東方文化への旅(パキスタン、インド、ネパール)
                     (岡部一明、1981.11)

カラチへ

  ヨーロッパから一挙にパキスタンのカラチに飛んでくると、「カイロ」という感じがした。人と人との雑踏、 車の警笛、衛生状態から人の顔立ちに至るまでカイロと変わらない。着ているゆったりした衣、アラビア文字の看板、多数の白いモスク、そこから流れる祈りの メロディー、屋台、シシケバブ、甘いだけの菓子・・・どれもこれも似ている。つまるところ、ここはまだイスラム圏だった。遠くまで飛んできた ―つもり だったのに、変わらないイスラム圏が続いていて少し意外だった。

 [世界放浪の旅は、その時の国際情勢に大きく左右される。私の若い時代 は、中国など共産圏は旅できず、ベトナム戦争下のインドシナ半島にも入れず、また、ヨーロッパからアジアへの幹線ルートであるイラク、イランを通じて南ア ジアへ、というルートも政情不安で通れなかった(イラン革命、イラン・イラク戦争など)。そのかわり、他の時期には内戦で入れない南スーダンに1981年 初頭に入れたという幸運もあったが。
 とにかく、1981年9月、長期逗留したオーストラリア・ウィーンを離れ、バルカン半島を南下してから、中 東諸国を飛ばして一挙にパキスタンのカラチまで飛んだ。そこからインド、ネパールと南アジアの旅をはじめるのだが、それは私の生まれ育った東方文化に徐々 に近づく旅となった。]

 イスラム圏というのは私にとって「西洋」だ。歴史的にも宗教的にも(一神教)。しかし、私は、パキスタン、イン ドの人々に一つの東洋を見出した。素晴らしいホスピタリティー、つまり親切さと、他の人(特に外国人)に対するプライバシーなしにどんどん入り込む熱っぽ さだ。汽車などに乗っていると、一体何人に話しかけられるかわからない。

 「どこから来た?どこに行く?パキスタンに何日居る?仕事は何だ?学生なら何の専攻だ?どこの大学で何年勉強した?家族は何人だ?親は何してる?旅行費用は全部でいくらだ?結婚はしてるか?恋人は居るか?」

  とまあ、彼らの興味は尽きない。何から何まで聞き出してやっと満足して去っていったと思うと、後ろの方で順番を待っていた(?)別人が出てきて「どこから 来た?名前は?」が初めから蒸し返される。だんだん疲れてきて、適当な答をするようになり、やがては黙殺し相手にしなくなる。それでなくとも私は一人旅が 好きで、人に関わるのを意識的・無意識的に避けるのだが、パキスタンではこれが貫ぬけなかった。言葉の問題もあるだろうが、いきなり出てきてWho are you?と来る輩も居る。あなたの名前は何ですか?と聞きたいのだろうが、いきなり「おまえはだれだ?」になるのだ。

 他者に対する強い好奇心、過剰な人なつこさと親切(おせっかい?)は明らかに「東洋的」なものだ。が、この図々しさは非東洋的なものだろう。少なくとも日本人のあの恥ずかしがり文化とは異質のものだ。

シーク教徒

 次に「東洋」を感じたのは、インドに入ってすぐ、パンジャブ地方のアムリツァーに来た時だ。ここにはシーク教徒の本 山・ゴールデン・テンプルがある。シーク教は15世紀にイスラムとヒンズーの統合を目指してつくられた宗教。パンジャブを中心にインドで約1000万の信 徒がいる。「インド人」でイメージする白いターバンを巻いた人たちがシーク教徒だ。

 ゴールデン・テンプルは非常に立派な建物で、白い石造りの建築様式や、大理石の床を裸足で歩くことなど、イスラム教のモスクのなごりが見られる。しかし、中庭に大きなプールがある点が異なる。ヒンズー式に人々はこの水に入り、沐浴する。

  さらに異なるのは、そのプールの真ん中に黄金の楼閣があって(ゴールデン・テンプルの本体)、そこからにぎやかな宗教音楽が流れてくることだ。外向けの祈 りはともかく、内部は静寂のみが支配するモスクとは大違いだ。じゃんがら、じゃんがらという音楽に合わせて人の列が渡り廊下をつたいその本殿詣でに進む。

 音楽に聞き覚えがあった。何だろう。ある種の念仏音楽のようでもあり、バリ島のガメラン音楽のようでもあった。森の精霊に包まれたバリ島の夜、得体の知れない生命力につつまれたガメラン・オーケストラの音楽を感動して聞いたのを思い出す。

