台湾東部の旅
                     (岡部一明、1972.11)

(1)少数民族

 バスの席は、後輪のところが盛りあがっている。座りにくいのでそういう座席は避ける。台湾のバス同じだ。他の席が空いてればそこは避ける。そんなところから台湾東部の少数民族の人たちとの出会いがはじまった

 都市部の多い西部とちがって、ゆったりし自然の景勝地も多い台湾東部。その中心都市・台東から観光地・知本温泉に行こうとした時のことだ。バスはすいていた。座ろうとし後輪の部分だったので少し後ろの座席にまわり、出発を待った。

 次に中年のご婦人2人が乗り込んできた。「あそこが空いているよ」とやってきて「あら、車のところだわ」とがっかりする。はは、私と同じようなことをやっているな、と思いながら私はぼんやりと外の風景を眺めていた。

 おばさん2人は、どこかに座り、やがてにぎやかに世間話をはじめた。「隣のだれかさんがどうのこうの」。さらに待つうち、バスの外に友人を見つけたらしく、大声で呼び止め、話しはじめた。その時私は初めて気がついた。おばさんたちの会話をさっきから全部理解していることを。

 むろん私は北京語も台湾語もわからない。してみればこれは・・・そうまぎれもなく日本語なのだ!私はそこで驚いて初めておばさんたちに聞いた。「日本人ですか」と。

 相手も驚いた。「高砂族」の人だという返事。細かいやりとりは忘れたが、日本の植民地時代、日本語教育を受け、それを今でも話していると説明された。驚いた。日本以外に日本語を日常語として使う人たちが居るとは。

 ここから「高砂族」の人たちとエキサイティングな2日間が始まる。1972年11月。九州、沖縄から台湾、香港、タイ、さらにインドネシア、オーストラリアに至る「南海の細道」半年の旅の途上の出来事だった。

 台湾には人口の2%にあたる先住民族が住んでいて、特に台湾東部の山岳部に多い。知本温泉郷は卑南族 (プユマ族)の集住地区であった。たぶんあのおばさんたちもそのプユマ族の人たちだったのだろう。が、私に知識はなかった。「高砂族だ」というおばさんた ちの説明にここは従うことにする。植民地時代に覚えた日本語は、互いに言葉の通じない先住民族間、あるいは漢族との間のコミュニケーションの手段ともな り、役立っていた。[1970年代初期は、そういう日本語話者世代がまだ健在だったということだろう。]

 珍しく「本土」から日本人が来た、というので珍しがられ、大いに歓待された。私を知本温泉郷の家に連れて行き、食事をふるまい、民族舞踊をおどってくれ、その歌を教えてれた。私にも民族衣装を着せ、小さな娘と結婚衣装の記念撮影までされてしまった。

知本温泉郷

 緑深い温泉郷。いくらか涼しくなってきたが、まだ日差しは強い秋の日。私は、おじさんのバイクに乗せられて隣村の温泉 に行く。太っちょで気のいいおじさんだ。温泉の旅館が見え出したところに、できたばかりの橋がかかっていた。谷川を渡る橋だ。通る車はあまりない。遮断機 が付いていて門番のおじさんがトコトコこちらに歩いてくる。

 「よう、元気か。」
 こちらのおじさんも答える。
 「ああ。いい天気だなあ。おい、アレ、あげろよ。」と遮断機の方を指さす。
 すると門番のおじさんは難しい顔をして、「公は公、私は私。」と難しい言を発した。

 それでこちらのおじさんは仕方なく料金を支払う。
 「その後ろに乗っているのはだれだ。」
 「これか、おれの息子だ。」
 「そうか息子か・・・。」
 そうして遮断機が上げられた。バイクのエンジン音が両側の緑の山にこだまする。

 初秋の昼下がりのある光景。すべて日本語で行われこんな、ごくありふれた「日本」の生活が、実は日本ではなく、台湾の山村での一コマなのだ。私をバイクに載せてくれていたのは高砂族のおじさん、門番のおじさんは台湾(中国)人。

