しながら踊った。

  中央アジア風の踊りと言っても、何だ、結局ディスコと同じだ。適当に体を振っていればよい。「お前うまいぞ」とほめられた。ダンスが若者だけのものではな い。おじさん、おばさんも気楽に踊りだす。そのうち70歳という最長老のおじいさんも踊り出した。いいじゃないか。日本で酒宴でもりあがってドンチャン騒 ぎをするより、こうして礼儀正しく?フォークダンスに興じる方が文化的だ。

 しかし、まだ昼間だよ。そのうちレストラン専属のプロフェッ ショナル・ダンサーがベリーダンスを踊り出した。ここは敬虔なイスラム国ではなかったのか。なまめかしい女性の踊りにさほどの違和感も感じていないよう だ。そういえば、タシケントのホテルの朝食では、大型テレビになまめかしいDVD音楽映像が流れていた。

 私を誘ったカップルたちの振る 舞いは自然だった。あんなに熱心に私を誘ったのだが、日本人の場合のように必要以上に気を使わない。パーティに来れば、勝手に楽しめといった風情で放って おいてくれる。日本人なら「外国人に親切にしなければなならない」とは思うものの、実際のところ気使いが過ぎて疲れ切ってしまうくらいがオチなのだが。

  ウズベク人は根っからの人好きということか。こんな身内のパーティによく行きずりの外国人を連れてくるか。日本ならひんしゅくを買う。しかしここではだれ も気にする様子はなく、大いに騒いでいる。飲んで食って踊る。民族が交差し、人々が交流したシルクロードの地は昔からこうであったのだろう……そんな観念 的解釈はやめたくなるくらいだ。

 「おまえも挨拶しろ」と私の番になった。「日本からはるばるアリジョンさんの誕生日を祝うためにやってきました。きょうはとても素晴らしい体験ができてうれしい。ラハマット(ありがとう)。」

  好評だった。そして乾杯。「飲み干せ」と言われ、小さいコップだが、強いウォッカを3口くらいに分けてやっと流し込んだ。この国で最初に覚えた言葉が「あ りがとう」。世界を放浪していると、最初にどんな言葉を覚えたかでだいたいその国の特徴がわかる。だまされないよう「いくら?」とか数字をまず覚える国も あるのだ。

 2時間ほどでパーティが終わり、やっと私はホテルに送られた。泊まれという誘いを何とか断ってホテルにしてもらったのだが、 このホテルもかのカップルの友人が経営するB&B(ベッドアンドブレックファスト、民宿)だった。ただで泊めてもらえるようにしたという。あとで聞いたと ころによると、これも、きょうの主役アリジョンさん系列のB&Bで、経営するのは息子夫婦だという。アリジョンさんにお礼の手紙を書かねばならない。

レギスタン広場

レジスタン広場  一眠りしてから、さっそく街にくりだす。夕方になっていて、酔いもあるが、いい。孤独な旅を愛する岡部としてはほっとしたところもある。路線タクシー(マ イクロバス)を試して中心部に出、サマルカンドのシンボル「レギスタン広場」あたりを歩き回る。モスクのような建物(実は神学校)が並ぶ荘厳な広場。夜で も、別に塀はなく勝手に入れた。

 ガードマンらしき男に呼び止められた。4000スム(約400円)で尖塔に登れる、と言う。断るがしつ こい。サマルカンドの夜景も素晴らしいという。腹を決めよう。旅に出ると、思い切り腹を決めなければならない場面が多くなる。懐中電灯で足元を照らしても らわないと先が見えない内側の階段。30メートルくらいの塔だが、体力に自信のある私でも登るのにめっぽう息切れがした。酔いが抜けていないか、高度のせ いか。サマルカンドは海抜1000メートル近いはずだ。この寒さなのに汗が出てきた。尖塔のてっぺんから身を乗り出すと外気が心地よい。街の夜景も、まあ 明かりが見えるだけだが、それなりによかったということにしよう。降りてからガードに4000スムを渡す。正規料金なのか彼の内職だったのか。

  夜がふけてきたら回るところは商店街とか、そういう人通りが多いところにすべきだ。日本から持ってきた「地球の歩き方」は心強い。ブックオフで100円で 買った4年前のものだが、解せぬ言葉の国ではかなり重要な情報源だ(ウズべキスタンではロシア語と、同じくあのロシア文字のウズベク語が使われている。 徐々にアルファベットも普及してきてるが)。商業地区を歩くうち、ネット・カフェを見つけた。日本語は使えなかったが、LANに自分のパソコンをつないで もいいという。やっとこういうところを見つけた。