  豊饒な熱帯湿潤文化圏に入ってきた、と思った。万物が生命力を帯びるこの風土では、人々の意識も文化も豊かで、ごてごてしく、逸楽的である。女性の衣装も そうだ。頭から全身黒いヴェールをかぶらされ「男の目」から隔絶されるイスラム圏とは異なり、インド女性の着るサリーは何とあでやかで色彩豊かであること か。ビキニのように、お腹が露出さえしている。過酷なイスラムの神の世界は終わった。親近感を持ち始めていたイスラムだったが、ほっとした気持ちになっ た。

ヒンズー教の聖地

 ベナレス(バナラシー)はヒンズー教の聖地だ。ガンジス河岸の「階段」で沐浴する痩せこけたインド人達の写真を一度は 見たことがあるだろう。多くの旅行記が記す通り、永遠を感じさせるところ、インドで最もインド的なところ・・・なのだが、実際はかなり汚いだけで、「階 段」もさほどロマンチックではなくて、「あ、第三世界だ」という印象をもっただけだった。

 それとは別の小さな感動を私は抱いた。日本の 基層文化とも通底する生命の活力がある土俗文化のようなもの。ベナレスには無数のヒンズー教寺院があり、小さなお地蔵さんのようなものも至るところで目に する。ヒンズー教は、仏教やイスラム教と違い、古い民間宗教がそのまま継承・発展した土俗宗教感じがる。 象の神様がいたり、半人半猿の神様がいたり、真っ赤な顔や真緑の顔の神様がいたりする。プロマイド式に売られる女神の絵はとてもかわいらしく愛嬌があり、 人気女優スターの風情だ。神様が何人もいる。そこら中のあらゆるものが崇拝され、祭式がいろいろあり、ちょっと訳が分らないが、それだからこそ、アジアの 基層文化、古い民間信仰を彷彿させる。グロテスクな赤や緑の面は「オニ」の原型ではないのか。鼻の長い象の神様は天狗の面と関係がないか。

 滞在中、ベナレスで小さなお祭りがあった(年 中いろいろな祭りがあるらしい)。河岸で見ていると、女性が輪になって座りこみ、中央に積んだ花のところに次々に線香を投じている。儀式の意味はわからな いが、あの鮮やかな花々の光景にはなじみがある。お盆。色とりどりの花が、死者のため、食物とともに湿った地面の墓に供えられる。細かい検証はできない が、つながりを感じさせる。ものの本によれば日本でも4月頃に行われる花祭りは、釈迦の誕生日とされ、インド起源らしい。東南アジアにも広く分布し、仏像 に花をたむけ水をかける儀式が行われている。

 仏教は、乾燥した中央アジアを経て日本に来たから、このような水々しい草花の文化そのまま運んでくるのは不可能だったろう。アジアの湿潤地帯にもともと広がる土俗的民間習俗が、後に仏教などと結びつき、お盆、花祭りなどになったのか。柳田民俗学ばりの思考に一時沈潜した。

仏教の聖地

 ベナレスからさらに200キロほど東に進むと、今度は仏教の聖地、ボドガヤがある。イスラムから始まってヒンズー、仏教と、東に行くにつれ何やら身覚えのある文化が出てくる。

  釈迦がここで初めて悟りを開いたという仏教最高の聖地。いたるところ僧衣をまとった仏教徒が行き、ゆったりした農村風景と相まって、心が和んでくる。アジ アの仏教諸国がここに各々の寺を建て、日本も「日本寺」を建てている。中に入って仏殿の前にひざまづいたが、何から何まで「決まってしまう」のに驚いた。 別に私は仏教徒ではなかったし、信心深くもなかった。しかし、この仏像の顔、まわりの装飾、薄暗い仏殿・・・あの「異様な」空間がことごとく私にしっくり 来、身と心が収まってしまう。私は仏教徒なのか・・・キリスト教、イスラム教などの世界を渡ってきた私にとって、それは否定しえないように思われた。

ネパール入り

 インドとネパールの国境は、ガンジス平原のただ中に引かれている。ネパール側に入り、カトマンズー行きのバスに乗る。

 短い眠りから覚めて驚いた。まわりの景色が一変している。急傾斜の山が現れ、谷が深く入り、バスは川沿いの道をうねうねと登っていく。川の水は澄んでいる。ガンジスのような泥水ではない。空気も澄んで、山の奥の方には霧も出てきた。まるで日本の風景のようである。