 私を泊めてくれた家の高砂族のおばさんは、子どもと言葉が通じない、と涙ながらに語ってくれた。子ども たちは同化が進み、台湾語が母語となってしまった。それと教育の中で教えられる北京語。それに対して親の世代は高砂語と日本語。共通する言語がない。40 代くらいのお母さんだと台湾語がわかるので何とか通じるが、それでも片言だという。60代くらいになると、小学生の孫とまったく言葉が通じない。子や孫 を、優しい言葉でかわいがることができない、なんてことがあっていいのだろうか。

 もう一人のおばさんは、大学に入った娘が最近、「おかあさんともっとよく話ができるように、日本語を習うことにしました。」という手紙をくれた、とうれしそうに話してくれた。

 別れる時、おばさんは台湾の5円銀貨を私にプレゼントしてくれた。「ゴエンがありますように」という意 味なのだそうだ。「日本に行けるならすぐにでも行くんだけどねえ。行けないから、ここに来る日本人とお友達になるのよ。」と言う。日本の植民地時代が幸せ だったとは思われない。しかし、失われる高砂族の文化が「日本時代」の思い出とだぶって見られるところがあるのだろうか。

 「日本に帰ったら必ず手紙出してね。」「また来てね。」
 別れを惜しむたくさんの言葉に送られて辞した。あれから1通はがきを出した。しかしその後の連絡は途絶えてしまった。どうしているのだろう。

[あの時のおばさんたちに再会したい。もう亡くなられているかも知れないが、娘さんなら存命だろう。民族衣装を着て見知らぬ日本人と写真を撮った。 その証拠の写真がアルバムのどこかにあるはずです。住所も名前もわからなくなってしまった。このウェブで見つけて連絡してくれればいいのだけれど。]

(2)緑島

 何度目かの崖を登りきった時、突如眼下に空間が開けた。砂浜のある人の住む低地

 と同時に、北からの強い風が、汗ばんだ私の体に勢いよくぶつる。季節風(モンスーン)だ。乾いた大陸の気団から吹いてくるこの風は、今頃、日本では木枯らしとなって街ゆく人々をいたぶるっている。が、ここ緑島では、それは南国の猛暑を和らげる心地よい涼風となる。

 緑島(火焼島)は台湾東部海岸から約30キロ東の離島。本当は、さらに70キロ南にあるいかにも絶海の 孤島という感じの蘭嶼(紅頭嶼)に行きたかった。より原始的な生活様式を守る先住民が住むと聞いた。が、そこに行く交通手段がなかったので緑島に来た。政 治犯収容の刑務所などもあった。[緑島は、後にはかなりのレジャースポットになるが、1972年当時は、まだ単なる離れ小島だった。] 

 沖縄のエメラレルドの海に魅せられて、もっと南に行けばさらにきれいな海があるのではないか、と台湾に、そしてその離島にやってきた。意外と黒い岩盤ばかりで海岸はきれいではない。周囲十数キロ程度の島を海に沿ってずうっと歩いた。

 突然眼下に開けた集落は幻想的な光景だった。周囲を深い緑の崖に囲まれて、いったいこんな所にどんな人が住んでいるだろう。[後で地図を確認すれば公館村という村だったが、当時は家がちょぼちょぼとあるだけの小集落。]

 降りて海辺に行くと、やはり黒いごつごつした岩の海岸だった。人家はあるが、だれにも人に会わない。小学校の小さな分校があった。水をもらいに入る、もう授業は終わったらしく、先生が2人居ただけだった。気優しそうな若者と女の先生が仲良く話していた。私が入っていくとびっくりしたようだが、それでもたどたどしく日本語を話しだしたところをみると、この「若者」、それほど若くなかったのかのかも知れない。