 ネットにつないでメールも出すが、ウズベキスタンの勉強もする。かつて旅先で図書館に 行き、現地情報を得るのが私の旅のスタイルだった。だが、この「図書館の旅」はネット時代に大きく変わった。もはや「図書館」は世界共通のインターネット だ。地元図書館を探し回ることはほとんどなくなった。

 サマルカンドはチムール帝国(1369-1507)の首都だった。モンゴル=テュ ルク系のチムール大帝(1336-1405)が、西はイラン・黒海東岸、東はインド北西部に到達する巨大な帝国をつくった。遊牧、農耕、砂漠、亜熱帯と風 土圏を越えた帝国をつくったのは画期的だった。チムールの末裔がさらにインド奥深く入り、かのムガール帝国を立てている(16世紀)。インドを代表する史 跡タージマハールを残した帝国だ。

 インドを支配する勢力が中央アジアから出ているというのが興味深い。海の交通が支配的になる以前、世 界は遊牧民の内陸ユーラシアを基軸に発展していた。チムールは当初、くずれかけたチャガタイ・ハーン国(モンゴル4ハーン国のひとつ)の再統一を目指し た。ポーランドまで進出した大モンゴルの歴史はさらに奥深い。

 紀元前のソグド人からはじまり、アケネメス朝ペルシャの支配(前6世 紀)、アレキサンダー大王の東進(前4世紀)、漢(前2世紀)や唐(7世紀)の影響、イスラム帝国による支配(7世紀)、モンゴルの支配(13世紀)、そ してチムール帝国(14世紀)と、この地はまさに歴史の交差点だった。人類史的に見ても、アフリカに誕生した新人は、まず中東から中央アジアに移動し、そ れからヨーロッパ、東アジア(さらにアメリカ)、東南アジア(さらにオーストラリア)に移動していったらしい。人類大きく分岐した地点だった。

  翌日はサマルカンド市内を徹底的に歩く。まず、中心街の公園にあったチムール銅像を見て、レギスタン広場、国立文化歴史博物館、ビビハニムモスク、シャ ブ・バザール。さらに、モンゴルに破壊された古代ソグド人の都市跡アフラシャブルの丘、歴史博物館、ウルグベク天文台(15世紀)跡。ついでにその先に あったバス発着場も見て、翌日のブハラ行きの作戦を立てる。

 レギスタン広場は昨夜も見たが、じっくり昼間の写真を撮っていると、赤ん坊 をかかえた女がやってきて、ほどこしを求める。断るがしつこく追ってくる。ええい、いいか。女性だし、乳飲み子をかかえている。200スム(20円)を出 すと簡単に引き取ってくれた。複雑な気分だ。第三世界ではいつもこういう場面に出くわす。特に観光スポットではそうだ。悠久の歴史に思いを馳せる間もな く、生々しい世界の現実に直面させられる。簡単にカネを渡すのがいいとも思わない。

 ビビハニム・モスクでは、「20ドルのところ15ドルにまけた」絵葉書集を買わせようとする男たちのしつこい追跡を受けた。断固として断りつづけた。たまには、カネをばらまかない日本人旅行者もいるというレッスンを受けてもらう必要がある。

 丘の上にあったサマルカンド歴史博物館は閑散として観光客もいない。もっと国民に親しまれる博物館をつくればいいのに。「日本人なのにあんた一人か」。受け付けの女性に珍しがられた。最近は日本人ツアーもこのシルクロード「奥地」に入り込んでいるようだ。

  夜、早めにホテルに帰ると、きのうの誕生パーティで知り合ったマンズール君がたずねてきた。最も英語が流暢だった国立外語大学の学生。長身で甘いマスクの 好青年だ。てっきりあのレストランでアルバイトをしていると思っていたが、実は誕生日を祝ったアリジョンさんの旅行会社でアルバイトをしているという。

  日本にすごく興味があるらしく、いろいろ日本の文化や言語についてたずねられた。日本からも観光客をもっと受け入れたい、観光産業を通じて国に貢献した い、という彼の言葉に感心した。彼のお父さんは、外国駐在の外交官だそうで、彼も将来外交官になりたいという。現在父母だけが外国に住んでおり、明日里帰 りするのでタシケントまで迎えに行くという。私がアメリカに住んでいたことを知ると、アメリカの話になる。やはりアメリカ移住があこがれだという。

 悠久のシルクロードの歴史を背に、ソ連・共産主義の難しい時代を潜り抜け、発展の途上に入ったウズベキスタン。マンズール君もがんばってほしい。日本に帰ってからも彼とのメール交換がしばらく続いた。

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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