 何が日本のようなのか・・・うつらうつら考えるに、この山と谷と川の風景が日本的なのだ。「果てしない大平原」というのは、たとえそれが稲作水田地帯でも日本的ではない。

  自然だけではない。例えば家などもこれまでの石やレンガに代わって木造が現れた。瓦のようなものがあるかと思うと、何とかやぶき屋根が現れた。日本の農 家、農村と言われても簡単には見破れないくらいだ。軒下には干し大根がずらっと下げてあったり、似ているというにはあまりに一致している。

 人間も日本的な顔立ち、つまりモンゴロイド系になってきた。インドでも若干見かけたが、ネパールに入ると、特に山岳地帯に入っていくと、ほとんどモンゴロイド系の顔になる。彼らの表情は柔和であり、人に接する物腰もおだやかに感じられた。

カトマンズー

 そしてカトマンズーに着くと故郷に帰ったような気がした。お寺に行くと、慣れ親しんだ建築だった。仏教寺院だけではな い。実はヒンズー教のお寺の方が多いのだが、そこにも五重塔や伽藍建築に似た要素が見いだせる。構造の細部に違いはあるが、全体に感じる見慣れた感覚は何 なのか。

 ひとつには流れるように傾斜した瓦屋根だろう。そしてそれが壁から貼りだして「軒下」をつくる建築構造。石の建築ではこれがで きない。モスク流の丸い(あるいはインド流の玉ねぎ型の)シルエットをつくるのがやっとだ。軽い木の建材だからこそあのようなそそり出た鋭角的シルエット をつくることができる。

 三重、四重の塔が建ち、周りを小高い山に囲まれたこの小都市は、まるで「斑鳩の里」、あるいは京都盆地のようだ。伽藍建築のもとにたたずむと、私の心は溶解し、私の伝統文化、風土の思い出の中に吸い込まれていくばかりだ。

 ある晴れた日、レンタ自転車に乗って私はサイクリングに出かける。さわやかな風が吹き、遠くにはヒマラヤの山々が望めた。お寺や仏塔を訪ねながら、私はしだいに郊外、というより純然たる農村に出始めていた。

 ふとあたりの風景に胸をつかれるものがあって、私は自転車を降りた。何だろう……この風景は。私にとりあまりになじみ深いものではいか。

  盆地の田園地帯では、ちょうど稲刈りが行われている季節だった。黄金の稲穂がたれさがり、女や男たちが腰を曲げてそれを刈り込んでいる。稲刈りが終わった 田んぼにはワラが丸く積み重ねられ、「わらぼっち」にそっくりだ。子どもの頃、近所のガキ大将らといっしょによくこの「わらぼっち」に登って遊んだが、こ こでも子どもたちが同じように遊びあばれている。「稲こき」をやっている所では、足で踏んで「こき車」をまわすかの見覚えのある機械を使っている。あの稲 こき機は、ガーコン、ガーコンという音をたてて回るので、私は「ガーコン機」と呼んでいたものだ。

 そして、何よりも一帯に満ちる平和な 田園の叙情が、まがうことなく私の旧い記憶に一致する。これは伝統的な日本の秋の風景だ。ぱりっと澄んだ空気、沁み入るような深く青い空、明るい陽のもと に隈なく浮き立つ黄金の野、それに売れた果実や紅葉の赤を添え、鮮やかな色を織りなす日本の秋。そしてこの吹き渡る風はどうだ。熱くもなく、べとついても いない。私の体の汗腺は開き、体中でこのさわやかな風を呼吸していた。久しく忘れていたもの、外国だけでなく、日本の東京に居た時もずうっと忘れていたも の、私が小学生の頃、写生して写し取ろうとして映しきれなかったあの農村の心象風景が、今、ここにある。ネパールに。

 私は土手に腰をおろしたまま、しばらく動けなかった。なぜにこんなにも似ているのか。偶然と言うにはあまりにそろい過ぎている。共通の文化−風土−風景が、私の育まれた所から、あの白銀のヒマラヤを越えてここまで広がっているのか。

 カトマンズーの街を徘徊するうち、私にはあるひとつの思いが芽生えてきた。私の「祖国」は日本ではなくて東アジアではないのか。そして私は「日系(東)アジア人」ではないか。
 日系アジア人としての生き方に、私はこれからかけてみようと思う。

詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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