 もうこの先には道がないぞ、まむしが居るから気をつけろ、という忠告を頂いておいとまする。

 なるほど道はなかった。山の中の畑に行くためだれかが草を分けて通った跡のようなところをたどる。やが てその「草分け跡」もなくなり、文字通りジャングルをかきわけての進軍になった。ヤシやバナナの木がうっそうと茂る。草の茂りもすごい。蜘蛛の巣に何度と なくひっかかる。

 本当にこりゃ大変だ、マムシにでもかまれたら一貫の終わりだぞ、と思い始めた頃、畑が現れ出した。道も見つけ、やがてもと来た飛行場近くの集落に戻れた。島を一周したわけだ。

 宿に、若い頃日本に留学したことがあるというおじさんが居た。日本人よりうまいのではないかと思われる ほどの完璧な日本語を話す。日大に入っていたこと、沼袋に住んでいたこと、などを話してくれた。沼袋と言えば、私の住んでいる中野新井のすぐ近くで、「お お、そうか!」ということになった。昔はあの辺は草ぼうぼうだったそうだ。現在の過密都市化を説明したが、信じられない様子だった。

 付近をぶらつくと、港に漁師たちがたむろしていて、日本人だと割れた私を捕まえて「飲め」「食え」の酒 宴になる。中国人も居るが、そうでない人も居る。たくましい体つきをしていて、どこか南洋の島からやってきた人たちという感じがする。昔、日本軍で働いて いた人がかなり居て(ほとんど海軍だったようだ)、その頃の話に花が咲いた。

 2日目は、昨日見つけた南東部の砂浜に野宿する。砂浜はきれいだったのだが、海に入ると砂も珊瑚もなく、ごちごちした岩ばかりだった。やはりあの沖縄の海は帰って来ない。

 岩の遠浅がずっと続くが、あるところまで来ると、急に海底が落ち込む。もぐって恐ろしくなった。水は澄 んでいるに、「崖」の彼方の海底が見えないくらい深い。いや、近場で深い海底が見えると益々恐ろしい。海面に漂う私は、高い所に宙ぶらりんになっている感 覚だ。早々に海を出る。あの不気味さ。あれは高所恐怖だ。

 昨日は気が付かなかったが、この砂浜近くに不思議な老婆が住んでいた。砂浜が終わり灌木が茂り始めるあ たりに小屋をつくり、一人で住んでいた。ぼろぼろの着物を着てくしゃくしゃの顔。失礼ながら「鬼婆」という感じがした。何だろう、世捨て人か。付近にお店 どころか家もない。どうやって生きているのか。

 水をもらおうとその小屋に行ってみたが、確かに挙動は異様だが、親切だった。うどんもつくったから食えという。陽も暮れかかり、あかりのない小屋は薄暗く不気味だ。うんどんは火には通してあるようだったので少し頂き、外に出る。

 夜になると、昼間の熱がさめやらぬ砂浜に寝袋をしき、もぐり込む。波の音がドードーと聞こえ、私は、夜 のうちに潮にさらわれてしまうのではないかと思い、何度か寝袋の位置を陸側にずらした。天頂には星の群れ。宇宙が私のすぐ眼前から広がっていることの驚 き。様々な考えが去来する。何しにこんなところに来たのか。これからどこに行くのか。

[最終的に半年かけてオーストラリアまで行った旅だが、最初、どこまで行くか当てがなかった。とにかく南 に行こう、と東京駅から東海道線の鈍行に乗った。1日目は広島で野宿、2日目は夜行で鹿児島に着き、さらに船で沖縄に。沖縄の海に魅せられ、さらにすばら しい海を求めて南の台湾に。国交断絶直後の微妙な時期の台湾旅行だった。次第次第に旅に自信をつけた。明確に行く予定はなかったが、台湾から香港に飛ん だ。さらにバンコクに飛んだ。それでさらに旅の魔力にひっかかり、マレー半島からインドネシアの島伝いにオーストラリアまで行ってしまったわけだ。海はど うでもよくなったが、少なくとも東南アジアにはバリ島を含めて沖縄のような海はなかった。沖縄の珊瑚の海は掛け値なしの超一流であった。]

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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